■U.
超帝国レムリアは王位を巡る内乱の中にあった。
それは王が存命の内に起こった、皇太子の座を巡る王族の争いであり、
血族同士が互いの勢力を引きむしり、潰しあい、憎しみ合う、果てなき
血の泥沼だった。
第一王子が戦死し、第二王子が病没したことから、急浮上してきた
第三王子の座が争いの焦点だった。
第三王子の位に据えられていたのは、生み日がわずか数日ずれただけで
第四王子の兄となった王子レッダエスタ。
第四王子と戦死した第一王子の母は同じ。
そして急死した第二王子と第三王子レッダエスタの生母は姉妹である。
あらたに皇太子となった第三王子レッダエスタに対して、第四王子シャージンが
帝位継承権を持つ他の王子たち、第五王子、第六王子と共に結託して
叛旗をひるがえしたのが三年前。
「レッダエスタに第一王子謀殺、及び第二王子を毒殺した疑いあり!」
事実上第一王子となった男に、第二王子が戦を仕掛ける図式となり、
レムリア帝国はレッダエスタとシャージン、この両王子の争いに二分された。
さらに、内乱には追い討ちがかかった。
長年敵対関係にある隣国ギルガブリアの甘言に乗せられ、シャージンの
旗のもとから第五王子イオレットと第六王子ランスオーが、兄と袂を別ち、
敵国ギルガブリアに寝返ったのだ。
たとえレッダエスタを廃しても、次代の王になるのはシャージンである。
レムリアの内情に詳しいイオレットとランスオー王子を抱き込んで、レムリア
王朝を斃し、次なる傀儡王にイオレットかランスオーを据えるというのが
ギルガブリアの目論見だった。
ギルガブリア王の姫君は絶世の美女として名高い。
砂漠の薔薇と讃えられる姫君の美貌をひと眼みるなり、イオレットとランスオーは
レムリアを裏切るまでにのぼせ上がった。
弟王子たちの背信。これに対して、シャージン王子は激怒。
かたちばかりの武人を装っているレッダエスタと違い、シャージンは生存する王子の
中では最も武芸に優れた、生え抜きの戦士である。
シャージン王子は陸海軍の全面協力を得て、兄レッダエスタと刃を交える一方、
ギルガブリア攻略にも乗り出した。もしもシャージンが宿敵ギルガブリアを征服すれば
次の帝位は武功を立てたシャージンのものとなり、シャージンは帝位と砂漠の薔薇の
双方を手中にすることが叶うだろう。
その間、存命であるレムリア王は沈黙をまもった。
戦死が隠されているのだとも、病床にあるのだとも囁かれるままに、レムリアの王は
姿をかき消し、お考えあって王子たちの骨肉の争いを何処かから静観しているのだと、
まことしとやかにそう囁かれていた。
王が死んでいるのならば、いずれ葬儀があるはずである。それがない。
ということは王は生きている。だが王座には誰もいない。
坐るものなき王座に坐っている者は誰なのか。
内戦の戦局に振り回されているレムリアの人々は、不安のままに
壮麗な宮殿を仰いだ。宮殿の上に太陽は変わりなく昇ったが、心なしか、
その太陽には黒い影がさしているのだった。
渺茫たる冬の海原には、ほかに見るべきものとてなかった。
第三王子レッダエスタ。第四王子シャージン。
王位継承者の一位と二位に繰り上がった兄たちの名を数え、ジャルディンは
豪華な寝台に仰向けになり、遠い記憶を探った。ぎしぎしと軋みを上げる
航海途上の船室で、天蓋を見上げながら彼は外の嵐をきいていた。
宮殿の広間に居並ぶ兄王子たちは皆、母を大貴族に持つ王位継承者たちだった。
年長のそんな王子たちを横目に、後宮の奴隷女を母に持つジャルディンは上から数えて
十何番目かの王子であり、王子とは名ばかりの、何の後ろ盾もない少年だった。
「よかったですね、ジャルディン様。お父上であられる、王の御心がこれに」
レムリア帝国の正式な王子として左腕に聖なる刺青を与えられたジャルディンを祝福
してくれたのは、母と、専属教師のエクレム・クロウだけだった。
幼少の頃に皇帝として即位した父には、多くの妃がおり、子がおり、奴隷女の胎から
