永遠の都 (中)


 兄のロシュディが運転する車で、マノンとロシュディが港町に着いたのは、前述の島の音楽会の当日のことだった。 マノンは、アドリアンとジョゼフィンの二人と、そこで出逢った。
 中世時代にひらけた、古い港だった。
「今からでは到底間に合わないな。仕方ないさ、仕事が立て込んでいたんだ」
 遅刻は許されない会である。小島の向こうに沈む夕陽を眺め遣り、ロシュディは肩をすくめた。
「今夜のうちに行けるかしら」
 助手席で首に巻いたスカーフを結び直したマノンは、軽くあくびをした。後部座席から荷物を降ろしながら、ロシュディは応えた。
「突然、音楽会に連れて行けと云いだしたり、随分と、いそぐんだな」
「疲れているだけよ。早く休みたいの」
 元気なく、マノンはスカーフの端を手でつまんだ。ロシュディはそんな妹の顔色をうかがった。このところ、マノンは本当に体調が悪いようだ。
「食事にはありつけなくとも、皆に挨拶くらいはできるだろう」
 出迎えたボーイにチップを渡し、ロシュディは車と荷物の一時預かりを頼んだ。
「舟を調達してくる。マノンはホテルで待っていてくれ」
 島に渡る方法は二つあった。半島を大周りした対岸の都市から定期連絡船を使うか、それとも、より島に近いこの小さな港から、舟で漕いで行くか。 ロシュディの姿は、すぐに港へ向かう坂道へと消えた。
 寂れた漁港だった。中世に築かれた砦跡の他は、見るべきものもない。古代の詩人が島影に落ちる夕陽の絢爛を時の皇帝の威光になぞらえて 称えたことで、僅かに好事家の間で知られているばかりの街だった。 現代の空に浮かぶ、あの強い光の列なりをもし見たら、往時の詩人はどのように言葉を吟味するのだろう。やわらかな夏の夕風の中、マノンは魚くさい 港街を歩きながら、はるか彼方の新しい星座、人工衛星を仰いだ。
「金を出せ」
 背後にべたついた足音をきいたか、きかなかったかのうちだった。マノンは刺青のある痩せた腕に捕まって、すえた匂いのこもる路地に連れ込まれていた。すぐに マノンは財布を差し出した。身分証明書をはじめとする大切なものは、ホテルの金庫に預けてある。現金ならば盗られても困らない。
 案の定、物盗はマノンの手から財布をひったくると、すぐに走り去った。ホテルの玄関で待ち構え、目ぼしい客を追いかける。貧しい街では日常茶飯事のことだ。 よそ者の女一人とみて、狙われたのだろう。
 刃物をちらつかされなくて良かったわ。
 最小限の被害で面倒が過ぎたことに感謝しながら、マノンは大きく息をついた。
 そんなことをされたら、わたしもナイフを出してしまうもの。
 ロシュディから習った物騒な技を使わなくてさいわいだった。今でこそ亡くなった伯父の遺産を継いで裕福でいられるが、 子供時代ロシュディとマノンは、施設と路上で育ったのだ。
「僕は出て行く。マノン、お前はどうする」
 施設の窓から脱走しようとするロシュディに、マノンは寝巻を脱ぎ捨て、靴を履くことで応えた。
「ここにいる連中はくそったれ揃いよ。兄さんと一緒に行くわ」
 転がりこんで来た莫大な遺産は二人を一気に上流階級へと押し上げたが、十代の頃に路上で覚えた悪事の習慣はこの兄妹に、 他とは違う、濃厚な関係をはぐくんだ。
「僕のいもうと」
   少年の頃、ロシュディは切なる愛情をこめてマノンをそう呼んだ。
「僕の、大切な」
 煙草はどこだったかしら。マノンは鞄の底を探った。一本抜き取り、燐寸で火をつけると、残った燃え差しは道端の水溜りに突っ込んで消した。 湿っぽい狭い道を挟んでごたごたと積み上がった家々は、夕餉の時間特有の騒々しさに満ちている。安物の日よけの下には植木鉢が並び、 野良猫が魚の骨を前足で転がしながら横切っていった。
 近くの建物の一室から、赤子の泣き声が聴こえて来た。マノンが最初に妊娠し、流産した子の父親は、ロシュディだった。 二人は深くそれを羞じて、教会に懺悔に行き、あの時以来、手も握らない。
 気にすることはないわ。
 近親相姦なんて、そう珍しい話じゃないわ。マノンは煙草の煙を吸い込んだ。路上のロシュディは王さまだった。 あの頃の王さまは片手にわたしを抱えて、この世界を相手どって戦っていたのよ。

