[楽園の霧]
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Yukino Shiozaki

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■U.


 カルビゾンは城壁を越えて郊外にまで人口のあふ出た、
大陸中に点在する国の中では安定した統治を誇る大国であった。
 「エトラ様はほんとうにお美しくなられました」
前の王に仕えた宰相の末息子は道々、横目にエトラを眺めては賛嘆を隠さず、
よほどこの再会を心待ちにしていたようであった。
 「ナイアード王は一年に一度、かの地に使者を渡らせておられました。
  先代王が寵愛なされた妃と、御従妹エトラツィア様のお二方のことを
  常々お心にかけておられ、新年の貢物も、必ず余分に分けて届けておられた。
  ご不自由がないようにとのお心遣い、まこと、王のご高徳のしめすところでございます。
  そして、使者が城に戻ってくるたびに、エトラ様のご成長の様子をその者の口から語らせては、
  王ならびに廷臣一同、エトラ様がお懐かしく、エトラ様にお目にかかりたいと願っていたものでした。
  おお、もちろん王弟ギリファム様や、トルマン王子も」
 「バーレン」、エトラはバーレンの悪気のない世辞を遮り、
 「街の様子を聞かせて」
 話を変えさせた。
バーレンの言葉には、微妙な嘘と誇張があった。エトラはそれを敏感に感じとっていた。
峠で王弟ギリファムに襲われたジャルディンとエトラは馬を持たなかったが、
代わりの馬がすぐに用意されたので、それに乗った。
エトラとジャルディンを囲んだ騎馬は、橋を渡り、ゆっくりと城の門へと近づいた。
目立たぬように入城したいとのエトラの希望と、
ひとまず歓迎は後日にしたほうが宜しかろうとのナイアード王の意向により、向かうのは、
市街を抜けてゆく大手門ではなく、山間から河を越えて入る裏門である。
左右にどっしりとした円塔を従えた城門を見上げて、エトラは感慨深げであった。
戦時用の門として作られた裏門は、厳しく、聳え立つ壁は空への入り口のようにも見えた。
十年前、母はエトラを連れてこの裏門をくぐり、国を去った。
あの時は、夕闇に、細月が出ていた。
不安ではなかった。また帰って来るのだと思っていた。これほど長くかかるとは想わずに。
行列の後ろの方に控えて馬を歩ませるジャルディンもまた、彼にしか分からぬ想いに沈んだ。
二度と戻らぬであろう、遠い国、幾つもの大門と、モザイクの床。
果実の木々、精緻な紋様の刻まれた壁と円柱で構築された光と水の白亜の宮殿。
そして影の宮殿。
そこで育った。
早朝の遠乗りから帰ると、「開け!」、少年だった彼は門衛に命じ、
半ばしか開いてはおらぬ門を馬の蹄で蹴破るようにして、そのまま母のすまう後宮まで、
朝風をきって駈け抜けたものだった。
 --------俺は、タットキリアの王子だったのだ。
 旅籠の夜は、いつもと勝手が違って、退屈だった。
傭兵連中とならそうするように、階下の酒場や夜の街に繰り出すわけにもいかぬ。
その夜はひとり用の部屋しか余っておらず、ジャルディンは壁に凭れて眠るつもりだった。
少年時代を過ごした宮殿でも、よくこうして夜を過ごした。
着飾った女たちや、まといつく香の匂いが窮屈で、ひと気のない処ばかりを探した。
ひんやりとするモザイクに顔をつけて、星空を仰いだ。
迷宮のような宮殿から飛び出して、胸いっぱいに風を吸い込み、遠い何処かへ行きたかった。
塔からは望む海は、青い帯のようだった。流れる雲は、天馬の影だった。
何かがもどかしく、馬で野山を駈けても、剣闘に打ち込んでみても、
身の深いところで渦巻いて荒れるものは、憧れのかたちを留めたまま膨らむばかりで、
何ひとつ解消しなかった。
荒野を湖に変えるほどの雨、森と虹に覆われた国がこの海の果てにある。見てみたかった。
十三の歳に剣を持って、朝焼けの中に踏み出した。
棄てた国だ。