生まれたジャルディンなど、ものの数ではなかった。
臣籍を与えられて一貴族として下がるのがせいぜいの身が、王子と呼ばれることに
なったからといって、有力貴族が後見に名乗りを上げてくれるでもない。
「奴隷女の子」
そう蔑まれてしかるべきところを際どいところで救ったのは、他でもない、
父である帝王に酷似していた、ジャルディン王子の気性と容貌だった。
「王子……」
長ずるに従い、後宮、宮廷問わず、物陰から黒髪の少年王子を誘う
女の手は絶えなかった。姿かたちが似ているだけでなく、少年には生まれながらの
帝王だけがもつ王者の覇気と品位がそなわっており、おかし難いその気風は
他の兄王子たちの上にはないものだった。
ぐらぐらと燃えながら砂漠に落ちてゆく巨大な太陽。それを背に少年王子が
黒髪を赤く染めて振り返る時、女たちはそこに王の眼を見た。冴え冴えとして、
何人も近寄せぬ、戦神の化身を。
「ジャルディン」
父はレムリアの帝王だった。精悍な、まだ若い男だった。
まともに近くから見たことも数えるほどしかない。父王は、大勢の年長の王子を
従えて階段の最上段にいる、神のごとき、遠い存在だった。
最後に顔を合わせたのは、後宮の女たちの手でジャルディンの母が
惨殺された時だった。王が寵愛する女奴隷に手をかけた罪人として後宮の女たちが
生きながら獣に喰われている処刑の場において、その凄惨の最中でも、
王は毛筋ひとつ動かさず、ジャルディンの方も見なかった。
艦が傾いた。
沿海を襲撃したレムリア海軍はそのままジャルディンの護衛艦隊となり、
旗艦にジャルディン王子を収容すると、直ちにレムリアへの帰路についた。
「ジャルディン様」
声がかかり、船尾楼の内扉が開いた。
レムリア国の者らしい浅黒い肌をした、聡明な顔立ちの少年が入ってきた。
巨大な帆船のいちばん良い部屋を占拠しているといっても、戦艦である。
王子の身の回りの世話をする少年も、身に着けているのは軽やかな布で織られた
宮廷のお仕着せなどではなく、動きやすい水兵服だった。
冬季の嵐に遭えば、いかな最新艦とても雪風に翻弄される。先刻から
縦揺れ横揺れを繰返し、底から大きく揺れて、船はいっかな安定しなかった。
「ジャルディン様。嵐が酷くなりそうです」
寝所と居間を分ける仕切りはない。寝台の上から、ジャルディンは少年へと
眼だけを向けた。
「風が強いようです。嵐は明日には止むだろうとの艦長からの伝言です」
少年は直立不動でジャルディンに報告した。
航海も長いというのに、まだ少年はジャルディンの面差しの上に、畏怖する
王の姿を重ねてしまうようだった。窓の外は昼とも思えぬ暗さである。
旅の間ジャルディンの侍従となった少年に、ジャルディンは頷いた。
途端に、ぐーっと船が傾いだ。室内の調度品が派手な音を立てて卓上から
敷物の上に転がり落ちる。身を屈めてそれを拾い上げていた少年は、ふと
長身の影に顔を上げた。逞しい男の背中が見えた。
「ハクプト」
激しく揺れる船内で均衡をとり、寛衣を脱ぎ捨てて着替えると、ジャルディンは
長い黒髪を一つに束ねた。
「外に出る」
「お待ちを」
「どうやら艦長以下だけでは手が足りなくなりそうだ」
「お待ちを、ジャルディン様」
毛皮を裏打ちした防寒外套を引っかけると、船尾楼からジャルディンは
嵐の外に出て行った。途端にごうっと強風が吹きつけた。真正面に、ほとんど
船首と同じ高さになっている灰色の大波がまず見えた。轟音と共に波が甲板を洗い、
雪風が吹きつけ、艦が波の斜面を滑り落ちていく。感覚としては奈落の底へと垂直に
落ちる感じに近い。
「船首、風上を保て」
「ジャルディン様」
慌てて防寒具を着こんで追いかけてきたハクプトが、想像を上回る海の荒れように
悲鳴を上げた。ジャルディンは手馴れた動きで近くの予備索を拾い、波に攫われぬよう
ハクプト少年の胴体に索を巻きつけ、近くの柱に繋いだ。
