■X.
ギルガブリア国境に近い属州に拠点を据えたシャージン王子は帝都から
発せられた再三にわたるジャルディン王の呼びかけを黙殺。
それだけでなく、投降を求めるならば条件がある、まずレッダエスタを
処刑せよと逆に王に云ってきた。
「レッダエスタは第一王子および第二王子を謀殺した王族殺し。
レッダエスタの犯罪を暴かぬ新王など王とは認めぬ、したがって
従わぬと書いてあります」
読み上げていたハクプトはひと呼吸おいて付け加えた。
「日蝕の王は去るがよい。以上です」
王は椅子の腕木に片肘をついてそれを聞いていた。二階の窓からは
朝の涼しい風が入ってきていた。政務を司る法院からはこばれてくる書類や
書簡の類は、急ぎのものでない限り、王はまずハクプトに読み上げさせた。
レムリア語ではなく、別の大陸の言葉に訳して読ませるのである。
ハクプトの語学の才能はエクレムゆずりのものだった。
「外交使節団に入って、通訳になるのが夢でした」
ではそうしてやろうとすると、ハクプトは首をふった。ようやくハクプトは
将来の希望を王に打ち明けた。叶いますならば、王が王妃さまを得、御子さまが
お生まれになりましたなら、ハクプトははにかんだ。
「父のエクレムがそうだったように、わたしが王の御子の教師として、御子さまの
お世話をしたく思います。ジャルディン様の教師がわが父エクレムであったことが
誇らしいのです」
そこには、ようやく失態の後に責任をとって自害した父を許容し、身重の母を
おきざりにした無責任な男をゆるし、父親として認めるだけの、少年なりの過去の
清算があった。
「王。王は、父エクレム・クロウと父なし子を生んだ母の名誉を回復して下さいました」
床に膝をつき、エクレムはジャルディンの足に接吻した。
少年は書類束を整理して、退出間際に、次なる訪問者の名を告げた。
「海軍提督がおみえです」
「王」
「食事を。提督」
「これは光栄です」
陪食の栄誉にさずかった本日の提督は、白髪をきれいに後ろに撫でつけ、
ゆったりとした宮廷服を身につけていた。額に海軍人の刺青をいれた総督は
みやげの酒を王に献上した。
船乗り同士気脈が通じるところあり、今のところ王にとってこの老人は侍従の
エクレムに次ぐ心ゆるせる相手だった。
食事の最中であったが、王に求められた提督は卓に地図を広げた。
まるでこの私室が航路針路を決める航海室ででもあるかのように、ジャルディンも
食事を続けながらそれに見入った。王子シャージンの立て篭もっている属州の
地図、及び、近海の海地図である。
「漁港をまたたくまに有数の軍港につくり変えられた。シャージン王子はよい将です」
「出来れば生け捕りに」
提督が土産にしてきた酒を王は毒見も介さずに口に含んだ。
老人はそれを喜んだ。
「王子の処罰についてはいかがいたしましょう」
「将校を引き連れて決起したる不埒と、国を騒擾させた罪は問う」
「数年の流刑の後は、海軍で引き取りましょう。王子についての想い出はおありですか」
王は、兄王子たちの記憶の中からその顔を割り出した。
「シャージン兄。剣稽古や闘技場では目立って活躍していた」
「それでは、その当時のままでございますよ」
くっくっと肩をゆらして提督は笑った。
海軍提督にしてみれば都を動かぬレッダエスタよりも、海に陸にと駆け回る
シャージン王子の方がはるかに好ましく、昔から贔屓のようだった。
数々の英雄伝説を引っさげて華々しく降臨したジャルディン王に魅了されつくした
陸海軍将校たちも、シャージン王子に対しては、謀反人どころか、助命嘆願を
ねがい出る声が内部から絶えず、提督の言葉どおり、将兵と寝食を共にすることを
厭わぬ、愛される将のようであった。
