■V.
青い大河をこえて砂漠にまでその版図を広げる大帝国は、戦勝利も
かくやというほどの祝賀一色に包まれた。
ジャルディン王子、帰還。
その一報は、レムリア全土を深く愕かせ、感動させた。無名のまま
十年以上も前に出奔した悲運の王子が、成人した姿となり、レムリア神聖艦隊を
率いて堂々の帰還を果たしたのだ。
航海途上で謎の艦船から不意打ちの攻撃を受けたものの、その後に
果たした王子指揮下の応酬の見事さについては、先触れの快速船によって
既にひろく知られるものとなっており、人々はそのことにも瞠目した。
海戦の模様は後続の艦隊からも目撃されており、波間をすべり百発百中の位置を
巧みに先制していった鮮やかな操舵と、先の先をよんだ砲撃が王子指揮のものと
分かった時、雪嵐の中に聴こえた傭兵ジャルディンの名はそれを見守っていた
艦隊将兵にとって尊敬の対象となった。拿捕こそ逃しはしても、嵐の中、凄まじい
応戦を繰り広げて不審艦を撃退してのけたその難易度は、海に生きる彼らこそが
よく知っている。
特に、艦尾を見せながら、速やかに大反転し、すれ違いざまに猛砲撃を加えた
一局については、両艦の速度と風力を瞬時に計算することで可能となった
操船の高度奇術といったものであり、砲煙たなびく海を敵艦ぎりぎりにすれ違い、
衝突をおそれた敵艦が舵をためらうのへ砲撃を与えながら向こう側にすり抜けることを
果たした時には、戦闘の最中であるのに、旗艦甲板に大歓声が巻き起こったほどだった。
「傭兵にして、船乗りだそうだ」
「暴風雨の中、海に落ちかけた乗員を片腕で支えて高波から拾い上げ、ご自分の
横静索につかまらせなさったそうだ」
奴隷女を母にもつ混血王子。それが今となっては王が認める、レムリアの
有力王子に昇格していた。人々は伝えきく王子の横顔や海戦の模様を
熱心に語りあった。戦の絶えぬこの国では、強い戦士こそが歓迎される。
ジャルディン王。
内乱に疲れていたレムリアの人々はその名をそっと口にのせ、天啓を
受けでもしたかのようにその響きに酔い痺れた。
レムリアの新王、ジャルディン王。
ジャルディンは旗艦の中で、迎えに来た海軍提督の挨拶を受けていた。
長艇で海上から乗り移ってきた提督は、レムリアの軍人らしく眼光鋭い初老の男で、
白髪を後ろで束ね、歴戦の知恵をやどした額には海軍人のしるしである刺青を
入れていた。
老人はきびきびとした所作で王子の前に頭を垂れた。
「ジャルディン王子」
「提督。ご苦労」
将は将を見抜くものである。海軍提督はひと眼でジャルディンを気に入った。
その風采を、漂う覇気を、落ち着いた物腰の中にも鋼のように備わった、武人としての
天性の剛毅と強靭さを。
それに何と王のお若き頃とお感じが似ておられることか、と海軍提督は唸った。
(陸海軍の頂きとして仰ぐに、これ以上望ましい人物はレムリア中を探してもいない。
隠れた太陽の代わり、神は新星の太陽をレムリアにもたらして下された)
しかしそのようなことは提督はおくびにも出さなかった。
「国内のことはお聞き及びでございますか、王子」
「多少は」ジャルディンは応えた。
国を離れていた間にもいささかも濁ることのない母国上級語の発音は、まさしく
帝王教育を受けた者の抑揚だった。提督は満足げに眼をほそめた。
「港には、レッダエスタ王子がお見えです」
それを伝える提督の言葉の中には、隠し切れぬ僅かな軽蔑があった。
年子も同年も山といる王族きょうだいの中で、さらには上から順番に暗殺・謀殺
されて消えていった中で、生き残った第三王子レッダエスタはジャルディンより
