[冬の王冠]
前篇





 雪冠をつけた山脈のふもとに、広大な森と、日の昇るところまでを治める王国が、峡谷を切り開いた谷間にあった。峡谷の王は戦に 明け暮れる人生を送り、人生のたそがれを迎える年齢になってからようやく、ひとりの王女をさずかった。
 生誕のその夜、氷の翼を広げた北風が夜の城の上を通り過ぎていったのを王女はきいたという。赤子の頃であったはずなのに、 確かに憶えているのだと、王女はまじない師の女弟子に語った。
「だから、わたしの手足はいつもつめたい。みて」
 まじない師の女弟子の手を掴んだ王女の手は、氷室から出て来たばかりのようだった。
 王女はひとりむすめとして大切に育てられた。王は苛烈で陰険な性格ではあったが、孫ほどに年のはなれた王女だけは溺愛し、 男親らしい過剰なほどの保護をみせ、医者も、まじない師の女弟子のほかは近づけようとはしなかった。王女は、選ばれた侍女たちに囲まれて育った。 外をかためる兵士たちが敵を探す眼を四方に配りながら世継の王女を護衛する一方、女たちは 上質の糸を選り分けて、王女の身を邪悪なものから護るべく糸車にしっかりと念をこめ、余るほどの衣を王女のために丁寧に織った。
 王女は、その夕べ、身体に巻きつけた外套が風にほどけぬように片手で襟元を押さえながら、 彼女がやがて受け継ぐことになる父の王国を外郭に沿って歩いていた。たまたま侍女たちが忙しく、外に出て行く王女の身に気をつける者がいなかったのだ。 古びた石段を辿って上り坂をあがりきると、王女は王国の端で脚をとめた。そこは険しい両崖の間から 枝が伸びるようにして一角が外に突き出している、崖の上だった。
 冬の風が吹いていた。
 王女には父王はいても、母も、きょうだいもいなかった。孤独な王女は、城に専属しているまじない師の女弟子を世話係としてみとめ、 盛りをすぎたその女になつき、まじない師の女弟子にだけはいろんな 打ち明け話をした。この女弟子ならば、噂好きの侍女たちのように、あることないことを方々に吹き込んだりはせぬからだ。
 王女は風に身をふるわせた。晴れた空に浮かぶ冬雲は、雪が近いことを告げて金色に冷え込み、強い筆で荒っぽく描かれたようなちぎれた輪郭が、 上空の風に流されてもつれ合っていた。
 眼をほそめて王女は森の端にかかる冬の円盤を眺めた。針葉樹の森に落ちてゆく太陽。秋から冬へと、しだいに力なく、ぼんやりとしていくその恵みは、 あご髭をうす汚れた黄色に変えて老いてゆく、彼女の父王のようだった。
 母は、後産がまだ済まぬうちに息絶えていた。そこには誰もが口を噤んでしまう、暗い謎があった。王女はまじない師の女弟子から、 或る日このようなことをきかされた。
 夕食の直後に倒れ、高い熱を出した王女に薬をのませてやりながら、女弟子は王女にこう云いきかせた。
「もしも誰かが、王女さまの頭上から冠を取りあげようとしたら、こう云っておやりなさい。他にふさわしい者がいるというのならば、連れてきなさいと」
 老王と王女の貌かたちには相似があり、王女が王の子であることは疑いようもないのに、なぜそんなことを云うのかと、 王女はふしぎであった。まじない師の女弟子は王女の食事に毒が盛られたことを見抜き、 発熱した王女に「いつもの薬」を与えながら、そう云ったのだった。
 大空は群青色に濃く暮れて、半円球の天蓋には火花を散らしたような星が出始めていた。杭のようにして森の彼方にそびえているものは、 氷河の浸食から取り残された崖だった。時の針と呼ばれているその崖の周囲には岩が転がり、木も生えない。地中から染み出してくる 古い氷の溶けたもので永久の泥沼地となっているために、動物すらそこには近づかず、踏み入る者もいなかった。
