■T.
防波堤に現れた少女は、傷だらけだった。
浜で網を繕っていた漁師たちは少女の保護に走ると同時に囁き交わした。
見ろ、難民だ。
先の海戦では、沿海の街がことごとく沖合いからの艦上砲撃を受けて火の海に
沈められたのだ。その噂は遠いこの村にも届いていた。
漁村の女たちが少女の面倒をみた。食物を与え、家に招いて休ませた。
全滅した街から来たものか、少女は思いつめた眼をして口を利かなかったが、
名を訊かれると、水色の眸を暗くしたまま、白い足指を床につけて短くこう応えた。
エトラ。
金糸の髪を梳かし、破れた衣を着替えさせ、顔にあった小傷や火傷が治ってくると、
村人たちは目をみはった。曙光から生まれ出てきたかと思われるほどの美少女だったのだ。
やがて村人たちは、朝な夕なに美しい少女が防波堤に腰をおろし、水平線の
彼方をじっと見つめていることに気がついた。彼らは少女がすっかり頭がおかしく
なったものと思い、海風に吹かれている少女をそっとしておいた。
それほどに酷い海戦だったのだ。あれは一方的な虐殺だという者もいた。
「無事だったのは、ハレ領だけだという話だよ」
「あそこは防壁を備えている上に、領主さまがしっかりなすっているから……」
そのハレも無傷というわけにはいかず、多くの人命が失われたという話だった。
「食べなよ」
眼の前に突き出された赤い実を、少女の眸は見なかった。
鄙びた漁村の防波堤から、今日も少女は海だけを見ていた。
「そうか。ごめん。火事の煙のせいで、まだ視界が悪いそうだね。
食べなよ、これは滋養がつくんだ」
若者は少女の手をひらかせて、そこに小さな果実を並べておいた。
村娘の格好をした少女は、前掛けをつけた素朴な姿でいても、海の姫のように
気品があった。午後の海岸は海鳥を遊ばせて、平石を積み上げた防波堤にも
波は青く静かに寄せていた。
「エトラ。君のことだろ」
白い頬にかかる少女の金髪は夢のように淡く輝き、その衣は風に吹かれながら、
海の花びらのようにほっそりとした少女の身体に頼りなくまつわっていた。
若者はうっとりとそれを眺めた。
「おいら、カーリスっていうんだ。友だちになれるかな」
差し出された若者の手に、何を見たのか、少女の眸が揺らいだ。
混血であることを示す浅黒い肌。黒い髪。剣稽古で固くなった手の平。
もう二三年もすれば大人の男の仲間入りをする、背丈ばかりが先に伸びた
若者の大人びた眼光。
「手のかたちだけはいいって、褒められるんだ」
鋭くほそまった美少女の視線に若者は荒れた手を引っ込めて、次の言葉を探した。
「実はね、おいら、あんたを追って来たんだ」
海鳥がないた。
「といっても、変な意味にとらないでくれよ。入港間近の帆船の檣楼の上で
見張り当番をしていたら、海神に流された罪びとのように、あんたが岸辺付近を
小さな舟に乗ってゆらゆらと漂っているのが見えたんだ。おいら、船乗りだ」
船乗りだと名乗ることに限りない矜持をこめて、カーリスは潮風に胸を張った。
「ちょうど補給で陸に上がるところだった。港についたら、近くの浜辺で破損した
小舟が見つかったっていうからさ。君が助かっていたら、近くにいるはずだと思った。
船の仲間と協力して、海岸線に沿って邑々をずっと尋ね歩いて探していたんだ。
もう見つからないかと思った。随分と遠くまで一人で歩いてきたんだな」
翌日から、船員カーリスは少女に逢いに来るようになった。
次の航海までの休暇中だと彼は云い、宿泊先の近くの漁港から馬を駆って
身軽に現れては、海を眺めているエトラに一日中でも付き合った。
馬上から混血の若者は土産の葡萄を誇らしげに太陽にかかげて少女にみせた。
「エトラ!」
「あの女の子はそうとう、いいとこの子だよ」
少女と船員の姿を遠くに見ながら、村人たちは頷きあった。
隠しても隠しおおせるものじゃないさね。
愕いたことに、雨の日になっても若者はエトラを訪ねてきた。空も海も灰色に色あせ、
