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[日蝕の王]
******************
Yukino Shiozaki

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■Ⅳ.


 新王の足許に膝をつき、ハクプトは王の具足の留め金をはめた。
天幕の外は砂まじりの乾いた風が吹いていた。金色の鱗光に包まれた
鎧の背側に眼の覚めるような濃赤の衣をかけて、漆黒の黒髪を
乱れぬように整え終わると、ハクプトは前に回った。
「ご立派です。ジャルディンさま」
 細部を再確認した後、ハクプトは王の姿を仰いだ。
混じりけのない忠誠心のあらわれた少年のその顔は、エクレムを彷彿とさせた。
 エクレム・クロウは、ジャルディンが国を出て月をおかぬうちに自害していた。
通じていた女官がハクプトを身篭っていたことも若い学者は知らなかった。
ジャルディンが憶えているエクレムとは、語学に堪能で、母とも母の国の言葉で
誰にも分からぬ会話を穏やかに交わし、実の兄のようにジャルディンにも優しく、
王を深く尊敬し、母を愛していた男だった。ジャルディンにとっての庇護者であり、
師であり、友だった。
 生きていて欲しいとねがっていた唯一の者が、自分のために死んでいた。
「わたしの母はわたしを身篭っていることが分かると、父の死後宿さがりして、
いまは街に暮らしております。わたしは母方の親族の援助で王立学問所に入り、
ジャルディン様と縁のある者として、お迎えにあがる艦隊の人員に加えていただきました」
 王は未婚のまま街で暮らしているハクプトの母に、慰謝として大金を送り届けた。
そのことは街中に知れ渡り、いよいよ新王の評判と人気を高めることとなった。
「お仕えできて、光栄です」
 父譲りの勤勉さと聡明さをもったハクプト少年を、ジャルディンは
側仕えとして即位後も引き続き身近においた。少年は英雄を崇拝するように
ジャルディンに仕え、この遠征にもついてきた。閑があるとジャルディンは
ハクプトに剣の稽古をつけてやった。この少年から父親を奪った自責が
そんなことで薄れるわけもなかったが、ハクプトの顔にエクレムの優しい
面影をみては、何ともいえぬ気持ちになることがあった。
「王。こちらを」
 最後に、ジャルディンは王の兜をかぶった。
頭部の半分をすっぽりと覆い、鼻梁を護る黄金の兜で顔を隠すと、逞しい傭兵は
レムリアの守護神と変わった。ジャルディン王、彼こそはレムリアの王。
精強で知られるレムリア全軍から、畏怖と尊敬をもって仰がれる、レムリアの軍神だった。
 天幕の外では王の直属である騎兵親衛隊が整列して待っていた。
青年貴族で構成された将校らは、兜の飾りをなびかせて太陽の下に現れた王の姿に
長剣を掲げて唱和した。
「ジャルディン王、ご出陣!」

 戦太鼓の音と砲音が不気味に砦から鳴り響いた。
荒地に立ち昇る砂埃は、紺碧の空に浮かぶ太陽の輪郭をも滲ませた。
「レムリア軍、来襲ーッ」
 砦から出てきたギルガブリア辺境軍と激突したレムリア軍の先頭には
金兜をかぶったレムリア王の姿があった。装甲騎兵を率い、自ら二輪戦車を駆り、
王は長槍を片手にギルガブリア辺境軍の布陣の中央に戦車を突き進めた。
「会敵!」
 投げられた王の槍は、敵の大将の鎧を貫通し、馬鞍から転がり落とした。
その間に工作兵がギルガブリアの砲台を急襲し破壊する。
敵兵を蹴散らしながら、レムリア軍は砦に向かって襲い掛かっていった。
 戦車の車輪に死体が引っかかり始めると、王は馬を求めた。
「馬を」