剣を磨きながらそれを打ち明けると、寝台の上で膝を抱えたまま、エトラは薄く笑った。
ジャルディン・クロウ。それでは、わたしも面白い話をしてあげるわ。
灯りを挟んで向き合った。
髪を丹念に梳かしていたエトラは、櫛を箱に納めた。
寝巻がわりにしている袖のない膝丈の肌着姿が、夜の蝋燭灯りに浮き彫りにされて、やさしげだった。
(滑稽な話なのよ。実は、わたしの母は望郷の念のあまりに宮廷を去ったのではなく、
 わたしを守るために、カルビゾンを出たの)
あなたがタットキリア帝国の王子なら、わたしだってこのくらいの嘘をついてもいいでしょ、ジャルディン。
それから、エトラは両脚を板張りの床におろし、踵をつけた。
ほっそりとした少女の脚がジャルディンの前にあった。
エトラは小卓の上に身をかがめた。
灯りを消すわ。おやすみ。
ジャルディンの口から出かかった言葉は、少女の姿と共に暗闇におちた。
あの時も、エトラは何を考えているのか知れぬ眼をしていた。
放浪楽人の奏でるもの哀しい風琴の音が夜に流れていた。
エトラはすぐに眠ってしまった。ジャルディンは剣を抱えて壁に凭れた。
棄てた国だ。戻ることもない。

 城門をくぐった彼らは、幾つもの中庭を進み、まずは先代王の眠る霊廟へと導かれた。
霊廟の内部へはエトラだけが入った。他の者は外で待った。
エトラは王の石柩の前に跪き、まず母の死を告げた。
帰還の報告を済ませ、差し込む薄い光にうたれながら、祈りを捧げた。
今のわたくしになら、訊きたいことがたくさんあるのに、もう応えてはくれないのですね。
お父さま。
エトラは台座に据えられた石柩に頬をつけた。
あの遠い葬儀の日、エトラは母に抱きかかえられて、柩の中の父と別れた。
エトラは母と共に、父が一番たいせつにしていた革張りの写本を柩の中に納めた。
王がよく、母とエトラに語り聞かせてくれた古い古い本だった。
エトラが大きくなってからも、時々、母がそれを語ってくれた。
その母も死んだ。
お父さま、エトラツィアです。
エトラは柩に凭れて眼を閉じた。ようやくお父さまの許に戻りました。
昔のように、わたくしを呼ぶお父さまの優しい声がききたい。
お父さま、お母さまも死んでしまったの。
お城はそのままなのに、-----わたくしは、独りです。
霊廟から出て来たエトラを、西日が照らした。
色硝子を流したような夕方の空だった。
十年の月日を経て、カルビゾンで生まれた王女が、ようやく生まれた国に帰って来たのだ。
 「エトラツィア。よく、戻った」
 両腕を広げてそこに待っていたのは、カルビゾンの若き王、ナイアードであった。
王はエトラが霊廟から出てくるまで、ずっと外で待たれていたのである。
また、少し離れた円柱廻廊にはもう若くはない貴女たちが集っていて、こちらを見ていた。
それらはエトラが外に霊廟から出てくるのを見届けると、尊大に顎をもたげて、
見るも穢れとばかりにさっと姿を消した。
女たちの一行に混じって、一人、若い王子がいた。
王族にしかつけることが許されてはおらぬ、金の輪冠をつけている。
それではあれがナイアード王と、王弟ギリファムとは母違いの、庶子王子トルマンであろうか。
しかしそれも、斜光と女たちの間に隠れて、廊下の奥にすぐに見えなくなってしまった。
王冠を戴く青年王は、先にみた王弟ギリファム同様にエトラとは似ていなかったが、
南国の美しい鳥の羽根にしか見受けられぬような、明るく冴えた水色の眸は、
エトラと王に共通するものであった。
顔容に表れているその精神性は、三つ違いの王弟ギリファムより、よほど質が良いようであった。
ナイアードは即位の年に別れたきりの従妹が美しく成長していることにひどく愕き、
露に触れることを怖れるかのような品のいい躊躇を見せたものの、やがて、
高貴なものにしか出来ぬ何気ない仕草で、やさしくエトラを抱き寄せた。
 「エトラツィア。お前の従兄を忘れたか」
 「王」、エトラの声もふるえた。
十二歳違いのいとこは顔を見合わせ、強い感動におされるようにして、微笑みあった。
