祝祭の獣 (前)


1284年6月26日。
ハーメルン市で起こった百三十人の子供たちの失踪事件について。
 『これはおそらく笛を吹く吸血鬼の仕業であろう』
            ----ヨハネス・ヴィエルス (1577年)



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 女子修道院長さま。
 俗世をこえて、遠方より、あなた様の御手元にこの手紙をお届けいたします。
 わたしは貿易商人として、或る都市で相応の財と地位を一代で築き、異郷であるこの地で 人生の終焉を迎えようとしている老人です。
 異国の都の名を明かすことは避けましょう。祈りの日々を送られておられるあなた方には無縁の、異教徒との戦いで栄えた 新興の港町とだけ、お覚え下さい。
 修道院長さま。修道院長さまにお尋ねいたします。
 そちらの修道院にいる終身修道女の中で、五十年前の秋の朝、門前に捨ておかれていた赤子であった 修道女はおりませんでしょうか。大人ものの外套にくるまれ、革袋入りの金貨と、ひとふりの笛が添えられていた赤子です。

 わたしは、赤子をそちらの修道院に置き去りにした夜明けのことを、今も鮮明に憶えております。 早朝の空には秋の三日月と星座が強く輝いて残っておりました。
 五十年前、わたしが修道院に捨てたのは、わたしの弟の娘です。
 生きておりますれば、その修道女ももうよい年であろうかと思いますが、わたしの記憶の中ではいつまでも、 あの時の赤子のままです。

 なぜ赤子を捨てたのか。これには、深い事情がございます。恐ろしい話です。
 五十年前の秋、弟はすでにこの世の者ではなく、また赤子の母も、同様でした。
 弟の遺児を腕に抱いた時わたしがまず考えたのは、この赤子をその両親が辿った恐ろしい末路から何としても 遠ざけなければならぬということでした。
 女子孤児院が併設されたそちらの修道院を選んだのは、ひとえに 郷里から遠いこと、そして土地に誰ひとりとして知り合いや係累の者がいなかったからに他なりません。 石段から雪を掃い、わたしは赤子を門の前に置きました。赤子を置き去りにしたわたしは振り返らずに山より立ち去り、 そのまま船を求めて海を渡りました。以来一度も故国には足を踏み入れてはおりません。

 わたしには養子がおりますが、それを除けば弟の遺児であるその修道女のほか、残された血縁はこの世にはおりません。
 修道院長さま、該当する修道女がそちらに健在であるならば、おじとして今さらながら何かしてやりたく思います。 その者が生きているのかどうかだけでも知りたく存じます。
 本来ならば後見人として果たすべき義務を行わず、身内としての名乗りもあげず、今日という日まで沈黙をまもってまいりましたのは、 ひとえに弟の死にまつわるものの厭わしさのせいでした。しかしながらその因果をここで語ることは、 これほどの年月が流れた現在となっても躊躇われることであり、罪なくして死んだ弟の御霊の為にも、わたしは誰にも打ち明けず、 真相は墓場まで持ってゆくつもりでおります。
 ここに明かせぬその秘密の重みをもって、むかし赤子を捨てたわたしの罪を、神もおゆるし下さることと思います。


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 修道院長が老齢のため、尼僧長のわたくしよりお返事いたします。
 お便りをいただき、記録簿をめくりました。姪御さまと思われる女児は確かに五十年前、当院に引き取られております。 革袋入りの金銭と、宝石つきの笛も添えられておりました。これらの品は規則により、修道院に寄与されております。
 お尋ねの件ですが、残念なことに十七歳の堅信式を前にして、当時はやった悪病のために、お探しであるところの その修練女はすでに亡くなっております。
 あなた様からのお手紙を信じるならば、その修練女には、あなた様の他には肉親も身寄りもないはずでした。 奇妙なことに記録簿には後見人の存在を裏打ちする記述がございます。 寄与があればその金額と共に書き留めておくことになっておりますから、 間違いはございません。修練女が当院に引き取られてより十七年の間、或る方より多額の喜捨を毎年いただいております。 不審なことではありますが、何かの行き違いの可能性を含めて、ご報告もうしあげておきます。
 念のために昔のことを知っている、厨房の老婆にも訊ねてみました。若い頃より当院にながく仕えている者です。
 その年に猛威をふるった疫病のことを、老婆はよく憶えておりました。
 修道女として堅信式を待つばかりであった年長の娘たちをはじめ、流行病のために当時いた孤児院の生徒は ほぼ全滅になったそうで、遺憾ながらあなた様の姪御さまもその折に亡くなられたことは、ほぼ間違いないようでございます。

