永遠の都 (前)



 自分の死に場所と、骨を腐らす墓を知っているというのは、変な気持ちがするものだ。未来永劫、わたしの亡骸には、たむけられる花もないことも。
 石段の上の扉が閉められてから、何刻、経ったろう。半日か。一日か。地上の様子は聴こえてこない。一切が息詰まる。 沈黙に耐えかねた罪人のため息も、牢獄の外には漏れることはない。階段と通路を隔てた地下牢獄の、穴倉のようなあの入り口には、役人が 去った後、泥が盛られ、煉瓦が敷かれ、厳重な封印がなされたはずだ。
 ウンビリクス・ウルビス・ローマエの下階にその口を構えた冥府の門を避けるが如く、墓泥棒も、わたしの墓だけは疎んじる。 ローマの郊外において、わたしは生きながら、冥界の住人となってしまった。
 暗闇の中にかろうじてまだ燃えている蝋燭の小さな火の上に手をかざす。心臓を見詰めている気持ちになる。これがローマ帝国の貴族の家に生まれ、 帝国の運命を左右する聖なる火を守ってきたわたしに残された、最後の光だ。
「巫女に麺麭と、水を」
 日光の恵みとわたしを引き離したのは、無情な役人の声だった。背中に押しつけられた槍先に追われるようにして、 ひとかたまりの麺麭と茶碗一杯の水を抱えたわたしは、自分の脚で、地下墓地へと降りて行った。 日の出前にこの麺麭を焼いた職人は、これが生き埋めにされる女の口に入る最後の食べ物となることを、知っていただろうか。 通りかかるたびにわたしの眼を楽しませてきた市場の賑わい、店開き、店じまいの際に、敷居に彫られた大理石の溝の上でがたがたと鳴り響く戸板の音を、 わたしは二度と聞くことはないだろう。
 地下牢の内部は思っていたよりも乾いていた。これでは大切な麺麭もすぐに固くなる。 巫女を死刑に処するには一滴たりとも巫女の血を流してはならぬ。そんな残酷な法律を、いったい誰が定めたのだろう。カンプス・スケレラトゥス。 呪われし野。そう呼ばれるこの地に、この独房はわたしの為に用意され、本日わたしを生き埋めにした。あらゆる催事で皇帝に並ぶ特別席を 与えられ、手厚い保護と特権待遇、深い敬意を払われていたウェスタの巫女が、いまはこうして、指先を伸ばせばすぐ壁にぶつかる狭い墓にいる。
 あの巫女は、聖なる火を消してしまったのに違いない。
 いいえ。
 苦痛は長いだろうか。それとも眠りのうちだろうか。 恐怖で痛む頭を冷たい石壁に寄せて、まだ生きていることを確認するように、わたしは舌で唇を湿した。裁きの日、 被告人の若い巫女をひと眼みようと、櫛の目のように並ぶ側廊の柱の間に押し寄せた人々の顔には、おののきと、強い好奇心が浮かんでいたものだ。 刑罰の見学は娯楽。円形闘技場では、その日も、奴隷や動物を酷使する残酷な見世物が行われ、 夥しい血が流された。しかしそんな彼らも、わたしに下された刑を知ると、菓子をほおばっていた動きをぴたりと止めて、 首をふりふり、深い同情を口にした。
 栄誉にして、地獄。それが、資格はく奪までわたしに科せられていた聖なる義務だった。
 捕縛されてから刑の執行まで、もっとさかのぼるならば、わたしが齢八歳で巫女に選ばれ、 古参の巫女たちに附き添われて神殿にはこばれていったあの日以降、わたしの父母は、わたしの顔も見に来なかった。 ローマの貴族らしく、彼らはわたしという娘を忘れてしまったのだ。
 お外には出れないの。とわたしは訊いた。
 もちろん、出れますとも。  高価な硝子窓が嵌められた御輿の窓から涙でくもった市街を眺めている幼いわたしに、古参の巫女は請合った。