そこに透明な雨が細かな切り傷のように降っている暗い午後だった。
「おばさん、あの子によくしてやってよ」
漁村の後家の家に世話になっているエトラは、暖炉の前で野菜のすじ剥きをしていた。
膝に布を広げたその姿も、物語の中の妖精のようだった。
屋根を叩く強い雨の音にまぎれるようにして、カーリスは後家に金袋を握らせた。
ずぶ濡れの黒髪から雫を滴らせながら、カーリスは冷たい手で金貨の詰まった袋を
遠慮する後家に押し付けた。
「悪いことをして得た金じゃない。航海で稼いだ給料だ。とっときな」
カーリスは怖い眼をして親切な後家に詰め寄った。
「エトラが何処かへ行ってしまおうとしたら、すぐにおいらに教えて欲しいんだ。
あの子のことが心配だから」
後家が約束すると、カーリスは照れたように笑い、海に面した窓の方を向いた。
外は、雨が降っていた。
田舎の漁村は今日も晴れていた。海風の中、男たちが彼の名を呼んだ。
カーリスは「おっと」、と防波堤の上に立ち上がった。
「同じ船の仲間たちだ。次の出航が決まったのかな。ちょっと行ってくる」
ひらりとカーリスは身をひるがえし、防波堤からとび降りた。
屈強な大男たちが三人、海沿いの道でカーリスを待っていた。
彼らもカーリスと同じく全員肌が浅黒く、この大陸の出ではないと知れた。
カーリスは彼らに何かを話し、エトラの方を指した。男たちはそれに応じるように
遠くからエトラを見ていた。
やがて戻ってきたカーリスは手に薬草を持っていた。若者は身軽に防波堤を跨ぎ、
エトラに笑顔を見せた。
「頼んでいた物をもらってきた。待ってな」
薬草を口に入れて細かく噛むと、唾液と混ぜて、カーリスは手の平に吐き出した。
出来たものをカーリスはエトラの首筋の火傷痕の上に塗りつけた。それをする間、
若者はエトラの肩を支えていた。首筋の火傷痕がいちばん酷かった。エトラの話では
色街の女たちと一緒に寝たきりの老人を避難させている途上、飛んできた燃えさしが
首にあたったのだということだった。
「よく効くんだ」
船乗りの黒髪と少女の金髪が風にからまった。静かな波音に若者の囁きがまじった。
エトラの水色の眸が、身を離すカーリスをゆっくりと追った。
「いま、なんて云ったの」
「え。ああ、『はやくよくなりますように』って」
カーリスは先刻の言葉を繰り返した。
「あなたの国の言葉」
「そう。おいらの国のおまじない」
「おまじないですって。子供みたい」
エトラの声が少しふるえたのを、カーリスは聞き逃さなかった。
しかし少女はいつものように、膝を抱えて海の彼方に眼を据えているだけだった。
漁船を浮かべた青い海は深く澄んで、陽射しを反射し、一面の銀色に輝いていた。
「あんな小舟で、何処へ行こうとしてたのさ」
カーリスは船乗りらしく長く伸ばしてある黒髪を後ろで一つに束ね直すと、
ほそく見えてもしっかりした筋肉のついた両脚で、堤防の上に立ち上がった。
「先の海戦で街を燃やされたんだろ。先進国の武力には敵わないことを、あれで
この大陸の人たちも思い知ったろう。沿海の主だった国はことごとくレムリア軍の
奇襲を受けて壊滅してしまった。あれだけの距離をこえて超帝国が遠征してくるとは、
歴史上類例のないことだ。大編隊にみえて、あれは植民地から派遣されたレムリア
海軍のほんの末端の一部だよ」
よどみない若者の口調は、とうてい無学な者のそれではありえなかった。
エトラは顔を上げた。
「カーリス。あなたは」
「おいらは船乗りだ。諸島を本拠地に、いろんな国を巡ってる。何でも訊いて。
何語でも喋れるし、何でも知ってるよ」
「では、レムリアへの行き方も」
膝を抱えたまま少女が問うた。風がやんだ。
「レムリアへ行く船を何処でつかまえたらいいのか、それを教えて」
若者は青空に眼を向けていた。
「レムリアへ行きたいの?」
「彼は死んでないわ。『みなに宜しく伝えてくれ』そう云ったのよ。だから、死んでない。