 工事中の壁があった。道の脇に積み上がった木材の縁に腰をかけて、脚を組み、マノンは薄紫の煙をはき出した。吹き抜ける夏の風が心地よかった。 太陽の耀きを散らしている夕空に眼を向けた。その時あり得ぬものを見たマノンは、立ちあがった。反対側の建物の屋根に人がいる。
「うごかないで」
 踏み出そうとするマノンを制止する声がするなり、少女が上から飛び降りてきた。雲がふわりと落ちてきたような風情だった。 音もなく、怪我もなく、しなやかな猫のようにすとんと着地すると、少女はすぐに姿勢を戻して、マノンの前に立ち上がった。
 マノンは少女と建物の高さを見比べた。三階分はある。
「音楽会に行く舟を探しているの?」
 少女は眸をきらめかせて、動揺覚めやらぬマノンにそう訊いた。マノンは指からこぼれ落ちそうになった煙草を慌てて持ち直し、それから少女を見て、煙草を捨てた。 島の音楽会は限られた者にしか開放されていない。この少女が知っているはずはない。
 マノンの内心を見透かしたように、少女は微笑んだ。
「わたしたちも、島に行きたいの」
「わたしたち」
「アドリアンとわたし」
 少女に気をとられている隙に、背後に誰かが立っていた。気配を感じさせないそれに、マノンは戦慄した。この感覚には、覚えがあった。
「ごめんなさい」
 少女の顔が申し訳なさそうになった。
「彼、飢えてるの」
 マノンの耳朶に、何かが触れた。男の唇だった。マノンの肩を後ろ抱きして、マノンの首に指を這わせている。マノンは動けなかった。 鞄の中にナイフがある。刃物を取り出そうとするマノンの動きを邪魔するように、若い男の黒髪が獣めいた動きでマノンの頬を撫ぜた。 少女は夕焼けの中に黙っていた。この二人はまるで人ではないみたいだ。マノンは喘いだ。
「……待って」
 助けに来て、ロシュディ。
「財布はさっき、盗られてしまったの。嘘じゃないわ。ホテルまで附いてきて。代わりを用立ててもらうから。約束するわ」
「一度、吸われたな」
 アドリアンと呼ばれる背後の男が口を利いた。囁いて、笑っていた。その手がマノンのスカーフを解いた。女の首筋には、何かを打ちこまれたような深い孔が乾いた 傷口となって開いていた。
「誰にやられた」
「たすけて」
 背後の暴君よりも、少女に期待をかけて、マノンは少女に救いを求めた。少女は首を振った。死刑確定。
 いつ、何処で、わたしはこの醜い怪我を首に負ったのだろう。恐怖と頭痛に乱れる脳裡でマノンは必死で考えた。あれから頭が痛くて、身体がだるくてならない。 この傷のことは、ロシュディにも話していない。
「血霊に眼をつけられたな」
「アドリアン」
「島の音楽会に出入りする人間として、お前は利用できると思われた」
 男は失笑した。哄笑でもしそうな勢いだった。
「肝心の会に間に合わず、遅れて来たとは、傑作だ」
「血霊は血を吸った人間を操ることが出来るの。解毒の方法があるわ。吸った者よりも強い者が、もう一度あなたの血を吸うこと」
「いやよ!」
 次に起こることを察したマノンは思い切りアドリアンを蹴りつけ、腕を振りほどこうとした。それは叶わなかった。 残照が辺りを照らしつけた。夕闇は急速に遠ざり、代わって燃えるような悪寒がはしった。アドリアンは優しくマノンを抱いた。
「ごめんなさい」
 少女の眸の色がマノンに謝っていた。春の泉に似ていた。壁画でも見た気がする。あれは何処だったろう。歴代の皇帝は狂い続けたはずだ。それならば、 ローマに酷似した都に君臨する、あれは誰だろう。 耀かんばかりの女王と、天にも昇らんとする沢山の美しい尖塔。博物館でその遺構を見たことがあるような気がする。頽廃と火山灰の下に消滅した大昔の栄えの都。 少女は女王にそっくりだ。
「別ものだが、似てるだろう」
 アドリアンの手が、マノンの両眼に覆いをかぶせた。そこで、マノンの意識は途切れた。


 黒い蝶が風に飛ばされて、力尽きた羽根を広げ、雨が上がったすぐ後の濡れた路面を埋め尽くす。 セナの靴底で、踏まれた黒い蝶は引き千切れ、すぐに粉々になった。それらは政府を糾弾するちらしを燃やしたものだった。  一階に食堂を構えるおかみさんが、慣れっこといった調子でほうきを持って店から出てくると、反故にされたビラをほうきで道路から片づけた。
