■Y.
埠頭で荷を積んでいた奴隷たちは、巨大な木箱の前で立ち竦んだ。
箱が動いている。それどころか怖ろしい唸り声まで中から聴こえる。
「虎が入っているだけだ。船に運べ」
監督人が鞭を鳴らした。
その港は帆船がそのまま入港して接岸できる港ではなかった。
商業用の中規模港であり、荷は艀に分けて沖合いの船まで往復し、
海上で受け渡す。
猛獣の入った檻箱は埠頭から慎重に吊り具で艀船に降ろされた。
「あんな船、あったかな」
猛獣を乗せた艇が目指す先の船を見て、港の役人は首を傾げた。
隣りにいた同僚が彼に耳打ちした。
「船籍は確認できてる。貿易船だ」
「ああ。あれが例の密輸の」
「しっ」
たっぷりと袖の下をもらっている役人たちは、慌てて口を噤んだ。
朝の港は忙しい。そのうち誰もが、猛獣のことは忘れた。
同じ頃、岬を回ったところにある小さな漁村からも、小舟が出ていた。
「シャージン王子。ご無事で」
「おう」
漁民に身をやつしたシャージンは、どこからどう見ても、漁夫だった。
彼らはこの先で待つ艦艇まで、釣り船で海に出て行くのだ。
シャージンの機嫌は良くもなく、悪くもなかった。集めた情報を総合するに、
ジャルディンは思ったよりできた弟らしい。それなら、今のところは文句はない。
シャージンは実父である先代レムリア王を崇拝しており、神がかっていた
その父王に新王が生き写しということならば、悪くない。
「だが、俺はレッダエスタのことはゆるさんぞ」
船底にどかりと腰をおろし、王子は腕を組んだ。
わずか数日の違いで兄となったあの男には今まで散々煮え湯を呑まされてきた。
第一王子と第二王子を殺した男としても、憎き仇敵としても、レムリアを混乱に
陥れた者としても、シャージンはレッダエスタには寛容にはなれなかった。
(ジャルディン王と手を組み、まずはレッダエスタを廃するか)
業腹だが、それしかないと決めるとシャージンの肚のくくりは早かった。
それには信頼している海軍総督からの実のこもった説得も効果があった。
「爺も、老いたな」
「は?」
「いや、何でもない」
おそらくあの白髪頭が思い描いているのは、近々のうちにも
執り行われるであろうジャルディン王の婚姻に合わせ、属州から
兵を引き上げてきた兄王子が頭を垂れて弟王子を祝福し、そして
婚姻の祝賀の中で王が一切を赦すという、めでたくも、おめでたい
絵面なのだ。
常ならば怒り心頭に発したであろうが、幼少の頃から何くれとなく
自分を庇ってくれていた海軍提督の薄くなった頭髪を見ていると、
それでもよいか、という気になった。何といっても自分を信じて附き従って
くれた将兵らにとって、現状、それが最善ではないのか。
シャージン王子は神格性という点においては父やジャルディンには遠く
及ばなかったが、血潮の通う将であったので、属州の総督や兵たちのことも
その立場になって考えることができた。新王の新たにおこした施政も評判上々であり、
ああして海軍提督までが入れ込んでいるのだから、武人としても本物なのであろう。
それならば話は別だ。弟を王として立て、その右腕となってやっても、まあよいわ。
しかしその前には、やることがある。
潮の香の中に女の香りが混じった気がした。シャージンは海に唾を吐いた。
都に戻ること、それはあの毒婦への嫌悪感をふたたび掻き立てることでもあった。
思い出すたびに鼻腔に満ちて、いっこうに消え失せることもないこの不快。
「帰るぞ」
占拠している属州には港がある。ひそかに海路から帝都に
一時帰国して都を偵察していたシャージン王子は、海軍総督の
極秘の協力を得て、また海に帰っていった。
松露の林をくぐり月光を踏んで
白く流れる雲を追い 何処まで行けば
河に舟を浮かべても漕ぎ出すための櫂がない
空を映す雪どけの水
「感傷的な歌だこと」