「では最終通告の後、属州の攻略を開始する」
「王よ。シャージン王子の振る舞いはすべてこのレムリアの行く末を憂いてのこと」
提督は、アウロデニア姫と同じことを王に頼んだ。
「従いましたる将兵どもも、第一王子の戦死と第二王子の急死については
疑念を抱いておりました。兵士らは真正面からレッダエスタ王子を糾弾した
シャージン王子の背中に、明日を恃める正義をみたのです。
その憂国の念には一点の曇りもないことをくんで、どうかご寛大なる処置を」
「兄は、王位が欲しいとか」
提督は首をふった。
「ジャルディン様と対面すれば、シャージン王子の気持ちもおさまりましょう。
少々石頭で熱血ではありますが、気性のさっぱりしたいい方です。王と王子は、
気が合われることと思います」
細かいところを詰めるのは後日の軍議会議でということになった。提督は
地図を巻いて片付けた。会談と食事を終えると、そうそう、と思い出したように
提督は咳払いを一つした。ジャルディンが見ると、老人は地図を小脇に抱えて
曖昧な顔をつくっていた。
「王。実は……他にも、問題児が」
「紹介不要。控えの間で待ってたけど、遅いから勝手に来たよ」
室外の気配にジャルディンは盃を持った手をとめた。ずかずかと王の居室に
誰かが無断で入ってきた。
「提督、その酒が残っていたら、わたしにももらおうか」
黒髪を一つに束ねた若者だった。
若者は黒髪を肩の後ろにはらいのけ、王の真正面に立った。
「お初。レッダエスタ兄上から聞いているだろ。放浪の弟のことは」
無遠慮極まりない切れ味爽やかな挨拶してのけて、現れた若王子は
ゆるしも得ずに椅子にかけたジャルディンの近くまで歩いてきた。
若者は海軍提督を振り向き、「帰っていいぞ」と命じた。
正式にレムリアの支配者と見做されてからこの方、長兄のレッダエスタをはじめ
どの王子も父王にそうするようにジャルディンの前では頭を下げてへりくだる。
しかし若者は笑顔を見せるばかりだった。
提督は縮こまりながら、若者を王に引き合わせた。
「カーリス王子です。ジャルディン王」
「正式に名乗る。カーリス・サザレナイド・オード・レムリアン」
自分で云って、王子は腰に手をあてた。潮風にぱさついていたカーリスの
黒髪は、王と同じく、王子宮の女たちの手で蜜をすり込まれて洗われることにより
すっかり艶を取り戻していた。露台からみえる凝った庭の景観をカーリスは堪能し、
踵を返してまた王のもとに戻ってきた。心配そうな顔をしながら、海軍提督は
二人を残して退出していった。室には兄と弟の二人きりとなった。
「カーリス・サザレナイド。船乗りとか」
「お聞きおよびで」
勝手に椅子にかけると、カーリスは皿から食べ物を摘んだ。
「といっても兄上の真似をして家出したわけではありません。王子といっても末端で、
自由がゆるされた。世界を見てみようといちばん好きな海に出てみたばかりです」
「海軍に籍を与えよう。カーリス」
「辞退いたします」
カーリスは果物に噛り付いた。すらりと伸びたその身体は無駄なく引き締まり、
鍛えられて、重労働の船で過ごしてきたせいか、腕っ節も強そうだった。
肉親とも思ったことのない多くの他の兄弟とは違い、カーリスからは海の男の匂いがした。
「王さまのお兄さま。あら、ごめんなさい」
うさぎの群れのようにしてわらわらと現れた幼い姫君たちは、カーリスがそこに
いるのを見ると嫌悪感を隠すことなく眉を寄せ、すぐに姿を消した。カーリスは
その背中に舌を出した。
「七歳以下の異母妹たちは王の私室に出入り自由ですか。老いも若きも
王宮の女たちは兄上にすっかり参っているようだ」
果実を咀嚼しながらカーリスは揶揄するように顎をあげた。