「はッ」
 金の兜の下から黒髪を躍らせ、ジャルディンは砦の堤を馬ごと飛び越えると
自ら剣をふるい、突破口を開いた。その場で馬首を返して自軍を助けに駆け戻る
レムリアの王の雄姿に砦のギルガブリア兵たちはおののいた。
「ジャルディン王だ」
 盾と盾がぶつかり合い、剣と剣が交差し、馬がいなないた。両軍の軽装騎兵が
堤の内側に入り乱れ、その合間を重装騎兵が駆け回る。辺境砦は兵と兵が激突する
壮絶な戦場と化した。
「王」
「立て」
 転倒した兵の前に盾を突き出し、敵の剣を防いでやると、王はその盾を
回転させて敵兵の脳天を横殴りに殴りつけた。
「王」
「戦え」
 兵の腕を掴んで引き起こす王の強い声が戦場に響き渡った。
兜の前が暗くなった。王は身を伏せて剣をかわすと、敵を蹴り、背後の敵を
盾で叩き、持ち替えた剣で前面の敵兵を一刀のもとに斬り倒した。飛来した槍を
ジャルディンは片手で掴み、腕を振り上げると、持ち替えたそれを投擲した。
砦の狭間に吸い込まれた槍に刺し貫かれた敵兵は、反対側の壁まで叩きつけられた。
「レムリアの王だ」
「王を倒せ」
「ギルガブリア兵を殺せ。砦を落とせ」
「王。ジャルディン王」
 戦場の大渦の中に、男たちの怒声と喊声が満ちた。両軍の中心には、金鎧の
レムリアの王がいた。
「ジャルディン様ッ」
 砦から飛来した火の玉は、王の高く掲げた盾に突き刺さり、阻まれた。
火矢は空を赤く染め上げた。焔に包まれた兵が叫び声を上げながら溝に落ち、
身をもって盾となった歩兵親衛隊が次々と倒れる。
ギルガブリアの砦の将は自軍の兵に矢があたることも厭わぬようだった。
王は砦へと駆け上がった。戦えば戦うほど、心の中に暗い穴があいた。
そこは無音の墓場で、過ぎ去った戦場の、あらゆる風が吹いていた。
「戦え」
 王は砦の階段を昇った。階段は待ち構える敵兵でぎっしりと埋め尽くされていた。
繰り出される槍を、剣を、棍棒を、レムリア兵は突き崩していった。王は駆け上がった。
そこにあるのは荒野であり、海原であり、霧の大陸であり、砂漠だった。目指すのは
砦の頂きであり、奪うべき旗であり、奪還すべき領土であり、燃える太陽だった。
戦って死ねるのならばそれでよかった。兵士たちを勝利に導けるのならば、それでよかった。
「予に続け」
 狭い階段に王の強い声がびんと響いた。血濡れた踊り場に片足をかけて
王は振り返った。金兜をかぶり、血剣を引っさげたその雄姿を砦の窓から
差し込む夕陽が赤銅色の彫像のごとくに燃え立たせた。将兵らよ、敵を討て。戦え。
「レムリアに勝利をもたらすのは、そちらの剣である」
 おおっと全軍が雄々しくそれに応えた。戦旗が風に流れた。彼らは歓呼した。
王、ジャルディン王。剣を振り上げ、彼らは突撃していった。
 夕暮れ前にギルガブリアの砦は陥落した。
 レムリアの新王は難攻不落を誇るギルガブリアの要衝をまた一つ落とし、
遠征を終えて帰国した。


「破竹の勢いとはあのことで」
 属州の総督は、シャージン王子のご機嫌をうかがいながら、報告を終えた。
シャージンは腰に手をあてて、窓から海を見ていた。
「新王ジャルディンか……」
「王より勧告文が届いております。いかがなさいます」
 レムリアの王として即位したジャルディンは属州の一つを占拠している
第二王子に対し即位後早々のうちに、速やかなる投降を求めてきた。
シャージンは港に停泊している軍船を眺めながら憶えている内容を読み上げた。
「いわく、王位争いにはもう決着がついた、無駄な抗いはやめて新王に下れとさ。
投降すれば俺に従った者たちの罪も不問にしてくれるそうだ」
「ご寛大な」
「どこが」