 あなたは民衆より深い尊敬を受けるお立場となるのです。
 あの日より、十年が経っていた。そしてこの先も、わたしの人生は決まっているはずだった。 見習い期間の十年を過ごし、巫女としての努めの十年を過ごし、表舞台を退いて新人の教育にあたる、永い十年。 その節目を刻むべきわたしの巫女としての歯車は、最初の十年が過ぎた時点で、ぷつりと終わった。
 立ちあがると、頭が天井につきそうだ。最も心配していたねずみやむかではどうやらいない。骨の鳴るような怖ろしさと闘うには、どうしたらよいのだろう。 麺麭がある、水がある。これらは蝋燭の火がまだ燃えている間に食べた方がよいのだろうか、それとも、蝋燭の火が消えてから、唯一の いとなみの保証として辛抱強く残しておいた方がいいのだろうか。
 呼吸が苦しくなってきた。乏しくなってきた蝋燭の残りを見詰め、反射的に私は麺麭を口にした。 かろうじて見える手のかたち、指のかたち、麺麭のかたちとこの粉っぽい味を、眼が見えるうちに、忘れないように。神は決してわたしを許さない。 水はとっておこう。水は後できっと欲しくなる。狂おしい恐慌が襲ってきたが、それを振りほどくように、 わたしは一心不乱に乾いた麺麭をほおばった。こうしていればまだ生きているのだと、小さな糧にすがるようにして。
 麺麭はすぐになくなった。
 そして蝋燭の火が消えた。

 それからのことを詳しく書くことは、あえてやめよう。諸説あろうが断言できる。人間がもっとも苦しむ死に方の一つは、間違いなく、餓死だ。 助けを求めておのれの棺であるところの石壁を両手でぶっ叩き、壁に体当たりを繰り返した。胃の痛みに痙攣し、 喉の乾きに身をかきむしり、気絶しては起き、起きては形容しがたい恐怖と飢えの苦痛に襲われて錯乱し、横転しながら声ならぬ悲鳴を上げ続けた。
 まったくの暗闇の中で、上下の感覚もすぐに消えた。汚らわしい蜘蛛が全身を這い回る幻覚や、窒息する錯覚に苦しめられた。  もはや、わたしは人間ですらなかった。四方を石壁に囲まれた狭苦しい牢獄で、燃え残った蝋燭の芯まで喰らい、 最後の一滴まで飲み干してしまった茶碗を手さぐりで引き寄せては、舐め回すことまでしたように思う。
 はるか後の世、ガリアのルテティアの地で起きた血生臭い大革命も、 虐殺されてゆく王侯貴族たちがあまりにも従容として刃の下に身をゆだね、あのように高潔に死にさえしなければ、 ちょうどこの時のわたしのように見苦しく泣き喚き、壁に頭を打ちつけて許しを乞うていたならば、或いは人心に憐れみの情を呼び起こし、 あんなにも大勢の血が断頭台の広場に流れなかったかもしれない。
 やがて、幻聴が起こった。混濁して薄れてゆく意識に、すぐ近くから、ひとの声が聴こえてきたのだ。そんなはずはないと打ち消すだけの 理性はまだわたしにも残っていた。しかし彼らは、地下牢の中に現れたのだ。声は云った。
「お前の恋人は、処刑場で死ぬまで鞭打たれて死んだぞ」
 知っています。
 干乾びた唇で返事をしたように思う。わたしの眼から、末期の涙がこぼれ落ちた。
 自分の意志に関係なく八歳で神殿の巫女に選ばれたわたしは、帝国の中枢で崇められながらも、死んだも同然だった。 生きようとすれば、死ぬしかなかった。生き埋めになることを知っていても、わたしはそうした。生きたかったからだと、誰に説明すれば分かるだろう。
「命をかけた巫女の不貞というわけだ」
 別の声が嗤った。彼らは何人もいるようだった。封印されたはずの、この狭い地下牢獄に?