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 尼僧長は、そこまで書いて、手をとめた。
 房に呼び寄せた老婆に、尼僧長はたった今書いたその手紙を読み上げてみせた。
「これでいいと思いますか」
「はい」
 白い被りものを頭にのせた老婆は曲がった腰をさらに縮めるようにして、何度も頷いた。 その前掛けのもの入れには料理に使う木べらが入れたままになっていた。
「大昔のことです。修練女の遺体が納骨堂から消え失せたなど、いまさら ご親族のご老人に打ち明けるべきではないかと存じます」
「わたくしも、同じ意見です」
 そう云いながらも、理知的な眸をした尼僧女は疑わしそうに老婆の皺深い顔を見つめた。 しかし尼僧長は老婆の言葉を否定することはなかった。 若い娘が攫われることは、いつの世でもあることなのだ。ましてや迷信や黒魔術がまことしとやかに囁かれる この時代、たとえそれが死体であったとしても、行方不明となった若い娘の末路については誰もが口を閉ざしてしまう。
 槍の先を三つ並べたような岩山が、渦巻く雲と雪をまとった姿で修道院の窓から見えていた。魔の山と呼ばれている山だった。
「祝祭の獣……」
 ごつごつとした山景を見つめ、尼僧長は呟いた。老婆が十字をきった。 まといつく不吉を振り払うように、机に広げていた紙束を尼僧長は束ねなおした。そして下僕を呼んだ。
「この記録簿を書庫に戻して下さい。知りたいことは、もう分かりました」
「尼僧長さま」
「あなたもご苦労でした。厨房に戻って下さい」
 その修練女は、確かに、とうの昔に死んでいる。