   木々が根付くはるか昔、山から海に向かって落ちて行った氷河は、森の中に底なし沼という爪痕を残していった。 王女のいる崖からは、夕映えに照りひかる、湖のように見えた。 あの世の入り口の湿った沼地。独りきりになると王女はいつも、そこに行けば母に逢えるのではないかと、夢想するのだった。

 膝を抱えて岩の上に腰をおろし、誰かが夕餉の支度ができたと呼びにくるまで、王女はそこにいることにした。 女たちは王女を腫れものを扱うように甘やかしたが、もうじき十六歳になる王女には、そのことが煩わしかった。
 王女がそれに気がついたのは、森から現れた馬が、かなり王国の柵に近寄ってからだった。柵はちょうど、崖の突端に立つ王女の眼下のあたりで切れており、 その先に続く、深く、暗い森から、その男は灰色の馬にまたがって現れたのだった。
 いそいで王女は崖を駈け下った。侵入者の接近を告げる角笛はその夕方に限ってなぜか鳴らされなかった。風の音ばかりが谷間をぬける、 奇妙なほどに、静かな空白の宵だった。
「それ以上近寄ってはいけません。何者です」
 王女が誰何するよりはやく、男は、束ねた髪をひるがえし、馬ごと柵を飛び越えて、王女の前に降り立っていた。 若い王女の眼には、灰色の馬と見知らぬ男が、森の上に僅かばかりに残された、どす黒い残照から飛びこんできたように見えた。
 男はよく響く野太い声で、馬上から口をきいた。
「ここは、鹿角の兜をかぶった王の治める国か」
 王女はそうだと応えた。確かにここは父の治める国だと、小さな胸をはって男に教えた。王女は男の前に立ちふさがった。
 小声で王女は男を叱り付けた。
「はやく、今のうちに出て行きなさい。櫓に見張りの兵が戻る前に」
「用があって来たのだ」
 馬鞍からひらりと地に降り立った男は、旅外套を肩越しに払いのけた。白く染めた革の胴衣をつけた男の身は丈たかく、あつい胸板をもち、 毛皮の裏打ちをした長靴をはいて、腰には狩人が持つ小型の弓と剣をさげていた。
「俺は、この国の王に逢いに来た」
 男は、王女への礼儀を知る他国人なら当然そうするように、王女の背丈に合わせて膝をかがめることもしなかった。王女の眼に映る男は頑健な、 白樺の丸太のようだった。
「この国のまじない師に診てもらいたい病人を連れて来たのだ。森に待たせてある」
 革手袋をはめた手で馬の手綱をとり、男は王女にそれを求めた。
「あなたの父上に、逢わせてもらおう」

 戦を仕掛け、また攻め寄せてくる敵に備えて防備に力を入れることはあっても、稀人を迎えることは滅多とない国だった。峡谷の国にいるよそものとは、 戦で得た奴隷たちのことであり、彼らは陽のささぬ谷底に鎖で繋がれて、谷で採れる鉱物の採掘作業に使役されるものだった。
 突然あらわれた森からの訪問者に、国の主だった者たちは頭を悩ませた。
「王に裁いていただこう」
 男は王の前に引き出されることとなった。王女が男に附き添った。
「あなたは殺されるかもしれない」
 気を揉む王女の囁きも、男を止めることはできなかった。
「お連れの方が、奇病とな」
「縁あって長年看病してきた者がついに悪い病におかされて、容態あやうい。救えるものならばと」
 広間にはいる前に王女が教えたとおりに、男は身をかがめ、皺ぶかい王の手に挨拶の接吻をした。 男の所作には王の前に出ても委縮せぬだけの気位が具わっていたが、 それは貴人として洗練されたものではなく、野生の粗野と、天然に磨かれた不遜さに近いものだった。
「峡谷の国には、いかなる病でも治す名医が滞在中であるとか」
「まじない師ならば確かにいる。いつも機嫌の悪い変りものだ」
 王は顎髭をさすった。諸国遍歴を重ねて来たまじない師の評判ならば、津々浦々に鳴り響いていたとしてもふしぎはない。 まじない師は数年前より谷に居を構え、峡谷の王に仕えていた。
