[日蝕の王]
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Yukino Shiozaki

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■[.


 ギルガブリア王は自国に侵攻してきたレムリアに対し停戦と和平を
呼びかけるも、レムリア王はこれを拒否。亡命したる叛逆者レッダエスタの
首を求める。

 レッダエスタ王子は蒼白となったが、感心にも取り乱すことは堪えた。
それどころか彼は首都にいるギルガブリア王に兵を借りるべく使者を出し、
出陣の許可を乞うた。
「象部隊をお借りしたい。日蝕の王を討ち果たし、レムリア領を王に捧げましょう。
それをもってアウロデニア姫とその庶子の命は、ギルガブリアの庇護の下に
その生命と生涯の保障をお願いいたしたい」
 レッダエスタは、自身の命乞いはしなかった。
 出撃していくレッダエスタを、避暑離宮よりアウロデニアは見送った。
胸壁から見送る姫君に、戦兜をかぶったレッダエスタは頷いてみせた。
 いささか窮鼠猫を噛むではあったが、もう後のないレッダエスタは目覚しい
奮闘をみせて、西側に入り込んだレムリア軍を撃破。もともと弟シャージンに
武功を奪われてきた感のある王子であったが、死ぬ気で闘う気迫も加わり、
彼自身も剣をとれば強戦士であった。
 大河を挟んで、レムリア軍とレッダエスタ軍は対峙。
ギルガブリアが保持する象部隊とは、象の上に檣楼のような輿を設え、高みから
矢を射るだけでなく、戦局を伝える物見の役割も果たす、いわば移動式の櫓である。
「あのようなものを出してきて」
 レムリア装甲騎馬兵は顔をしかめた。接近せぬかぎり直進しか出来ぬ象など
怖ろしくはないが、その鳴き声に馬が愕き、陣を乱して暴走を始めるのだ。
さいわいにして戦闘に使える象の訓練が難しいことから、象部隊の実数は多くない。
 未明、レムリア王は天幕から姿を現した。
「右翼将軍。左翼将軍」
「はっ」
「これに」
「夜明けと共に渡河せよ」
 レムリア王は兜を手にとった。
「近衛親衛隊は馬を引け。予と共に上流に回る」
 戦兜の飾りをひるがえし、陣を出た王は日の出のまだ遠い暗い森へと入った。
「敵襲ーッ!」
「レムリア軍が河を渡ってくるぞ」
 丸太を組んだ筏に兵を乗せ、馬に水中を泳がせて対岸へと渡ってくる
レムリア軍を、いち早く見つけたギルガブリアの矢が襲う。その筏を、対岸の
陣からレムリアの弓隊が一斉援護した。
「橋をかけさせるな」
 早暁の暗がりの中に矢が横殴りの雨となって飛び交い、射られて下流に
流されていく兵の悲鳴が響き渡った。
 レムリア兵たちは盾を前面に立てて弓を避けながら、敵兵力を
分散させるために右翼左翼とも三箇所に分かれて河を渡った。
馬の泳ぎははやく、みるみるうちに筏はギルガブリア陣に近づいた。
ギルガブリア側は着岸させじと槍兵を岸に押し出す。
「渡河地点に援護を集中せよ」
 その間に中州を利用して馬のまま川を渡ったレムリア騎馬兵が
対岸に乗りあがり、大風のごとく横手からギルガブリア軍に襲い掛かった。
「ギルガブリアの蛮族ども」
「国土から侵略者レムリア人を追い払え」
「レッダエスタ王子は何処だ。裏切り者。臆したか、何処にいる」
「将軍、橋が架かりました」
「突撃ッ」
 大軍が渡る架設の橋へ、そうはさせじと反対側からギルガブリアの斧兵が
跳び移る。ぐらぐらと揺れる筏橋の上で烈しい攻防が繰り広がった。
 平野に山岳から朝日が昇った。暁の色が流れ去り、それは瞬く間に白光となって
兵士たちの鎧兜を銀色に照らし出した。その日の出の太陽から急降下するようにして
不意打ちに裏手の崖からギルガブリア陣に襲撃がかかった。それは夜の間に
