■Z.
いらない。
そんな王女の手に、別れ際、王は指環を握らせた。
レムリア王が、ギルガブリアに対して大攻勢をかける。
その一報はレムリア中を震撼させた。ギルガブリアをこの地上より
殲滅せんと、陸海軍の総力をあげ、王じきじきにかつてないほどの
大遠征をかの地に対して行うのだという。
王が、お怒りである。
どこからともなくそんな話が飛び火して、それは瞬く間に国中を覆い尽くした。
ギルガブリアはジャルディン王の逆鱗に触れたのだ。
それには人々を納得させるだけの理由があった。レッダエスタ王子と
アウラデニア姫、及びカーリス王子の、ギルガブリアへの亡命である。
一旦はレッダエスタに叛旗をひるがえしながらも、シャージン王子の許から
逃亡した第五王子イオレットと第六王子ランスオーについては、もともと彼らは
シャージン王子の許へ走った時点で謀反人だったのであり、繰り上がった
継承権により実質的にはシャージンに続く第三、第四王位継承者であったものの、
もとより影も薄く、実績も人気もなく、遠いギルガブリアで断首されようと誰ひとり
惜しむものではなかったが、此度のレッダエスタ王子は違う。レッダエスタのそれは
新王の即位後に起こったこと、すなわち、ジャルディン王への真正面からの
裏切り行為であり、露骨な敵国への寝返りである。
国内を混乱させていた責任を問うことなく、引き続きレッダエスタに第一王子の
座を与えていた弟王への強烈なこの背信は、王を激怒させるに足りた。
「これは、ギルガブリアもただではすまぬぞ」
兵士たちは怖ろしげに囁きあった。
その怒りの程は直接王の声をきかず、王の姿を見ずとも、胸の潰れるような
威圧感となり、遠征準備中の国を極度の緊張でひたひたと覆い尽くしていた。
「お后候補であった、アウロデニア様まで……」
「おそらく、お姫さまは人質としてレッダエスタ王子にかどわかされたのに違いない」
鎧兜に身を包んだ重装騎馬兵が続々とレムリアの戦旗の下を雲霞のごとく行軍
して行くさまは、さしもの大帝国が無人になるかと思われるほどだった。
親衛騎士団を従えたレムリア王は、変わらぬ威厳のうちにもその金兜の奥から
爛々と眼を光らせてギルガブリア方面の空を睨んでおり、常ならば大歓声を上げて
出征を見送る人々も、王のいかずちの怒りに打たれたかのように、誰しもが王をのせた
二頭立ての二輪戦車を戦々恐々と見送るばかりだった。
レムリア王の怒りは凄まじかった。
猛攻に次ぐ猛攻により、ギルガブリアの植民都市は片端から炎上、陥落。
くろがねの溶岩の如くレムリア軍の行軍は敵領土になだれ込み、何もかもを
戦火の中に押し流した。海から、陸から、レムリア軍は陸海軍ともに総力をあげて
ギルガブリア領に攻め入り、驀進を続け、その速さと規模は大地を焦土と変え、
世界を焼き尽くすかと思われるほどだった。
「王。少しお休みを」
遠征に付き従ってきたハクプトが心をいためて王の身を案じても、幕やの中の
王は夜遅くまで闇に眼を据えて起きていた。
幾室も設え、小宮殿と見まがうほどに内部が整えられた王の天幕は、床に毛皮が
敷き詰められ、絶やすことなく火が焚かれ、外気や夜の寒さを遮断していたにも
かかわらず、王の眼だけは鉱石のようにひえており、熾火のごとくに燃えていた。
ジャルディン王の手には、指環があった。
何処にいてもレムリア王の保護を約束するその指環は、別れの朝、王が王女に
渡したものだった。レッダエスタはその指環をギルガブリアから送りつけて寄越し、
ジャルディン王を奴隷女の子と呼んで、日蝕の王に速やかなる退位を求めてきた。
王はその場で使者の首を刎ねた。
宙を飛び、柱にあたって落ちた使者の生首は、王の剣の勢いのあまりの