五、六歳ほど年上だったか。属領のひとつを本拠地としてレッダエスタ及び仇敵
ギルガブリアを相手どり、たとえ叛逆者と呼ばれても勇猛果敢に前線で戦っている
シャージン王子と比べ、帝都に安穏としているレッダエスタ王子は、海軍を束ねる
この男の尊敬を集めるには足りぬらしかった。
海軍提督はざっとおさらいをしてみせた。
「シャージン王子はレムリア軍中の精鋭部隊を丸ごと引き抜き、レッダエスタ王子を
王位簒奪者と称しめ、第一王子と第二王子を暗殺した者として糾弾しております」
「俺が知りたいのは、王のことだ」
ジャルディンの眸は、海軍提督をもふるえさせた。黒髪の王子は椅子の背に
片手をかけた。
「レムリアの王は、健在なのか」
「はい。確かに」提督は頷いた。
「第一王子の戦死の直後から民の前に姿を現さず、王座が空のままだときいた」
「王にはお考えあってのことでございます」
「提督は、王にあったか」
「月に一度は、王の私室に招かれてお逢いしております」
「王は、王子たちを争わせて淘汰し、生き残った者に王位を継がせようとしているのか」
「さ、それは」
「海上でこの艦を襲った武装船は俺を殺そうとしていた。王子の誰かの仕業と
見せかけて、俺を試さんとする王の手引きではなかったのか」
「まさか」
「では、誰の仕業だ」
「こうして海軍がお迎えにあがれたことは光栄でございます。嵐と不審艦から
わが将兵をお護り下さり、感謝にたえません」
「王は、なぜ俺を呼び戻した」
「レムリアを統べる王の御心のままに」
お決まりの常套句で矛先をかわした白髪の提督を、ジャルディンは見つめ返した。
その視線を受け止めて、歴戦の提督はジャルディンを頼もしそうに仰いだ。
「ジャルディン様」
抑えきれぬ感情を滲ませて海軍提督は云った。
「よくぞお帰りになられました。王はずっとあなた様をお捜しでした。多くの王子が
おられる中でも、王は特にジャルディン様のことだけを気にかけておいででした。
こんなにもご立派にご成長されたお姿を見れば、王はお喜びになられましょう」
ということは、王には目通り叶うということだ。あの父に。
ジャルディンはもう一度訊ねた。
「俺を襲ったのは誰だ。レッダエスタか、シャージンか。ギルガブリアに寝返った
他の兄王子たちか」
「王は、王宮でお待ちです」
海軍提督が旗艦に乗船するのに合わせ、レムリア神聖艦隊は編隊を入れ替わり、
長旅で汚れた艦は他港にさがり、真っ白な帆を誇らかに掲げたあらたな護衛艦が
属州の軍港から続々と現れて、王子の乗る旗艦に従った。
船首楼の手すりに手をつき、ジャルディンは近づきつつある陸地を見ていた。
一度も振り返らずに捨てた故郷。雪をいただく山脈。風の中に眠る大河。
何度も夜明けの夢の中にみた、そのとおりだった。
「帰港は予定どおり、早朝となります」
早暁の暗がりの中で、ハクプトはジャルディンを装わせた。
惜しみなく運ばれる湯でからだを清め、王子の長い黒髪を梳き、下着からまとわせる。
一切をハクプトがやった。子供の頃、王子として過ごした宮殿でも、いつもこのように
召使が全てをやった。あの頃に戻ったように、ジャルディンは全てをハクプトの手に任せた。
「剣です。どうぞ」
宝石つきの護身剣をジャルディンは帯にさした。ハクプトはジャルディンの希望により
王子宮でもジャルディンに仕えることになっており、港が近づくと、少年もまた
宮廷衣裳に着替えをあらためた。
白と金を基調にした装束に身を整えたジャルディン王子が甲板に現れると、
海軍提督をはじめ乗員が一斉に敬礼した。額に金の小さな宝石をつけた王子は、
レムリアの帆船に降り立った猛禽の化身のようだった。