彼は船乗りなのよ。どんな荒れた海でも泳げる。砲撃を受けて木っ端微塵になった
船の残骸がたくさん燃えながら漂っていたあの戦場で、そう云って海に飛び込んだそうなの。
きっと、敵艦に泳ぎ着いたはずよ」
「ふうん。じゃあ運よく海中から拾い上げられたとしても、もう連れて行かれただろうね」
「レムリアへ行く、その方法をわたしに教えて」
「行ってどうするのさ」
カーリスはまるでそこが船の船首楼であるかのように、腰に手をあて、厳しい顔で
青い海の果てを眺めていた。
そこから見えるはずもないレムリア帝国は、畏怖と敬意をもって仰がれる、神の国にも
等しき文明の進んだ国だった。
レムリア軍は突然、現れた。
水平線上にいかなる艦隊が並んだとて、レムリア神聖艦隊のごとき圧巻にはなるまい。
それはまるで津波のように沿海の国々に襲い掛かり、沖合いからの砲撃により
海洋王国の数々を一瞬で炎の海と変えたのだ。
「その攻撃もハレ領を最後にぴたりと途絶えて、彼らは帰って行った。まるで彼らは
武力のほどを見せつけ、思い知らせる為だけに来たようだ」
カーリスは堤の上を歩いた。
「その砲撃音は遠くからも聴こえたよ」
「海の彼方のレムリアと隔てられることは、生者と死者に別たれるも同じこと」
誰もがそう云った。エトラは海風を見つめた。それほどに遠いのだ、もう諦めろと。
少女の髪がふわりと揺れた。
「でも船乗りだけは違うわ。わたしは、超大国から来た船乗りを知っている。
世界の海を渡る航海術を身につけた、船乗りだけは何処へでもいける。
星座を頼りに、風の力をかりて、海原を道と変えて何処へでもいける。わたしはそうする」
「レムリアは遠い」
今度のカーリスの言葉には、海を知る者の峻厳があった。
「冬季になれば凍てつく海の、さらに先だ。その海があるからこそ、この大陸は
今までレムリアの侵略から護られてきた」
「でも、彼らはやって来たわ」
エトラの頬には、まだ生々しい火傷の痕があった。手足にも。
熱風に巻かれたせいで、あちこちがまだうっすらと赤く腫れていた。
色街の女たちが懸命に施した最初の手当てがよかったので傷痕自体はもう
消えようとしていたが、手厚い看護を振り切って黙って海に出てきたために、
今度は日焼けによる火ぶくれを負っていた。
「以前世話になっていた家の人たちに教えてもらって、泳げるようになったの。
だから海に出て行ける。わたしはレムリアへ行く船を捜しているの」
あなたが船乗りなら、とエトラは視力を取り戻した水色の眸で、カーリスを見上げた。
身体の恢復とともに、エトラが海を見つめるまなざしは、いっそう何かを思い決めた
一途なものになっていた。
「まずはレムリアの植民地まで行く船を見つけたいの。密輸の交易船があるはずだわ」
「それで。君がそれに乗って、無事にレムリアに辿り着くとでも」
怒った声で、カーリスは海に小石を投げた。
「長い航海、女に飢えた荒くれ船乗りたちの中に混じって、君みたいな若くて
きれいな子が一人で?」
「船員はいつでも人手不足のはずよ。男装して水夫になる」
「ははは。莫迦云ってろよ」
空を仰いで大笑いした後、カーリスはこの若者らしからぬ、怖い顔になった。
黒髪をなびかせた浅黒いその顔は、すらりと伸びた長い手足とともに、やはり
この大陸の人間のものとは違っていた。
エトラが堤を降りた。カーリスは後を追った。
「おい」
「さようなら、カーリス」
「また次の港町を目指すつもりか」
「海に落ちても、彼は死なないわ。わたしは彼を知ってるの」
エトラは空と海の狭間に眼をむけた。青い風から何かの霊感でも受けとるのか、
少女は確信をもって云い切った。
「彼は死んでいないわ。わたしは、それを知ってるの」
前に回りこんだカーリスが両手を広げて小道を塞いだ。若者の黒い眸は
きつく絞られて、エトラを睨んでいた。
「どうしても。エトラ」
「どうしても」
「おいらの生まれ故郷は、レムリアだ」