「こんにちは、セナ」
 無愛想丸出しで、おかみさんはセナに声をかけた。燃え残りの灰がほうきで側溝に押し込まれていく。
「相変わらず、反社会的な若者たちが、こんなものを街中に貼っていくよ」
「燃やす方もご苦労なことだ」
「夕食、どうせまだなんだろう。食べて行ったらどう」
「いや、急ぐから」
 会釈して、セナは顔見知りのおかみさんをやり過ごした。開け放された食堂の扉から漂う煮込み料理の匂いは、 雨の匂いと混じり合い、セナに郷里の田舎を想い出させた。
 満潮の迫る海が近いせいか、雨の後でも潮の匂いが強い。鞄の中に入れてあるオルゴールが、記憶の曲を奏で始める。 セナは幻聴に埋没し、夕焼けに滲んだ色をした雨上がりの街を、運河に沿って辿って行った。 物陰から舌を鳴らしてセナの注意を引こうとする麻薬売り。乳母車を押して散歩している老いた女。哀切を帯びた空の色。 窓辺に飾られた花々の、刺繍箱を広げたような彩りの濃淡。寂れた街だった。
 カーンビレオ、ソバルト、エンデル。
 オルゴールが奏でる。もっとも単純な音階で、謎の言葉を刻んでいる。セナが初めてそれを聴いたのは、客員として招かれていた助教授の許でだった。
「血霊」
 礼儀上、かろうじて、笑いを堪えた。
「疑うかな、セナ」
「いえ、いいえ」
「古代より、血霊が存在した痕跡は世界各地に散らばっている。古代ギリシアにおいても、血霊は 生きている死人、ラミアとして登場している。十八世紀以降、創作物を通してそう呼ばれるようになった吸血鬼との区別は厳格ではない。 だが血霊には幽霊と似たところがある。この曲を聴きたまえ。ソバルト、エンデル、カーンビレオと奏でている。これらは、騎士の幽霊の名だ」
 ヤギェウォ大学助教授の語りは真面目そのもの。セナは居心地悪く、しかし年長者への礼儀から、生地の擦り切れた年代物の固い椅子の上で身を固くしていた。 あれはピュリツァー賞の受賞者にして、ハーバード大学の心理学教授だったかな。居心地悪く、セナは組んだ脚を組みかえた。こちらの先生と同じく、くそ真面目に 宇宙人に攫われた人間の精神について論文を発表し続け、かつての名誉はどこへやら、奇人変人扱いされた挙句、細君には離婚され、自動車事故で死んだのは。
「これを読んでくれないか、セナ」
 もっとも、心理学教授のその事故も、オカルト好きな連中にとっては、宇宙人とひそかに手を組んでいる秘密機関が手を回した口封じということになるらしい。
 セナは仕方なく、助教授の手から資料を受け取った。たとえ確かにこの御仁が少々いかれているのだとしても、彼の知性と誠実さを、セナは疑ったことはなかった。 つまり助教授は徹頭徹尾、真剣にこの研究に取り組んでいるのだ。まさかと思われるような学説や飛躍的な発明を生みだしては、 狭量で無知の蔓延る宗教裁判で裁かれ、粛清されてきた、かつての科学者たちと同様に。
 セナは読み上げた。
「ベオグラード、一七三二年一月二十六日」
 ご丁寧にも資料には、事件に関わった軍将校五名の署名と、日付が明記されている。しかしその内容といえば、この手の伝説にありがちなものであった。 捏造にしては芸が細かいことに、話は一旦、トルコ領セルビアのゴソバを出発点としている。
「セルビアで吸血鬼に悩まされた農民が、ベオグラード近郊のメドベジア村にて事故死。その後この者は墓場から甦り、村人や家畜を次々と殺め、村を恐怖に突き落とす。 犠牲者の総計は、三ヶ月間で十七名。墓を掘り起こすと、吸血鬼および犠牲者の遺体は腐敗が認められず、健康時の健全さを保ち、風習に従い杭を心臓に打ち込むと、 血も臓器も新鮮であった」
 ざっと要約するならそんなところであった。
「地区総司令官に命じられて事情調査にあたった軍人のみならず、血を吸われたと思しき犠牲者十七名の氏名と年齢もはっきりしていますね。 軍人はいずれも従軍経験があり、死体は見慣れている。これが本当なら、一級資料だ」
 まあ、悪くない。手垢がついた民俗学の一環と思えば、こちらの助教授の熱中ぶりも、それなりに理由が立つものだ。象牙の塔の住人には、 世俗で小莫迦にされているような心霊現象の類も、偏見を嫌悪するその分だけ、新鮮な研究対象として映るのだろう。