「あそこにいるのが、その女弟子である。もう若くもないのに、女だてらにまじない師より薬を学んでいる者だ」
 柱の影にいたまじない師の女弟子は、いきなりの王の言葉に赤面し、いそいで頭を垂れた。王の眼が眼前の男の姿かたちを探った。
「そなたは、何処から来たのだ」
「部族の名を応えても、誰ひとり知る者はいないかと」
 それでも男は、その名をそっと唇にのせた。その郷の名は、地の果て、空の果ても同然であった。
 男の言葉によどみはなかったが、王と王の側近はすこしも安心しなかった。
「しょせん、この者は森をうろつく蛮族ではございませんか」
「王よ。奇病などを谷の中に持ち込まれては、国の一大事でございます。流行り病を蔓延させようという、敵の策略かもしれませぬぞ」
 居城は、集まってくる者たちが手にした篝火でおどろおどろしく揺れ動いた。あかい火影に包まれた王座から、王は男に宣告した。
「患った者を、この谷に入れるわけにはいかぬ。疫病を持つ者は、火で焼かれる決まりである。立ち去られよ」
「父上」
 王女は、自らも把握しない未知の衝動に突き動かされて、男に代わり王の前に進み出た。王女の云い分はこうであった。 この方は思慮深く、病人を森の中においてきたと云っている。もしもその病がひとに移るものならば、病人と共に長く過ごしてきたこの方こそ、 とうの昔に同じ病に倒れているはずだ。
「森の中に小屋を建て、病人はそこに隔離すればいい。王よ、どうか。遠方より訪れた方を無情に追い払うようなことをしないで」
 長く厳しい真冬がすぐそこに迫っていた。いまから男と病人を森に追い返せば、夏を待つまでもなく、彼らの遺骸が雪の中に見つかることであろう。
 王女はとなりにいる男に、自分の言葉が届いているといいと願った。そして年老いた王は、愛娘の頼みごとに弱いことを知っていた。
 思いがけぬ王女の熱心さに、広間はしんと静まった。まじない師の女弟子は王と王女を見比べて、見詰めるばかりだった。
 王女の懇願に期を合わせて、男は持参の袋から一同の眼を奪うような冠を取り出した。男の両手にかがげられ、広間に耀いた王冠は、黄金の、冬の雲のようだった。
「謝礼として、峡谷の王に貢物をお持ちした」
 愕いて王冠を仰ぐ人々とは対照的に、ひそひそと老臣の何人かが顔を寄せて何ごとかを囁き交わすのが、王女の視界にひっかかった。


 峡谷の国には、王のいない処でのみうたわれる、ある戯歌があった。その冠は贋のかんむり、真のかんむり、それとも生きている冠、骨になった冠。
 湯屋の床には針葉樹の葉が敷き詰められ、焼けた石を底に沈めた湯船からは、あたたかな湯気が立っていた。 侍女の手を借りて衣を脱ぎ去った若い王女は、香りのよい針葉樹の葉を素足で踏みしめ、湯船の縁をまたぎ、すんなりとした裸身を風呂に沈めた。
 娘の願いに根負けした王は、森の中に小屋を建てた。男の連れは、血が汚れ、皮膚が爛れて腐り落ちてゆく業病に罹っていた。
「少女のようです。病のせいで老婆のように萎びてはおりますが、男のはこびこんだ病人は、少女でした」
 森の小屋から城に戻ってくるなり、まじない師の女弟子は待ちかねていた王女にすばやく耳打ちをした。
 王の命令により、男の連れて来た病人を診た峡谷のまじない師は、打つ手なしと一度は首を振ったものの、 患部を切り落とすことで病人の命ばかりは救えるかもしれないと、男に告げた。
 王は森の小屋を訪れることを王女に禁じたが、王女は嫌がる侍女たちを采配しては、小屋の中の調度を整えることに熱意をみせてはたらいた。 乾いた敷物を用意し、貯蔵庫から薬になりそうな貴重な干し肉を煮炊きしては病人にはこばせ、長持から新しい布を出すことを惜しまなかった。