頭上では帆と索が風に唸り、遙か上空で帆をたたんでいる船員たちの必死の号令が
それに錯綜していた。
「ジャルディン様。露天は危険です、船内にお戻りを」
「艦長。構わない」
船尾甲板に現れた黒髪の王子の姿に、雪まじりの暴風の中、乗員が息を呑んだ。
ジャルディン王子こそは、レムリア国のこれからの命運を決める王子だった。
視界に眼を凝らすと艦隊は衝突を怖れ、風に流されるままにばらばらになっていた。
いちばん近くにいる護衛艦が主檣帆桁端に吊るす角燈が、雪風の中にようやく見えた。
艦列や進路を保つより、沈没を免れるほうに全力を尽くす。悪天候の際の定法とはいえ、
この嵐では確実に何隻か海の藻屑と消えるだろうと思われた。
ジャルディンは水平線にちらと眼を遣った。
壮麗な冬の太陽の影もない、昼とも思えぬ、一面の渦巻く灰色だった。
めちゃくちゃに四方から吹き付けてくる海風が、ジャルディンの黒髪をなびかせた。
叩きつけてくる大波が、旗艦を波くぼに沈めては、波頭の上に突き上げる。
一枚の荒涼とした絵画のように見えていた曇天は、いまや天も地もない凶暴な
描き殴りに変わり、合間に漂うものを暗い海の底に沈めようとしていた。
「艦首帆が舷外に」
「帆が風にとられた!」
突風にとられ、引きちぎれて海面に落ちた帆が錨と代わり、船の舵を
引きずり出している。艦は独楽のように波間を揺れた。今のところは
風の勢いが渦巻くことによって相殺されているものの、この突風と高波を真横から
受けてはひとたまりもない。冷たい波を頭から引被ったハクプト少年が海水を
吐き出して咳こんだ。ジャルディンは雪の降る海空を仰いだ。蓋をされたように、
どこに雲があるのかも分からなかった。
「ジャルディン様!」
思いがけない強い力で、ハクプト少年がジャルディンの腕を引っ張った。
艦が傾くと同時に、伸び上がった大波が真上から、雪崩か滝のように叩きつけてきたのだ。
流れる重い水量が甲板にある軽いものを海中に流し落としていく。ジャルディンは
ハクプト少年を抱きこみ、少年と柱を繋いでいる索に片手でしがみついた。
「艦が回るッ」
ジャルディンはハクプト少年の手を振りほどくと、礼のしるしにその頭に手をおいて、
暴風をまともに受けている艦首に向かって走って行った。
「落ちた帆の支索を切り離せ。縦帆を張る」
「ジャルディン様」
「聴こえるか。ジャルディンだ」
雪の中、黒髪の船乗りの大音声は、艦首から艦尾までを貫いた。
水の爆裂がしぶきを上げて、その姿の左右を白い狼のようにばっと吹き過ぎた。
雪風を睨み上げ、王子は自ら率先してずぶ濡れの横静索に飛びついた。
「続け」
「ジャルディン様に続け」
「縦帆を揚げろ」
段索に昇り始めた男たちを、またしても大波が襲う。近くにいたはずの護衛艦は
持ちこたえられずに横転転覆したとみえて、嵐の視界から消えていた。
貿易船は通常の荷の他に、樽の中に密輸品を隠して運ぶ。
暗い船底で、エトラは空樽の上に膝を抱えて坐っていた。
船の建材を縦横に軋ませ、鞭のような唸りを上げている陰気な風と波。
気も狂いそうな冬場の海の海鳴りは、この後、数週間もずっと続くのだという。
「エトラ」
梯子を伝ってカーリスが船蔵に降りてきた。
航海の間エトラを励ますように、若者の声はいつも努めて明るかった。
「時間があるんだ。今日は一緒に食事をしよう」
「当番は」
「お頭のラザンに許しをもらった」
密輸船の乗員たちは、船長のラザンのことをお頭と呼んでいた。
カーリスの父がラザンの恩人にあたるとかで、カーリスはこの船の中で
かなり勝手が利くのだ。友人のエトラをレムリアへ連れて行く。他の船員には
王に献上する奴隷とでも云えばいい。そんな無理が通ったのも、カーリスだからだった。
身体に毛布を巻きつけているエトラの顔色は悪かった。船酔いこそしないものの、
冬場の航海の最大の敵は気が塞ぐことだ。大の男でも気がふれて海に飛び込む
ことがある。カーリスがもっとも心配しているのもそのことだった。