 翌日の午後、尼僧長は寺男を連れて、手紙を出すためにふもとの村へ降りた。
 別件の用事を果たしに行った寺男を尼僧長が広場で待っていると、村長から声を掛けられた。
 腹のつき出た村長は、遠慮がちに顔を左右に振りながら、広場を突っ切って若い修道女の前に現れた。
「ご機嫌よう。尼僧長さま」
 へどもどと村長は挨拶をした。
 数年前、「夜な夜な家畜小屋に現れる悪魔の蹄」なる、村中をおののかせた怪奇現象について、この修道女から、 「子供の悪戯です。天井に隠れて見ていて御覧なさい。藁の中か、小屋の近くに落ちている石がその蹄の音の正体です」 と看破されて以来、威厳を損なわれたかっこうとなった村長の旗色は悪いのだ。
「なんでしょうか」
 尼僧長は村長へ向き直った。尼であるということをさっぴいても、それは女らしさよりは、男の知性や理性に近い態度だった。
子供の頃から、もしもお前が男であれば、夜警隊長なり、司教なり、教授なり、しかるべき地位を 極めることが出来ただろうと、尼僧長は郷里の人々から云われたものだ。
 その尼僧の眼光を避けるようにして、村長は咳払いをした。
「尼僧長さま。隣国の地方都市で、たくさんの子供たちが攫われた事件があったようで」
「きいています」尼僧長は頷いた。
 よほの大事件であっても、それが近隣諸国に伝播し、くまなく膾炙されるには、一年はかかる時代だった。 ましてやこのような山奥ともなれば情報も遅れがちである。その事件もかなり前の話だった。
「悪魔の笛に誘われて、大勢の子供たちが連れて行かれ、行方を消したようで」
「そのような話ですね」
 修道女は落ち着いていた。
 子供たちの集団失踪は、珍しい話ではない。強制徴兵や少年十字軍をはじめとして、村や市から、一夜にして 若者だけがごっそりと消え失せることは、稀にあることなのだ。
 なのでその事件についても、植民請負人が若者たちを騙し、開拓地の労働力として連れ出したのだろうと、修道女は そう睨んでいた。
 飢饉と貧困に喘ぐ下層階級において、故郷を離脱することで得る新天地の誘惑ほど、かがやかしく、魅力的に響くものはない。 集団移住と集団結婚を煽りながら、植民請負人は若者たちをこう口説いただろう。
「乳と蜜の流れる約束の地へ行こう。われらの先祖がそうであったように、 黒い森を切り開き、新しい町の最初の貴族としての名を残そう」
「笛の音に誘われ、郊外の処刑場のあたりで、子供たちは忽然と姿を消してしまったのだそうで」
「……」
 尼僧長は村長の顔を黙って見つめた。この男は何が云いたいのだろう。本音と目的を別なところに隠しておいて、 うわべだけを取り繕うような論法を、尼僧長は好まなかった。
 どうやら、「夜な夜な家畜小屋に現れる悪魔の蹄」の件で恥をかかされたと思っているらしきこの村長は、 何とかして、わたくしをやりこめたいらしい。修道女はそう察し、ますます無関心を装った。
「子供たちが消え失せたのはカルワリオという山のあたりだったという説もあるようです。山が二つに割けて 子供たちをのみ込んでしまったのだそうで。つまり、ほれ、あれに見える魔の山のような」
「さあ。わたくしは子供たちが消えたというその山がどのような山なのか、この眼で見ていないので分かりません」
「あ、いや、もちろんですとも」
「処刑場で消えたのだとしても、たいていの首吊り台は野原か、丘の上に建てられているはずです。 そのような見晴らしのよいところで大勢の人間がかき消えるとは、にわかには信じがたい話です。 もしそれこそが悪魔の所業だとするならば、なおさらのこと、わざわざ町から郊外へと悪魔が 子供たちを連れ出す必要はないのではありませんか」
 修道女がちっとも怯えた様子をみせないので、村長は小さな眼を瞬かせて、顔を赤くした。 村長は腹の中で悪態をついた。可愛げのない尼さんだ、これだから困る。
「いえいえ。修道院に併設している孤児院のことを思い出し、尼僧長さまにご注意をと思ったまでで」
「そうですか。子供たちは元気です」
「悪魔が笛を吹くようなことがありましたら、すぐに村の連中を率いて、たすけに駈けつけますぞ」
「ありがとうございます」
 脅しにしてはあまりにも幼稚くさい。白けきった気持ちで、修道女は返事をしておいた。 きっと遠からぬうちの深夜、修道院の近くで笛の音が鳴り響くのだろう。 その笛のふき手とは、もちろん、赤ら顔をしたこの村長なのだ。
「尼僧長さま。お待たせいたしました」
「帰りましょう」
 寺男が戻ってきた。修練女たちが紡いだ糸束を小売に売ってきたのだ。
 広場を去ろうとした尼僧長の耳に、笛の音が聴こえてきた。こんな僻地の山村にも、宿なしの遍歴楽師は来るものだ。 ぼろ衣装をまとった楽師は笛を吹き鳴らしながら広場を回っており、子供たちがそれを追いかけていた。