 長旅のせいで、病める少女はひどく痩せこけ、口も利けない状態であった。男は、枯れ木のような病人を背負うようにして馬に乗せ、ここまで運んで来たのだった。  修行僧のような険しい風貌をした峡谷の まじない師は薬を塗布した包帯で少女の爛れた手足を包み、このままでは手術にも耐えられぬであろうから、体力の回復を待つことだ、と重々しく宣告した。
「少しでもあやしき兆候がみえたならば、殺してしまえ」
 面倒を好まぬ王は暗に促したが、広間に出てきたまじない師は、毅然たる態度で王にのぞんだ。
「あれは王女さまからあずかったも同然の病人であれば、王女さまの為にも最善を尽くしたいとぞんじます」
 王が反対するからなおのこと病人を引き取るのだとも云いたげな、愛想のないまじない師には、人々を納得させるだけの迫力がそなわっていた。
「この病んだ少女は、そなたの親族ででもあるのか」
 まじない師が男に問うた。乳鉢で薬を砕きながら、まじない師の女弟子も傍らで耳をすませた。城の者たちもそれを知りたがった。 病んだ少女についての男の返答はいつも同じだった。行き倒れているところを見つけた、ゆきずりの他人。

 男が峡谷に持ち込んだ王冠についての詮議は当然行われたが、男が冠について、これは偶然森の中で 掘りあてた物であると説明すると、それ以上の追求はできかねた。
「高価な品であろうとも、わたしには意味のないもの。ひとの命が助かるならば、よろこんで差し上げよう」
 かりに男が嘘をつき、盗みをはたらいてそれを得たのだとしても、不用意に人前に持ち出しては疑われる品であることを知らぬわけがない。 他人のために惜しみなく黄金の冠を投げ出そうという男を眼の前にすると、まっすぐな眼をした男の言葉を疑うことのほうが難しかった。
「古い時代の王族が没落し、親族に分散した宝物が子孫に残されることはよくあることだ。さらにその子孫が 零落すれば、宝ものなど邪魔なだけで、どうなってしまってもおかしくはないからな」
 男を庇う者が多かった。森の中に捨てられていたのだから、黄金の冠はもとより飾りものとして作られた物であろうと男は云い、人々もそう考えた。 冠は、成人の頭にのせるには少々、小さすぎたからだった。
 板底に触れる足裏は、湯の中でしだいに熱くなった。湯船に肩までつかった王女の頬は、痺れたようにじんと火照った。湯屋の窓からは、雪がみえた。 森の中の病人の顔色のように白く、千々に乱れる王女の心のように細やかに波打ち、夜の森の上にあてどなかった。
 灰色の馬に乗って王女の前に現れた男は、優れた狩人であった。この地方特有の手琴のように小さな狩猟用の弓を持ち、 上空高くとぶ冬鳥を射おとす時、男の横顔は精悍に引き締まる。 なめした白革の胴衣を身につけ、逞しい腕で薪をはこぶ男は、一旦病人を医師の手に任せてしまうと、 自分のほうから少女の容体を訊くことはなく、森の小屋に近寄ろうともしなかった。
 ある折り、男はしげしげとあらためて王女を眺めてこんなことを云った。
 ----病人とあなたには、どこか似たところがある。とくに、思念を沈めた静かなその眸に、共通するものがある。
「王女さま、彼はきっと死後の舟旅の為に無欲の善行を積む、極北の民なのですわ」
「生前に行った善いことが、死の河を照らす道標となるのだとか」
 少女が死ぬか、恢復するのを見届ければ、その時には男もまた、この谷を去っていくだろう。
 王女の若い眼はしばしば隠しようもなく男の方に向いたが、それは男に興味があるのではなく、男が谷に持ち込んだあらゆるものに対してであった。 年のわりに聡い王女は、その敏感な耳や眼で、城の中のあらゆることを追っていた。古くから父王に仕える大臣たちが、しばらくの間、 執拗に男を監視していたことも知っていた。王女の食事に盛られる毒を、王女は食べた。それが分かると、まじない師の女弟子が大急ぎで解毒してくれるが、 毒にあたった王女を見て、いったい誰が嘆き、誰が笑うのか、これまで王女は醒めた眼で観察してきた。雪を眺めて、王女は憂鬱に呟いた。