「兄妹といっても、兄上も男のひとり。異母兄妹同士は結婚も可能です。
アウロデニアの姉上も后候補に入ってるとか。どうりであの性悪女、得意げに
着飾ってるわけだ」
帆桁の上を歩く敏捷さとばねの強さをもって、カーリスは姿勢よく椅子から
立ち上がった。無礼ではあるが、海の兄弟としての観点から、ジャルディンには
この若者が他のどの王子よりも親しく感じられた。
「カーリス。今朝は何の用か」
「エトラ」
若者は皿から取り上げた果実を放り投げて、片手でとめた。
「レムリアに来てますよ。わたしが海の街から連れて来た。傭兵にして船乗りの
ジャルディン・クロウなど、この世の何処にももういないというのに」
投げた果実を今度は背中で受け止めて、カーリスは続けた。
「男でもへこたれる長い航海に耐えて、その眼であなたが生きていることを
確かめたいとそう云って。何かの陰謀に巻き込まれたわけではないと知って
ほっとしてたっけ。戦火で火傷を負った身体で、海沿いを歩いていた。
小舟に乗って、レムリア行きの船を探していた。エトラの首筋にはまだその時の
火傷痕が残ってます」
果物が床に落ちた。卓に両手をつき、真正面からカーリスは王を見つめた。
嵐の彼方に雲の切れ間を、星海の間に北の星を探す、船乗りの眼だった。
「無事にレムリアに着いたはいいが、衰弱していたエトラは港に着くなり熱を出して、
疫病監査人の許可がおりるまで港の療養所で寝込んでました。個室なんてない。
男ばかりの相部屋で、寝台の周りに古ぼけた衝立を立てて、不便をしのんでいた。
床払いをしたのは、つい最近だ」
動揺を見せぬ王を挑発するかのように、カーリスの唇は笑った。
「ジャルディン王に逢わせてやると云って抱こうとしたら、あの娘、傭兵に習ったとかいう
護身術で蹴り上げてきやがった。さすがに頭にきてぶっ殺してやろうかと思いましたよ。
髪の毛を掴んで床の上を引きずりまわしてやっても、「無礼者」の一点ばり。
あの子、カルビゾンの王女さまらしいね。もっともそんな小国、こっちじゃ辺境領主にも
届かないけれど」
「エトラは、どこにいる」
「日蝕の王を誅しようとする、作り話だとはお疑いにならない?」
「エトラは、どこにいる」
カーリスは卓から手を離し、後ろにさがった。レムリアの王は椅子から姿勢を
崩さなかったが、その両眼はカーリスをたじろがせ、怖れさせるだけのものに
変わっていた。
「無事ですよ」
本物の戦神を前にした無力な人間ように、カーリスはうわべの威勢を消した。
若者は王の眼から逃れるように顔を横に向けた。
「港の下街の、貴族がおしのびで利用する旅館にいます。逃亡しようとするから
仕方なく見張りを立てて軟禁していますが、元気ですよ。王さえよろしければ、
エトラを王宮に連れて来ます。他の者に眼をつけられないように、王へ踊りを献上する
異国の踊り子として、貢物の列に混じらせてね」
カーリスは待った。王からの返事はなかった。
「そうだ、これ」
衣から取り出したある物を卓の上におくと、カーリスは扉へと退いた。
「エトラは貴方が生きていると信じ、それだけを知りたいと云ってここまでやって来た。
貴方がレムリアの王であることも、この帝国には貴方が必要なことも、今ではあの子も
承知しています。狼になついた森の小鳥も、砂漠のさそりの巣では暮らせない。
白鳩は空にかえしてやるべきだ。あの子がレムリアの後宮で生き抜けるとは、貴方だって
思わないだろ」
ジャルディン、海が見たいわ。
王の耳に少女の声がよみがえった。それは空を渡る羽根のはばたきのように
清浄な空から陽射しの落ちる海原を渡り、小さな珠となって王の胸に飛び込んできた。