上流を渡り、敵陣の背後に回ったレムリア別動隊だった。
 崖を駆け下りてくるレムリア親衛隊の旗印を見るなり、ギルガブリア兵は怖れて
乱れはじめた。
「レムリア王だ」
「レムリア王が来た」
 生え抜きの武人で構成された王の精兵は、旗をひるがえしながらギルガブリア陣の
背面に突入してきた。
「蹴散らせ!」
 レッダエスタは河から馬をとって返し、その中に金兜の王の姿を探し出した。
真正面にレッダエスタは剣を構えた。鉄兜の下に流れる汗を拭いもせずに、彼は
レムリアの弟王を睨みつけた。
「日蝕の王は闇の寝床に還るのがふさわしい。死ね、ジャルディン」
「レッダエスタ」
 レムリア王はすらりと長剣を抜き放った。
「エトラはどこにいる」
「知るか。知っていても教えてやらぬわ」
 王と王子は馬ごと激突し、互いの剣を打ちつけた。太陽の下、絡み合う剣は
白熱と燃えた。
「王、あぶない」
 騒乱に昂奮した象が象使いの手を逃れ、背中から兵を振り落として戦場に
乱入してきた。突進してくる象の群れにジャルディンとレッダエスタはいそぎ
現場を離れ、両軍の撤退をもって、その合戦は引き分けられた。

 その日のうちに捕らえたギルガブリア兵を拷問にかけ、レムリア王は
エトラツィア王女の居場所を突き止めた。
 戦場を引き上げてきたレッダエスタを前線の砦で待っていたのは
カーリス王子だった。それまでレッダエスタが鼻にも引っかけてこなかった
年少の弟は、現在ではギルガブリアの王族にして、それだけでなく、
海軍将軍であった祖父の戦死後は、王位継承権保有のギルガブリア国の
若王子としても、祖父の跡目を継ぐ将としても、正式に昇格して認められている。
亡命者であるレッダエスタは、異母弟を立てなければならなかった。
「ジャルディン王を討てずに残念でしたね」
 皮肉ともなくカーリスは口にした。
 カーリスは吹きさらしの物見の胸壁に手をついた。山際には夕陽の朱みが
僅かに残っていたが、その上は星を浮かべた透きとおるような濃紺だった。
黄昏の平野は凪の海に似て、岩や潅木のちらばらるそこを鳥獣の影が
横切るのが、大河を泳ぐ魚のように遠くに見えた。
「この州を越えると、ギルガブリアの首都が敵の視野に入ってきます。
ギルガブリア王はここを死守せよと仰せだ」
 塔の上には雪色の月があった。
「王は大軍勢をこの地に送り出してくれるそうです。いよいよ決戦だな。
急ぎ、避暑離宮からアウロデニア姉上とエトラツィア王女を護衛隊に護らせて
こちらへ向かわせています。もう着く頃だ」
「なに」
 夕方の風に黒髪をあそばせながら、カーリスはちらっとそんな兄を見た。
「レッダエスタ兄上はのん気なものだ。捕虜をあちらに捕られた限りは想像つくだろ。
今頃、あの離宮はレムリア軍の急襲を受けて火の海のはずですよ」
 近衛親衛隊と遊撃隊を率いてジャルディン王が踏み込むよりはやく、
カーリスがとばした早馬により、避暑離宮に滞在していた者たちは王族ともども
完全に引き払われて、無人となっていた。
 レムリア王は夜の離宮に火を放った。轟々と燃える怒りの焔は森を焼き尽くし、
贅を尽くした離宮は夜明けまでに柱一本遺さぬ黒々しい廃墟と化した。
 炎上する無人の離宮に背を向け、即座に陣に馬を返していく王の眸は、
兜の下で獣のごとく爛々ともえていた。


 大陸奥深くに侵攻したレムリア軍の補給線を断とうとギルガブリアは
三度に分けて海上に艦隊を送り出すも、シャージン王子指揮下のレムリア
神聖艦隊の前に敗北。
 シャージンは湾内に誘い込まれるのを避け、海上から敵の補給地である
軍港攻略を徹底して行い、海戦においては縦列に艦隊を組むことで
敵ガレー船の兵力を殺ぐことに成功、勝利をおさめた。