 寂れた田舎道に、湿った冬風が吹いていた。
 片側は小川、片側は雪に覆われた森である。そこへ、男を乗せた馬が死に物狂いの速さでやってきた。 はためく外套の影から、それを追う別の騎馬。追手の乗り手は、青い眼をしたうら若い乙女だった。
少女の頭巾が後ろに落ちた。美しい髪をなびかせて、少女の馬は前をゆく男の馬に迫った。 放たれた二本の矢のように、二頭の馬は雪を蹴散らしながら追いつ追われつ日の傾いた田舎道を疾駆し、雪を舞い上げた。
「無礼者!」
 男が叫んだ。少女の馬は真横につけていた。躍動する少女の髪は、絹糸をほどいたようだった。 少女の馬のほうが前へ出た。進路を塞がれた男の馬は、次第に川のほうへと押されていた。
「退けッ」
 男が鞭を振り上げ、それで少女を打った。と見えた。鞭は途中で止まっていた。 少女の片手がそれを掴んだのだ。男の眼がみひらかれた。
「子爵、馬をとめて」
 鞭を握った少女は、片手綱のまま、引きずるようにして男の馬を捕らえにかかった。 馬の首と首がぶつかりそうになった。このままでは衝突して横転してしまう。 前方は、頭を下げないとくぐれない橋だった。
「あぶない」
「馬をとめて」
「くそっ」
 子爵は鞭を手放し、思い切り手綱を引いた。前脚をあげて馬が棹立ちになる。
「あぶないではないか、ばか者!」
 息を切らしながら、子爵は馬を降りた。地に落ちた鞭を取りに戻ると、子爵はそれを拾い上げ、かんかんになって冬空に乗馬鞭を振り回した。
少女は少し先に駈け抜けてから、土手をつかって馬をじょうずに回して、子爵の許に戻ってきた。
「許さんぞ。どこの領地の娘だ」
「あなたが公爵家から盗んだ笛を返して」
「何。何のはなしだ」
「贋者の子爵さま。しばり首になる前に、公爵の館から盗んだものを返して。公爵夫人の宝物入れから盗んだ、宝石つきの笛を返して」
 馬鞍の上から少女は手を出した。他に通る者もいない、冬季の寂れた道であった。
「そうかい。分かったよ」
 贋子爵は、口ひげを捻り、殊勝たらしく溜息をついてみせた。左右を見廻して人影がまったくないことを確かめると、その片手が外套の懐にのびた。
「あの十字紋章のついた、ちっちゃな笛のことか」
 男は地面に唾を吐いた。
「分かった、返すよ。馬から降りて来いよ。ちょっと手伝って欲しいんだ。盗んだ物だ。外套の裏に、縫い付けて隠したもんでね」
 少女は馬からおりた。贋子爵はさり気なく短刀を取り出し、柄のほうを少女に向けて鞘ごと差し出した。贋子爵は川に近い方へと、一歩後ろに下がった。 日暮れの訪れを告げる、つめたい風が田舎道に吹きはじめた。
「俺の背中に回って、ほら、これを使って外套を切り取って」
 少女の手が短刀をとった。贋子爵の眼がほそまった。
「縛り首なんか御免だぜ、俺さまの邪魔をするんじゃねえよ」
 男は腕を伸ばして少女に掴みかかり雪道に引き倒した。突き飛ばされた少女の身体は半回転して、川の土手へと転倒した。
「お前を売りとばせばいい値になるぜ。けどな、俺は、俺の正体を知った人間を誰ひとりとして、生かしちゃいないのさ」
 押さえつけた少女の上に跳びかかって馬乗りになると、男は短刀をもぎ取り、鞘をすばやく払い落とした。ぎらりと白刃が光った。
「笛はもらっておいてやるよ」
 男は短刀を振りおろした。


 輪郭のはっきりした冬の雲から、こまかな雪が降っていた。険しい山々が夕方の空に青い影絵を作っており、 森は動く獣とてなく、静かだった。
 雪の道を踏んで、遠方より馬影が現れた。
「ジョゼフィン」
 少女の足許には、贋子爵の死体が転がっていた。男の首筋には咬まれた痕の孔が二つあり、零れ出た血は、流れた時の長さを 示すように雪の上で完全に固まっていた。
 アドリアンは馬から降りた。贋子爵の死体の傍から、ジョゼフィンはゆっくりとまばたきし、子供のような 頼りない顔つきをして眼をあげた。灰色に凍りついた冬の小川が見えた。雪は止んでいた。清澄な夕空だった。 アドリアンをふり仰いだジョゼフィンの顔色が悪いのは、蒼い夕闇のせいばかりではなかった。
「気分は」アドリアンが訊いた。
「気持ちが悪い……」
 唇を手の甲でこすり、ジョゼフィンは身をふるわせた。
「殺されるとは思わなかったの。この人が短刀を出してきて。だから」
「いい狩りの練習になったじゃないか。一人で生きた獲物を捕らえて血を啜る」
「やめて」
 ジョゼフィンはうな垂れた。アドリアンは贋子爵の骸をひっくり返し、衣を探った。
「笛がない」
「外套の裏に縫い付けて隠したと」
 調べるだけ調べると、アドリアンは財布だけを抜き取り、重たい死体を肩に担ぎ上げた。 アドリアンは贋子爵の死体を道から離れた森の中へとはこび込み、雪溜りの窪地を見つけて死体をそこに投げ捨てた。
 戻ってきたアドリアンは、まだ道端に坐りこんでいるジョゼフィンの前に黒杖を立てた。
「贋子爵には男の連れがいた。今朝方、別々に出立している。笛をもって逃げたのはそちらだろう」
 杖は黒檀のように表面がすべらかで、まっすぐに細長く、そして握り手には銀の飾りがついており、そこには盗まれた笛にあったものと同じ、 十字の紋章が刻まれていた。
「もう笛のことは諦めて」
 降りかかる雪をはらうようにジョゼフィンは首をふった。
「わたしは要らない、あんなもの」
「そうはいかない」
 ジョゼフィンを馬の前鞍に引き上げるとアドリアンは馬の腹を蹴った。
 やがて田舎道に夜の雪が積もり始めた。
 森の中に捨てられた贋子爵の死体を見つけたのは、盗人を追ってきた公爵家の家人でも、村人でもなかった。 深夜になり、半ごおりとなって森の底に転がっている贋子爵の遺体を、幾つもの人影が取り囲んだ。 月の光も届かぬ森だった。凍り付いている死体を見下ろす彼らの眼は、獣のそれのように赤かった。