その浅黒い肌がそれを証明していた。
「そうだ。船乗りになれば、何処まででも行ける。遙か彼方のレムリア。おいらたちは
長い航海と引き換えに、レムリア産の高級品をこの大陸に運んでいる密輸入者だ」
エトラの表情に変化はなかった。
まるで最初から分かっていたと云わんばかりだった。
「通して」
粗末な衣を着た少女は、道を閉ざす若者のことなど眼中になかった。
「まだ見ぬ国レムリア。わたしはそこへ行きたい」
「何をしに」
「彼は死んでない。私たちを救うためにその身を犠牲にしたの。レムリア軍は最初から
彼だけを狙っていた。沿海に砲撃をかけながら、彼を誘い出し、海におびき寄せたの。
彼はだから、行ってしまった」
「レムリアが今、どんな状況か君は知ってるのか」
両手を広げたまま、カーリスはエトラを睨みつけた。海原の彼方のことながら、
それは船乗りならではの情報網により頻々と得ている最新の話だった。
「王位を巡り、血で血をあらう、ひどい内乱状態にあるんだぞ。そんな危険なところへ
君が行ってどうなる。途中で捕まって奴隷として叩き売られるだけだ」
「レムリア軍は彼を迎えに来た。どうしてなのか、それが知りたいの」
「彼。先から君が云っている彼とは、誰のことさ」
「ジャルディン・クロウ」
まるで自身がその名を背負う者ででもあるかのごとく、少女は毅然と応えた。
太陽が雲から顔を出し、田舎道を筋状に明るく照らした。
「それとも、レムリア人のあなたには、こう云ったほうが通じるかしら」
そよ風に道端の花々が揺れた。少女は唇をひらいた。
「彼が生きていることを確認するだけでいい。わたしはそれを知りたい。
彼は死んでない」
戦闘海域に響き渡ったという、その名。
ジャルディン・ヤーカヤイド・オード・レムリアン。
戦死者ごと甲板を洗い流した波は波浪によるものではなく、一斉砲撃を
受けたことによる艦の傾きと、その余波のせいだった。
硝煙を透かして、敵艦が見えた。敵艦の片舷に再度、星がまたたくような
青い光が発せられた。耳を引き裂くような音がして、敵側からの斉射がふたたび
艦尾から順に艦を貫き、帆桁を吹き飛ばし、索を断ち切り、滑車を砕き、甲板の
艦員たちを鉄板の上の豆のようにはじき飛ばして、片端からなぎ斃した。
「掃射、次くるぞ!」
転桁索にしがみつき、艦員たちが必死に艦を回そうとしていた。
敵レムリア艦の方が速かった。精度と射程距離において数倍勝る火力兵器を備え、
こちらの砲弾を寄せ付けぬ数倍の厚みの艦材で出来た敵艦隊は、波の上の悪魔のごとく、
その爪を沿海連合軍に向けて繰り出してきた。敵艦からの一斉砲撃、それは海原の上を
猛虎のごとく走り、一なぎで獲物を打ち斃す、地獄の青い火のようだった。
「後檣、海中に落ちました」
「砲列大破。砲撃不可能」
なす術もなかった。
攻撃型艦隊として特化したレムリア軍の艦隊こそは、世界の海を武力で制覇する
レムリア海軍の、その先鋭だった。
沿海連合軍の艦隊は、いまや燃え落ちる僚艦の合間を散り散りとなってさまよい、
倒れた帆を無様に海面に引きずりながら、確固撃破され、狙い撃ちされる為の
漂う標的にしか過ぎなかった。
「駄目だ。火気兵器の威力が違いすぎる」
「レムリアめ。何故」
夕方が近かった。
黄金色に縺れ合う雲間の切れ目に、血のような朱い空が見えていた。
反対側の水平線へ眼を遣れば、レムリア艦隊からの艦上集中砲火を浴びて
焔の中にある彼らの街が見えた。非常時に鳴らされる街の鐘すら鐘楼ごと
破壊され、たなびく煙が風に流されるままに、不気味な黒旗となって幾筋も空に
立ち昇っていた。
「街が……」
艦員たちは海辺で生まれ育ち、海で生きてきた、海の男たちだった。
砲撃を雨あられと浴びながらも彼らは一糸乱れぬ統率により、切れた索をより分け、
降り注ぐ木片の雨の中、残った索にしがみつき、艦を海に浮かべ、帆を広げ、敵艦船に