「遅参つかまつった」
 海軍陸戦隊を引き連れて上陸したシャージン王子が夜をぬって本隊に
合流したのは、月の明るい晩のことだった。床に片膝をつき、日焼けした
逞しい身体を沈めて、本陣に辿り着いたシャージンは弟王への礼をとった。
「海上で召喚状を受け取った。ジャルディン王」
 王の豪勢な天幕には、たくさんの蝋燭がまたたいていた。
「投降すれば将兵の罪を不問にしてくれると聞き、王のご裁断を仰ぎに参った」
 申し分のない男らしい態度で、シャージンは頭を垂れた。
 正面の机に坐っていた王は、読んでいた手紙を傍らのハクプトが捧げ持つ
書函に返した。王は落ち着いた態度で、口をひらいた。
「海軍提督より、シャージン以下青年将校らの罪を不問とするよう、再三の
恩赦願いが出されている」
 王の声を聴いたシャージン王子は、恐怖や怯えではない理由からびくりとした。
王の声音のつよさと品格に、武人として何か感じとるものがあったのだ。
「シャージン兄。面をあげられたい」
 幕やにおける王は、金飾りのある黒い寛衣をまとい、黒髪を流すままにして
王冠も王の兜もつけてはいなかった。
 兄弟は顔を合わせた。王と、その臣下の将として。王は立ち上がった。
王が次の間へ移るのをシャージンが見送っていると、王の侍従のハクプトが
シャージン王子に王に続くようにと案内した。
 そこには酒の席がもうけられていた。兄弟は向き合って坐った。
ジャルディンは手づからシャージンの盃に酒をそそいだ。もとは傭兵のせいか
そういった仕草が厭味なかった。王の態度には何の虚勢も気取りもないことが
シャージンの注意をひいた。
 行軍の後で空腹だったこともあり、シャージンは出された料理に遠慮なく
手をつけた。久方ぶりの贅沢な食事と酒を前に、彼は素直によろこんだ。
シャージンは酒を飲み干した。たとえ毒入りでもかまうものか、王の天幕に
下ったのはこちらの方だ、煮るなり焼くなり好きにしやがれ、そんな心境だった。
 気になっていたことを思い出し、シャージンは王に訊いた。
「王。海軍提督の具合は」
 王に手紙を書けるほど恢復したのだろうか。すると王の眸が問い返すように、
すうっとシャージンの顔にあてられた。父王とよく似ていた。
何となく畏れ多くなり、シャージンはそれをごまかすために俯いて肉を噛んだ。
「提督には、本国に帰ってもらった」
 ジャルディンは新しい酒を別の盃に注いで寄越した。
「悪いのか」
 はっとなってシャージンは顔をあげた。ジャルディンの眼とぶつかった。
王はわずかに首をふった。
「大事ない。念のために都に送還し、予の医師団に診せることにした」
「そうか。俺は神がかった父上なんぞよりも、あの爺さんを父と思って育ったからな」
 安堵の息をつき、シャージンはハクプトがはこんできた次の料理にかぶりついた。
シャージンの好物と知ってか、下々の好む豆料理まで揃えてあった。
武人らしい粗野な仕草でシャージンは手の甲を使い口を拭った。
「俺がまだ子供の頃な、帆桁の上を歩いたことがある。お付の連中は恐怖の
金切り声を上げて降りて来いと大騒ぎだ。下を見ると、あの爺だけが腕を組んで
俺をじっと見上げてるのさ。俺が出来ると信じているようだった。
そのせいかどうかは知らんが、甲板に落ちることもなく渡り切り、向きを変えて
戻ってくることが出来た。鳥の高みに昇れることの歓びを、空と海の合間に
浮かび上がる解放感を、その酩酊と孤独の狭間に吹きぬける風の音を、爺は
知っていたのだろう。そんな爺も、もう年だ。いたわってやらんとな」
 王が無言なのでシャージンが王をぬすみ見ると、ジャルディン王は
シャージンを見つめ、その深い眼の奥で、かすかに笑っていた。
「王。うまい食事だ」
「海の上での食事については、予には説明不要」