すさまじきに血すら出なかった。その首がまだ転がっているうちに、王は居合わせた
廷臣たちにギルガブリア攻略を宣言する。
「ギルガブリアへ侵攻する。首都陥落までレムリアには戻れぬものと覚悟の上、
卿らの奮闘を期待する」
翌朝、御前会議で唐突に放たれた王の宣戦布告に居並ぶ将軍たちは
息を呑んだが、王の剣幕を前にしては誰も、何も云えなかった。
海上からギルガブリアの沿岸に押し寄せた大艦隊は、ギルガブリアの
各軍港を船ごと沈め、要塞に突入したレムリアの装甲騎兵隊はギルガブリアの
防衛線を踏みにじり、はね飛ばした。怒涛のごとく襲い掛かったレムリア軍は、街という
街を滅ぼしながら、じりじりと敵国領内の深部へと、その火の手を伸ばしつつあった。
レムリア軍またも勝利。その大攻勢の報に、海上からギルガブリア領に
入ったレッダエスタは拳を卓に叩きつけた。アウロデニアは動じもしないで
対面の椅子に腰掛けていた。
「はかったな、アウロデニア」
「まあ、何をおっしゃるの」
アウロデニアは優美なその手を薔薇水の中につけ、植物性の染料で
奴隷に爪を染めさせているところだった。
「カーリスと組んで、俺をたばかったな。ジャルディン王は俺を殺しに来るぞ。
お前たちは何もかもを俺のせいにして、王の怒りを俺一人に向けさせたのだ」
「とんでもないことだわ」
咎められるということにまったく慣れておらぬアウロデニアは、自尊心を
傷つけられて、直ちに反駁にうつった。アウロデニアはきっとなって顔を上げた。
「わたくしがどうして、あんな小物王子と手を組みますの」
底光りする女の視線と、真っ向から居直ったふてぶてしさに、レッダエスタは
たじろいだ。
「わたくしこそカーリスに騙されたことはご存知のくせに、酷いことをおっしゃるのね」
「いや、それは」
「坊やを助けたくば、逢引に誘うふりをしてレッダエスタを沖の船に呼び出せと
カーリスに脅されたのですわ。坊やを誘拐されて、仕方なくわたくしはカーリスの
云うとおりに、貴方を誘うあの手紙を書いたのですわ。か弱い女の身ひとつで、
わたくしに他にどうすることが出来まして。人質にとられた坊やを甲板の手すりから
海に投げ込むふりまでされて、母であるわたくしに、他にどうすることができまして」
「何とかして、俺に危険を知らせる手もあったはずだ」
「どんな手があったとおっしゃるの。----では、それを云ってごらんなさいよ」
強気の目的を崩さぬ女の言質は鋭く、男をえぐるようだった。
「すごい。カーリス」
窓の外からは、庭で遊んでいるカーリスと子供の笑い声がしていた。
カーリスは子供にとんぼ返りを決めてみせたり、投げ輪を使って放し飼いにしている
小動物を捕らえてみせたりして、子供のご機嫌をとっていた。
「船の手すりの上でも逆立ちが出来るんだぜ。簡単さ」
「父上、母上、みて」
手を叩いて喜んでいる幼子の明るい歓声に、アウロデニアとレッダエスタは
揃って窓の方を見た。レッダエスタは子供に手を振って笑顔を見せてやった。
それからレッダエスタはふたたび厳しい顔でアウロデニアに詰め寄った。
「だいたい、お前が子供から眼を離して遊びほうけていたからこんなことになったのだ。
乳母と子守女に任せっきりでいたから、その隙を狙ってカーリスは侍女をたらしこみ、
俺たちの隠し子を手なづけたのだぞ。船を見せてやると誘われて、まんまと連れ
去られてしまうほどに子供はカーリスになついているではないか。誰のせいなのだ」
「わたくしのせいだと仰るの?」
女の眼が釣りあがった。
「では、その間、貴方は何をしていたというのです。あの子の父親である貴方は。
子供の子守をしていたの?」
「結婚もしていない異母兄妹の間に生まれた子供とあっては、さすがに外聞が悪い。