 「昔のように、ナイアードお兄さまと呼んでくれて構わないのだよ」
 明るい顔でナイアード王は従妹の手をとった。
 「御位をお譲り下された先王が格別にかわゆく思し召されていた姫であるのに、
  遠くはなれてしまっては何もしてやれなかった。これまでのこと、赦せ」
 カルビゾンの若き王は、エトラの帰還を誰よりも歓んでいるようであった。
エトラ、お前から帰国の報せを受けたわたしは、すぐさま迎えの一行を立てたのだ。
それなのに、お前と来たら野武士のように馬に乗って、すでに出立したというではないか。
街道沿いを見張らせて、せめて国に入る前には女輿を用意して出迎えてやろうと思っていたのだが、
見過ごされてしまったようだね。
それも無理もないこと、まさかわが従妹が髪を切り、そのような男のなりをしているとは思わなかった。
 「お小姓のようでよく似合う」
 王女の姿をしげしげと見つめて、感心はせぬものの、仕方なく王は微笑まれた。
 「しかし、お前のお披露目はその髪が伸びるまでしばし待とう。いらぬ噂になってもつまらないことだ」
 「王の御心のままに」
 「それで、エトラ。黒髪のあの者は」
 「ジャルディン・クロウ。腕の立つ傭兵です」
ナイアード王は側近に促して、ジャルディンを近くに連れて来させた。
 「カルビゾン王」
 ジャルディンは草の上に素早く片膝をつき、ナイアード王の差し伸べた手に接吻をした。
 「ジャルディン・クロウ。傭兵にして、
  此度はエトラツィア王女より護衛を仰せつかった者にございます」
 「ご苦労だった。ジャルディン」
 青年王は友人のような気安さでジャルディンの手を取り、立ち上がらせた。
人心を掴むのに慣れた王の態度であった。
 「浅黒い肌に黒い髪。精悍なる、混血の傭兵よ。
  大切な従妹の供をよく果たしてくれた。褒美をとらせる。大儀であった」
 「王」
 はじめてエトラは口を出した。
その者、お兄さまのお許しをいただけますならば、このまま城に留めおき、従者といたしたいと思います。
よい、あっさりナイアード王はお認めになった。
いきなり故郷に戻っても、気安く使える者がいなくては、お前も困るだろうから。
 「皆の者見知りおけ。これなるは、ジャルディン・クロウ。今夕より城の者となる」
王はジャルディンに、王の指環を嵌めた手をもういちど差し出した。
エトラツィア王女に仕えよ、ジャルディン。
もう一度ジャルディンは膝を折り、その指環に接吻した。
夕陽を向こうにして、王と誓約を交わす傭兵の長い影が出来た。
その様子がたいそう堂々として立派であること、居合わせた廷臣たちは絵のようであると感嘆した。
若干の不服をこめて横目でエトラを睨むと、エトラは平然とジャルディンを見返した。
こうなるのが当たり前だといった顔つきであった。
そこに、はるか遠くの大手門で喇叭が喨々と鳴り響く音がした。
 「余の弟、ギリファムが帰城した知らせである」
 歩み出すナイアード王が差し出した腕に、エトラは貴婦人の仕草で手を預け、王はそれを支えた。
ナイアード王はエトラの短い髪に、いとおしそうに触れた。
ギリファムもお前を見たら、さぞ愕くであろう。
離れ離れになっていた従妹よ。お前も本来ならば、あのようにして正門から迎えてやりたかった。
沈む朱金の太陽は、カルビゾンの国土を赤く照らした。
ジャルディンはふと異様な視線を覚え、城を仰いだ。
西の塔の窓に、憎悪で表情をなくした、高貴な女の顔があった。


 傭兵、と呼ばれて、ジャルディンは振り向いた。
先ほどまで晴れていた空は翳り、ぬるい風が吹いていた。
 「ジャルディンといったか、傭兵」
 街並みに面したその物見塔からは、国土が一望できた。
森と土塁を背にした城からなだらかに下れば、小さな模型を並べたような市街地に入り、
人家や商家の密集した人口過密な街を守る城壁から向こうは、耕作地と村が広がっている。
交易の恵みを約束してくれる街道が縦横に伸び、銀色の筋は河、
そしてその果てにかすむのは、太古より続く未開の森であった。