「そうだな。王は、船乗りであられたのだからな」
 それに応えるように、王はシャージンの見ている前で船乗りらしい
仕草で肉を噛み切り、口許を手の甲で拭ってみせた。すぐさま侍従の
ハクプトがその手を布で拭いた。
「……ふん」
 万の言葉よりも通じるものがあり、シャージンは肩をすくめた。兄弟は幼い頃の
面影を互いの顔の中に探し、それから現在の、互いに成長した姿のそれに置き換えた。
「シャージン兄。属州より艦隊を率い、敵艦の掃討に合力してくれたこと、感謝する」
「当然のことだ」
「陸においても、武芸に長けた将ときく」
「そうだな。誰にも引けはとらんと思う」
 単純明快にシャージンは声を強くして胸をはった。
「闘技場で剣闘士と闘っても負けたことがない」
「ギルガブリアとの決戦において、シャージン兄には、一個大隊を任せたい」
「分かった」
 シャージンは頷いた。それは王子が、新王に仕える道を選んだことを意味した。
酒盃の上に揺れる蝋燭の灯りを見つめながら王兄シャージンは面をあらためた。
「王。俺に従った将兵たちについてだが」
「向こう二年間は階級据え置きの上、罪は不問に」
「そうか。よかった」
 よし、とシャージンは大きな音を立てて両手を打ち合わせた。
気力と活力を漲らせて、シャージンは顔を明るくした。
「俺に任せてくれ。ギルガブリアなぞ、槍の一突きにしてくれるわ。こう云っては
何だが、女の尻に敷かれておるレッダエスタなぞ、おそるるに足りん」
「頼もしい」
「今宵より、俺はジャルディン王に忠誠を誓う」
 シャージンは立ち上がり、その場で片膝をついて日蝕の王に剣を捧げた。


 ギルガブリアの砦では、レッダエスタが避暑離宮から
避難してきたアウロデニアと一室にこもり、アウロデニアが
差し出した酒盃を受け取っていた。明日に控えた戦の緊張を
隠せぬ顔をして、レッダエスタは夕刻から黙りがちだった。
「アウロデニア。子供は」
「もう寝ておりますわ。あちこち引っ張り回されて、あの子も疲れたのでしょう」
 アウロデニアはかんざしの飾りを弄りながら応えた。女はため息をついた。
「本当に、カーリスときたら憎たらしい。どうしてわたくしまで明日の戦を
見物しなければなりませんの。戦場は血生臭い上に、あのエトラまで一緒とは。
わたくしまで人質にするなど、嫌がらせだわ」
「惨たらしい戦のことなど、子供には話してないだろうな」
「ええ」
「そうか。あとで寝顔だけ見ておこう」
「なぜ」
「何故?」
 レッダエスタは酒を飲み干した。
「子供の顔を眼にやきつけてから出陣したいだけだ。何がおかしい」
「まるで明日戦死なさるかのようなお口ぶり。いやよ」
 心配してくれるのかと顔を上げたレッダエスタは、アウロデニアの笑顔に
ぶつかった。その女の顔が水に映る月のように揺らいで歪んだ。奇妙な
胸やけがして、レッダエスタは盃を卓においた。
「戦死など、いやよ」
「アウロデニア」
「ご存知。海軍将軍が死んだことにより、その孫のカーリスに正式に
王族海軍階級が認められたのですってね。こたびの戦、ギルガブリアが
勝っても負けても、貴方はカーリスよりも下位の人間。レムリアが勝てば、
貴方は国を裏切った罪人として処刑されるだけ。それならば、わたくしの
役に立ってもらうほうがまだいいわ」
「アウロデニア。酒に、毒を」
「属州より駆け付けたシャージンお兄さまの加勢を加えたレムリア軍は地上最強。
ギルガブリアは負けるでしょう。救出されたらレムリア王にわたくしはこう云うわ。
坊やをレッダエスタ王子に攫われて仕方なくギルガブリアへと下ったけれど、
その代わりレムリア王に仇なす謀反人を、この手で討ち果たしてやりましたと」
「アウロデニア」
「そろそろ効いてきた頃かしら。死んだ第二王子もそうやってわたくしを