「一度だけ逢ってやって欲しい。あの子もそれでいいそうです。会見が終わったら、
エトラを海の街に送っていきますから」
王は無言だった。カーリスは出て行った。
カーリスが卓に置いていったものは、すっかり色褪せた飾り紐だった。出撃前に
ジャルディンが髪から抜き取り、エトラの手に握らせて返したものだった。
ジャルディン。
波紋は静かのうちに、胸の奥に幾重にも広がり、深い霧の彼方から彼を呼んだ。
その名で呼んだ。彼の胸襟を軋ませ、さざなみとなって、いとしさの岸辺に寄せては
繰り返した。
わたしの、ジャルディン----。
王のもとを辞したカーリスは、片側が庭となった歩廊の途中で前を遮られた。
野太い声が掛かる前からカーリスは柱の影に誰かが待ち伏せていることを
察しており、襲い掛かられても対処できるよう、適度な距離をさり気なく空けていた。
「カーリス」
「これは、レッダエスタ兄上」
さっと身をかがめ、カーリスは兄王子への礼をとった。
互いの姿に視線をはしらせ、護身剣の有無を確かめるのは、王子の一員として
暗殺対策の教育を受けた習性である。
「新王へご挨拶にうかがった帰りです」
「いつ帰国していた」
「ご存知のくせに」
カーリスは兄王子に笑顔を向けた。
「レッダエスタ兄上におかれては、ご機嫌麗しくないご様子」
兄王子を見つめながらカーリスは背後にも意識をはしらせた。
どうやらレッダエスタがいつも引き連れているお取り巻きの貴族たちは
隠れていないようだ。しかしカーリスは油断しなかった。
ジャルディン同様、数ならぬ末端の王子とはいえ、カーリスとても宮廷の争いとは
無縁ではいられなかった。今までも何度も危ない目に遭っている。
ギルガブリアの現役海軍将軍を祖父に持つカーリスは、レムリアに潜伏している
かの国の密偵から幾度も袖をひかれて洗脳を受けそうになったものだったし、
そんなカーリスの不義の証拠をおさえて王に突き出し、点数を稼ごうとする
他の王子や廷臣もあとを絶たず、中にはカーリスを罠にはめ、濡れ衣を着せてまで
栄達の道をひらこうとする輩もいたのだ。
愛想よく、カーリスは不敵な笑顔をレッダエスタに向けた。
「残念だな」
カーリスは自分から水を向けてやった。兄に媚び、しかし媚び過ぎぬように、
カーリスはレッダエスタの顔色を注意深く盗み見ながら按配をはかった。
「わたしはレッダエスタ兄上が王になるものと思っていました。だから
シャージン兄上からの誘いも蹴ったのに」
「なに」
レッダエスタの顔色が変わった。シャージンはギルガブリアに寝返った
イオレットとランスオーだけでなく、カーリスにまで声を掛けていたのか。
「その頃お前は海に出ていたはずではないか」
「諸島に停泊していた船にまで、シャージン王子の使者が追いかけてきましたよ」
カーリスは兄の不愉快と気持ちを分かち合うように微笑んだ。
「シャージン王子と結託したはずのイオレット兄上とランスオー兄上が
ギルガブリアに寝返ったことで、わたしの選択は正しかったのだと安堵しました。
シャージン兄上は将兵は大切にしても、兄弟であるわれらには厳しく、まるで
信用してくれませんから」
小ずるく、シャージンは的確なところを述べた。レッダエスタはそんな
弟をじろりと見た。
「では、ジャルディンは、どうなのだ」
「え?」
「今しがた、対面してきたのだろうが。どう思った。王のことを」
カーリスは慎重に出方をうかがいながら、まずいことを訊かれたという
無表情をつくった。ここは何処に密偵の耳があるやもしれぬ宮殿ですよと
云うように、知らん顔をした。その細工をした上で、やがてカーリスは
正直に申し上げるといった体をつくり、そして正直に応えた。