内密の子としてお前に任せていた不憫な子供ではないか。何倍も気をつけてやるのが
当然だろう、それを」
「あらそう。お腹をいためて生むでもなく、ご自分では何ひとつ面倒を
みることもなく、殿方は勝手なことを。では子供を誘拐された母親が
他にどうすれば良かったのか、どうかご教授下さいな。どうすればご満足でしたの。
子供を見殺しにすればレッダエスタ王子を護った天晴れな女よと、わたくしは
讃えられたとでもいうのかしら。そうなれば貴方はご満足でしたの。え、そうなの。
それともそうなったとしても子供を護れなかった女よと、わたくしは責められなければ
ならなかったのかしら」
「そうは云ってない」
「云ってるじゃありませんの。何から何まで人のせい。わたくしのせい。
一言でも口をきけば、揚げ足をとるだの、口ごたえする女だの。
では、どうすれば良かったの。子供を見殺しにして今もレムリアにいれば
良かったとそうおっしゃるの。貴方は坊やを殺したいの。それが本音なの」
「そんなことは云っておらん」
「非人情もいいところだわ。それでよくもわたくしのことを責められたものね。
人を悪人に仕立て上げる前にご自分のことを省みてはいかがなの。貴方のような
人間はいつも自分のことを棚上げにして、小手先のやり口で先手必勝とばかりに
他人の粗捜しをしては陰湿に人を叩いてばかりいるのだわ。何という卑劣者」
「アウロデニア、落ち着け」
「坊やのことはどうなってもいいと仰るの」
「いや」
「貴方の子供ですわ。貴方とわたくしの」
「ああ」
「こうなった以上、もう戻れませんわ」
「……」
「お分かりね」
念をおすと、アウロデニアはレッダエスタにはもう興味をなくし、点検するように
爪の出来ばえに眼を落とした。
「すごい、カーリスもう一度やって」
「いいよ。よく見てな」
遠くからカーリスと子供の遊ぶ声がきこえていた。
亡命したカーリスたち一行が留め置かれたのは、首都とレムリア国境の
ちょうど中間地点にあたる、王族および賓客専用の避暑地だった。
高台を利用した瀟洒な離宮の庭には荒地にもかかわらず異郷の森林を
模した森が作られて、底に玉砂利を敷き詰めた小川が緑の中に涼しい
音色を奏でている。乾燥した大地にこれだけの土をはこび、樹木を根付かせるのは
大事業だったに違いなく、それもギルガブリアの底力といえた。
エトラは沓をぬぎ、木漏れ日の落ちるやわらかな草の上を歩いていた。
滝から引き込んでいる水がせせらぎとなって流れる木陰は、空の青さの濃さをのぞけば
故郷の大陸の森に似ており、船で運んできたものか、小鳥の鳴き声まで同じだった。
「おまえ」
十歳前後とおぼしき若王子が供を大勢引き連れて森に現れた。
その装いで、離宮に避暑に来ているギルガブリア国王の一粒種だと知れた。
王子はエトラを呼び止めた。
「お前。名は」
「エトラ」
王子は供人たちを片手で追い払い、エトラの傍に寄ってきた。
うす青い木陰に入ると、王子はエトラをじろじろと見上げた。
「お前を、わたしの後宮に入れてやろうか」
王子は偉そうに云い渡した。
「姉上は砂漠の薔薇と云われているが、お前のほうがずっと美しい。
わたしの後宮に入れてやろうか」
少しはエトラの身の上を聴いているものか、王子は王族らしい傲岸の中にも
エトラを気遣うようなそぶりも見せた。
「ギルガブリアの後宮なら安全だぞ。レムリアとは違い女たちは自由に暮らしているし、
祭りの日には街にも出してやる。お前のために宮殿を建ててやろう。水晶でつくり、
此処と同じような緑の庭を与えよう」
エトラは応えなかった。ギルガブリアの王子は男の子らしく顔つきをあらためた。
「望むことを云ってみよ。お前はどうしたいのだ」
王子とエトラでは、少年王子のほうがまだ背が低かった。