 憤然とシャージンは両の拳を叩き合わせた。
 もとはといえば、レッダエスタとシャージンの王位争いである。
それが新王ジャルディンの即位により水泡と帰したのであるから、シャージンが
属州で頑張っている理由もない。レッダエスタはそのまま王宮に第一王子として
据えられており、いずれジャルディン王に直系の嫡男ができるまでは、
これまでどおり、太子の位置である。
「元通りではないか」
「シャージン様。新王はすぐに投降すれば、シャージン様とて王籍に復帰を
認めるとまで云ってきておりますが」
「勇み足をした愚兄を、慈悲深い弟王がお赦し下さるというわけだな」
 ばきばきと手の関節を鳴らし、シャージンは眼を猛らせた。
総督は不安そうに、そんな王子を見守った。
「第一王子の不審な戦死。そして第二王子の急な病死。これにはレッダエスタが
深く絡んでいるのに違いないのだ。神聖レムリア帝国に巣くう毒虫め」
「しかし証拠といいましても」
「証拠」
 どうやら新王の登場により進退を迷い、気弱になっているらしき総督にいかつい
顔を向け、シャージンはかみ付くように云った。
「証拠はな、王宮にいる毒婦が全てを握っているのだ。策士家のように知恵が回り、
腐った老婆のように陰険な女だ。レッダエスタと同衾し、王妃の地位を狙っている女だ」
「それは。どなた様のことで」
「そやつら毒虫を王宮から一掃するまで俺は戦いをやめん。王位も諦めん。
ギルガブリアは俺が倒す。ギルガブリアに寝返ったイオレットとランスオーは俺が粛清する。
いきなり出てきた傭兵王に俺のレムリアをくれてたまるものか」
 シャージンは憤然と腕を組んだ。
「よいか。正当なる継承権を無視して王座に昇った日蝕の王など、俺は認めんぞ。
それはレムリアに不吉と不幸をもたらす、王家にとっても将来の禍根の種だ。
どうにかしてレッダエスタとジャルディンを廃するのだ。この際だ手段は問わん。
新王ジャルディンの弱みはないものか」
 眉間に皺を寄せ、シャージンは奥歯をくいしばった。
探せ。ジャルディン王の弱みを探すのだ。


 レムリアの都は新王の凱旋に沸き立った。
最強にして最高貴の王として七つの海にその名を轟かせた先王がその姿を
王宮奥深くに隠してから数年。太陽が隠れていたようになっていたレムリアに
突如現れた戦神の登場。先の王にも勝るとも劣らぬその威風に人々は
狂喜乱舞した。ギルガブリアを相手どり、王自ら陣頭に立った上での常勝。
それは内乱に倦みはて、疲弊していた民にとって何にも勝る驚喜であり、また
ジャルディン王にまつわる物語的な放浪の過去が、新王の英雄性をいやが
上にも増していた。
 王の生母が後宮の奴隷女だったことすら、先王との真実の愛とそのあかしとして
いっそうジャルディンの貴種流離譚を悲劇的にも感動的にも彩り、それらの逸話が
レムリア中に満ちている昂奮を極限にまで高めていた。
 王。ジャルディン王。
 華々しい凱旋行進の中央にその姿を認めると、沿道の人々は熱の波に
煽られるごとくにその名を讃えた。二輪戦車を自ら駆って街路を過ぎる王は
逞しいその身体に黄金の鎧をはき、頭部を半分覆う黄金の兜をかぶり、
軍神の化身として王を仰ぐレムリアの人々とその国土を睥睨して行き過ぎた。
「お后候補が決まったそうだ」
「美人で名高いアウロデニア姫をはじめ、異母姉妹の姫さま方も、その候補の
中に入っているそうだ」
 美女が投げる花びらが夢のように空を覆った。留守居の海軍将軍たちが沿道に
整列して出迎えているのへ差し掛かると、王は片手を軽く挙げて提督に応えた。
わあっと人々の熱狂がまた昂じた。
「ジャルディン王」
「王、レムリアの王」