「エトラ。君は立派な船乗りだ」
カーリスはエトラに食事をとらせた。
虫のわいた麺麭。どぶの匂いがする水。かちかちに固まった塩漬けの肉。
若者はエトラを元気づけるために、まず自分の方からそれらを齧った。壁際では
獲物を捕らえた猫がねずみの肉を裂き、骨にするまでしゃぶっていた。
「あと何日かしたら、空が晴れて太陽が見える。冬の海は悪いばかりじゃない。
晴れた夕暮れに雪が降る様子といったら、どんな大聖堂の硝子画にも勝る。
人はレムリアの都こそこの世の極楽と呼ぶけれど、おいらは海のほうがいい。
風が止んだらこっそり上に連れて行ってあげる。海の上の月が綺麗なんだ。
生きている者が死に絶え、月と海だけになったような、そんな世界だ」
板張りの床には、エトラの書き取りがあった。航海の間、カーリスから
レムリアの言葉を学んでいるのだ。鯨脂の暗い灯を頼りにエトラはそれを続けた。
「字が書けるのね」
「船員から教えてもらったからね」
「レムリア語。変わった形をしているわ」
「エトラ」
少女の頬に涙が伝い落ちた。泣く理由などない。
暗い船蔵に閉じ込められて、何日も風と波の音を聴くうちに、心が塞ぎ、
塞いだものがそうやって溢れ出すだけの涙だった。それはカーリスが
休憩のたびに船底に逢いに来てくれたり、短艇の底に積もった白雪を
届けに来たりしてくれても、癒されるものではなかった。
「緑の庭や暖炉のある居間を思い出して、誰でもそうなる。おいらも
最初はそうだった」
船蔵は地底の牢獄よりもまだ悪い。
船が動くたびに絶えず視界が揺れて、湿気た壁からはじめじめと水が滲み出し、
波音と風の音を合わせた調子外れの歪んだ音が永遠に冷え切った闇の中に続くのだ。
長期航海の憂鬱をよく心得ているカーリスは、エトラに酒を呑ませて
吊り寝具に寝かせてやった。「おやすみ」カーリスは少女にそっと毛布をかけた。
エトラが眠ってしまうと、鯨脂の灯に眼を据えて、カーリスは呟いた。
ジャルディン王子がまだ生きているといいけどな。
ずぶ濡れとなって凍えている乗員に、艦長は特配の酒を配った。
風はまだ強かったが吹き付けてくる方向が定まったことで、波の流れを
読みながら船を浮かべることが出来た。
「嵐が過ぎたぞ」
「助かった」
束の間の休息を見張りの大声が破った。
「砲列艦発見!」
「なに」
強風がおさまり、再び檣楼へと登った檣楼員からの報告は間に合わなかった。
海面すれすれに降りてきている雨霧の中に不気味な白い帆が現れたかと思うと、
幽霊船のようなそれからジャルディンの乗る旗艦にいきなり砲弾が撃ちこまれたのだ。
酒を配っていた男が直撃を受けて、あっという間に消えうせる。血と肉片がばらばらと
甲板に飛び散った。謎の船影から次なる砲台が押し出されて、発火するのが遠くに見えた。
「伏せろ!」
「待ち伏せされた」
「檣楼員、敵艦の旗ッ」
「確認できず!」
「しかしあれは軍船だ。この船のジャルディン様を狙っているのだ」
「レッダエスタ王子か、それともシャージン王子か。ギルガブリアに寝返った
イオレットとランスオー王子か」
そのどれでもあり得た。
ジャルディンの帰国を歓迎する王族はレムリアにはいないのだ。
「殺されに国に帰るようなものとお思いですか」
沿海連合軍との海戦の後、ハクプト少年は海から引き上げたジャルディンに
着替えをさせながら、その肩に王族のみにしかまとえぬ高価な絹の衣をかけた。
「命にかえてもお護りいたします。ジャルディン様。わたしの名は、ハクプト・クロウ。
ジャルディン様の教師であったエクレム・クロウは、わたしの父です」
生涯の忠誠をジャルディン様に捧げます。
ハクプトは両膝を床につき、両手の手のひらを上に向け、ジャルディンに頭を垂れた。
耳を劈く砲撃音に、甲板がびりびりと震えた。謎の艦船は徐々に距離を詰めてきた。
「退避!」
「ハクプト、下層甲板に入ってろ」
「いえ。ここにおります」