何隻もの大型帆船を停泊させることが可能な港は、王子の帰国に合わせて
夜のうちにすべて沖合いに船を出払い、港はジャルディンひとりの為に開かれていた。
「ほかに軍港も、王族専用の港もありますが、このままこの艦で港入りしたほうが
王子のご帰還には相応しく思われます」
途中の海戦の勲を誇示するために旗艦は代えず、帆だけが新しいものに代えられた。
艦は風をはらみ、護衛艦を従えながら、威風堂々とレムリア沿海を進んだ。
風がジャルディンの黒髪を揺らして過ぎた。
レムリアの湊。
海の彼方に白鳥が翼を拡げるようにして現れてくる、栄華の都。厭わしい想い出と、
懐かしい想い出と、異郷で繰返し見た灼熱と黄金の、夢のふるさと。
次第に近づいてくる広大な大陸に向き合いながら、それを見つめる黒髪の王子の
瞼の裏に浮かんでくるのは、幼い頃を過ごした後宮の庭だった。夕暮れの中に女が
うたっていた歌だった。淋しく微笑み、抱きしめてくれた母の白い腕だった。
涼しい風が吹いた。
空が晴れ、暁の中に七海を照らすといわれる白亜の灯台が真っ白に浮かび上がって
その巨大な姿を現しはじめた。
艦隊を率い、傭兵は青い海から母国レムリアに帰還した。
港には、海兵が整然と並んで待っていた。
帆船から降り立ったジャルディンを出迎えたのは、第三王子、現在では
第一王子と王籍の繰り上がった、レッダエスタだった。
「弟よ」
比較的長身ぞろいのレムリア人の中で、珍しくレッダエスタは中背だった。
その代わりに頑健な体躯をしており、ジャルディンを抱きしめた胸板は厚く、
話にきくような文弱ではどうやらなさそうだった。
レッダエスタが次にやったことは、ジャルディンの袖をめくり上げ、腕の刺青の
有無を確かめることだった。そこには、かつてそれがあったことを示す、刺青を
消し去った痕があった。
「失礼したな。贋者ではなさそうだ」
顔は笑顔のまま、レッダエスタの眼がぎろりとジャルディンに向けられた。
「見違えたぞ。ジャルディン」
「レッダエスタ。兄上」
兄上と呼ぶ舌に違和感があったが、それも懐かしかった。
レッダエスタの顔を見るうちに、この男が青年王子の一員として宮廷の上座に
並んでいた頃のことが思い出された。
はるか遠くに眺めるだけの異母兄たちは、ジャルディンにとってはどれも
同じようなものであり、それぞれに王子宮を持ち、平生は離れて暮らしていたため
彼らのほうから声を掛けられることもなかったが、レッダエスタのほうは奴隷女の
生んだジャルディンのことをよく憶えているようだった。政敵としても、いつか叩くべき
王子としても、その名を忘れてはおらぬようだった。
「放浪の王子の帰還をひと目みようと、沿道はすごい人出だぞ、ジャルディン」
街中の熱狂が港にも届いていた。隠れるようにして出て行った昔と違い、
いまはレムリア国土全体がジャルディンを歓迎し、その姿を迎えようと早朝から
沿道に押し寄せていた。黄金で覆われた用意の無蓋二輪戦車にジャルディンと
レッダエスタは並んで立ち、レッダエスタが手綱を握ると、青と金の宝石で飾られた
白馬は二人の王子を乗せて動き出した。
「ジャルディン王子だ」
「ジャルディン王子のお戻りだ」
大航海を終え、敵艦を撃ち払った逸話までついた王子の姿は、父である
レムリア王に似て、そして他の王子たちよりも気高く、凛々しかった。
その姿は人々の心に何やら英雄伝説的な神がかったものを呼び覚ました。
「ジャルディン王子」
天を支えるように高く伸びた白い柱が一直線に続く大通りに差し掛かると、
出迎えの人々の昂奮と歓声はいや増して、空を割るかと思われるほどに高まった。