王子は意地になり、精一杯、顎をそらした。
「父王に頼んでやるぞ。行きたい場所があるなら云ってみよ。もしないのなら
このままギルガブリアにいればよい。わたしの友人になればよい」
異郷の森には小鳥がないていた。
夜になると、明朝に発つカーリスがエトラの室に出陣の挨拶に訪れた。
祖父の海軍将軍と共に海からレムリア海軍を迎え撃つのだという。レムリアを
相手に戦う、それには王兄の孫でありながら、レムリアの王子として育った
カーリスが、ギルガブリアの王族と認められるか否かの試練もかかっていた。
「男って単純だから、何かに憧れたら、すぐにその気になるんだよね」
絨毯の上に直に坐るのがこの国の風習だった。脚を組んでカーリスは床に
腰をおろし、剣を横においた。
「家出した兄王子が船乗りになっていると聴いて、かっこいいなって。ちょうどその時、
ギルガブリアの間諜のラザンが海に出ないかと誘いに来たんだ。レムリア宮廷内部に
詳しく、さらに海にも明るい王子ならば、ギルガブリア王は歓迎するだろうと。
十三歳の時だった。兄上と同じじゃなきゃ意味がないと思って、下っ端の水夫から
始めたんだぜ」
それは特別の名だったよ、と明日の戦闘に備えて手首をさすりながら
カーリスはつけ加えた。ジャルディン・ヤーカヤイド。
「ヤーカヤイドはレムリアの神話に出てくる神の名だ。自由ではなく、戦いを意味する。
わたしの目標だった」
エトラはこの国の小姓の衣を身にまとい、男装した姿を窓辺によせて
ギルガブリアの星空を見上げていた。美しい金髪を結い上げた王女は
星々の女王のようだった。カーリスはそんなエトラを見つめた。
「早朝に出る。君からの慰めと励ましが欲しいけど、やめとくよ。
無理強いは趣味じゃないし、レムリア王とはまだ勝負がついていないからね。
それにしたって、あれだけ親切にしてやったのに「無礼者」はないだろう」
絨毯に脚を投げ出し、カーリスはくすくすと思い出し笑いをはじめた。
「船に乗るのに、「旅費はこれで足りるかしら?」って宝石まで袋から出してきた。
往来で貴重品をちらつかせるような世間知らず、はじめて見たよ。
悔しいな。君に優しくできる自信があったのに」
「あなたの望みは何、カーリス」
夜空から眼をはなさずにエトラが訊いた。片膝を立てて、床からカーリスは
エトラの見ている銀河を見上げた。
「生母の身分が低く王になれなかったわたしの祖父が孫のわたしに
期待するところでは、現王を廃し、王子を幽閉し、砂漠の薔薇を妻に迎えて
ギルガブリアの王となること、かな」
他人事のようにカーリスは微笑んで云った。
「それにはまず戦場で武功を積み上げるのが一番だ。レムリアの王を殺せば
一発でそれが叶う。残念ながら、ジャルディン王は大軍勢を率いて内陸を
侵攻中で、明日の戦場である海にはいないけどな」
カーリスはそう云って笑ったが、その眼の底には、それとはべつの
何かの凶暴な決意が潜んでいた。
「ジャルディン兄を生んだ女奴隷の最期も悲惨だったけど、ギルガブリアから
レムリア王の虜囚となったわたしの母も、似たり寄ったりなものだった。
まだ後宮で生きてるけどね」
声は穏やかだったが、カーリスの若い顔には陰がさした。
「王の訪れなんて初回の数回のみで、逃亡をはかった母は後宮の女たちの
前で見せしめとして両脚の腱を切られた。その逃亡も、王子を生んだ女奴隷を
憎んだ後宮の女たちが、親切そうな顔で母を唆し、陥れた罠だった」
わたしはまだ子供だったから、或る日突然母が歩けなくなったことが
よく分からなかった。椅子に掛けたままの母に訊いたよ。お母さま、どうしたの。
足が痛いのって。
カーリスは足を組み替えた。
「女たちはそんな母を指差して嗤った。『自分は不幸だと外に向かって云うことは