「父上が待ち望んでいただけのことは、あられるかと」
「そうか。やはりな」
気落ちを隠せぬイオレットの苦虫を噛み潰した顔を見つめ、カーリスは
さらにイオレットの焦りを刺激した。
「父上によく似ておられるので愕きました。王者の品格と威風が漂っておいでだ。
帝王として育成された父上とは違い、外でもまれてきたせいか、人格者的なところも
哲学者風のところもある。傭兵にして船乗りとしての経験豊富で、統率力も決断力もある。
何よりも人民を魅了する神格性を、あの方はお持ちです。ご自身もそうとうな戦士だそうで。
シャージン兄上と一騎打ちしても、シャージン兄上が負けるかも」
「くそ」
「手ごわいですね。我々が相手にする敵として」
後半のカーリスの口調が冷え冷えと落ちたので、レッダエスタは顔を上げた。
カーリスは怖い眼のまま、微笑んでいた。
「カーリス」
「レムリアの新王は申し分ない」
「いま、何といった。違う、その前だ」
「レッダエスタ兄上とわたしの共通の敵と申し上げました。何かふしぎがありますか。
王の子として生まれた我々は、生れ落ちた時から互いに敵同士のはず。同じ敵には
手を組むこともある」
「カーリス」
「その為に、兄上はわたしを此処で待っておられたのでしょう?」
身軽に歩をはこび、カーリスは愕くほどすばやい動きでレッダエスタの
すぐ近くに来た。カーリスがもしその気ならば、レッダエスタの首は
斬られていただろう。それを察したレッダエスタの顔色が変わった。
しかしカーリスは腰の短剣に手をかけるふりをしただけだった。
カーリスは朗らかに笑った。
「率直に云います、兄上。わたしはギルガブリアに亡命したい」
「なんだと。カーリス」
「わたしの祖父である海軍将軍は、ギルガブリア王の兄です。生母の身分が
低いことから祖父は弟たちに王位を譲ってきました。現在のギルガブリア王には
ご存知のように砂漠の薔薇と讃えられる姫のほか、まだ幼い王子しかおりません」
「レムリアを裏切る気か、カーリス。謀反だ。衛兵を呼ぶぞ」
「それはご勘弁を」
年長の兄の手を押さえた若王子の手の力は、巨大な帆船を日夜相手にして
鍛え上げてきた船乗りのものだった。カーリスはすぐにレッダエスタを突き放した。
カーリスは眼をほそめて兄王子を見つめた。檣楼の高みから島影を探す時に
そうするような眼つきだった。
「ご安心を。わたしがギルガブリアに亡命したところで、レムリアは磐石です」
子供の頃、カーリスは他の王子たちから散々に小突きまわされたものだった。
王の寵が母親の上にあったことで辛うじてその難を免れたジャルディンとは違い、
敵国ギルガブリアの血をひくカーリスには、誰も遠慮しなかった。
「お前たち何をしている」
間にはいって庇ってくれたのはシャージン兄王子だけであり、そのシャージンも
いつも傍にいるわけでもなく、レムリアとは、彼とって決して安住の地ではなかった。
「兄上の他、まだまだ有力な兄王子たちがいるこのレムリア宮廷では、わたしに
陽があたることは永久にありません」
柱に片手をおいてシャージンは云った。
「祖父はわたしに帰って来て欲しいのだそうです。レムリアの後宮におさめられた
娘の忘れ形見としても、世継の男子としても」
「……」
「ギルガブリア王の御子はまだ幼年。王兄の孫であるわたしが摂政として
王子の後見に立ったとして、何の悪いことがあるでしょう。王子の身に
何かあった場合は、もしかしたら王として」
「ギルガブリアと通じていたのだな、カーリス」
「当然でしょ」
レッダエスタは腰の剣を引き抜いた。カーリスは毛筋ひとつ動かさなかった。
「売国奴」
「まずは共通の敵を倒しませんか。たとえば兄上が都でほう起すると同時に