露天甲板は、一面のまだら雪だった。そこに血を流している遺体が転がっている。
ジャルディンは少年の首根っこを掴んで、中央昇降口に押しやった。
嵐の間は船内に水が入らぬよう、入り口は井戸の蓋のように密閉して閉じてある。
「開けろ」
蓋を蹴りつけて中から開けさせ、ハクプト少年を真っ暗な階段の下に転がり落とすと、
ジャルディンは蓋を閉めた。その背中に、砲撃を受けてばらばらになった横索の
破片が落ちかかった。ジャルディンは立ち上がった。
黒髪を風になびかせ、霧の中から姿を現した崖のような大型艦を王子は睨み据えた。
空を割るようにして高い帆を並べ立て、波を分けて山のように接近してくる。
接舷されたらおそらくは白兵戦の要領で、賊がこの艦に乗り移ってくるはずだ。
霧が両艦の視界をまた隠した。
「ジャルディン王子」
捨てた故郷レムリアなどに未練はない。王座などにも興味はない。
だがハクプト少年の命は救ってやりたい。それがジャルディンの心を決めた。
「総員」
海で鍛えた発音が自然に出てきた。風をこえて意志を伝える船乗りの声だ。
「俺に従え。先制攻撃を仕掛けてきた右舷方向の敵艦に、これより応戦を開始する」
「ジャルディン王子」
「風上に舵を保て。レムリアへ帰りたくば戦え」
海戦は操舵と戦いを同時に行う高等技術である。片方でも欠ければ艦の命運は
そこで決まる。旗艦だけあって、打てば響く熟練の船員を揃えていることはジャルディンも
確認済だった。
「霧が晴れた」
「敵艦確認。すぐ近くにいるぞ」
「砲列、片舷斉射」
「用意。撃てッ」
すり合う二層甲板艦の二層砲列が同時に火を噴いた。こな雪の舞う海域は
雷雨のごとき烈しい轟音に包まれた。蛇腹のような音を立てて、はじかれた大量の
木片が甲板を襲う。
「ジャルディン王子。左舷後方に船影あり。僚艦です!」
「信号弾うて。『ワレ敵艦と遭遇セリ。目下戦闘中』」
シュッと火花を引いて、信号弾が鉛色の天界に駆け上がった。
二艦は正横に波を受けぬように巧みに舵を切りながら、再びすれ違おうとしていた。
嵐に傷んでまだ帆の揃わぬこちらより、先方のほうが速力がある。
「被弾報告。上層甲板大砲二門破損」
「片舷、砲門ひらきました」
「続いて信号うて。『神聖艦隊ヲ再編セヨ。貴艦ノ指揮ニ期待ス』」
「追いついて、間に合うか」
「逃げたほうがよいのでは」
「風に寄せろ。着弾圏内に入る」
「ジャルディン様」
「敵艦の艦首前方を突っ切る。距離保て」
船体左右に備えてある砲台からの砲撃による雌雄は、船の操舵性が決定する。
轟々と雪まじりの風が唸る中、有利な位置を取るどころか、船の操行すら困難を
極める状況だった。船乗りが従うのは、長年の勘に加え、天候と戦局の双方を同時に
計算できる冷静な指導者だ。嵐の中、ジャルディンの外套が黒い翼のように雪風に
はためいた。レムリアに帰還する王子は、この航海の途上、その強力にして精確無比な
指導力により、海軍旗のもとに集うレムリア兵の心を完全にとらえていた。
命令一下の緊張感が旗艦に漲った。
「縦射、用意」
「敵艦、艦首をふりました!」
兵がはっとなって顔を上げた。縦射は不可能だ。ジャルディンはそれを待っていた。
王子は操舵手に合図した。船員が転桁にうつる。荒れる黒波を分けて旗艦は向きを変え、
強引に波を滑っていった。小山のような敵艦が眼の前に迫った。雲をつく白帆が風を受けて
裏帆になる。雲が一瞬切れて、悪天候をぬう太陽光が波と雪と、甲板に立つ傭兵の姿を
浮き立たせた。凍りつく雨が金色の矢となって一帯海域に降りそそぎ、風に吹き散らされる。
「敵艦と並航。全砲、敵艦の檣と索具に集中斉射。砲角度上げ」
「用意」
艦が並び、上向きの横揺れがとまった。ジャルディンは片腕を振り下ろした。
「撃てッ」
雪風に、雷光が裂けた。
>続[V]へ >目次
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