「仕える者が処女でなければ、神殿に祀られたパッラスの女神はお怒りか。人間が信仰する女神もこの女も、我儘なことだ」
 そのとおり。そして人々はきっと云うだろう。巫女としての任期が明ける残り二十年の月日さえ、我慢すればよかったのに、 努めを終えさえすれば、純潔の義務もなくなり、恋愛の自由も赦されているのにと。知っている。でもその残酷さについては問題にされたことがない。
 神殿の水盤に顔を映して、何度も考えた。初恋のあらん限りを込めて、誰もがそうであるように、わたしも一途にそれを祈った。あと二十年の我慢など、とても耐えられない。 消えてしまう、蝋燭の炎のようにこの想いが消えてしまう。あの人を失ってしまう。そのことが他の何においても怖かった。そして彼は死んだ。最初で最後の、わたしの恋人。
 彼は、解放奴隷の息子で、わたしの憧れのひとだった。普段は田舎の領地にすんでいて、わたしとよく遊んでくれた。
「まだお前の心臓はうごいている」
 いつの間にか仰向けにされて、衣をはがされていた。役人が罪人の死を確認しにきたのだろうか。 皇帝の命令で地下牢は永久に封じられたはずだ。では、彼らは皇帝の使者なのだろうか。十年前、有力貴族の子女の中からわたしに白羽の矢を立てた、あの運命の従兄。
 皇帝に逢うたびに、親族の小娘ではなく巫女としてのわたしに深い敬意をはらう彼を前にするたびに、わたしの胸には叛逆の焔が燃えた。 貴方を恨んだりはしない。その代わりわたしは、貴方がわたしに与えた、わたしの責務を呪い続けると。
 あの巫女は、聖なる火を消してしまったのに違いない。
 いいえ、そうではない。わたしは神聖なあの火を消したりはしなかった。その代わり自分の為に、ささやかなる火を灯すことはした。 お別れに、皇帝にお伝え下さい。ローマを見守る神の火のような立派な焔ではないけれど、一度でいい、禁忌の火の河を渡り、森の中で小さな生命を温めてともす自由を、 わたしは得たかったのですと。
 冥府の住人たちが、横たわるわたしの手首と足首を持ち上げた。
「生きている。お先に」
「神を棄て、神に棄てられた女よ」
「お前は運がいい。我らは血霊ソバルト。歓迎しよう」
 冷気が吹きつけて来た。わたしは抗い、反射的に手を振り回した。息は続かなかった。喉に何か、鉄釘のようなものが突き刺さり、わたしの呼吸は喘いで止まった。
 お前たちは、誰。どうやって入って来たの。
 何も見えるはずはないのに、地下の暗い牢獄に、真っ青な大空が拡がっていた。美しい尖塔が見えた。ローマではなかった。あれは、遠い国。彼らの故郷だ。 床を引きずられた。影が深く覆いかぶさってきた。動悸がはやまった。燃え盛る何かが見えた。華か、花火のようだった。眩しさに、わたしは両眼をかっと開いた。  飢えの業苦よりも強烈な、雷に打たれるような紅蓮の焔が、仰け反るわたしの喉を貫いてやいた。
 

 夜空に浮かんでいるものは、シャンデリアの如き衛星だった。新たな星座の出現は、星空が神々の世界ではないとすでに知る人々に歓迎もされなければ、 嫌悪されもしなかった。
 文明が科学技術の最先端をはしるにつれて、地上の国では懐古趣味が蔓延し、さながら古代帝国を手本とした中世の文芸復興の勢いで、 おおらかな生命と自然、相克と調和、力づよい写実の昔を懐かしみ、人類は機能性にあえて背を向け、その模倣に没頭していった。
 忽然と興った、古びたものへの切なる愛好。約半世紀の模索的な潜伏期間を経て、これが大流行したのが、セナが生まれる三十年前のことだった。
「セナ」
「中座して失礼。海を見に行っていた」
。  晩餐会は盛況だった。開かれたフランス窓からは海鳴りの音がかすかに聴こえ、夜風はやさしかった。セナは両手をこすり合わせた。 夏とはいえ、夜になると外は冷える。
「かけがえのないものは、永遠に美しい。どうですかな、皆さん」
 化粧品会社の宣伝のような陳腐な文句も、今宵かぎりは出席者の賛同を惜しみなく得たようだ。 限られた者だけが招かれる島の音楽会は、そこに招かれることこそが、ひそかな名誉とされていた。