花冠をつけた美女たちが撒き散らす花吹雪が空を舞い、道を飾り、護衛の美々しい
騎馬が王子たちの馬車の左右を固める中、人々の眼は、二輪戦車の手すりに
片手をかけて立っている逞しい青年王子ひとりの姿に吸い込まれた。
その黒髪の王子こそは、混乱のレムリアに降り立った若き軍神だった。宮殿に向けて
まっすぐに向けられたその横顔の精悍さは、レムリアの人々が敬服し、畏怖する、
帝王の若き頃のものに生き写しだった。
「ジャルディン王子、万歳」
「みろ。凄い歓声だ。まるで凱旋だな」
戦車の手綱を操りながら、レッダエスタがジャルディンに皮肉をむけた。
「王宮に着いたらすぐに父上がお待ちだ。衆目にも動じぬふてぶてしい
その顔を見れば、さぞかしご安堵なさるだろう」
繰言を重ねるレッダエスタの声に、苦々しいものがこめられた。
「父上はお前に王の座を譲られる」
巨大な凱旋門の下に差し掛かり、陽射しが遮られた。
「内乱をおさめるのには、新しい王子の登場が最善だというわけだ。
劇的な帰還おめでとう。だがな、ジャルディン。正当な継承権を
無視して僥倖頼みに王座に駆け上がった者は、王とはついに認められん。
属州に立て篭もっている叛逆者シャージンも承知せぬだろう」
果てなきように思われた大観衆と大街道にも、やがて終わりが見えてきた。
はるか後方で門が閉まると、急速に街の歓声が遠のいた。反り返って仰がねばならぬほど
高く聳え立つ宮殿の外門は、一郭から十二郭まで彼らのために開かれていたが、その奥の
奥まで見せながら、その先にあるはずの白亜の大宮殿は朝日の中に白く消えていた。
「王子に敬礼」
馬が壮麗な内門をくぐると、そこには護兵が何万と控えて待っていた。
掲げられたその剣は光の帯となり、銀の林となって二輪戦車の左右を埋め尽くした。
剣の道をジャルディンたちの戦車は進んだ。
「日蝕の王。そう呼ばれるのみだ」
ジャルディンを見ることなく、レッダエスタはそう吐き棄てた。
行方不明だった王子の帰還の報は、ギルガブリアにほど近い属州に
居座っているシャージン王子の許にも早馬でもたらされた。
第一王子を実兄にもつ彼は、戦闘の最中に背中から射られたという兄の死に
疑問を抱き、続いて第二王子が毒殺されるに及んで、すぐ上の兄レッダエスタ
の関与を確信。この属州から、レッダエスタ王子への追求を続けていた。
「海の藻屑となり損ねたか。家出王子め、生きていたとは」
とっくに死んだものと思っていた弟王子の華々しい帰国に苛立ち、
シャージンは機嫌が悪かった。
彼は筋骨隆々とした長身の男であり、戦うために生まれてきたかのような
戦士であり、勉強家で、なかなかの策略家でもあった。
粗野が勝る、しかし人を惹きつける魅力的な顔立ちには、武人らしい
男らしさの他にも、少年のような活発さがまだ残っていた。
「王都ではレッダエスタがさぞや悔しがっていることだろうな。
ジャルディンか。憶えているぞ。幼い頃はあれの母親に似ており、ちょっと
ひと眼を惹くような不遜なところが、確かにあった」
「後宮の女奴隷の胎から生まれたとか」
シャージン王子に忠誠を誓う属州の総督は首を傾げた。
そのような取るに足りぬ末端の王子を、何故、王ははるばる探し出して出迎え、
厚遇するのだろう。
シャージンは苛々と云った。
「知らんのか。あれの母親が、一時は父上の寵を独占していたのだ。
異郷から連行されてきた女奴隷でな。透きとおるような白い肌をした、たいそう
美しい女だった。年長の兄たちが、今はもう亡き兄たちだが、後宮に
忍び込んでその女を手ごめにしてやったと自慢げに話していたものだ」