 晴れ着をきた子供たちは跳び上がって王の姿を拝み、女たちは凛々しい王の姿に
胸を焦がした。伝えきく王の勇姿とその武勇に魂ごと鷲掴みにされた男たちこそ、
新王の雄姿をもっとも讃えた。
「下級兵士であろうとも、身をもってお庇いなさるそうだ」
「ご自身の御剣で敵将の首を上げられたそうだ」
 凱旋行進を見守る人々は一つの思いで結ばれていた。あれこそはレムリアの
守護神である。
「王。ジャルディン王」
 手を打ち振って王を迎える人々の歓呼は世界の果てまで届けとばかりに帝都中に
響き渡った。それはその日を勝利記念日の祝祭と代えて、数日の間続くのだった。
海上から艦隊が祝砲をあげた。
「ジャルディン王」
「ジャルディン王、万歳」
 二輪戦車で通り過ぎる王の姿を、人だかりを離れた建物のかげから見つめている
水色の眸があった。薄布で顔を隠した、エトラだった。


「エトラ。入るよ」
 レムリア港にほど近い下町の宿は、狭苦しい区画にあった。
船乗りの経験を生かして、カーリスはその中でも隠れ家的な上質の宿を
一発で探しあて、エトラをそこに泊めた。通りから少し奥まっており、
貴族たちが下町の風情を楽しむ目的で、おしのびで訪れる類の宿だった。
君みたいなおのぼりさんのいい子が一人で歩いていたら誘拐される、おいらが
いない時には宿から出るなとカーリスから固く云い渡されたエトラは、瀟洒な
中庭を見下ろす二階の角部屋で、レムリアに沈む夕陽を見ていた。
 はずむ足取りで、カーリスは宿の階段をのぼった。
この世の贅のすべてを集めたレムリアの都には手軽で美味しい料理を出す
店がたくさんある。ちょうど街は王の戦勝祝いでお祭り騒ぎだ。
薄紅色のぼんぼりの並ぶ街路には祝祭用の山車まで出揃っている。
カーリスは隠しに入れた財布を確かめた。エトラを誘ってこれから賑やかな
街を案内し、夕食に繰り出すつもりだった。
「……何してるのさ」
 室の床には、昼間エトラがまとっていた衣裳が脱ぎ捨てられていた。
「散らかして」
 踏みつけてしまった被り物を拾い上げ、カーリスは椅子にかけた。
エトラは窓辺から動かなかった。カーリスは、エトラの背中に眼をやった。
膝下までの下着しか身につけてない。
「風邪ひくよ。男が入って来たんだから、少しは気を遣いなよ」
「踊りの練習をしてたの」
「はあ」
「踊り子として、王の前にいくわ」
「ああ、まだ諦めてないわけか」
 衣裳を集めて椅子に放り投げ、カーリスはあきれた声を出した。
「分かってないなぁ。王が生きていることが確認できればそれでいいと、君は云ったろ」
「兜をつけていた。顔が見えなかった。本当に彼なのかどうか、この眼で確かめたいの」
「可哀想だけど、あれは間違いなく、ジャルディン・ヤーカヤイド・オード・レムリアン。
野蛮な大陸で武芸の腕を磨き、船乗りとして帰還した、レムリアの戦神その人だ」
 夕凪にまじって下街の屋台の賑わいがここまで聴こえてきた。
旅館の庭には黄色い柑橘を実らせた木々が重たげに夕暮れの中に揺れていた。
「あの実、美味いんだぜ。あとで取って来てやるよ」
 エトラの横に並んで窓枠に手をつき、カーリスはちらりと横目でエトラを見た。
肌着いちまいの格好のせいか、防波堤で逢った時のように、少女は頼りなくみえた。
「エトラ。君は、勇敢だよ」
 夕方のぬるい風に、航海の間にのびたエトラの美しい髪がそのほそい
肩をそっと撫ぜていた。華奢なからだにまといつく薄衣。透きとおるような
白い膚に浮かび上がる、かすかな火傷痕。
「長く辛い航海に耐えて、こうしてレムリアにやって来た。男にも出来ないことだ。
君が信じていたとおり、彼は生きていた。ジャルディン王の姿を見てほっとしたかい?」