「小さな島ですのね」
「隠れ家のようでちょうどよいでしょう。波音にも木々にも、音楽の精が宿っているようではありませんか」
 一人か二人、決まってくさいことを云う奴がいる。セナは侮蔑を抱いた。現実的な近視眼の間で揺れ動いては、 昇ろうとあがく芸術家の持つ遠視眼との、永遠に埋まらない溝だ。
「セナ。何か飲むかい」
「ありがとう。ちょうど喉がかわいていたところだ」
 音楽の愛好家の中でも、地位と財産が揃った後援者たちが年に一度、初夏を選んでこの島に集い、きわめて私的な音楽界を開いていることは、 社交界でもほとんど知られてはいなかった。
「音楽が好きというだけではいけない。深い理解と無心の協力がなければ。セナ、君はどう思う」
「同意です」セナは適当に相槌をうった。
「演奏者への援助も付け加えておいて下さいな、セナ。寄与は惜しみません。古代ギリシヤの時代から、芸術家には その羽根を存分に伸ばして羽ばたかせてやる後援者の存在が不可欠です」
 事実に照覧して、それは一面では正解で、一面では誤った見解であったが、演奏会後の心地よい満足と酔いの中にある人々は、誰も異を唱えようとはしなかった。 古くより演奏家は芸術家ではなく賤業職人であり、その多くは諸国を遍歴して日銭を稼ぐだけの嫌われ者にすぎなかったことに、思いを馳せる者もいない。 この島は、日々の憂さから解き放たれた忘却の孤島。上陸したその時より、彼らは神話の住人となり、自らが慎重に織り上げた理想の夢の中にいるのだ。
 太陽が海原に沈む頃に始まり、弧を描く雲ひとつない空に金色の星がひしめき合う頃まで、音楽会は続いた。 野外音楽堂を満たしていた至福の刻は過ぎて、演奏者たちは、精魂込めたひとときの余韻と拍手に送られて、一足先に、楽堂と島から去った。 来年の再会を約束し、また来年、この島に招かれる栄光に授かりたいものだと願いながら、今ごろ彼らは何処かの船室で 心づくしの豪勢な食事にありついているか、或いは楽の殿堂に魂を捧げた者にしか分からぬ放心や、自虐的な反省や、糸の切れたような眠りに落ちていることだろう。
 誰か、この星空に添える硬質な音色を、口笛でもいい、その天性の献身により、うたってはいないだろうか。陶酔覚めやらぬまま食堂に集った一同は耳を澄ましたが、 館の外は海の底の貝のように、静かであった。
「それでは、皆さん、そろそろ」
 名残惜しさのうちに、晩餐会も終わりに近づいた。珈琲が片づけられた食卓に、両手で包めるほどの大きさの、小ぶりなオルゴール函がおかれた。
「寄付を」
 オルゴール函は横長の陶製で、鑑定師が値段をつけられぬと愕いたほどの、年代物だった。 繊細な縁どり模様は一部に欠けがあるものの、全て金銀細工で出来ており、その意匠のせいか、野に忘れられた精霊の函が橙色の露に覆われたような趣きがあった。  人々はその周りに集まった。誰かの手がオルゴール函の上蓋をあけた。貼り替えたのだろう、函の中は、青緑色の天鵞絨がしっとりと敷き詰められていた。
「音が鳴りませんね」
「裏面のねじが外れたままになっていますから」
「……ヤギェウォ大学の助教授さんは、お気の毒でしたこと」
 過ぎた日この函を開いた男の、深い知性に裏打ちされた温和な眼を想い出し、感傷的になっていた婦人の一人が涙ぐんだ。人々は黙りこんだ。
「助け出された時には、骨と皮だったそうです」
「病院に移送されてからも、看護人が眼を離すと冷蔵庫を何度も開けて、手当たりしだいに食べ物を口にされたとか」
「止めましょう」
 断固たる口調で制止が入った。
「それ以上は冒涜だ。若くして知の人と称えられ、弱者の救済に奔走し、セナやぼくをはじめとした年下の学生に対してもあれほどに 誠実であった方の理性や精神を壊すだけの暴虐を、わたしたちは憎むだけでいい」
「飢えに敵う生物はいない」
 ぼそりとセナは呟いた。その両眼には、何かの意志が強く宿っていた。