 都市部における貧富の差は、衣裳だけではなく、その体格にこそ顕著にあらわれる。 深刻な飢饉が繰返し飽くことなく大地を襲おうとも、あるところには穀物はあった。値が庶民の手には届かぬものにはね上がるだけである。 豊かなるものは肥え太り、それに反比例して搾り取られるように貧困層は痩せ衰えるのが通例で、男女問わず、 血色がよく健康で太っているということは、何よりも雄弁な富の象徴であった。
 痩せこけた子供たちの真ん中で、逆さまになった鼠がきいきいと鳴いていた。
 鼠の尻尾を掴んで溝の汚水に漬けようとしていた子供たちは、路地裏に現れた見知らぬ少女に、びっくりして動きをとめた。
「誰だい、あんた」
 襤褸を着て駈け回っていた子供たちも口をぽかんと開けて、少女を見上げた。
 その少女は聖母さまの画から抜け出してきたかのような雰囲気で、頭巾つきの黒い外套をまとっていた。 そこからこぼれる髪の色は、暮れかけの空の色よりもかがやかしく、白い羽根こそないものの、夕空から静かに降りてきた天女のようだった。
「その鼠を、どうするの」
 ひそやかに、少女は唇をひらいた。昼なお暗い狭い道には腐ったものが 堆積し、雨に濡れて泥となり、溝は汚水を溢れさせて強烈な臭気をたてていた。鼠が鳴いた。
「何をするつもりなの」
「殺すのさ……」
 鼠をぶら下げた年長の少年がごくりと唾をのんだ。なんだ、この子。どこのお屋敷の子だろう。泥のこびりついた素足をこすり合わせ、 子供たちが最初に考えたのは、この少女が自分たちの側の人間、つまり貧しい者か、 それとも富める者かということだった。少女は綺麗だったが、その顔色は血の気なかった。身なりはいいが、太ってはいない。病弱な貴族の子だろうか。
「ちょうだい」
 物もらいの乞食のように、少女はその白い手を子供たちに向かって差し出した。 子供たちは半分呆けたようになって少女の手を見つめ返した。少女は泣きそうな顔をした。
「その鼠を、わたしにちょうだい。代わりに、お菓子をあげるから」
 街中を一歩外に出ると、そこは見渡す限りの昔のままの原野だった。野原の中の教会と呼ばれている、石積みの古い教会があった。 古代帝国が建設した壁の外に後代になって建てられたもので、野の中にぽつんとあることから、その名がついていた。
 ジョゼフィンが持っている枝の先にぶら下げられた鼠の鳴き声は弱くなっていたが、 その手足は宙を掻いて、まだ逃れようともがいていた。
 西日に染まった小さな墓地には誰もいなかった。墓地には囲いもなく、墓は影を引きながらそのまま日暮れの原野に続いていた。 教会の裏手に隠れて、少女は口を開き、子供たちからもらった鼠を口許にもっていった。
「ジョゼフィン」
 ジョゼフィンの手から鼠が落ちた。教会の陰から現れたアドリアンは歩み寄ると、無言でジョゼフィンの頬を平手打ちした。
「……何をするの」
 ジョゼフィンはアドリアンに打たれた頬をおさえた。鼠が彼らの足許を乗り越えて、大急ぎで墓地の草むらへと消えていった。
「何をするの、アドリアン」
「鼠は喰うな」
「人を襲うのは、もう嫌」
 ジョゼフィンは唇をかみ締め、アドリアンを睨み上げた。
「人間がいなければ、鼠の血を啜れと云ったじゃない。それに、おかしいわ」