睨んでいたわ。逆恨みするしか能のない小心者の臆病者どもが」
「……アウロデニア!」
「おお、怖い」
 さっとアウロデニアは身を引いた。レッダエスタはよろめく足取りで
短刀を鷲掴み、何とか鞘から引き抜くと、悪夢の中の亡霊のような動きで
アウロデニアへ向かって歩いてきた。
「最初から、そのつもりだったのだな」
 呂律の回らぬ男の言葉に、アウロデニアは眉を上げて微笑んだ。
「過ぎたことにこだわってばかりいる執念深い人間は本当にいやね。
こうした惨めな最期を迎えるのも当然というものだわ」
「……」
「恨み言によく回るその舌もそろそろ痺れた頃かしら。根性の悪さが人相に
滲み出ている。負け犬は消えていいわ。みっともない」
「うぬ」
「キャーッ」
 突如、アウロデニアは絹を引き裂くような、か弱い女の悲鳴を上げた。
「誰か来て。誰か。レッダエスタ王子がわたくしを殺そうと」
「アウロ……デニア……」
「触らないで。気持ちが悪い」
 すばやく男の傍らから逃れながら、アウロデニアはなおも悲鳴を上げた。
レッダエスタはよろめき、前のめりに床に倒れた。毒の回ったその顔は
紫色になっていた。ごふっとレッダエスタは黒い血を吐いた。アウロデニアは
レッダエスタの手を不潔なもののように踏みつけて跨ぎ越した。
「誰か、誰か助けて。レッダエスタがわたくしを殺そうと。怖い」
「何事です!」
 変事を察した護衛兵が室の扉からなだれ込んできた。アウロデニアは
屈強な兵の腕にとりすがった。
「レッダエスタ王子が乱心を。わたくしと心中をはかろうとして」
「王子。レッダエスタ王子」
「----死んでおられる」
「様子が変だったので差し出されたお酒をいただかなかったところ、
突然に斬りかかってきましたの」
 錯乱を装ったアウロデニアはもう一度はげしくうろたえ、取り乱してみせた。
「子供は。子供は無事かしら」
「誰か、確認を」
 慌しく何名か別室へ走っていった。すぐに歓喜の声が上がった。
「御子はご無事です!」
「お聞きになりましたか。アウロデニア姫、お子様はご無事ですぞ」
「ありがとう。皆さんのお蔭ですわ」
 よろよろと長椅子に崩れ落ちながら、アウロデニアは恐怖に引き攣った顔で
床の上に倒れているレッダエスタを怖ろしげに凝視する演技も忘れなかった。
男たちが見ていることを重々承知で、アウロデニアは倒れ伏し、さめざめと
泣き出した。衛兵たちは心の底から聡明で美しいアウロデニアに同情を寄せた。
「姫。怖ろしい思いをされましたな」
 アウロデニアは嘆きながらレッダエスタの人となりを彼らに説明した。
「レッダエスタはわたくしには何も相談してくれない方でしたから。他人を信用
するよりも、切り捨てることを選ぶような器量の狭いところが。きっとこの戦の
緊張に耐えられず、気が弱ってしまったのでしょう。以前から彼は仮想敵と
一人で闘っているようなところがありました。わたくしのせいでも、誰のせいでも
ありませんわ」
 運び出される遺体の顔が毒と憎悪で歪んだまま確かに絶命しているもので
あることを冷静に一瞥すると、アウロデニアは嘆きながら顔をそむけた。
「可哀想に」
 その唇は誰にもそれと分からぬほどにつり上がっていた。
 レッダエスタは運び去られた。


 水の平野と呼ばれるそこは、河や湖、その他の水源があるわけではない。
神話の時代、この一帯を地震と津波が襲い、高度な文明を築いていた国が
一夜にして水没した。ギルガブリア伝説によれば、地底の底から黒犬が現れて
ひと声吼えるなり生きとし生ける者すべて津波に呑み込まれ、一瞬にして
繁栄の楽の音が絶え果てたということだった。
 長い時をかけて大陸のかたちが変わり、堆積した土砂が水の下から現れた。