 島の音楽界に集まった人々は、厳粛な面持ちでオルゴール函の中に持ちよった宝飾品を入れていった。あしがつきにくく、すぐに売却できる 指輪や首飾りの一部、或いは腕時計。天鵞絨の上に積み上がっていくそれらの品は、屋号が不明の年代物が多かった。薔薇の蕾と呼ばれる 中世を代表するカット。後光留めされた老坑翡翠。高度な職人技術が必要とされる透かし細工の妙。 積み上がった宝石は命をもった物のように響き合い、函の中できらきらと輝いた。
「では、ヴァレリア。いつもどおりに頼みます」
「分かっています」
 オルゴール付きの宝石函を受け取ったのは、若い女だった。正装した出席者の中でいちばん若く、ワンピース姿の軽装だった。
「貴女一人に危険をおかす仕事を頼むのは気がひけますが、女の方が怪しまれないから」
「しっ。お静かに」
 食卓から離れて、窓辺の長椅子に腰をかけていた男が、外に向かって身を乗り出すようにした。
「どうかしましたか」
「岸壁の方から、音が」
「まさか」
 それを受けて、青くなり、灯りを消そうとする者もいた。沈黙がおちた。
  「僕の客でしょう」
 いち早く場をおさめたのは、セナだった。
「仲間のロシュディが、妹のマノンを連れて来ると云っていました。音楽会には間に合わないが、挨拶だけでもと」
「それで先刻、外にいたのか」
 窓越しに海の方を一瞥したセナは、上着に袖を通した。
「見てきます」
 セナは壁際に控えていた給仕に向かって片手を伸ばした。
「銃を」
「待って。わたしも」
 立ちあがったのは、ヴァレリアだった。ヴァレリアは預かった宝石函を洋燈の照らす小机から取りあげて、大切そうに手提げ鞄に仕舞った。
「セナ。一緒に行くわ」
 セナは承知した。立ちつくしている人々に一礼をすると、セナは手提げ鞄を持ったヴァレリアと連れ立って素早く食堂を出た。


 晴れた夜空は、星の園だった。水平線に近いところに人工衛星の強い光がある。新古代風と呼ばれる模倣様式で 建立された野外音楽堂の丸屋根が、沈んだ山のように盛りあがって柑橘林の向こうに見えていた。
 館を出たセナとヴァレリアは、やわらかな棘のある低木をぬって、海へ向かう小道を辿った。 そこから先は断崖になる。ヴァレリアの髪が虚空になびいた。海岸に向かうには、遠回りをして、崖に築かれた狭い石階段を使う必要があった。
「足許がよく見えないな」
 灯りを持って来なかったことを、セナは後悔するふりをした。階段は島の漁師しか使わない。
「大丈夫かい、ヴァレリア」
「平気よ」
 女の声が夜風となって背中から応えた。
「わたしは夜でも、比較的視界が利くほうなの」
 落ちついた返事だった。確かめてやろうにも、闇の中では互いの顔もよく見えない。セナはそんなヴァレリアに男としての引け目と軽い苛立ちを覚えた。
「あそこだわ。舟が」
 眼下の浅瀬にぼんやりと舟が見えてきた。船影から風に乗って聴こえてくる話声は、確かに旧知のものだった。
「ロシュディと妹のマノンだ」
「でも、四人いるわ。舟にはロシュディとマノンの他にも、二人乗っている」
 ヴァレリアの云うとおりだった。波打ち際から砂地に引き上げられた小舟の周りに認められる人影は、確かに四人だった。 よく見えるように、ヴァレリアは階段を数段降りると片手を岸壁について身をかがめ、海側に身を乗り出し、下方を確かめた。 セナは崖の上に残った。ヴァレリアの行動を、セナは緊張感をもって眺めた。
「誰かしら」
「そういう君は、誰なんだい」
 ヴァレリアは振り向いた。銃が見えた。階段の上からヴァレリアに向けて銃を構えているのは、セナだった。 ふざけないでというように、ヴァレリアは闇を透かして眼をほそめた。
「セナ」
「君は誰だ。ヴァレリア」
 風にまとわりつくワンピースの裾を片手でおさえて、膝をついていたヴァレリアは立ちあがり、白い膝を隠した。
「銃を降ろして、セナ。どうしたっていうの」
 セナは両手で銃を構えたままだった。果実園の香りが甘く漂った。夜には黴くさく、爛れたように思われる匂いだった。セナは銃を降ろさなかった。