 少女の唇は何も応えなかった。
 カーリスは夕陽に背を向けるとエトラと向き合った。逆光となった若者の顔には
夕陽のかけらが宿ったようになっていた。
「しばらくレムリア観光をたのしんで、次の季節の貿易船で海の街にお帰り。
すごいだろ、この都の繁栄は。浮沈の国といわれてるだけのことはある。やっと身体が
恢復して元気になったんだ。楽しまないともったいないよ。おいらが案内してやる。
砂漠の国って砂ばかりだと思ってるだろ。実際は草地や岩場の荒野なんだぜ。
見ごたえのある古代遺跡があるから、連れて行ってやるよ」
「王の前に出るには、どうしたらいいかしら。往来で踊って目立つのがいちばんかしら」
「いい加減にしろよ」
 カーリスは笑ったが、その眼は笑っていなかった。落日が海崖の上にある神殿の
向こうに沈むところだった。神殿の円柱は黒い楔に見えた。
「常識で考えろよ、田舎者。あれほどの若くて強い王だ。宮殿の後宮には
王にはべる女たちが山といて、世界中から集められた美姫や舞姫たちが王の
お召しを待っている。そりゃ君はきれいさ。だけど噂じゃ王の好みは肉惑的な
美女だって話だよ。毎晩いろんな女が王の寵を受けている。近いうちに后を迎え、
大勢の妃も娶るだろう。そんなところに君が行ってどうなるのさ。辛い目に遭うだけだよ」
「……」
「王さまのことなんか忘れちゃいなよ。おいらが君に優しくしてあげる」
 外に連れて行こうとしたカーリスの手を、エトラは振りほどいた。
カーリスは脚をとめた。たまに見せる、この若者の裏の顔が夕闇に照らされた。
静かすぎるほどの凄みがその両眼にじわりと立ち上がった。カーリスの声音は低くなった。
「……海の上で、君にちょっかいをかけようとした船員がどうなったか、
知らないわけじゃないだろ」
「カーリス」
「帆桁に吊るして、一寸刻みに貝殻で肉を削いでやった。焼鏝で血を止めながら
何日もかけてね。海に突き落としては引き上げた。海鳥に喰われてくたばっちまうまで、
かなり長くかかったよ」
 室が暗くなった。雲ひとつない黄昏のすみれ色が室内にいるエトラの肌を
水に濡れたようにみせていた。
「カーリス」
「あんたさ、おいらがずっと平気だったとでも思った?」
 カーリスはエトラのいる窓辺に戻ってきた。大股に、敏捷な動きで。両肩を掴まれた
エトラは素足で床を蹴り、逃れようとした。カーリスの腕がそれをとめた。
軽々と船乗りの腕がエトラを抱き上げた。隣室の扉を蹴り開け、カーリスはエトラを
寝台の上に放り投げた。獣のように圧し掛かってくる若者を睨み上げ、エトラは
カーリスを膝で蹴った。カーリスは片手でエトラのその足を掴んで持ち上げた。
「君はきれいだよ。優しくする。暴れないで」
「カルビゾン王の従妹に何をする」
「知ってたさ」
 カーリスはエトラの足首に接吻し、踊り子の腱から膝裏へと唇を這わせながら片眉を上げた。
「云ったろ。おいらは何でも知ってる、何でも訊いてと」
「放して」
「ようやく男の下心に気がついたのか、エトラツィア王女さま」
「無礼者」
 エトラは抗った。寝台が軋んだ。
「おいらが誰かを知ったら、そんな口も利けなくしてやる。いや、そんな必要もない」
 女の細腰に跨って動きを封じ、カーリスは上衣を脱ぎ捨て、エトラの衣を引き下げた。
「初めてなんだろ。ジャルディンの兄上は意外と辛抱するんだな」
 くすくすとカーリスは笑った。暗い部屋にその眼光だけが、獣のように光っていた。
少女の白い胸にカーリスは口付けた。首筋の火傷痕を、その浅黒い手がさまぐった。
傭兵とよく似た形をした手だった。少女の膚を若者の熱い接吻が辿った。