わたしが海から属州のシャージン兄上を襲うというのはどうでしょう。実はね、兄上、
ギルガブリアに亡命するにあたり、向こうで認めてもらえる手土産がわたしにも
欲しいのです。それがジャルディン王の首ならば、申し分ありません」
顔の前に突き出された兄の刃を、カーリスは手の甲でゆっくりと押し退けた。
二王子たちはふと、誰かが近づく気配を歩廊の奥にとらえた。
立ち去るカーリスは顔を寄せてレッダエスタに囁いた。
「ギルガブリアに寝返ったイオレットとランスオー兄上のことですが、
彼らはとっくに殺されてますよ」
「なに」
「第五王子第六王子など、ギルガブリアの王兄とレムリア王の血をひく
わたしに比べて、何の価値があるというのです。わたしの口からギルガブリア王に
願い出て、彼らの首は斬ってもらいました」
身軽な動きで後ろにさがりながら、カーリスは手をふった。
物の数ではなかったはずの末端の王子は、その身に流れる両国の血の
重要性をレッダエスタ相手に誇示してみせた。
「兄上が思っているよりもギルガブリアの手の者はレムリア国内に潜入しています。
わたしの船の仲間もしかり。わたしに対してよからぬことを考えたら、その時は
レッダエスタ兄上にも船乗りたちの処刑方法の厳しさを身をもって知ってもらうことに
なるでしょう」
「小賢しい小物王子が、貴方に何の用でしたの?」
カーリスがすっかり立ち去ると、それを見届けて、柱の影に控えていた女が
姿を現した。アウロデニア姫だった。アウロデニアは立ち尽くしているレッダエスタの
腕に手を添えた。
「顔色がお悪いわ」
「イオレットとランスオーが処刑されたそうだ」
「そう」
「それだけか」
レッダエスタはアウロデニアを見返した。嫣然とアウロデニアは微笑んだ。
「何を愕かれておられますの。どのみち廃すべき王子たちでした。
その手間が省けたというものですわ。彼らはシャージンさえも裏切った売国奴。
異国の地で果てるのが相応しい」
「よく平気でいられるな」
この若い女が怖ろしくなったのか、顔を歪めてレッダエスタは少し身を離した。
「あの二人とも、お前は寝ていたのだろうが」
アウロデニアはそれには応えなかった。美しい女の顔には、男の疑いを宥める、
聖母のような微笑みばかりが夕暮れの中に漂っていた。
悪女が男たちを虜にするのには、それだけの理由がある。アウロデニアの
態度には、己がやっている悪事に対して何ら罪の意識を覚えてはおらぬ者に特有の
揺ぎ無い自信と、充足の満足だけがあった。
生まれつき良心というものを持たぬ女は、その発言の底意で相手を脅しつけながら、
さも幸福そうに微笑むのだった。その支配者的な態度によって多くの男たちが惑わされ、
惹き付けられ、破滅させられ、そしてそれすらも「今回もわたくしの勝ち」とばかりに
愉しんできた女は、同じようにして現在の情夫である異母兄レッダエスタも、便利な
駒としか思ってはいなかった。
男という男は、この女にとっては自分を乗せて王座という高位に
昇りつめるだけの馬だった。アウロデニアが勝つのは当たり前だった。
眼をつけた者や、邪魔者を蹴り落とすことこそがこの女の最大の快楽であり娯楽だった。
むしろ踏みにじる哀れな者どもがいてこそ、己の優位と勝利は強固になり、ますます
美貌が引き立つとでも信じているかのようだった。
その為には、アウロデニアはどんな手でも使った。
ある時は雄弁に、ある時は無言で、心を持たぬ女は周囲に圧力をかけながら
躊躇うことなくその目的を遂げてきた。他人という他人は自分の引き立て役でしかなく、
人の痛みがまったく感じられない女にとっては、愚かな泥人形でしかなく、誰がどう
苦しもうが哀しもうが、口では「可哀相に」とあざ笑うのみで、この女にはまったくその