「何ごとなの」
 訝るヴァレリア目掛け、セナはその名を云い放った。
「血霊」
 暗渠のごとき海の深い闇が、世界を揺らし、二人の真下に拡がってうねった。
 セナ。ヴァレリアは信用してはいけない。
 秋の陽が枯葉の影と共に舞い込む大学の研究室で、セナはそれをヤギェウォ大学の助教授からきかされた。 助教授とヴァレリアは、恋人同士との噂だった。セナにそれを告げた助教授の首には、真新しい包帯が巻かれていた。助教授は 埃っぽい古書を憑かれたようにめくっていた。

 彼女は、わたしが長年研究していた魔物の末裔だ。

「ソバルト。それともエンデル。あんたの恋人の口からきいた憶えがあるだろう」
 セナの詰問に、ヴァレリアは応えなかった。ヴァレリアが身じろぎしたのをセナは見てとった。
「近づくな」
 漆黒の闇と同化した女の輪郭は、云われていることが分からないというように、こちらを向いているだけだった。 気のせいか、女の両眼が、金剛石のように光った気がした。セナは呼吸を鎮めた。時間がない。くそ、指が震えてやがる。
「君の亡き後、あの宝石函はもらっておいてやるよ。生霊め」
「誤解だわ、セナ」
「近づくな。確実に撃つ」
 愕いたことに、ヴァレリアは引き返して、階段を昇ってきた。波音が魔物の唸り声に聴こえるような夜の端を、彼女は堂々とセナに向かって歩いてくる。 鳴らないはずのオルゴールが鳴った。女の髪が噴き上がる風に乱れて舞った。
 大した度胸だ。
 セナは銃の狙いを定めた。
「ロシュディ。わたしの靴はどこ」
「ここだ」
 船縁から砂浜に降り立ったマノンは、角燈を点けた。兄のロシュディがそれを受け取った。灯りの輪に照らされた砂地を探すと、舟から投げておいた靴をようやく見つけた。 マノンがそれを履くあいだ、マノンの足許を小さな蟹が逃げて行った。
「セナが、迎えに来ると思うんだが」
 ロシュディは角燈を持ち上げた。舟を隠した夜の岩場は、別の惑星のように荒れて見えた。
「危険よ。ロシュディ」
「島のこちら側には仲間しかいないさ」
「そうとも限らないようだ」
 ロシュディに続いて舟を降りて来た黒髪の若い男が、岩場に立ち、夜の一点を指していた。ロシュディとマノンは青年の指し示す星空を振り仰いだ。音が静寂を裂いた。 砂が波に崩れ、海辺の草が一方方向に倒れて揺れた。はっきりと銃声が聴こえた。ロシュディとマノンは抱き合った。
「今のは何」
「此処で待ってろ、マノン」
「おーい、おーい」
 海岸につながる階段から、人影が走って来た。銃を手にしている。
「セナよ」
「セナの声だ。セナ!」
「そこにいるのは、ロシュディだな」
 砂浜の彼らに向けて、セナは銃を持った両手を挙げた。
「心配ない、今の銃声は僕のものだ」
 同じことを今度は頭上の崖上に向けてふたたび大声でセナは繰り返した。救援を求めて、セナは大きく手を振った。
「誰か来てくれ」
 声は朗々と響いた。
「連れが崖から飛び降りた」
 ロシュディはほっとして、マノンの肩を叩いた。
「助けを求める合図の銃声だ。誰かが崖から落ちたらしい。行こう」
「落ちた」
 黒髪の青年の呟きが、マノンの耳にきこえた。風が急に冷えた気がした。マノンは上着をかき合わせた。氷のような月の下、青年の横顔は、 人には見えぬ何か、聴こえぬ何かを聴いたものか、ロシュディとマノンが見詰める方向とは違う、黒い波の揺れる暗闇の低い一点を、醒めたような顔つきで見詰めていた。
 濡れた砂がざくりと崩れた。海鳴りは不安にとって変った。マノンは慌てて舟に戻り、舟の中にまだ残っていた 最後の一人を誘った。
「何かあったらしいの。行きましょう」
 セナの叫びに応えて館からも人手が出たものか、にわかに崖の上が騒がしくなった。しだいに大きくなる騒ぎは彼らのいる浜にも聴こえた。 走り寄って来る各々が海際で持ち上げている灯りの乱れが、夜空に飛び交う夜光虫のようだった。
 波打ち際は白く、白砂は雪の原に似て、月の国のように清浄だった。マノンの手を借りて舟から浅瀬に降り立ったのは、淡い色の髪をした少女だった。