その後にまつわる不吉ごとから眼を逸らすように、シャージンは不快げに
口をつぐんだ。その折の王の処罰の凄まじさは後宮の中のことと封印されて
外部には洩れずとも、当時の王宮を震え上がらせるには充分だったのだ。
「……まあ、嫉妬か何かしらんが、後宮の女どもの陰湿なはかりごとにかかって
ジャルディンの母親は追い詰められた末に、密室の後宮で惨殺されたというわけだ。
女どもの憎しみを掻き立てるだけの、稀なる美人だったからな。ああいう女は王の
権勢に恃んで派閥でもつくり、ずうずうしく威勢をふるって居直っているほうが
かえって運が拓けるというものだが、そよとも声が聞こえぬほどに控えめにしていたのが
悪かった。そのせいで宮中においても、後宮においても、誰も女の味方をする者が
いなかったのだ」
「それで王は、遺された王子を不憫に思われて」
「不憫?」
シャージンは組んでいた腕をほどき、記憶を辿った。
ジャルディンとは、どのような弟であったか。
母親の死後、ほどなくして家出をしたと知った。その時は愕いたものの、やがてすぐに
忘れ去った。王宮育ちの少年ひとりが生きていけるほど世の中は甘くない。
召使のいない世界で右往左往するうちに路上でくたばるのがおちだろうと、どこかで
決めてかかっていたせいもある。
だが王は諦めてはいなかった。そして王がジャルディン王子に執着するその分だけ
ジャルディンを亡き者にしようとする一派も、王子を捜し出すことで王の寵を得ようとする
陪臣たちの動きも、水面下で活性化した。しぶとく、何年もの間、執念深く諦めずに。
ジャルディンを捜して連れ戻せ。
それはひそかに王宮の奥深くから発せられ続けてきた、至上命令だった。
「野蛮国の内陸で傭兵になっているだの、船乗りとしてあちこちの諸島を
渡り歩いているだの」
机に踵を上げて、シャージンは足をかいた。王子の足跡は掴んだと思ったら、
探索者や暗殺者の前からかき消えてしまい、長年ようとして知れなかった。
「それがよもや神聖艦隊を率いてレムリアに帰還するとはな。運のいい奴だ」
「シャージン様。そのような御方ならば、ぜひお味方になさいませ」
総督の進言にも、シャージンの顔は浮かなかった。
「背中をたのめる、頼もしき弟王子と思われますが……」
「父上は何故、ジャルディンを呼び寄せたのだ」
丘の上に建つ属州の総督宮から見える景色は、まばらに低木の生えた
乾燥した荒野だった。反対側は港町で、シャージンはそこを対ギルガブリアへの
鎮守府軍港と変えていた。
「出奔した時、ジャルディンはまだ少年だった。そんな子供に、父上は何を期待したのだ。
有能な王子ならば戦死した兄上や俺をはじめ、他にもいたぞ」
「やはり亡き方の忘れ形見として、想い入れもあり、お傍におかれたかったのでは」
「分からん」
そこへ早馬で第二報が入って来た。その速報を聴くなり、シャージン王子は
戦兜を床に叩きつけた。
レムリア王、ジャルディン王子に王位を譲渡。
いったい幾つの門をくぐり、幾つの廻廊を渡り、幾つの広間と庭園と歩廊を
通り抜けたのか。後進大陸で旧文明に浸っていたせいか、大人になって戻ってきた
今のほうが、レムリア宮殿の壮大さが身に沁みた。
ジャルディンは護身用の剣を佩いたままの姿で王の間に通されることを許された。
それほどに、レムリア王は待ちかねて、早々の対面を望んでいるのだという。
早朝に入港してからもう長い月日が経ったような気がした。家出していたその
歳月が、港に降り立って風の匂いをかいだ途端、子供の頃の記憶と直結し、もうずっと
この国で、この宮殿で暮らしていたような、そんな錯覚すらわいてきた。