悪いことではありませんわよ』。女たちはそう云って動けない母を突き飛ばした。
『何に怒っているのか分かりませんわ』。母の地位はどんどん下がっていった。
後宮ってそういう処だ。親切や同情を装いながらも、巧妙な方法で人の印象を
貶めて吹聴し、人の努力や命を自分の引き立て役として往来で蹴り飛ばす女が
いい目をみるんだよ。女たちは母の手や顔を骨が砕けるほどに思い切り踏みつけ、
勝ち誇ってこう笑うのさ。『苦しみは長くは続かない』」
エトラは振り向かなかった。カーリスは諦めて立ち上がった。
星の歌に心を傾けている王女は月の光に守られて、想い出の中の
女のようだった。その横顔は何かの古い夢を見ているようでもあり、祈っている
ようでもあった。カーリスは剣を持つと、エトラを残して静かに室を出て行った。
三日月形をしたギルガブリアの黒角湾ではじまった海戦の初日は、際どい
拮抗ながらも一帯の潮の流れに詳しいギルガブリア海軍の勝利に終わった。
帆船で遠征してきたレムリア海軍に対し、ギルガブリアはガレー軍船を用意。
ガレー船の先端に付いた青銅製の衝角により、レムリア軍の前面に配置された
小型艦船はのこぎり引きされるように大破。それによりレムリア艦隊列が
乱れるのへ、ギルガブリア海軍は火をつけた老朽船を大量に風下に放つ。
レムリア海軍の旗艦は『十字星』。
レムリア海軍提督は燃えながら接近してくる帆船をみるなり、即座に旗艦より命じた。
「炎上船に乗り移れ。船の針路を変え、燃える船を湾岸に座礁させるのだ」
火が移れば、海に浮かぶ船には逃げ場がない。ギルガブリア軍から
飛来する矢には油が含まれており、それらがレムリアの艦船を可燃物と変えた。
レムリア軍は炎上船に牽引索をかけるため決死隊を送り出すも、老朽船に
辿り着く前にそれらの長艇もほとんどが敵ガレー船の犠牲となった。
「各艦、退避せよ」
ゆらゆらと揺れながら、何艘もの巨大な焔の塊が風の勢いごとレムリア遠征軍に
襲い掛かった。
狭い湾の中での転進や回頭は困難を極める。
敵艦を逃すまじと密に組んでいた艦隊列が仇となり、燃える船から逃げることが
かなわず僚艦と衝突し、もろともに炎上する艦が出始めた。レムリア海軍提督は
撤退を即断。戦を捨てて退却作戦に移る。
「投石ッ」
しんがりについたレムリア艦は艦隊が積んできた大型投石機と火炎放射機を
繰り出して味方の退却を援護。投石機から放たれた巨大な岩が敵ガレー船を
一撃で轟沈させ、火炎放射機が海上に火災の壁を巻き起こして両軍を遮断
するその隙に、海軍提督はレムリア艦隊を沖へと引かせ、逆風に巻かれた
しんがり艦の爆発轟沈という犠牲を出しながらも、日頃の訓練が功を奏して
被害最小のうちに火の海と化した黒角湾からの脱出を成功させた。
翌日。朝のうちは凪いでいた海に、午後からは風が出た。
ギルガブリア軍を叩くとみせて、レムリア軍はさっと引く。これを繰り返すうちに
ギルガブリアは黒角湾内から出てこなくなった。
その間に、ひそかに反対側の湾口から浸入した予備のレムリア別動隊が
ガレー軍船による衝角攻撃を不可能とする背面方向からギルガブリア軍を襲撃。
ギルガブリアが混乱から立ち直らぬうちにレムリアの第一軍と第二軍が縦列に
なって一気に湾内奥深くに侵入を果たす。
老練な海軍提督に率いられたレムリアの第一軍は、艦の性能を最大限に
引き出す熟練の操舵により慎重に潮の流れを読みとり、経験を積んだ
極めて高い戦闘能力をもって、陣展開直後からギルガブリア海軍をはげしく
突き崩しにかかる。湾の両出口をふさがれたギルガブリアは進退を奪われた。
「斉射。ギルガブリア軍船を沈めよ」
レムリア旗艦『十字星』の砲火が火を噴いた。
戦闘は夕刻をこえてもなおも続く激戦となった。 艦が密集したことにより