カルビゾンは、典型的な森を開拓して発展した国だった。
空と大地の茫漠とした間に漂う風は、森が失せたことを今も知らぬようだった。
眼下に細かく広がるものを物見塔の上からつぶさに眺めていたジャルディンは、
傭兵稼業の職業病ともいうべき陰気な幻覚で、瞼の奥に焼きついたさまざまな阿鼻叫喚が
このカルビゾンを襲う様も、鮮やかに想像できた。
無血のままに降伏した国もあった。
エトラの母の国のように、徹底的に焼き尽くされ、破壊された小国もあった。
傭兵として幾つもの戦場を渡り、国の興廃を目の当たりにしてきたジャルディンの耳に風が囁くのは、
それは数年後か、それとも五百年後か、
いつの日か確実にこの国を襲う、滅びの予感だった。
今のところはカルビゾンに進攻しようという国はないが、それでもこの国は難攻不落というには、
少々国土が散漫に広すぎ、そして城壁は領民のすべてを収容するには小さすぎ、
鉄壁の堀をめぐらせるには岩盤が固く、河の主流が遠すぎた。
カルビゾンを治めるナイアード王は、それも、ご承知であられた。
もしもあの地平の果てから数では敵わぬ大軍が押し寄せて来た時にはどうするのか、
眼下のあの平野に不気味な花のように敵方の天幕が咲きそろい、砲撃で脅かされるその日が来たら。
新参者がそう訊ねた時、ナイアード王はあっさりとこう答えられた。
その時には、敵に投降するだろう。求められれば、わたしの命を差し出そう。
王はジャルディンを誘って宴席を離れ、露台に出られた。
降るような星空があった。
ナイアード王は先ほどの王の答えに不服そうな傭兵に、
悪戯っぽい笑顔で話しかけられた。
しかし、それらの敵がもしもカルビゾンの民を虐殺に来るのであれば、一人でも生き延びるために、
出来うる限りの抵抗はして見せよう。その時こそ誇りを胸に、カルビゾンの旗を掲げて我らは戦おう。
それでよいだろう、傭兵ジャルディンよ。王であれ、民であれ、命あってこそではないか。
 物見塔からは、地平線に連なる森林がかすんで見えた。
故国の波の音を聴くような気がした。
そこに、供も連れずに塔に上がって来たのは、
ナイアード王の実弟、ギリファム王子であった。
 「ジャルディン・クロウ。こんなところで何をしている」
エトラの従兄は、朝の風が寒そうに、マントを喉元にかき寄せた。
ゆるやかに波打った髪は兄ナイアードと同じ色をしていたが、ナイアード王の顔にある
芯の強い落ち着きは見当たらず、その顔に浮かぶものは自己顕示欲の旺盛さと、
必然的に伴う性根の狡さ悪さである。
 (小心者だな)
 ジャルディンは礼も返さなかったが、ジャルディンに並んで胸壁に腕をかけたギリファムは
傭兵の無礼など気にも留めなかった。どうやら、王弟は強い者には無条件で感心する性質らしく、
傭兵ジャルディンの噂を鵜呑みにしたものか、すらりとしたジャルディンの体躯をしげしげと眺めて、
「黒い牡鹿のようだ」、媚るように笑った。
 「どうだ。城には慣れたか」
 ジャルディンはうんざりしたが、「それなりに」、と応えた。逢うたびに王弟は同じことを訊く。
 「お前は実は一介の傭兵などではないそうだな」
 「噂だ」
 「その不遜な態度がそう思わせるのだ。
  兄上も重臣たちも、たちどころに、あれはただの傭兵ではないと見抜かれて、
  あれは何者だ、何処の国の要人だと騒がしい。エトラツィアのやつに訊いてみても、
  男を見下すような笑みを浮かべるばかりで、肯定も否定もしない。ますますあやしい」
 「では、城を出て行こう」
 まあ、まてまて、ギリファムは踵を返したジャルディンの前に立ちふさがった。
苦笑いをすると、余計に卑しく見える男だった。
 「王がお前を客人と認めたのだ。エトラの従者ではなく、友人として迎えると。
  お前たちが恋仲でないことなどすぐに分かる。それゆえの寛大な王の処置だ。
  ま、よかろう。ジャルディン・クロウ、誰にでもその横柄が通用するわけではなかろうが、