「ジョゼフィン」
「アドリアン」
 岩場に立つ黒髪の青年は、最初、少女を無視しているようだった。それから、青年は少女に手を伸ばした。 拒絶するような仕草だと、何故かマノンは思った。少女は夜の海風を渡るように、黒髪の青年の許へと走って行った。


 永遠に枯れない。
 そんな花がこの世にあるとすれば、その島のその花が、それであった。行方不明となったヴァレリアの墓は枯れても太陽の色を失わぬ、その花で飾られた。 その花は姿かたちを保ったまま生命を終え、立ち枯れて、色褪せることがない。化石の風が花畑を吹き抜けたが如く、生きたまま、死んでいる花だった。
「きれいよ、ヴァレリア。棺が空っぽでごめんなさい」
 遺品は僅かだった。ヴァレリアの旅行鞄を納めた黒塗りの棺の中にも、同じ花が敷き詰められた。海から上がらぬ主の不在を隠すように、棺車も花々で囲われた。 永遠の花は葬儀の間中、そよ風に乾いた音で鳴っていた。
「ヤギェウォ大学の先生が、きっと貴女を迎えてくれる」
「神の国で、どうか、お幸せに」
 死んだ助教授と、ヴァレリアの悲恋に泣かぬ者はなかった。ヴァレリアが自殺したのには、恋人だったヤギェウォ大学助教授の死が原因だと、両者を 結び付けて考える方が自然というものだった。
 真新しい墓の横に膝をつき、ロシュディとマノンも花を添えた。顔の前を横切った蜜蜂を手で追い払い、マノンは沈痛に兄に囁いた。
「事故の可能性はないのかしら」
「ない。セナが証人だ」
「そうね。皆が云っているわ。恋人だった助教授の後を追ったのだと」
 片膝をついたロシュディとマノンは並んで十字をきった。ロシュディとマノンに続き、列の後方からセナが現れ、ヴァレリアの墓の前でうなだれた。
「彼女の死には、責任を感じるよ」
 彼こそ最も衝撃を受けているはずだった。眠っていないことを示すように、セナの顔には疲労があった。
「セナ、あれは突然のことだった。お前でもどうしようもなかったさ」
「あの辺りは海流が渦を巻き、滝壺のように何もかもを呑み込んでしまう」
「そうよ。ヴァレリアはそのことを知っていたのね」
「海底が隆起しない限り、死体は上がらないだろう」
 墓地を後にした人々は、音楽堂とは反対方向にある船着き場に向かった。 島の農夫たちが御者となった。馬車に分乗した人々の沈黙は、さながら葬列の続きのようだった。船着き場には、迎えの船が既に着いていた。
「さようなら、また来年」
「ヴァレリアの御霊が、安らぎますように」
「マノンさんがいないわ」
「妹は、もう少し島に残ります」
 乗員分の弁当を島民から受け取っているロシュディが、大籠の向こうから応えた。
「最近体調がすぐれないので、しばらく気候のよい海辺で休養させようと思って、妹を連れて来たのです」
 島は、昔ながらの生活を頑固に保持している保養地としても有名だったから、誰も疑問には思わなかった。 都会の空気よりは、新鮮な潮風の方がからだに良いに決まっている。
 船はすぐに出航した。海は晴れていた。セナは上甲板の手すりに凭れ、船影の下を泳ぐ魚の群れを眼で追っていた。ロシュディが隣りに並んでも、 セナは海を見ているままだった。
「セナ」
 ロシュディはぞっとした。海を覗きこむセナの眼つきは尋常ではなかった。躊躇いがちに、ロシュディはセナに声を掛けた。
「オルゴール函のことを考えているのか、セナ」
「いや」
 短く、セナは応えた。
「函はヴァレリアが持っていた。ヴァレリアと共に、海の底に沈んだよ。残念だ」
 それは、宝石函のことなのか、ヴァレリアのことなのか。
 莫迦げた疑念を振り払おうと、ロシュディは首を振った。沈黙がおちた。島に残してきた妹のマノンと同じ色の巻き毛が額にかかるのを、ロシュディはかき上げた。 次の質問はセナの方から放たれた。
「それより、ロシュディ。あの二人の身許は、確かなんだろうな」
「同じ舟で来た彼らのことだな」
 ロシュディは頷いた。風にあたろうと、人々が船室から甲板に上がって来た。他の者たちの眼を気にしながら、ロシュディは世間話を装った。