「征服地から連れてきた女たちも最初は抵抗するんだけど、最後にはおとなしくなる。
女ってそうなるようにできてるんだ。突っ張りとおす信念なんて、男のやることだ。
可愛いエトラ。ここ、気持ちいいだろ」
「あなたは、誰」
「祖父はギルガブリアの海軍将軍」
 カーリスの手がエトラの膝裏をすくいあげた。
「母はその娘。そして父はレムリアの先王」
 少女の抗いを封じる若者の動きは一つ流れの儀式のようにすみやかだった。
エトラの踵が宙にもがいた。
「名を教えよう。カーリス・サザレナイド・オード・レムリアン。ジャルディン・ヤーカヤイドは
物心ついた時にはもう王宮から行方不明だった、異母兄」
 エトラは痛みを堪えるような顔をした。カーリスは手をゆるめた。その言葉、
その所作は、船乗りの粗野と王族の傲慢との間を揺れ動いた。その粗暴と優しさが
誰かに似ていた。薄暮の中に動くカーリスの手の形は、誰かの手に似ていた。
「分かるだろ。おいらがどうして君を心配するのか。母はレムリア海軍に捕らえられ、
王に献上された女だった。王宮に近づくなんて、ろくなことはない。それでももし君が
どうしてもと云うのなら、一度だけ連れて行ってあげてもいい。君がおいらのものになったらね」
 エトラを抑えつけ、ふとカーリスの顔にこの若者の本当の顔が浮かび上がった。
この超大国を統べる偉大な先王を父に持つ、高貴なる者の顔、戦う者の顔が。
「兄上のことは諦めてしまうんだ、エトラ。----わたしはお前を悪いようにはしない」
 覆い被さる影でエトラの眼の前が暗くなった。カーリス王子は引き結ばれたエトラの
唇を愛撫でひらいていった。


 祝賀の儀と宴が終わり、王宮殿に戻ったジャルディンを待っていたのは、
着飾った美姫だった。
「王。勝利をお祝い申し上げます」
 身清めをすませたジャルディンの髪がまだ濡れている頃に、女は毛皮を
敷き詰めた王の居室へと入って来た。そこは寛ぎの室であり、王は寝椅子に
半身を横たえて、束の間の休息をとっていた。
 高台にある王の室の露台からは、夜の月が見えていた。みずみずしい果実と
酒が並べられた卓の向こうから王は入って来た女を一瞥した。
「ジャルディン王」
「名乗れ」
 王の私室に入りこんできた女は怯えもせず、高雅な香を薄く漂わせながら
艶やかに笑った。
「王。ご即位の折りに、お近くからご挨拶いたしましたのを、憶えてはおられませんか」
 ジャルディンはその顔を思い出した。数多い王族のきょうだい、いとこ達から順に
祝い言上を受けている中に確かにあった、女の顔だった。
「アウロデニア姫」
「どうぞ、アウロデニアとお呼び下さい」
 異母妹にあたる姫君は、しなやかな猫のように、寝椅子に横になった王の隣りへと
静かに歩み寄って来た。
「王」
 大輪の花のように美しく、腐乱したつぼみのように王宮特有の頽廃を
身の奥にひそめたアウロデニア姫は、まさしくレムリア宮廷に咲く高貴な華だった。
 アウロデニアは床に両膝をついた。
「わたくしの戦神」
「何の用か」
 王はさめた声で問うた。
 それには応えず、アウロデニア姫は黙って白い腕をのばし、王の片手を取った。
女のやわらかな唇が男の手の甲にそっと押し付けられた。接吻の唇を離してからも、
アウロデニアは両手で王の手を包み、離さなかった。
「レムリアを導く勝利に感謝いたします」
 爪を磨く女ならば間に合っている、と、かつてのジャルディンならばそう云っただろう。
しかし王となった今は、女を視るだけで、女のほうからすぐに手を引いた。
だからといってアウロデニアは怯えもしなかった。王の中にある男の甘さは、どんな男にも