  他ならぬ王と従妹がお前を気に入っているのだからな。それに、俺も謙られるのは苦手だ。
  かえって俺を見下していやがる気がする。しかし他の者がいる前では、わたしを敬えよ」
 「そうしよう」
 「上から下へものを云う。お前はよほどの蛮族の出か、よほどの大国が後ろ盾になっているのだ。
  そうでなければ途方もない命知らずだ。だが、いいか、俺にとってはお前は傭兵のままだ。
  傭兵ジャルディン、跪け」
 ギリファムは指環を嵌めた手を伸ばした。
指環にはナイアード王のものと同じ王家の紋章が刻まれていた。
 「兄にしたように、わたしにも追従を誓う接吻をするのだ」
 ギリファムの足許に身をかがめ、ジャルディンはそうした。
満足したギリファムは笑い飛ばした。
 「傭兵の忠節などあてにはしないが、受け取ったぞ、ジャルディン」
 王弟もジャルディンの真名を聴けば、そのような虚栄心も吹き飛ぶであろう。
大陸と大陸の間に冬になれば荒波に閉ざされる大海が広がっていたのは幸いであった。
さもなくばとうの昔に、いまだに幾つもの小国に分かれて戦を繰り返し、
群雄割拠のただ中にあるこの粗野な大陸など、一枚岩の強大な軍事力を有する
超帝国タットキリアに攻め寄せられて、火に枯れ果てる草地のように
ひと呑みに制覇され、蹂躙されていたであろうから。
 (ジャルディン)
 タットキリアの帝王は大勢の息子たちの中から、ジャルディンを選んだ。
十三の歳に即位し、後宮に納めさせた女たちに次々と子を生ませた父は、
少年であったジャルディンの眼にも、帝王たるべくして帝王となった、まだ若い男であった。
豪族や臣下たちの一部に権力が偏ることのないよう、定められた妃を持たず、
飽きのきた後宮の女たちはもはや用済みとばかりに片端から臣下に下げ渡したが、
ジャルディンを生んだ女だけは手許に据え置いて、ながく寵愛していた。
母は、彼らが地の果てと呼んで見下していた北方からはこばせた、
雪のような肌をした美しい女だった。
 (おお厭、あの女のあの肌。白蛇のよう。気持ちが悪い)
 後宮の女たちは母を散々に嘲ったが、それはそのまま、帝王の寵の深さを知らしめるものであった。
王座に座った父は、片頬杖をついていた。
召し出させたジャルディンに、帝王は唇をゆがめて酷薄に笑んだ。

 (お前に、この国をやってもいい)
 (ジャルディン!)

 嫉妬深い女たちの手で、母が惨たらしく殺された後のことだった。
浅はかな知恵で、後宮の女たちは全員で手を下せば罪が軽くなると思っていた。
 (ジャルディン、そこから出てはいけません。
  眼を閉じ、耳をふさぎ、何も聴いてはいけません)
 母が外から鍵をかけ、その身をもって守った扉の錠が壊され、
ようやくジャルディンが外に助け出されてみると、そこにあったのは、
原型をとどめぬまでに打ち砕かれ、引き千切られた、母であったものの残骸だった。
帝王は虐殺に加担した後宮の女たちに慈悲を与えず、生きたまま獣に喰わせ、
それを幼いジャルディンにも見物させた。
ジャルディンは帝王に感謝したが、同時に、父と国に嫌気が差した。
序列からいえば王位継承など望むべくもない異国女が生んだ混血王子、
ここに居ても飽くことなく繰り返される権謀術数の血生臭さに首まで浸かるだけである。
母が大切にしていた指環を握り締め、船に乗った。
嵐に遭い、そのかたみも失くした。
その時はじめて、故郷と縁が切れ、晴れ晴れと生まれ変わり、解放された気がした。
ジャルディンは知らなかった。
何処に逃げても、同じことであることを。
 「霧だ。すぐに止む」
 ギリファムはジャルディンに平野を見るように促した。
カルビゾンの国土に、薄もやのような霧がかかっていた。
森から流れる霧は平地を覆い、嵩を増しながらしだいに伸びて、地上を渡る雲となり、
街を瞬く間に包みこむと、城にも這い上がって来た。
胸壁の上に、中庭に、王族の眠る霊廟に、音もなく押し寄せた霧は、ゆるやかな渦を巻きながら、
眼の前に薄布を垂らすようにして、視界のすべてを奪い去った。