最後まで喰らいつくことを諦めなかった。沿海の国々が連合軍として総力を合わせ挑んだ
最終海戦も、レムリア軍の圧倒の前に完全に敗北であったが、沿海連合艦隊は壊滅しても
船乗りの彼らは彼らの街を護るために、海にいた。
「回頭。接近しろ」
「撃て!」
熟練の操舵により、ようやく敵艦艦尾に一矢報いた艦が、歓声を上げた。
たちまちのうちにレムリア艦がその前後左右を包囲する。獲物を押し包み、なぶり殺しを
行う砲撃音が怒号となってまた空を裂いた。
大破炎上、沈没していく船の残骸は、阿鼻叫喚の中海面を覆い尽くし、街を
護る捨石となって一隻、また一隻と炎の海の中に沈没していった。
ジャルディン・ヤーカヤイド・オード・レムリアン。
黄昏が迫る海域に、レムリア艦からの呼びかけがあった。
砲弾の撃ち合いの中、何を云っているのか、最初は誰にも分からなかった。
「なに、奴らは何を云っている」
「誰かを探してるのか……?」
硝煙が風に吹き払われると、またしてもレムリア艦からの砲撃が始まった。
悲壮のうちにも、勇猛果敢に砲で応射する艦もあった。それを片端から敵艦の砲弾が
吹き飛ばしてゆく。艦が大きく傾斜し、真横から波を受け、穴の開いた破損箇所から、
どうっと海水が流れ込んでくる末期の音がした。
「七番艦もやられた」
悲鳴が上がった。
「領主さま」
「まだ砲は生きている。退避する者はせよ。踏ん張る者は残れ」
レムリアの巨大艦が真正面から迫った。天高く聳え立つその帆は夕映えに染まる
空の雲まで視界から隠した。
「退路とれませんッ。後方右舷左舷からも敵艦接近」
「御座船とみて、やつら挟み撃ちにするつもりだぞ」
どどんと空を割る音がして、護衛艦を失った御座船を艦首砲の砲弾が貫いた。
帆桁が折れて倒れ、船員がその下敷きとなり、倒れた帆柱が大砲をなぎ倒して
砲員を帆に巻き込みながら、氷山の塊のように海中に墜落していった。
爆発音がして、またそれが繰り返された。掠れた声で船員が叫んだ。
「前方敵艦、針路をぶらしました。艦長」
「転舵!」
大混乱の中、艦長はその天啓を逃さなかった。見事にして、鮮やかなる
操舵をみせて、さっと船は巨大船の挟み撃ちを逃れた。
「『赤月』だ!」
敵艦の航路がぶれたのは、すべるようにして戦闘海域に割り込んできた赤い
帆を持つ僚艦のお蔭だった。真横から見ればその帆が赤い月を並べたように見える、
ひときわ目立つその帆船は、最初から最後まで敵艦隊の猛攻撃の目標となり、すでに
見るも無残なほどに引き裂かれ、ぼろぼろにやられていたが、まるで囮となって敵の
注意を惹きつけるのがその使命といわんばかりに、この最終局面においても奇跡的な
操行技術で僚艦を助け、多くの船が奮闘虚しく沈む中、まだ戦い、生きていた。
夕闇のけむりの中に、ふたたびレムリア艦隊からの呼びかけがあった。
語尾を間延びさせながら、まるで海と空の唱和のごとくに、それは戦場に
美しい抑揚で流れ出た。
ジャルディン・ヤーカヤイド・オード・レムリアン----。
「御座船に、新たな敵艦接近中」
「ジャルディン」
赤帆の艦上で、黒髪の傭兵が船の舳先へと歩いていくのを男たちは見た。
送り火のように点々と破片が燃えながら漂う海は、不気味な色で波を染め上げていた。
夕陽を浴びて空回りしている船の舵輪は、先刻まで傭兵が操っていたものだ。
「ジャルディン。何処へ行く」
「俺が行けば、奴らの砲撃は止む。レムリア艦隊は引き上げる」
「何を云ってるんだ?」
「ジャルディン……よく分からないが、よせ。行くな」
「みなに宜しく伝えてくれ」
それが黒髪の傭兵の最後の言葉だった。
ぱっと光が炸裂し、敵艦の主砲が火を噴いた。その轟きが海面と船を上下に
揺らしている間に、傭兵の姿は彼を引きとめる男たちの叫びの中、艦の舳先から
海に飛び込んで、夕闇の海の中に見えなくなった。
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