「十二、三世紀の年代記にも、同類の記述が見受けられる」
「『血を吸う者』として、ですね」
 竜や巨人、怪物や怪奇の類は西洋東洋問わず、類似点の多い云い伝えとなって世界各地に残っている。 調べれば、血を吸う魔物の伝承くらい世界各地にあるのだろう。
「実在するとしても疑問なのは、彼らの繁殖方法です。不死ということで説明がつくのでしょうが、生物学の裏打ちが欲しいな。これではまるで、幽霊だ」
 セナの関心を得たと思ったか、ヤギェウォ大学の助教授は、温和な顔をほころばせた。その嬉しそうな顔をセナは今も憶えている。
「そうとも、セナ、血霊はそういう存在だ。霧散して消えては、また時を超えて現れるのだよ」
 音楽のようだな。軒先から零れた冷たい雫がセナの鼻先を掠めて落ちた。実体はないのに、そこにあるような気がする。血霊はまるで、音のようだ。
 ロシュディとの待ち合わせ場所は、この先の水門だった。 運河は古びた煉瓦倉庫を巡って海に続いている。厚い雲の切れ目から、海に落ちてゆく夕陽が満潮の近づいた灰色の海を暗く染めた。
 セナは脚を止めた。河を跨ぐ水門の柱に、見覚えのある影が立っていた。
「あんたは、確か」
 名を、アドリアンといったか。ロシュディとマノンと同じ舟にいた男だ。 強い反射が眼を打った。相手が何か、ぎらつく物を手に持っている。正体を確かめたセナは訝しがった。アドリアンは片手に古風な黒杖を下げており、 それはまるで王笏のようであった。
「セナ」
 アドリアンはセナを待っていた。不可侵性の象徴のようなその笏の握り手は銀で、十字の印が刻まれていた。身構えるセナに、アドリアンが口をきいた。
「オルゴール函を渡せ」
「函を?」
 こいつ、どうしてそのことを知っている。セナは辺りをうかがった。ロシュディはまだ来ない。
「宝石は不要だ。函だけでいい」
「盗人の真似事か」
「渡さないと、お前が危なくなる。あの先生のように」
 黒い杖が持ち上がり、日没の光を刺して、セナの背後の煉瓦の石段を指した。セナは振り返った。そして声を上げた。
 外套に身を包んだ見覚えのある影が、夕陽の残照の中からのそりと現れた。あまりにも普通にそこにうずくまっていたので、最初セナにはそれが判別できなかった。 足に車でも付いているかの如く、するりするりと地面を速くすべり、その者はセナに迫ってくる。セナは悲鳴を放った。
「助教授!」
「セ、ナ……」
 生前と同じ、そして生前よりもざらついた声がセナに届いた。その顔容は、確かにヤギェウォ大学助教授のものだった。蒼褪めて、痩せこけ、 そのくせ眼光だけは以前よりももっと鋭く、知性を宿した、あの男のものだった。
 喉が干上る思いで、セナは助教授を拒んで両手を突き出した。学生や友人たちから全幅の信頼と尊敬を寄せられていた温厚な笑みは助教授の上にすでにない。 セナはアドリアンの傍らに退いた。わななく声は声にならず、恐怖で震える脚は、いまにも膝から崩れ落ちそうだった。幽霊、いや、これは助教授の生霊だ。
 身を震わせながら、セナはアドリアンを仰いだ。
「あの人は確かに死んだんだ。死んだはずだ」
 思いついて、セナは鞄に手を入れた。鞄の中には銃が入っている。重たい金属に手が掛かった時、セナはふたたび顔面蒼白になった。 これで、ヴァレリアを撃った。助教授は恋人の仇をうちに黄泉の国から現れたのだろうか。復讐に。
「うわあ」
 銃を構え、セナは叫んだ。セナは決して臆病者ではなかったが、平生から軽視し、疎んじている怪異現象に対する耐性はなかった。 夕陽の色がセロファンのように助教授の眸に貼りついて、その色を変えた。口が開いた。牙が見えた。彼が研究していた魔物の姿だった。
「二人の女は、幸運だ。ソバルトに血を吸われた」
 がたついているセナを横目に、アドリアンが冷淡に笑いを添えた。
「二人の女?」
「マノンとヴァレリア」
 憐れみを込めてアドリアンはさらに付け加えた。
「こちらの先生は、下級の血霊に襲われたようだ」
 ヴァレリアの名に反応した助教授の眼球がアドリアンの方を向いた。それから助教授は、あらためてセナに向き合った。 来るな、来るな。セナは銃の引き金に手をかけた。