アウロデニアは扇で口許を隠し、王にきこえるように軽く云った。
「陳腐だわ」
新王へ芸ごとを奉納する日だった。広間に呼び込まれて順に芸を
披露する芸人たちはアウロデニアの扇で振り分けられて、アウロデニアの
眉のうごき一つで自慢の歌や曲を中断させられた。
「次」
彼らは追い払われるように広間から退出させられた。
樂の名人も、稀なる美声の持ち主も、弦を鳴らしたか否か、口を開いたか
否かの出だしのところで強引にアウロデニアに止められた。
「おさがり」
彼らは王に頭を下げて立ち去ることを求められた。しおしおと項垂れながら、
何日も旅をして王都に辿り着いた者たちは、血の滲むような精進の成果を
存分に王に披露することもなく、むなしく追い払われ、さげられた。
その日、王宮に招かれたのは、どの者をとっても厳しい選抜をくぐり抜けた極めて
優れた芸人たちだった。それをアウロデニアは片端から追い払った。
美意識から樂の音を吟味してのことでなく、この女はそれを、自分の権力を
味わうだけの底意地の悪さからやるのだった。
(痛快だわ。莫迦どもの血の滲むような地道な努力を、わたくしの舌先だけで
一瞬で無駄にしてやるのは)
アウロデニアはほくそ笑んだ。
(楽しいこと。あわよくば宮廷楽師として居座ろうと、こうしてのこのこと王宮に
現れてくる根性の薄汚い身の程知らずどもに生き恥をかかせ、連中を失意の底に
叩き落してやるのは。もちろん賢く優しいわたくしはそんなことをおくびにも出さない)
「ご苦労でした。王はおよろこびです。おさがり」
笑顔をつくり、アウロデニアは冷笑した。
郷里の期待を一身に背負い、心やさしい老親が有り金をはたいて長旅の旅費を
捻出してくれた若者も、一絃か二絃かき鳴らすかならないかのうちに抱えた楽器ごと
対面の広間から追い出された。その打ちひしがれた惨めな様こそアウロデニアの
胸を満たす優越感と幸福であった。巧みな者であればあるほど、アウロデニアの、
(叩き潰してやれ)
という意地の悪い欲求は、快く強まった。
あまやかな笑みでアウロデニアは後ろを振り返り、王座の王に媚をつくった。
王族の並んだ壇上と招き入れられる参拝者との間にはかなりの距離があり、
参拝者は王の姿を遠くにしか見ることが出来なかった。
「進行役は、わたくし一人で充分ですわ。王はごゆっくり」
無言の王に、さらにアウロデニアはしとやかに付け加えた。
「王がお疲れと思い、心を鬼にして早々に順番を早めておりますが、お気に召した
者がおられましたなら、どうぞそうおっしゃって下さいませ。王が好まれるものならば
わたくしもきっと聴き入ってしまいます」
扇をひらめかせ、アウロデニアはしっとりとした眼つきで王を仰いだ。
「わたくしは音楽が好き。他の女たちよりも感受性が豊かなせいでしょうか。
王、そのうち王宮でも管絃の宴をひらきませんこと」
「好きにするがよい」と王は応えた。
「次」
歌と樂の部が終わり、次は踊りの回だった。
王に芸能を献上する者たちは、何室かにふり分けられて、順番がきて
呼ばれるまではそこで控えた。
段取りとしてまずは属領や地方豪族、領地の方々から、豪華な贈り物を
携えて超大国の王に挨拶を捧げにやって来た者たちが続き、午後になって
ようやく芸事の奉納の順となった。
この日の為に新調した衣裳を身につけた踊り子たちは名を呼ばれるたびに
緊張した面持ちで、自慢のその踊りを王にお見せしようと控え室を出て行った。
エトラもその室にいた。カーリスが調達してくれた衣裳は、エトラにはよく分からぬ
男の妬心により、他の女のもののように腹や胸をあらわにしたきわどいものではなく
足先まで肌を隠すような意匠になっていたが、均整のとれたエトラにはよく似合った。
軽やかな水色の布で織られた踊り子の衣は、異国の少女を一輪の花か、