善悪が分からぬのだった。
アウロデニア姫こそは、もしも男と生まれていたならば、もっとも王座に近い
場所にいた者だった。それが女であるがゆえに叶わなかった時、アウロデニアは
男たちを利用することを思いついた。
さらさらと衣ずれの音を立てながらアウロデニアはレッダエスタに
歩み寄ると、そっとその腕に腕をからめた。
「わたくしのことを恨みがましい眼でみている怖ろしい女が後宮に一人おりますの。
わたくしは何もしていないのに、まるで怨念でもあるかのような。何をされるか分からない。
ああいう女は被害者ぶるのがうまいのですわ。怖い。守って下さいな」
美貌と肉体を武器に、アウロデニアは兄弟や廷臣たちを右に左にと顎で動かし、
思いのままに動く男たちのその単純な様子を心の中で嘲笑してきた。
アウロデニアは気に喰わぬと思った者を巧妙に破滅させることが好きだった。
ジャルディン王のごとくそれに釣られぬ者がいれば、その時には他の雄馬をけしかけて
動かしてしまえばよいだけのことだった。
レッダエスタ王子はそんなアウロデニア姫の聖母のごとき顔を見下ろした。
「ジャルディン王の室にも足繁く通っているそうだな。夜に」
「貴方はレムリアの王となる御方」
アウロデニアはしんなりとレッダエスタ王子の胸にしなだれかかった。
夕闇迫る庭のどこかで薫り高き花々が宵風の底に咲き誇っていた。アウロデニアの
白い腕が異母兄の首に巻きついた。女の微笑みがレッダエスタを下から仰いだ。
自分に逆らえる男などこの世にはいないのだと、よく知っている顔だった。
男は、何が正しいのか分からなくなった。分かりやすいものだけを信じた。
この女の言葉を。その媚態を。
「レムリアの王。レッダエスタ王。王座の貴方をわたくしは見たい。いいえ、
見せてさしあげる……」
「アウロデニア」
赤い唇がそれをねだった。今度は男の手が女を柱の影に引き寄せた。
そしてその腕はもう女を離さなかった。
王の御前を退出した海軍提督は、政務をすませたのち、王宮からほど近い
貴族屋敷に戻った。
海を見下ろす高台のそこには先から客人が待っていた。昨夜の船で極秘に
近隣の湊に入港し、密かにおしのびで都入りしていた、シャージン王子だった。
日暮れを待ち、シャージンは勝手知ったる街へ出て行こうとしているところだった。
「軽挙はなりませんぞ、王子」
海軍提督は困ったものだというように、白髪眉をひそめた。
「なんだ、爺」
子供の頃のままに、シャージンは提督をそう呼ぶ。提督は不満を述べた。
「王宮内で、数名の若党が何かを嗅ぎ回ってうろついているのを見かけましたぞ。
見れば、シャージン様の檄に応じて属州に下った海軍将校たちではありませぬか。
このわたしに顔がばれぬとお思いですか」
それを見たからといって、提督は衛兵を呼ばなかった。
先にも述べたように老人はかなりのシャージン贔屓であったし、ジャルディン王が
帰国しなければ、シャージンこそを王にと望んでいたこともある。
嘆かわしげに提督は首をふった。
「今からでも投降すれば、王子も、決起した将校たちも、死一等は免じて赦すと
王は仰せですのに」
武人らしい体格の上から巡礼者の変装をまとったシャージン王子は
頭巾の影から老人を見つめ返した。
「心配いらん。宮殿の毒婦の様子をうかがわせていただけだ」
「毒婦呼ばわりはお止めなさい。アウロデニア姫は、実妹さまではございませぬか」
「あの女がジャルディン王の后となったなら、神聖レムリア帝国には幾度となく、
あの女が王を唆すことによる不当な虐殺が繰り返されるだろう。魔女め」
「何ということを」
「爺。俺は、あの女の正体を知っているのだ」