共通のものだと知り尽くしているような眼をして、姫は美しい笑顔を王にみせた。
「日に日に、王らしくおなりです。父上のよう」
 アウロデニアは憧れを隠さぬ艶な目つきで王を見上げた。
「何の用か。アウロデニア姫」
「王。今宵はお願いがあって参りました」
 女の衣の襟ぐりは大きく開いていた。ジャルディンは寝椅子に横になったまま
異母妹を遠ざけもせず、近づけもしなかった。
「王は、後宮にあまりおいでではないと聞きましたわ」
 ジャルディンは黙っていた。
囁くようにアウロデニアは云った。
「多くの女たちが、新王の訪れを待っております。哀れと思し召してお通い下さいませ。
後宮に閉じ込められた女たちは、王のほかに殿方を知ることを許されてはおりません。
美しき花々が誰の眼にも触れぬまま、若いまま朽ちてゆくのは同じ女の身としても
耐え難いことでございます」
「……」
「後宮の女たちはジャルディン王の噂ばかりをしております。雄々しいそのお姿を
おはこびになって、どうか花園の女たちに慰めを与えてやって下さいませ」
 切々と訴えるアウロデニアの顔には、親切そうなその言葉を裏切って、この女が
もっとも王に対して刷り込みたがっているものが、そのままその顔にこう書いてあった。
(わたくしって優しい女でしょう?)
 アウロデニアは他の女たちを気遣うふりをしながら、後宮に幽閉されている
女たちをことさらに哀れで惨めなものに、そしてそれを案じる自分をその女たちよりも
優位に、高くみせて、優れたものにのみ気を惹かれる男の上昇志向本能に訴えかけ、
天性のずる賢さで男心を手玉に取ろうとしていた。それはアウロデニアを魅力的な、
自信に満ち溢れた印象的な女に見せ、惑わされやすい男たちの関心を引き寄せるだけの
効果が確かにあった。
 さらにアウロデニアは何くわぬ顔でこうも云っていた。
(王がしばらくお召しだった琴を弾く女。最近見かけないとお思いになりませんこと。
あの身の程知らずな女がどうなったか、わたくしはそれを知っているのよ----。
二度と立ち直れないような厭味を浴びせかけて、王宮から追い出してやりました。
目障りな女を叩き潰すのは、楽しいわ)

 王の眼はまったく動いていなかった。アウロデニアは笑顔を引っ込めて言葉を切った。
顔を曇らせると、大仰にアウロデニアは身をそらした。
「そうでしたわ。わたくしとしたことが」
 少女の頃から一度たりとも咎めを受けてこなかったことによる絶対的な自負心と
機転を用い、女は理解あるところを装って美しいその顔をゆがめた。
「申し訳ございません。王におかれては、後宮に辛い想い出がおありなのでしたわ」
「……」
「すっかりそのあたりは改築も改装もして、もう過去の不浄の痕跡など微塵も
遺されてはおりませんが、それでも」
「アウロデニア」
 王が静かに盃をおいた。
何気ない動作であったが、アウロデニアはびくりとした。
「予への気遣いは結構。用件を」
 ジャルディンの眼は異母妹を、廷臣の一人か何かのように見ているだけだった。
女は黙り込み、赤い唇をわななかせた。やがてアウロデニアは、はらり、と泣き出した。
「王。お願いでございます」
 身を投げ出して、アウロデニアはジャルディンの手にもう一度取りすがった。
今度のそれには、心の底から振り絞っているかのような、少なくともそう見えるような、
女の情と真摯が強くこめられていた。女は云い出した。
「属州でギルガブリアと戦っております、シャージン王子のことでございます」
「シャージンが、なにか」
「王。シャージンはわたくしと母を同じくする兄妹でございます。いまは、あのようにして