たおやかな月の精のように見せていた。
窓辺の椅子にかけ、エトラは待った。
細い足首にかけていた踊り子の鈴は、どういう理由なのか係りの者の手で
断ち切られ、持ち去られた。他の者たちの鈴はそのままだった。
陽が翳り、番が終わった踊り子から順に室に戻ってきた。
「ご苦労であった。これにて本日の行事は終わりである」
女たちは王のいる広間に召し出されて帰ってきたが、エトラの名が呼ばれる
ことはなかった。
入り口のところで芸人には順番に金貨が渡された。王からの褒美だという。
エトラはそれを係りの者に返した。踊りを見せていないのにもらえない。
王宮の長い廊下を、大勢の芸人の一番後ろからエトラは一人で歩いていた。
王に目通り叶わぬまま宮殿から帰されるのはエトラだけだった。
壮麗な宮殿とその敷地の広大さは、エトラの知るどんな国のそれとも、
思い描いていた想像のそれとも違い、それらをはるかに凌駕して、神の御殿か
雲の城かと思われた。レムリアの王はその宮殿の奥深くに、近衛の精兵に護られて
暮らしており、赦しなくば何人たりともそこには近づけはしなかった。
回廊という回廊、広間という広間、贅と工夫を凝らした庭園の数々が、大海よりも
王とエトラを遠くわけ隔てていた。湖かと愕いたものは、王宮内に作られた
人工の河と湖であり、珍しい魚がそこに泳いでいるのだということだった。
そんな庭が幾つもあった。
外郭までは遠い。そのために行きと同じく馬車が用意されており、招かれた
芸人たちは馬車で順繰りに門まで送られた。監視の兵が横を向いている隙に、
エトラは目立たないようにその列から身をひいて離れた。
王宮は、広かった。何処を歩いているのかも分からなかった。廻廊の柱の数は
千を超え、万を超え、世界中を支えているのかと思われるほどだった。
朝か夜かも、方角もしだいに分からなくなるような、無限の迷路だった。
「おい」
後ろから近づいてくる複数の気配があった。
「そこの女、待て」
男たちの声で呼び止められた。
「お前だな。アウロデニアが云っていた、白い肌の踊り子とは」
エトラが振り向くと、踊り子の美貌に男たちが息をのんだ。長い航海の間に
短くしていたエトラの髪は肩をこえており、夕陽にきらきらと透けたその髪がふちどる
ほっそりとした少女の姿は、美人という美人を見慣れてきた男たちの眼もくらませ、
賛嘆で唸らせるほどだった。
「これは美しい」
「アウロデニアが陰険にも、王にお前を逢わせなかったのも頷ける」
中心人物とおぼしきやや年長の男がエトラに歩み寄ってきた。
「レッダエスタ様」
男たちが何を喋っているのか、まだレムリア語に不慣れなエトラは
聞き取れなかった。知っているレムリア語を使ってエトラは男たちに訊いた。
「カーリスは、どこ」
「カーリスだと」
「カーリス王子に連れて来てもらったの」
「ははん」
レッダエスタと呼ばれた男がにやにやと笑った。高貴な者であることは
その態度や衣裳からも知れた。
「それでアウロデニアは俺をけしかけたのだな」
「アウロデニア様は、カーリス王子のことを嫌っておられますから」
「ついでに自分より美しい女もな。他の者の眼を惹かぬように鈴まで取り外すとは」
エトラは立ち去ろうとした。たちまち男たちが取り囲んだ。
「外には出られんぞ。迷宮のようだろう。はじめての者がどうやって逃げるつもりだ」
「レッダエスタ様が遊んで下さるそうだ。光栄に思いおとなしくついて来い」
「裸にしてその可愛い足首に鈴をつけてやるぞ。しゃんしゃんと鳴らせ、踊り子」
男たちは笑いながらエトラを引き立てて行こうとした。
「お待ちを」
そこへ歩廊の向こうから少年が小走りにやって来て、彼らの行く手を塞いだ。
「何だ、お前は。王の侍従だな」
「王の遣いで参りました。王は、そちらの踊り子とお逢いになるそうです」