自艦に火が移ることを怖れた両軍は火弓を用いず、主に相手を定めた砲撃の
応酬と、敵艦に乗り移っての白兵戦に切り替え、湾内は海流を血で染め上げる
大混戦状態となった。
自艦の甲板に立つギルガブリアの海軍将軍は、レムリア旗艦『十字星』へと
砲の狙いを向けさせた。
「敵旗艦を沈めよ」
まるでそれに応えるかのように、『十字星』からギルガブリア王兄艦へ応砲があった。
両軍を率いるのは互いに歴戦の将である。海に落ちた砲弾は水柱を起こした。
「レムリアのくたばりぞこない。日蝕の王の狗め」
「一足先に引退するがよい。海神の墓地でいずれ愚痴は聞いてやる。
全艦、黒角湾よりギルガブリアを掃討せよ」
ギルガブリアの海軍将軍は、いつの間にか艦の周囲を固めていた護衛艦の
多くが砲撃で沈められて数を減らしていることに気がついた。船の破片を
蹴散らして『十字星』が接近する。
絶体絶命となった王兄艦の前に、巧みな操舵で湾内の島影に控えていた
ギルガブリアの遊軍がすべり込んできた。
「お祖父さま」
若々しい船乗りの声が戦場海域に響いた。
「おお、カーリス」
「ここはお任せを。----ラザン、王兄艦を援護する。艦尾全門発砲用意。
お祖父さまはその間に後方へ避難を」
「そうはいかん。敵に背中は向けられん」
「では、ご見学はご自由に。ラザン、信号弾」
空に伸ばされたカーリスの片手に応え、シュッと黄金色の火花が駆け上がる。
介入してきたカーリスの遊軍はみるみるうちに狭い海域で見事な弓形の陣形をひらいた。
『十字星』の露天甲板から老提督は身を乗り出して絶句した。
「カーリス王子」
「提督。ひさしゅう」
夕闇迫る海域には、不気味な色の雲がたなびいて流れていた。カーリスは
敵艦舳先の舷縁にすらりとした影絵となって立っていた。
「このようなかたちでの再会は互いに望むものではなけれども、戦は戦」
黒髪を夕風になびかせ、若者は海軍提督に挨拶を送った。
「戦上手で慣らした歴戦の老提督のお手並み、とくと拝見いたした。
昨日の引き際の良さ、見事なる戦いぶり。この黒角湾から無傷で出られた
敵艦隊はないことをせめてもの慰めとして、ギルガブリア王子であるわたしに
その命をささげるがよい」
「カーリス王子……」
漁網のように、カーリス率いる艦隊は『十字星』とその護衛艦を押し包み始めた。
絶句したものの、海軍提督は即決でカーリスの説得を放棄、それを迎え撃つことを選ぶ。
「砲撃用意」
「右舷、砲撃用意」
「敵旗艦『十字星』に集中砲火」
「防衛陣形。旗艦『十字星』をお護りせよ」
「撃てッ」
湾内に両軍の号令がこだまし、天地を引き裂くような砲音がそれに続いた。
カーリス王子の新たな戦力を加えたギルガブリアは優勢を取り戻し、レムリア海軍を
押し返しはじめた。両軍の放火は稲妻を飛び散らしたようにあたりを照らし、砲撃音は
船を傾け、火薬庫を爆発させ、乗員を船もろとも湾の底に叩き落とした。
そこへ、異変が起きた。
「レムリア海軍に援軍!」
「なに」
「レムリアのガレー軍船です。ものすごい数が接近中」
カーリスは水平線に眼を凝らした。
硝煙を煙幕がわりに、夕闇をぬって高速で黒角湾に滑り込んできたのは、まさしく
レムリアのガレー軍船団だった。先頭のガレー船の舳先には、船団を率いてきた
その指揮官が両脚を踏ん張って立っており、その頭上には、レムリアの海軍旗と
王子旗が誇らかに翻っていた。わあっとレムリア艦隊中が沸いた。
「シャージン王子」
「シャージン王子だ!」
夕陽を背負ったシャージン王子は威風堂々と艦隊列を突っ切ると、
横付けにしたガレー船から梯子を伝ってひらりと『十字星』に乗り移った。
「爺。助勢にきたぞ」
猛砲撃を受けたことにより、旗艦の甲板は破片と死体だらけだった。