何よりも身体が憶えていた。この国の濃厚な緑と花々を。熱をはらんだその風を。
「こちらでございます」
先導の召使は何人も代わった。
天井を支える高い円柱。宮殿内を流れる疎水。紺碧の青空と、陽射しの強さ。
夜空を模して瑠璃色に塗られた天井には輝く宝石がぎっしりとはめ込まれ、
それと対になるように床は精緻なモザイクで緻密な幾何学模様が描かれている。
幾つもの大広間、幾つもの階段、幾つもの楼。終わりなきように見えた連続も
夕方近くなってようやく、ジャルディンの前に扉を用意した。
「ジャルディン王子の、お帰りでございます」
控えの間からついにひらかれた謁見の間は、しんと静まり返っていた。
昔と同じように内部はわざと暗くしてあった。ずっと奥の方に光かがやく
石の大階段があり、王はそこにいるのだ。
階段の上は天窓からの明りにより、眩く、下からでは殆ど何も見えなかった。
レムリアの王は、階段の上に浮いているように見えるその王座より、帰ってきた王子を
見つめていた。
護衛は柱に隠れているのか、他には誰もいなかった。水底の宮殿のように
広間は蒼く静まり返り、海の上に浮かんだ月のように、高みにある王座だけが
そこだけ鏡のように輝いていた。
着替えることもなくこの室まで案内されたジャルディンは、この内部に漂う
神聖なものに、その威圧感に、しばらく無言で浸っていた。
遠い昔、何度か来たことのある広間であるはずが、知らぬ部屋のようだった。
「待ちかねたぞ」
突如、王の声が陰々と謁見の間の天井に響き渡った。ジャルディンは一撃を受けた。
王の声。忘れえぬ、父の声。その声だった。
「近くへ。ジャルディン」
自分のあしおとだけが聴こえた。心臓の音だけが。ジャルディンは歩いていった。
光に向かい、王の許へと。
幅の広い階段が視界の両端に消えるあたりで、脚をとめた。その先は何人も
踏み入ることが禁じられていた。それは神界に通じる、王の階段なのだ。
「ジャルディン」
戦死したのではなかったのか。病で臥せっているのではなかったのか。
王子たちの内乱を止められぬほど力が衰えたのではなかったのか。
王の呼びかけには、かつてと変わらぬ、厳かな強さだけがあった。
「ジャルディン」
レムリアの王は、かすかに、ほんのかすかに、笑ったようだった。
眼下の王子を見て、出奔した後こうして立派になって帰ってきた男を見て、
その貌に、その所作に、何かを感じ取り、至極満足そうに、王は笑っているのだった。
ジャルディンは待った。
衣ずれの音を立てて、王が階段を降りてくる。王冠を戴くレムリアの王が。
光の威厳から降りてくる、かつて己がすてた父が。超大国そのものが。
「ジャルディン。お前に、王座をやろう。この国を」
かつて同じことを王は云った。黒髪の王子の骨身ふかくに、その運命を夕陽の熱と
その声で刻み付けた。幻の声はいまこそ現の生身となった。
「貴方はレムリアの王。どうして俺がそれに逆らうことができるだろう」
ジャルディンは片膝をつき、王に礼をとった。海に飛び込んだ時より、こうなることは
どこかで分かっていた。蒼い玉座の間に流れ着くことは。
ジャルディンは黒髪の先を床につけて眼を伏せた。
「御身こそは生まれながらの王」
「レムリアの新王、ジャルディンよ」
「貴方がそう云うのであれば、俺は王となろう」
十代を船乗りとして過ごし、二十代を傭兵として生きた。運命との訣別の旅は、
この時おわった。
一つ一つ、棄ててきた。長い航海の間に、一つ一つ脳裡から追い出してきた。
海の上の星空に、波の上に吸い込まれて消える雪のうちに。
忘れようとした。何もかもを、それまでの旅を、想い出すことどもを。