途端に、レッダエスタと取り巻きの貴族たちはエトラから手を放した。
「良かった、間に合って」
エトラを宮殿の奥に導きながら、少年はほっとしたように云った。
少年はハクプト・クロウと名乗り、エトラの大陸の言葉を上手に話した。
「王の侍従として、王のお傍にお仕えすることをゆるされております。
さきほど王と共に芸奉納者の一覧をめくっていて、一名欠けていることに
気がついたのです。王は謁見の間でお待ちです」
異国の白い肌の女は、この国では珍重される。まぶしげにエトラを
振り返り、ハクプト少年は頬を染めて黙った。
レムリアの空に蓮色の夕暮れが広がった。王の待つ謁見の間の扉は
菫色の影に沈み、内部はひんやりと蒼く、暗かった。
案内のハクプトは、エトラを一人で扉の内に入れた。衛兵もいなかった。
「王は、お二人きりでお逢いになるそうです」
少女に囁いて、ハクプトは扉を外から閉め切った。
外部との音が遮断されてしまうと、湖の底のような静寂だけが広がった。
はるかな前方には、真珠を磨いたような白く輝く階段があった。
そこからでは王の姿は見えなかった。海原に浮かぶ真白き月のような
王座の光を目指して、エトラは歩き出した。
「予は、お前など知らぬ」
感情のない王の声が高い天井に響いた。音響のせいで陰々と響き、声の質が
分かりにくかった。真正面の階段の上には、金の兜をかぶった男がいて、遠い
王座の上から現れた若い踊り子を見下ろしていた。
顔を隠した王兜の下から、王の両眼はエトラを凝視していた。
「お前など知らぬ」
突き放すような重たい声にも、エトラは歩みを止めなかった。円柱の蒼い影が
森の木々のように左右に揺れて、王女の歩みにあわせて後ろに過ぎ去っていった。
「お前など知らぬ。予の知る踊り子は、レムリアにはおらぬ」
まことにエトラが判別できぬとでもいうかのような、釈然としない苛立ちをこめて、
王は王座から立ち上がった。神がそこにいるようだった。
漆黒の長い黒髪をゆらし、王は進み出た。
蒼い謁見の間に、王の衣ずれの音と、峻厳なその声が響いた。
「予は知らぬ。予の知る乙女は、小姓のなりをして、少年のように振る舞い、
木に登り、踊り子の真似をして、生意気だった」
王は階段に片足をかけた。王の金兜が光を引いた。
「何処にいても王族の顔をしていた」
王の声は鞭のように強かった。レムリアの全軍が従い、戦地へと迷わず
突撃していく、超帝国の王者のその声だった。
「髪を少年のように短く切り、傭兵を従えていた。予はお前など知らぬ」
あの木に登れば海が見えるかしら。
わたしは一人でも生きていける。ジャルディン、迎えに来て。
「わたしは貴方を知っている」
エトラは歩いてきた。王の階段の手前で脚をとめた。少女は畏れることなく
王の姿を見上げた。
「わたしは知っている。黒髪の傭兵を。わたしをエトラと呼んだ、その声を」
「違えることはないと申すか」
王は階段に踏み出した。全世界を威圧するその姿で王は階段を降りてきた。
短かったエトラの髪は、気品あるその顔のまわりを女らしく、やわらかに飾っており、
うら若い乙女は朝露の中に凛として咲く美しい花のように、レムリア王の前に立っていた。
その水色の眸は、まっすぐに王に向けられ、そして兜の影に隠された王の顔を一心に
見つめていた。何かを一途に探すその眸は、防波堤から海の彼方を見つめていた
あの時と同じものだった。
階段を降りきった王は、エトラの方へと歩をはこんできた。敵をおののかせ、
レムリア中をひれ伏させる最高貴の男が、金色の王兜を光らせて自ら少女の
方へと近づいてきた。エトラは王の姿から視線を外さなかった。エトラの前で王は
歩みを止めた。沈黙が流れた。
踊り子、と王は少女を呼んだ。
「お前がまことに王宮に招かれた踊り子ならば、なぜ足首に鈴をつけぬ」