さらに長い時をかけて、太陽が水のひいた泥土を乾かし、野鳥が木々の
種をはこんだ。地底の奥深くに古代文明を閉じ込めた現在の平野は、潅木の
まばらに生えた荒野となっており、たまに土中から古代遺跡の欠片が出てくることも
あるが、発掘を試す者もいない。その水の平野が、ギルガブリア軍とレムリア軍の
決戦場と変わろうとしていた。
 エトラとアウロデニアは、それぞれ別の白象に乗せられて、ギルガブリア軍の
後方に連れて来られた。行儀よく膝を折って身をかがめた象の巨体の背中に
上がるよう求められたアウロデニアは、渋々といった様子で梯子をのぼり、
象が背中に背負っている日よけつきの輿に入った。
「お母さま」
「そうね、大きな象さんね。お母さまはちょっと散歩に行ってきます。
いい子にして待っていらっしゃい」
 見送る子供に手を振るアウロデニアは、昨夜の出来事など微塵も
感じさせぬ、他人の眼を意識した優しい母性そのものだった。
 アウロデニアはちらりと隣りの象に眼を向けた。同じように日よけのついた
一人用の小さな輿の中にエトラが入るところだった。王女は小姓姿であったが
着飾ったアウロデニアよりも、兵士たちの眼はそちらに集まっていた。
アウロデニアは何か痛烈な厭味を云ってやろうとしたが、その時象が
立ち上がったので、慌てて支えの紐にしがみ付かねばならなかった。
 水の平野に戦を告げる角笛が鳴り渡った。
 ギルガブリア軍はレムリア軍主力部隊が集う中央突破に賭けた。
左右の翼に歩兵を守る騎兵を備え、装甲歩兵をぶ厚く中央に配した
ギルガブリアに対し、レムリア軍はその逆をとり、攻撃の重点を左右の
翼に据えて、王のいる正面軍は近衛兵を中心に固めたのみだった。
「戦術的な作戦があるんだろうけど」
 象の上の物見兵からの報告を得て、カーリス王子は黒髪を首の後ろで束ねながら
対峙しているレムリア軍を眺めた。
「はたしてこちらの五列中央攻撃に耐えられるものかな」
 戦兜をかぶり、カーリスは盾と槍を差し出す従者の手をかりて黒馬に跨った。
その視線のはるか先には、軍馬に跨ったレムリア王がいた。
「ジャルディン王。では」
「武運を」
「必ずや王のご満足のいくように」
 左翼右翼の将軍は馬上の王に挨拶の後、分かれていった。レムリア軍右翼は
指揮官に不遇の境遇から一転して王の右腕となったシャージン王子を迎え大いに
盛り上がった。王子を慕う右翼の諸氏たちはこの戦、シャージン王子に華をもたせて
レムリア王への心象をさらによくしてやろうと常にも増して戦意を高めた。
 大地に影を落とす雲の多い日で、風があった。
「レムリア王の首を!」
 シャージン王子がかざした剣を振り下ろした。水の平野での戦闘は
ギルガブリア側より開始された。

 中央突破をせんとするギルガブリアの猛攻は強烈だった。
レムリア軍は隊列の隙間を縦に空けることで突進してくる象部隊を
無効としたものの、続く二列、三列の傭兵部隊、その後ろに控えた
四列の新兵と、五列の熟練兵たちによる段構え攻撃を受けるにいたっては
後退せぬのが精一杯。いかにレムリア軍が精強とはいえ遠征による疲労が
加わっているその分、そう長く持ちこたえられるものとは思われなかった。
 右翼と左翼といえば、これはそれぞれギルガブリアの両翼と激突しており、
シャージン王子の右翼は何とかギルガブリア陣の側面を崩そうと奮戦中で
あったが、先を読んだカーリスによって配置された装甲兵に手こずらされていた。
「敵の大将を討て、レムリア王を討て」
「傭兵と新兵に構うな」
 レムリア兵は一丸となって襲いくるギルガブリア軍に立ち向かった。
「ジャルディン・ヤーカヤイド!」
 レムリア軍は勝利を祈り、戦いながらレムリア神話に出てくる戦神の名を
王の名と共に唱和した。