「ヴァレリア」
 表情のない顔で、セナと銃を見比べ、助教授は呟いた。
「ヴァレリア」
 セナは生霊を撃とうとした。その銃の上に、アドリアンの黒杖が乗せられた。銃の発砲を防いだアドリアンは、セナの注意を外へ向けさせた。 「見ろ」
「……」
 エンデル。一度も見たことがなくても、それと知れた。人間に酷似しながら、人間とは異なる、あやしき者ども。薄い色の髪をして、 顔色悪く、凶暴を秘めた、魔物の眸。見る間に一つ二つと数を増やして、逃げ場を塞いでいく。
 セナはアドリアンの腕にしがみついた。
「連中は何が望みだ」
 これは手に負えない。理解を超えている。何よりも本能が拒否する。現実非現実と生死の錯綜に支配されて頭が、身体が働かない。
「オルゴールを渡せば、消えてくれるのか」
 まさか。と応えるように、助教授がうっすらと嗤った。生前には見たこともない、残忍な顔だった。その嗤いはこう云って誘っていた。
 セナ。お前もおいで。


 隣りに座ってもいいですか。もし、よろしければ。
 不器用な誘い方だわ、助教授先生。単刀直入にはっきり云えばいいのに。正体をあらわせと。それと、先生。振り向かずにきいてね。貴方は尾行されています。

 島で唯一のホテルは古代から別荘地であることを主張した、エトルリア建築もどきの二階建てだった。 ヴァレリアは二階に張り出した露台から、寝椅子に凭れて海を見ていた。
「ヴァレリア」
 部屋の扉が叩かれた。見舞いに来たのがマノンだと分かると、ヴァレリアはマノンに椅子を勧めた。
「飲み物は?」
「ありがとう、今は要らない。お見舞いに来たの。ヴァレリア、具合はどう」
 何度か顔を合わせたことのある仲だった。 マノンはヴァレリアがどうして崖から海に落ちて助かったのか、ヴァレリアには訊かなかった。ヴァレリアも、マノンが首を隠すようにしていることを、少なくとも 表面上は気に留めなかった。事情は違えど共通の後ろめたさを持つ二人の女は、しばらく無言だったが、やがてマノンから口を開いた。
「あの二人は」
「ジョゼフィンとアドリアンのこと?」
 親しげというよりは、関心なさそうにヴァレリアはショールを胸の前に引き寄せた。
「彼らは、オルゴールを追いかけて、この島に来たみたい」
「オルゴール」
「骨董品のオルゴール函のことよ。どうしてあんなものに興味があるのかしらね」
「その函は、ヴァレリアが持っているの?」
「いいえ。わたしと一緒に海に落ちたわ。上がってはこないでしょうね」
 マノンはヴァレリアの横顔をじっと見た。ヴァレリアは沖に浮かぶ、帆をはった漁舟を眺めていた。
「ヴァレリア」
 気分は相変わらず悪いが、それまでマノンを苦しめていた頭痛や不快感は、あれ以来ぱたりと止んでいた。アドリアンは自分を助けてくれたのだろうか。 それにしては、嬉しそうに血を啜っていたが。
「ヴァレリア。彼らは、何処」
 わたしは何者なのだろう。血霊とは何だろう。これからどうなってしまうのか。その不安の答えをマノンはヴァレリアに求めた。 ヴァレリアからは彼らと同じ、墓土の匂い、異質のにおいがする。
「わたしの眼には、彼らは、少し特殊な人たちに見えるの。云い方が失礼かも知れないけれど、ひどく、その、人間離れしているような」
「アドリアンは、島を出て行ったわ」
 意外な回答に、マノンはヴァレリアを見た。
「理由は知らない。ジョゼちゃんがまだ島にいるから、そのうち帰ってくると思うけれど。それが、どうかしたの」
 マノンは立ち上がっていた。アドリアンを追わなくては。
「セナね。セナが、オルゴール函を持っているのね」
「どうしてそう思うの」
 ひどく醒めた声で問い返し、ヴァレリアは風に乱れた髪を撫でつけた。マノンはもう扉に向かっていた。
「それしか考えられないからよ。だって彼はオルゴール函を探しに来たんでしょう?」
 もしも、兄のロシュディがセナから函を預かっていたらどうしよう。何かに憑かれたかのように、部屋に戻るマノンは冷たい汗をかいていた。



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