「鈴などいらない。星座が、わたしの船を此処まで導いてくれた」
エトラは黙った。王が手を伸ばし、手の甲でエトラの頬に触れたのだ。
次に王はエトラの頤に手をかけると、首を傾けさせて肩にかかる金髪を払いのけ、
その指先で少女の首筋を辿った。そこにある火傷の痕を。
王の眼とエトラの眼があった。王の手がエトラからそっとひかれた。
エトラは王を見つめて云った。
「わたしも知らない。わたしの知る傭兵は王ではなく、ただの傭兵で、船乗りだった」
「お前を忘れないとでも思うのか」
王の仮面がついに剥がれ落ちた。王の声が変わり、帝王の威光が消え、
軍神としての威勢も雪どけ水のようにかき消えた。何かを恐れるかのように
王の呼吸が乱れた。
踊り子は黒髪の王にねがった。
「兜をとって」
王はそうした。床に兜が落ちる音がした。その音の余韻がまだ残っている間、
王と踊り子は無言で互いを見つめあった。やがて、王女の方からそれを口にした。
王女の威厳と率直と、懐かしい限りのつんと強がった顔をして、少女は王に告げた。
「無事でよかったわ。ジャルディン・クロウ」
エトラは王に抱き寄せられた。エトラの頭が王の胸にとどいた。少女のからだは
一回りやせて、手にも火傷の痕があった。王は何かを云おうとして云えず、呻き、
エトラの肩に顔を埋めた。はるばる彼を探しにやって来た少女を、王は別たれていた
半身のごとくに胸にかき抱いた。
強く抱かれたまま、エトラは動かなかった。
王の豪奢な装束とあつい胸板をとおして、男の心臓の鼓動がエトラにもきこえた。
熱く、はやく、もっとはやく。離れていた月日を、雪風の中の航海を、その熱さで
消し去ってしまって、ジャルディン。
少女の顔を両手で包み、堪えかねるかのように超帝国の王は眼を閉じた。
昇るような気がしたのは王のからだが下にさがっているからだった。
レムリアの王は少女の腕を、腰を、脚を伝いおりるようにして、その足許に高貴な
その身を落とし、ひれ伏した。王の黒髪が床に広がった。
「俺が、お前を忘れたとでも思うのか」
王は低く囁いた。そして神聖なものにそうするように、ジャルディンは苦難を
越えてきた王女の足に接吻した。
雪を固めたような月が輝いていた。森の上、海の上で見た白い月だった。
くゆる香も、刻を数える者もいなかった。音もなく積もるものは夜空に散りばめられた
星影の雨であり、遠い潮騒の音だった。静かにレムリアの天海をめぐり、王の室を
一夜限りと満たすものは、彼らにしか分からぬものだった。
熱い夢の続きは、どこまでも熱く、引き潮となってはもう一度たかまった。
エトラは小舟に揺られて大海をさまよっていた。大きな波や小さな波がエトラを
翻弄しては、ゆっくりと落ちたり、昇ったりした。しがみつく先も、その海だった。
手と手を絡め、膚と膚を吸いつけて、名を呼ぶその声にエトラは応える時も
応えられない時もあった。浅黒い膚をした男のからだがその上に覆い被さり、王女に
口づけを与えた。
ジャルディン。
エトラは男の背に両腕を回してすがりついた。獣のように、聖なるもののように、
互いを重ね、異国の月の下で時を忘れた。エトラ、エトラ。繰返し呼ばれる
その声が、その海鳴りが、エトラを満たす全てだった。
汗ばんだ女の頬を両手で包み、ジャルディンは限りないいつくしみをこめて
その名を呼んだ。俺の、エトラ。
「帰路には、護衛艦隊をつけてやろう」
月光が王女の肌を清く照らした。
「あなたの子が生まれたら」
一夜かぎりの交歓でも子ができると思っているらしきエトラは、泣き濡れた眼で
男の顔を見上げた。
「男の子なら、ジャルディンと名をつける。あなたのような船乗りになる」
「俺はいつまでも想い出す。お前のことを。レムリアの王として生涯を終える、
その日にも」