「ジャルディン・ヤーカヤイド!」
 銀の盾を押したて、レムリア装甲兵はギルガブリアを押し戻し始めた。
レムリアの副将軍が声を枯らし、自身も血刀をふるいながら、もうもうたる
土煙の中、馬を走らせて兵を励まして回った。
「レムリアに勝利を!」
 後方で戦局を観察していたカーリスは、頃合をみて指示をとばした。
「王を狙え。行け」
 ギルガブリア軍からくろがねの鎧をはいた虎の子部隊が戦場に投入された。
混戦の中、中央陣にいるレムリア王の金色の鎧装束はひときわ目立ち、その周囲には
ぶ厚い護衛が配置されてはいたものの、王自らも幾度となく敵兵と剣を交えねば
ならぬほど、くろがねの敵は王に肉迫した。戦闘のはげしいところほど土煙もひどく、
兵士たちはほとんど出会いがしらに敵か味方かを判別し、敵ならば眼前のものに
襲い掛かるという具合で、それは濃霧の中での闘いに似た。
 水の平野に、風が吹いた。
それは戦場の昂奮を宥めるものではなく、両軍の烈火の気魄をさらに煽り立て、
右陣から左陣へと闘いの中心を移しながら、砂ぼこりの中に全てを隠したかと
思えば、また蒼穹の下に全容を現した。

 エトラとアウロデニアは後方の象の上から、戦場を遠くに眺めていた。
砂塵で何もかもが見えなくなるたびに、エトラは水色の眸を混沌の
彼方に据えて、求めるただ一つの姿を戦場に探した。隣りの象の日除けの下で
アウロデニアは扇で顔に風を送りながら、そんなエトラと白茶けた雲の中のように
なっている戦場を軽蔑的に見比べて云い出した。
「レムリア王の後宮にお入りなさいよ」
 アウロデニアはレムリア人には珍しい白い肌だったが、雪で磨いたような
エトラの白い肌とはほど遠かった。ギルガブリア兵士たちの間でエトラは
「異国の雪白の姫」と綽名されていることもアウロデニアは知っており、それも
この女には気に入らなかった。
(後宮に繋いでやればこっちのものだわ)
 後宮の女たちの頂点に立つのはレムリア王の后である。アウロデニアは
自分こそがその座に昇ると、信じて疑っていなかった。
(奴隷ひとりくらい捻り潰してやるのはわけのないことだわ。あの父上ですら
お気に入りの女奴隷を守れなかった。いい気になっているのも今のうちよ。
生き地獄に叩き落としてやるからみてらっしゃい)
 アウロデニアはエトラに嫣然と微笑みかけて、後宮入りを勧めた。
「ジャルディン様はきっとそなたを寵愛してくれてよ。あくまでも
後宮の奴隷としてね。そなたはそれで満足でしょう。その執念深さで
はるばる王を追いかけてきたほどなのですから。きっとその意地汚さで
王に上手に媚びたのね」
 異国の王女を嘲弄するアウロデニアの顔には喜悦が浮かび、他者に対して
一欠けらの思いやりも持たぬその両眼は、眼をつけた者を執拗にいたぶる
悦びに陰湿にほそまった。
(踊り子さん、その可愛い顔に大火傷を負わせてやるわ)
 エトラはアウロデニアの皮肉をまったく聞いてはいなかった。象の上から
戦場を見通し、乱戦となっている一帯に眸をこらし、全ての意識を傾け、
エトラは遙か遠い激戦地にレムリア王の金兜だけを探していた。
「まったく、下らない女だこと」
 アウロデニアは扇の陰で唇をひき歪めた。
 兵士たちの武具や剣が魚の鱗のようにきらりときらりと光ったかと思うと、
またぶ厚い砂埃の嵐の向こうに、今度こそ完全にかき消えた。
「あ、こら」
 象使いが止める間もなかった。
 エトラは身を乗り出し、輿の四隅からぶら下がっている飾り紐を握り締めて
高みから伝い降りると、さいごは象のわき腹を蹴って地表に降り立った。
象使いからも、護衛の兵の手からも逃れて、王女は象の影から飛び出し、
水の平野を走り出した。
「ジャルディーン!」
 白い衣の裾をひるがえし、王女は戦場を駆けた。