「マノンと同じ療養目的だ。少女の方がよくないらしい。マノンと一緒に島に残ったよ。彼らとは偶然、港で知り合ったんだ。 島に渡る舟を探しているというので、夜でもいいならと引き受けた。仕方なかった。マノンが勝手に約束してしまったのだからな。何か不審な点でも」
「……」
「セナ」
「いや」
 気にし過ぎだろう。太陽にいかれたと思われそうだ。些細なことが気にかかるのも、神経が昂ぶっているせいだ。セナは遠くの群島へと眼を上げた。 ロシュディの云うとおり、マノンのあの顔色は、具合が悪いせいなのだ。
 この暑いのに、マノンはずっと、襟元の詰まったレースの服を着ていた。


 音楽の苑から人々は去った。青い空に、島の黄色い花が揺れていた。
 遊びに行こう、ヴァレリア。
 海の泡が渦巻く深みの底で、ヴァレリアは頭上の水面に漂う太陽を仰ぎ、水色と黄金の夢をみた。パラティヌスの丘と、テヴェレ川。 森の中に行こう、ヴァレリア。もし君が怖れないのなら。
 鏡のような輝きに向けて、女は手を伸ばした。取り巻く海草の影は、かつて歩いたことのある、大理石の列柱回廊だ。襞を整えたトガをまとい、奴隷に担がせた 輿の中で熱心に書類を読みふけっている裕福な男。鉛白と赤鉄鉱で念入りな化粧をほどこし、仕上げに眼の周りを煤でくまどった美しい婦人たち。 懐かしい都。鉛のように心が重い。
 たとえこの身が塵と変ろうとも。
 手の先が、涼しい空気に触れた。誰かがヴァレリアの手首を掴んで、ヴァレリアを海から引き上げていた。胸の下に何かがぶつかった。 舟縁を超えたようだった。
「蜘蛛の巣と、酢を混ぜたものを持ってきて下さらない?」
 何千年も口を利いたことがない者がはじめて喋るように、ヴァレリアの声は掠れた。
「エジプトの、薬局方でもいいわ」
 最初に眼に入ったものは、島に咲く永遠の花だった。ヴァレリアを小舟の上に助け上げたのは黒髪の青年だった。花束を抱えた少女が同じ舟の船尾にいて、 そこからヴァレリアを見詰めていた。
「貴女の弔いに来たの」
 少女はリボン付きのラフィア帽をかぶっていた。そのせいか、遠足に来た女学生に見えた。 照り返す波の模様が、少女の帽子の鍔の裏に、繊細な光の縞を描いていた。
「そうしたら、波の底に貴女がいた。薄眼を開いたまま、木乃伊のように横たわり、魚の影を追っていた。アドリアンが見つけたの」
「運が良かったな」
 ヴァレリアは櫂をとった青年の顔を見た。運が良かった。大昔、同じようなことをきかされた。 ずぶ濡れの髪が日光にあたためられ、ぬるい雫が、ヴァレリアの蒼褪めた頬を伝い落ちた。
「カーンビレオ」
 その呼称は、無意識のうちにヴァレリアの口をついて出た。カーンビレオ。最高位の血霊騎士にして、裏切り者を示す呼称のことなのだと。
 わたしは、確かに、誰かにそう教わった。
「まがい物のソバルト」
 すぐに青年はヴァレリアに云い返した。青年の顔は、ヴァレリアを侮って笑っていた。
「このまま墓に直行するといい。止めはしない」
「気にしないで」
 永遠の雨が青い海に降った。海に花束を散らして、少女がヴァレリアに微笑みかけた。女同士にしか通じない類の、含みのある笑みだった。
「アドリアンは、皮肉やなの」
「何処かで、お会いしたかしら」
「わたしが、貴女と?」
 波風に舟が揺れ動き、眼の前の耀く青色が歪んだ。眩しすぎる。ヴァレリアは眩暈の中で片目を押さえた。
 ガリアの、ルテティアで。
 あの夜の月光も、海原に、道のような白銀のひと筋を作っていた。星空にひらけた、雪の谷間のようだった。 少女と黒髪の青年は、そこを踏んでこの島にやって来た。
 何も想い出せないというように、少女は微笑んでヴァレリアの問いに首をふった。島の桟橋が見えて来た。マノンが手を振って待っていた。真昼の熱い大気に花が香った。



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