物見塔は満潮の霧海を渡る船の舳先のように、わずかばかり霧の上に出ていた。
まといつく水影のような霧をうっとうしげに首を振って払うと、
エトラツィアは美しくなったものだ、ギリファムは腕を組んだ。
見た時には愕いた。母であった女も美しかったが、はんぶん幽霊のようであったあれと違い、
観賞に値する娘だ。ちと生意気だが、湿っぽかったあれの母親よりよりは、ずっといい。
はやまらなくてよかったな、とジャルディンは胸裡で皮肉を独りごちておいた。
国境の峠で先王の王女を闇に葬ろうとした日陰王子の目的や真意など、大方、想像はつく。
だが、ギリファムの口調には何やらそれ以上のねついものがあった。
王弟は眼を細めて灰色に靄った地平の一点を見つめ、
何やら邪なる考えに取り付かれている様子であった。
しだいに広がる霧に包まれて、物見塔を残してすべてがかき消えたようになった。
雲の上に浮遊しているような、奇妙な心地だった。
 「霧だ----、カルビゾンの名物だ」
 「王弟」
 「何だ」
 「ナイアード王は、エトラをカルビゾンの王妃にと、お望みか」
 「何故わかる」
 ジャルディンは無言で西と東に顎を向けた。
ぼんやりとした尖塔の影が左右の霧の中にあった。
先代の正妃であった女は、夫亡き後王太后と尊称され、城の一隅に隠居していたが、
西の塔にすまうその王太后はエトラツィアの帰還について最も頑強かつ頑迷な抵抗を示し、
ナイアード王の耳にあれこれと吹き込んでは、難色と嫌悪を隠さなかったという。
城に入った日に西日の中で見かけた、女たちの集団、あれが王太后とその取り巻きであろう。
かつてエトラの母に夫を奪われた女は、戻って来たエトラに対しても憎しみを向けて憚らず、
エトラを「魔女の娘」と呼びつけては城の者たちのエトラへの敬遠を煽り、
老いてなお衰えるどころか盛んになる一方の、その根性悪を侍女たちと熱心に燃やし続けていること、
それとなく、ナイアード王の信任篤いバーレンの口から聞かされた。
何かを攻撃しなければ気がすまぬ陰湿な女たちの前に、まるで新たな薪を足したよう、とは
バーレンの言い草である。しかも今度の薪は、若く新鮮で、美しく、老境に脚のかかった女たちにとっては、
胸に渦巻く嫉妬と積年の鬱屈を起爆剤とした格好の集中攻撃目標であった。
敗国の姫が生んだエトラに対する偏見が下地としてあるだけに、中傷と嫌がらせが止まる筈もない。
 「しかしご安心を」
 間に挟まれて気苦労が絶えぬであろうに、気丈にバーレンは請合った。
先代さまがエトラツィア様の御母上にそうなされたように、
ナイアード王も、エトラツィア様と王太后さまとの間には、注意深く距離をおき、
御座所も城の西と東に分けて、顔を合わせぬようにご配慮されておられますから。
こう申しては何ですが、王太后さまの顔色を窺っている者たちの中にも、
過ぎたる人である王太后さまよりは、エトラ様を盛り立てようとする気持ちの方が強いのです。
何といっても、ご即位後十年が経ちながら、現王の正妃の座が空席のままなのですから。
 「なるほどな。バーレンからその話を聞いて察したか」
 からからとギリファムは笑った。
 「わたしならば、女同士の諍いを見物して愉しむがな。
  醜態を晒して恥じぬ王太后などに興味はないが、
  根性悪の醜女たちに美しい娘がいびられているのは、なかなか愉しい見ものだぞ。
  それでも夫に棄てられた女は惨めなものだ、あの婆あにも少しは同情してやらんとな。
  先代王であった伯父上はそれほどに、エトラの母ばかりを贔屓にしていた。
  日の当たるところには出せぬ女であるのに、妃の称号を与え、
  その寵愛の深さときたらいまだに語り草となっているくらいだ。
  知ってるか。先代がはるばる遠征して女の国に攻め込んだのは、過日の戦において
  敵方に与したあれの国がカルビゾンに少なからぬ打撃を与えてくれたという遺恨もあったが、
  美しいと評判だったその姫を、伯父上が求めたからだそうだぞ」
 俺が知っているのは、人形のような、