 両軍の兵士たちはいつとはなしに、この若い王女がはるか遠くの大陸から
海を渡り、レムリア王を慕って苦難極まりない長旅をしてきたことを知っていた。
ギルガブリア軍の兵士たちは、末端にいたるまで誰もが知っていた。レムリア王の
此度の大遠征は、ひとえにギルガブリアに囚われたこの王女を取り戻す為の
ものであることを。
 戦いの刃をかいくぐり、王女はレムリア王を目指して走り続けた。兵士たちは愕きと、
それを上回る神聖な感動に打たれて、誰もこの若い王女を捕まえようとはしなかった。
結いのほどけた髪をなびかせて走る王女の姿はどのような剣よりも輝いて見えた。
 王女は駆けた。
 象の上からアウロデニアが近くにいた槍兵に何かを囁いて命じたが、それに
気がつく者もいなかった。
 ごうごうと舞い上がっていた砂塵がその時さっとはれて、激闘の砂煙の中に金鎧を
まとったレムリア王の姿が現れた。日蝕の太陽がその強い姿を現すように、翳りの中から
血吹雪けむる辺りをはらい、レムリア王の姿は大空の下に現れた。王は近衛隊と共に
カーリスの放った刺客部隊と激闘の最中にあった。
「ジャルディーン!」
「エトラ!」
 走ってくる王女の姿を認めた王は叫んだ。その王に敵兵が殺到し、行く手を阻まれた
王の馬は棹立ちになった。
「王」
「王、お留まりを。なりません」
「いまだ、レムリア王を殺せッ」
 王女は王の姿を目指して戦場を走った。レムリア王もそれに応えた。
「エトラ!」
「ジャルディン」
 放たれた金の矢のように、王女は王の許に辿り着こうと戦場を駆けた。
その王女に狙いを定めて、アウロデニアが命じた槍兵が切っ先鋭い長槍を
後方で大きく振り上げた。
 必殺の重い槍が鷹のように空を横切り、走る王女の背をめがけて飛んだ。
「----王女、危ない」
「伏せて!」
 それを見たギルガブリア兵たちは理屈を超えた衝動により、軍規の一切を
かなぐり捨てて、われ先にとエトラにとびついた。陣構えを崩し、男たちは身をもって
王女を庇った。槍に跳びついて止めようとした者もいた。長槍はそれらをすり抜けて、
盾を掲げた兵士たちの頭上をすれすれに飛び越え、地に伏せたエトラの眼前に
ぐさりと突き刺さった。レムリア王が叫んだ。
「その女を放せ」
「よーし、お前たちそのまま王女を捕まえておけ」
 砂煙を分けて黒馬が現れた。騎り手は引き取ったエトラを馬の前鞍に
横たえると、馬首をレムリア王に向けた。
 大胆不敵にも、エトラを乗せた騎り手は兜の面をあげた。
「レムリア王に挨拶を申し上げる」
「カーリス」
 黒馬の主を見たレムリア王の怒声が響き渡った。こちらへ向かおうとする王を
王の馬の手綱を握り締めて近衛兵たちが必死でひき止めているのを遠くに見据え、
「全軍、退け」
 カーリスは命じた。シャージン王子率いるレムリア大隊がギルガブリア陣の
後方を抑え、包囲環を詰めつつあるところだった。
「挟み撃ちになる前に全軍退却。軍旗を死守し、撤退を開始せよ」
「カーリス」
「ジャルディン王。あとで遣いを送る」
 巧みな馬術で黒馬の前脚を上げさせると、カーリスは鉄兜をかぶり直した。
「エトラツィア王女とアウロデニア姫を生かすも殺すも貴方しだい。では」
「カーリス王子、戦を捨てるとは何事です」
 後方から馬をとばして監査係がとんで来た。
「これは問題になりますぞ。ギルガブリア王の命に逆らいまするのか」
「敗走ではない」
 首都から派遣された戦目付け役に剣をあてて黙らせると、カーリスは旗を振らせた。
角笛の音が喨々と鳴り響く中、ギルガブリア軍は逆流する大河のごとくにエトラを連れて
水の平野から去っていった。



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