「いい加減になさいませ。アウロデニア姫は繰返し、貴方さまの赦免を王に
願い出ておられまするぞ。ご幼少の頃は仲のおよろしいご兄妹であったものを」
「その頃に池に突き落として殺しておくべきだった」
「シャージン王子」
「説教はあとでな。急ぐのだ」
シャージン王子はその体躯に似合わぬ素早さで裏玄関から外に出た。
街はすでに暮れていた。
「シャージン様」
ひそかに配下の者が近づいて囁いた。
「カーリス王子が王宮からお出になられました」
「よし、跡をつけるぞ」
海軍と通じているシャージンは、刻々と入ってくる情報の中にジャルディンと
前後して海から帰国したカーリス王子の名をとらえ、疑念を抱いた。ギルガブリア
海軍将軍にして現ギルガブリアの王兄を祖父にもつカーリスには、常日頃から
監視の眼を向けていたのだ。
(あやつには何かある)
帰国のたびに背が伸びて逞しくなる弟王子の後姿を人波の中にとらえ、
シャージンは下町の混みあった細い道を抜けてカーリスの跡をつけた。
王子宮にもろくに泊まらぬカーリスが、毎晩何処に行っているのか、それを
確かめるつもりだった。
(子供の頃は俺にも懐いていた可愛い弟だったが。悪さをしているようなら、
カーリスめ、俺さまの軍に放り込んでその性根に修正を加えてやる)
若者の背中を追いかけて、シャージンたちはひたひたと港沿いの石畳を尾行した。
宵空に獰猛な獣の遠吠えが聴こえた。シャージンたちはぎょっとして足をとめた。
「なんだ?」
「闘技場で剣闘士と闘わせるための大型獣を、近くで飼育しているのでは」
「シャージン様。カーリス王子のお姿が消えました」
「なに」
下町に響き渡る不気味な動物の声に気をとられていたシャージンは左右を見渡した。
「探せ。近くにいるはずだ」
四辻に散らばる男たちの姿を、屋根の上からカーリスは冷ややかに見下ろした。
「……熱血ばか兄貴」
路地を駆けてゆくシャージンの後姿に向けてぼそっと吐くと、カーリスは
月光の照らす屋根の上を歩き出した。獣の唸り声はますます近くなった。
「ラザン。ご苦労。変わりはなかったか」
屋根裏から建物の中に入ったカーリスを出迎えたのは、密輸船のお頭にして
その正体は王子の忠実な家臣であるラザンだった。ラザンは頭を下げた。
奥からは、獣の唸り声の他に、よく笑う幼い男の子の声がしていた。
明かりの漏れている室内に入ると、「カーリス」、男の子が駆け寄ってきた。
「カーリス王子」
「よう。いい子にしてたかい」
子供の頭を撫でてやり、カーリスは子守女から子供を腕に受け取った。
身分賤しからぬ装いからも、子守女の装束からも、どうやら高貴な家の子供と知れた。
「ほら。高い、高い」
気楽にカーリスは男の子を高く持ち上げて遊んでやった。男の子は笑い声をあげた。
「カーリス。お船に乗せてよ」
「そのうちな」
「カーリス様。そろそろ戻りませんと……」
おそるおそる子守女が口を出した。下町に坊やを連れて来たことが主にばれた時の
罰の怖ろしさを思うのか、子守女の顔は恐怖で引き攣っていた。
帰りの輿が用意された。男の子はまだ帰りたくなさそうに、ちいさな手でカーリス王子の
首に抱きついた。
「もう帰るの?」
「そうだ。お母さんの処へお帰り。お母さんが心配するからな。船の話はまた今度」
「また餌をやりに、そいつを見に来てもいい?」
「ああ」
帰りを急ぐ子守女が坊やを抱き上げた。カーリスは子供に向かって微笑んだ。
「危険なことなんかないさ。こいつは餌をくれる人間には咬みつかないんだ」
背後には、檻に入った巨大な虎がいた。
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