「生前に積んだ善行が死の河を照らすというのならば、峡谷にひそむ者はみな、暗闇の底を辿るのだわ」
 針葉樹の葉が棘のように胸につかえている気がした。 氷のようにつめたい王女の手足から、嘆きの水滴が落ちた。湯殿からあがった王女は侍女の差し出す衣をまとった。
 鹿角の兜をかぶった王の時代は、すでに翳っていた。峡谷の者たちは、ここ数年で急速に腰が曲がり、歯が抜け、毛皮にくるまって暖炉の傍から 離れようとはしない彼らの王にかわり、新しい支配者の登場を望んでいた。王女がふさわしき夫を得ることで、それに代わるはずであった。
「王女の結婚をいそごう」
 自らも老いを実感している老王は、そう口にするようになった。国の重鎮たちは、すでに王の親族の中から選んでいた花婿候補を、遠国から呼び寄せる段取りにうつった。

 侍女たちが口やかましくうるさいので、王女の脚はしぜんと、侍女たちが行きたがらぬ場所に向かう。男に背負われて谷に辿り着いた直後こそ瀕死であった病める少女も、 まじない師の薬が利いたものか、冬が深まる頃にはわずかばかりに生気を取り戻し、食事も柔らかいものならば、自分で咀嚼出来るようになっているということだった。
 まじない師の他に森の小屋を訪ねる者といえば、師の指示に従って薬を練ったり、 血膿のついた包帯を取り換えたりする、まじない師の女弟子。王女は父王に内緒で何度も女弟子に頼んでみたが、いつもは王女の我儘をゆるす女弟子も、こればかりは 頑として承知せず、王女が小屋に立ち入ることを許さなかった。
 絶え間なく降っている森の雪が王女のあしあとを隠した。その午後、王女は森をぬけ、病人のいる小屋にそっと近寄った。中で絶えず沸かされている薬湯のためにか、 離れた処にいても、小屋の周囲は濁ったような匂いがする。湿っぽいその匂いは、王女の胸の底にひそむひそかな望みとよく呼応して、 王女の脚をさらに小屋に接近させるだけの効果があった。
 森にはいったところから王女をずっと尾けている者がいることに、王女は気づかなかった。尾行者は手に弓を持ち、雪に刻まれた王女の足あとの上を音もなく歩いた。
「小屋の中にいるのは、王女のお眼汚しとなるような病み衰えた病人です。皺くちゃの皮膚をして、痩せこけております。まだ若いことは 髪の毛がたっぷりと残っていることから分かりますが、先は長くはないでしょう」
 包帯に包まれた病人について、女弟子から得た情報はその程度だった。誰にも内緒で小屋に近づく王女の胸は高鳴った。 戦のはじまりを告げる鐘の音のように、王女の心は、時折、地の底から空を仰ぐようにして、流れる雲を追うことがあった。その雲に手が届く。小屋の戸に王女は手をかけた。
「わたしの身体に病が移るはずはない。何年も、毒に慣らしてきたのだから」
 まじない師の女弟子がくれる「いつもの薬」こそは、いつまた盛られるやもしれぬ毒に対する免疫を、王女につけていた。
「だからわたしは、わたしに似ているというあなたを恐れないわ。 深い森と雪に閉ざされた、出口のない、暗い国。そこに一つだけ燃えている、あなたは確かに生きているものだもの」
 王女は小屋の扉を開けた。吹きつけてきた雪まじりの風に、結わえていた王女の髪はばらばらにほどけた。
 中は狭かった。湯を沸かしている炉を挟んだ壁際に、寝台を隠す衝立があった。それは今は横に片づけられていた。 寝台があった。そこに寝たきりでいるはずの病人の姿はなく、寝台はからっぽだった。包帯の束が鳥の巣のように固まって床に落ちていた。 小屋は無人だった。王女の背後で、小屋の扉が乱暴に閉められた。



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