王家に対して叛旗をひるがえしておりますが、それもこれもジャルディン王がご帰国
になる前の、その当時の深い事情があってのこと。どうか、属州に立て篭もっている兄を、
王のお情けで赦してやっていただきとうございます」
「情けとは」
 ゆるゆると発せられる王の言葉は、その一つ一つが、ずしりとした言外の
重みをもっていた。アウロデニアは胸を上下させ、その鼓動をしずめながらも、
なおも云い募った。
「戦死しましたる第一王子と同じく、シャージンはわたくしと母を同じくするきょうだい。
年の離れた第一王子とは違い、子供の頃は兄シャージンといつも一緒でした。
長兄が戦死し、第二王子が不審死し、第三王子のレッダエスタが次期帝王に
ならんとした時、兄の心には魔が差したのでございます。レッダエスタ王子と
わが兄は生まれ日がわずか数日ずれただけ。生母の身分ではなく、その差が
彼らを兄と弟に分けたのです。のちの、臣下と帝王に」
「……」
「兄は武勇に優れ、戦場では故国の為に誰よりも命を惜しまず戦ってきた戦士です。
ここはどうか王のお慈悲をもって、ご勝利の恩赦をもって、シャージンの罪を不問にして
やって下さいませ。レムリア帝国を思う気持は兄がいちばん強いことは、目下の
活躍をみても、兄に従った陸海軍の将兵の数の多さをみても、王にもお分かり
いただけることと思います。不届きなる輩と、レッダエスタ王子や廷臣よりお聞きなった
讒言もあるやもしれません。ですが、王、兄は、ギルガブリアに寝返った
イオレットとランスオーを憎むこと限りなく、弟王子たちの裏切りにあいながらも
めげることなく、ああして祖国レムリアのために、属州で孤独に戦っているのでございます」
 アウロデニアの頬に涙が伝い落ちた。
「新王に恭順するよう、兄の説得はわたくしからもいたします。どうか兄のことを
明日にも赦してやっていただきとうございます」
「シャージン王子には投降の勧告文を既に出した」
 はらはらと流される女の美しい涙に、ほだされるものが王にあったのかどうか。
それはアウロデニア姫にも分からなかった。引き際をわきまえて、アウロデニアは
長居もしなかった。男の関心を惹きつけたまま、未練を残すことこそ初回は
肝要とでもいうかのように、女は幾重にも感謝を述べて、その晩はそのまま引き下がった。
アウロデニア姫は王の后候補として名が挙がっており、数いる異母姉妹の中でも
その美貌からも、生母の身分からも、もっともその座に近いと云われている姫だった。
王に逢いに来た本人もそのことはよく承知のようだった。それをあてこんで夜になってから
王の私室をひとりで訪れに来たものか、姫のその真意はどこにあったのか、退出した
アウロデニアの残した香のかおりは、女の最後の願いを切なく繰り返すばかりで、王に
応えることもなかった。

 王。王こそお分かりでございましょう。先王に愛されたたくさんの妃や
後宮に潜む意地悪な女たち。異母きょうだいの不仲と、尽きることのない覇権あらそい。
誰ひとり信じられぬ宮殿の中のくらしは、辛く、淋しいことばかり。
 そんな中で兄のシャージンだけが、裏表のない心で幼いわたくしを可愛がって
くれました。兄は一本気で、子供のような正義感の持ち主です。わたくしは
母のように姉のように、そんな不器用な兄シャージンを愛し、こうして夜も眠れぬほどに
属州で孤立している兄の身を案じているのでございます。
王。ジャルディン王。
どうか、王のお情けにより、兄シャージンの罪を不問にしてやっていただきとうございます……。
 


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