「海を見るたびにわたしは想い出す。廃墟の塔で逢った黒髪の傭兵。
霧の森を旅したことを」
王女の眼からこぼれる涙を王の唇が拭いとった。接吻は王女の首にある
傷痕を掠め、いとしきその全てに触れた。
白夜に降りる虹のように夜明けはたゆたい、海は静かだった。
夜明けの風に、星も消えていった。
海霧がまだ暗い街から晴れていくのを、エトラは差し回された女輿の
中から見ていた。ひと眼につかぬよう、朝のまだ早いうちに王と別れて
王宮を辞した。星の残る空は、夜の続きの空であり、もう二度と見ることも
ない空だった。
「お帰り」
下町の宿の玄関では、カーリスがエトラを待っていた。朝霧に湿った
花盛りの木々に囲まれた階段に坐っていたカーリスは、立ち上がり、階段を
降りてくると、エトラが輿から降りるのに手をかした。船乗りは何も訊かず、
エトラの頬に片手を触れて、
「いい夢みたかい」
とだけ云った。
その足許には小さくまとめたエトラの荷物があった。
「船が待ってる。このまま港に行く。護衛艦とは近海の島で合流して乗り移ることに
なっている。あんたのことを王から頼まれてるんだ。おいらのことを船乗りだと
認めてくれたのかな。約束したとおり、途中の寄港地まであんたを送っていくよ」
カーリスは輿を追い返し、エトラの手を引いて港への坂道を歩き出した。
朝焼けの空には薄い色の月があった。
前を向いたまま、カーリスは云った。
「よく見ておきな。もう二度と来ることはない、レムリアを」
港へと導かれるままに、エトラの手はつめたく力ないままだった。カーリスは
エトラの手をしっかりと握って、気遣いながら歩いた。
「あの船だ」
まだ帆を降ろしたままの中型帆船が沖合いにあった。ちょうど展帆作業の
途中で、立ちはたらいている船員の姿が帆桁に見えた。
レムリアは、夜の眠りから目覚めようとしていた。静かな曙光に照らされたかつての
美少女は、少し疲れた、そして美しい女としてそこにいた。
カーリスは桟橋に繋いであった小舟にエトラを下ろし、自ら櫂を握って沖合いの
帆船へと漕ぎ出した。舟尾からエトラはレムリアを振り返った。昇る太陽がちょうど
宮殿の屋根に最初の光を投げかけるところだった。まだ暗い海面にうっすらと
銀や金や透明な薔薇色がさしてきて、それが淡い色で波間を染めた。いつか見た
朝焼けだった。
「エトラ」
エトラの頬に涙が零れた。それは海に落ち、誰にも知られぬうちに青いレムリアの
湊へと沈んでいった。
口笛を吹いて合図を送り、甲板から梯子を下ろさせると、カーリスがまず最初に
小舟の縁から梯子に飛びついた。差し伸べる手にすがり、エトラも梯子に脚をかけた。
出航を間近に控えた帆船の甲板では船員が忙しそうに作業をしていた。
二人の乗船を合図にすぐに出航するようだった。彼らはカーリスのことを
レムリアの王子だと知っているのか、カーリスに会釈を寄越し、エトラについては
注視しなかった。
エトラの手荷物を片手に提げて、カーリスはエトラを船尾楼へと案内した。
扉をあけてエトラを先に通しながら、カーリス王子はエトラに囁いた。
「少しの辛抱だ。わたしはお前を悪いようにはしないと云った。約束は守る」
背後で扉が閉まり、外から鍵がかけられた。
船尾楼は貴賓室となっており、絨毯が敷かれ、長卓と椅子が並んでいた。
蝋燭の灯りが薄い影を投げかけているその室には、不機嫌そうな先客がいた。
「踊り子さん。その首筋の赤みは王に可愛がられた痕かしら?」
並んで椅子に坐っているのは、レッダエスタとアウロデニアだった。
「出航」
錨が巻き上がる重い音に合わせ、甲板に立つカーリスの声が響き渡った。
「これより本船はギルガブリアへ向かう」
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