 アドリアンは、どうやって血を補給しているのだろう。一緒に旅をするようになってずいぶん経つが、 狩りの方法をジョゼフィンに教える他は、一度もアドリアンが人間を襲っているところを見たことがない。
「鼠から血を啜るほかに飢えをしのぐ方法があるなら、それをわたしに教えてよ」
 地方、都市部を問わず、賤民や、浮浪者、教会から破門された根無し草はいくらでも道端に 転がっている世であったから、人間の餌には不自由しなかった。それでもジョゼフィンにとってそれは、 いつまでも慣れることのない、おぞましい限りの行為だった。 「教えてくれないのなら、いいわ。また鼠を捕まえるから」  去ろうとするジョゼフィンの手首をアドリアンが掴んだ。ジョゼフィンはアドリアンから逃れようと抗った。
「わたしはアドリアンから血をもらうこともあるのに、アドリアンは一度もわたしの血を吸わない」
 捉えられた手首にかかる力に骨が折れそうだった。
「わたしは父母とあなたの血の混血だけど、血の交換は出来るはずよ。どうしてわたしから血を採らないの。 それとも昔あなたが狩りの手本でよく見せてくれたような、子供や、美しいご婦人でないとそそられないの。 云ってよ、わたしのことが嫌いだからそうしないの」
 ジョゼフィンは気がついた。横を向いて墓地を見つめているアドリアンの眼が夕陽を吸い込んだ色に染まっている。 ジョゼフィンはさらに云い募った。
「わたしの血は美味しくないの」
 鼠よりも。
「アドリアン」
 視界が暗くなった。怒ったような掠れ声が耳をうった。覆いかぶさってきた男の影で、夕陽が消えた。
「吸えというのなら、いつでも」
 鋭い牙が見えた。アドリアンはジョゼフィンの手首を口許にまで持ち上げると、接吻するように少女の白い膚に牙を埋めた。
「アドリアン」
 ジョゼフィンは愕いておののき、怖れて腕を引こうとした。黒髪の青年の手首を掴む力はびくともしなかった。大きな夕雲が教会の屋根を過ぎた。 手首に埋まった牙は鉄釘を沈めたような重みでジョゼフィンをその場に打ち付けた。  俯いたアドリアンの唇がジョゼフィンの手首を食み、楽音を奏でるように少女の血潮を啜っていた。ジョゼフィンは眉を寄せた。 遠めには、それは騎士が乙女に接吻をしている儀式にも見えた。
痛いのか気持ちがいいのかも分からなかった。彼はきっとわたしではなく、死に別れた冥府の王妃のことを 想いながら血を吸っているのだ。
「……アドリアン……いや」
 血は充血したところから出ていくような、流れ込んでくるような、そのどちらもという気がした。背筋を這い上がってくるものは不快なのか快感なのかも分からなかった。 手首が鉛のように重く、膝から崩れ落ちそうになった。ふらついたジョゼフィンのからだはアドリアンともつれ合うようにして教会の壁にぶつかり、ずり落ちた。
 零れた血が下草に落ちて赤く散った。アドリアンがジョゼフィンの手首からようやく唇を離した頃には、夕陽が荒野に沈みかけていた。
「吸え」
 袖をめくり、アドリアンが手首をジョゼフィンの前に突き出した。
 血を吸い終えたジョゼフィンは虚ろな眼をして、小さく喘ぎ、教会の壁に片頬をつけた。先刻アドリアンに叩かれた頬が、まだ熱をもっていた。




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