白髪頭を血に染めながら落ちてきた帆の下から這い出てきた提督は、差し伸べる
手の主が誰かを知ると、眼をまるくした。
「お、王子」
「神聖艦隊が壊滅したのは、俺が精兵を属州に引き抜いていたからだと
後から責められてはたまらんからな」
シャージンは老人を残骸の下から引っ張り出した。
全軍から絶大な支持を受けているシャージン王子の登場により
夜の迫る海に漂い、疲れきっていたレムリア将兵たちの士気は一変した。
「シャージン様だ」
「シャージン王子が来て下さった」
「後は俺に任せろ。爺、ご苦労だった」
口笛を吹いて救護艇を呼び、負傷した提督を船から下ろすと、旗艦に座した
シャージン王子は直ちに艦隊のたてなおしをはかった。
「神聖艦隊全艦、三重弓形陣」
「ばか兄貴!」
闇に沈みかかっている遠くより、カーリス王子の遠吠えが聴こえてきた。
「こっちが弓形陣をつくってるのに、真似するなよ!」
「俺の得意技だ」
速力の勝るガレー軍船を前列に揃え、焼け落ちた邪魔な索を甲板で
かき集めながら、シャージンは吼え返した。
「お前こそ兄を立てて陣形を変えろ、ギルガブリアの童貞野郎」
「本当に莫迦だな」
新手の大軍の登場に焦りながら、カーリスは疲弊した自軍をざっと視回した。
数においても砲弾の残り数においても、絶対的に不利だ。それを見取ると
カーリスは舌打ちして、引き上げを命じた。
「これまでだ。後方艦回頭、湾出口を封鎖しているレムリア軍を撃破し、突破せよ」
「カーリス」
「お祖父さま。今、そちらの艦へ行きます」
垂れ下がった索をたぐり寄せると、カーリスは舷縁から勢いをつけて
隣接している旗艦甲板にとび移った。互いを牽制する砲音が散発的に響き、
硝煙の立ち込める海面には威嚇的な水柱がのび上がり、甲板に大量の
飛沫を撒き散らした。
「カーリス」
「お祖父さま、夜になります。今日のところは撤退しましょう」
慰めるようにそう云いながらカーリスは老人の肩を抱いて、隣りの艦影もよく
見えないような砲煙をかきわけ、ひと気のない艦の後方へと祖父を導いた。
艦尾は無人だった。
「カーリス!」
老いたるとはいえ、鍛えられた将軍は老人とも思えぬ素早さでとび退いた。
夕闇にきらりと光った刃を握っているのは、カーリスだった。
「カーリス。何をする」
「お祖父さま。王兄さま」
逃げる間を与えず、カーリスは甲板を蹴ると、老人に体当たりして艦尾楼の
壁に押しつけ、その首に短刀を押し当てた。
「お祖父さまには、ここで戦死してもらいます」
「なに……」
「娘がレムリア海軍に捕らわれた時、あんたは身代金を出さなかったね」
「違う。レムリア王が要求してきた金額は、とうてい払えるようなものではなかった」
「母さんは今もレムリア王の後宮にいる。牢獄のようなあの場所にね」
「カーリス」
闇に光る星のように、カーリスの眼が底光りした。
「娘を見殺しにしたあんたが平気な顔してのうのうと生きてるって法はないよなあ」
「待て、カーリス」
「この機会を待ってたぜ。あばよ、じいさん」
船乗りの力が老人の喉をかき切った。カーリスはきれいなとんぼ返りを決めると、
ラザンがこちらに投げて寄越した索を握りしめ、船の間を飛び越えた。
後方から轟いた砲撃音に王兄艦の乗員は振り返って悲鳴を上げた。
「将軍、将軍が!」
祖父の遺体ごと旗艦の艦尾と船腹を粉微塵に撃たせたカーリスは自艦に
着艦すると、「撤退」、もうもうたる弾幕の中で命令をとばした。
追尾してくるレムリア艦に牽制の砲撃を浴びせながら、ギルガブリア海軍は
沈みゆく王兄艦と黒角湾を後にした。
>続[[]へ >目次
Copyright(c) 2009 Shiozaki all rights reserved.