ジャルディンは身体を寝台に横たえた。
即位式に続く宴、宴につぐ宴。居室にたちこめている高雅な香木のにおいは、
いかなる港の、いかなる娼館の香とも違う、この国特有の香りだった。
この心身の奥底に染み付いている、忘れえぬ猥雑だった。
「おやすみなさいませ、王」
侍従のハクプト少年が出て行ってから何刻経ったのかも、もう定かではなかった。
王の眠りを妨げまいとする宮殿の静けさ。庭木のささやき。窓から見える大きな青い月。
重たい四肢を豪奢な寝台に投げ出して、ジャルディンは眼を閉じた。
心身の奥が気だるく熱を帯びていた。厭わしいばかりのはずの故郷の、この思いがけない
安らぎと眠り。これを手に入れるために疲れることを選んだ。心身を慰撫し、刺激する、
甘くまとわりつくこの香りを束の間の休息として、水のように味わうために。
俺はもう、元の俺に戻ることはない。
航海の間もずっと考え、そればかりを唱えていた。そのつもりで帰ってきた。
超大国の王子として、父王が望む片腕として、大軍を率いる将として、この血を
この大地に捧げ、吸わせ、悠久の風に身を晒して生きる。それより他はない。
それを承知でレムリアに戻った。それより他に道はない。
ジャルディンは愕くほど大きく見える帝都の月を眺め上げた。
深い疲労の中で、月だけは、冴え冴えしい光でジャルディンの心に落ちてきた。
海の上の月。異郷の森の上に昇る月。はるか彼方の沿海を人質にとられたも
同然のこの身に、他にどうすることができたろう。
俺は変わってしまうだろう。
王は手の平を月の光にかざした。一介の傭兵として生きた日々とも決別し、全てを
忘れて、これからこの国で生きるだろう。沖合いにレムリア艦隊を見たあの日より、
こうなるものと覚悟していたように、レムリアを出て行った時と同じように、この星空の下に
この疲労を投げ出して、俺は生きるだろう。この国に名を埋める、王の中の王として。
(ジャルディン・ヤーカヤイドを、レムリアの新王とす)
この世の終わりまで語り草になるかと思われたほどの贅と格式を極めたあの即位式。
幾重にも重なって押し寄せてきた歓呼。大街道を銀鎧で埋め尽くして行われた閲兵式。
懐かしいものを棄て、また懐かしいものを棄て、懐かしいものに帰ってきた。
王は眼を閉じた。
ほんの短い間、王は眠っていた。
気配に眼をひらくと、白い花のようにぼんやりとした人影が寝台のすぐ近くにあった。
幻かと思われたそれは、薄もの一枚をまとった女だった。
ジャルディン様。
手琴を抱えた女は、控えめに王にやさしく呼びかけた。
「ジャルディン様。夜のお慰めに、一曲お弾きいたしましょうか」
そうだった、と寝台に仰向けになったジャルディンは様々なことを思い出した。
夜はいつもこうだった。いろんな女が王子宮に現れたものだ。王が女を見ると、
ジャルディンを怖れ、はじらうものか、または命じられたとはいえ羞恥は羞恥なのか、
美しい女は薄ものに包まれた、たおやかな肢体を男の眼から隠すようにした。
「わたくしでは足りぬのならば、ほかの者を呼びます」
かそけき声で女は俯いた。その顎に、ジャルディンは手をかけた。
長い長い航海の間に忘れていた、やわらかきもの。やさしきもの。月の光に照らされた
女の姿態は、かぼそくもその命を燃やして、衣のしたに乳房をふるわせていた。
「ジャルディン様」
琴の音が小さく乱れた。甘露を欲する飢えた旅人のように、ジャルディンは
女のからだをその熱い身体の下に巻き込んだ。
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