どこを見ているのか分からぬような不気味な女の姿だが、と
ギリファムは晴れてきた視界に横顔を向けた。
霧が立つと、エトラの母は窓辺に凭れていつまでも小声で歌をうたうのだ。
兄と俺は、これでは幼いエトラツィアまでもが気が狂うと思った。
それで、子供の頃はよくエトラを連れ出して、一緒に遊んでやったのさ。
 (ジャルディン)
 非公式の歓迎が一通り済んで、二人きりになった時、
エトラは庭園に通じる石段の上に立ち、
目線が同じ高さになったジャルディンを振り返った。
中央に水盤を設えた広い庭にはたくさんの花が咲いていた。
城の中でも高台にある為に、霧が発生すると、この庭は花の舟のように空中に浮いてみえた。
長年男の衣裳を着ていたエトラは、晴れて女の姿に戻ったものの、裾さばきがまだ覚束無く、
ジャルディンが見ている前でも時折裾を踏んで躓いた。ジャルディンは見て見ないふりをした。
それでも、この娘に具わった天性の優美は十年の空白を経ても損なわれることなく、
尼のように短いままのその髪も、白眼視されるよりは、城内では概ね好評であった。
金色の髪に縁取られた少女の美しい顔が近くにあった。
エトラは水色の眸で傭兵を見つめ、つくり物のようにかたちのいい、その唇を開いた。

 (懐かしい城に帰れて嬉しいわ。こうして歩いていると、いろんなことを想い出す。
  幼かったわたしの首を誰かがここで絞めたことも。霧の日だったわ)
 (ジャルディン、あなたが海の彼方から来たというのが本当なら、
  そこにアルケイディアはあった?
  古文書の中にしか記されていない伝説の国アルケイディア。
  七つの宴の都、この世の何もかもが揃っている、何もかも。
  でも、そこにはきっと、霧はないわね)

 「戻って来なければよいものを」
 ギリファムは口を引き歪めた。そこへ、
 「お二人で、何の話ですか」
 笑顔を見せて、三人目の人物が物見塔へ上がって来た。
先代王の弟が遺した三人の男子のうちの一人、ナイアード王の末弟トルマン王子だった。
こまかな霧が衣を湿らすのには閉口したものの、ギリファムの言葉どおり、
霧はすぐに晴れてゆこうとしていた。
 「へえ、あまりここには来たことがありませんが、ここから霧を見ると雲の中のようですね」
 王の末弟トルマンは他の従兄と同じくエトラには似ていなかったが、かといって
二人の兄にも似ていなかった。
あれが王子だと教えられなければ、街の少年かと思ったかも知れない。
甘やかされて育った裕福な家の息子、それがぴったりとはまるような無邪気なところが、
背丈のすっかり伸びた今となってもまだあった。
先代王の弟が側女に生ませたトルマンは異母兄たちとは歳が離れ、エトラよりも二つ年上となるが、
霧の下からしだいに姿を現してくる街並みを眺めては、あれが橋だ、あれが商館だと、
夢中になっているさまは、いっそ、愛嬌を通り越して愚かにみえるほどであった。
 「トルマン、お婆のお守りをしなくていいのか」
キリファムは軽蔑している異母弟をからかった。トルマンは口を尖らせた。
 「お婆などと。王太后は霧を浴びるとお身体に障るので、
  窓の覆い布をさげて、いつものようにお部屋でお休みです」
 「ジャルディン。こいつは王太后のお気に入りなのだ」
 遠慮なく、ギリファムはジャルディンの前で末弟を愚弄した。
 「実の母よりも俺たちよりも、死んだ伯父上の奥方に懐いているのさ。
  血など繋がってはおらぬのに、王太后がこれを犬か猫のように可愛がること可愛がること、
  何処に行くのにも連れて行く。見ていたら胸が悪くなるほどだ」
 兄の厭味はいつものことなのか、トルマンは特に気にしたふうもなく、
あちこちに場所を変えては、物見塔からの高い眺めを存分に愉しんでいるようであった。
 「女は怖いものだな。トルマンは溺愛しても、エトラは疎んじる。昔からだ」
 「王太后は、ギリファム兄上が仰るような、そんな悪い方ではありませんよ」
 薄くなっていく霧を名残惜しそうに追いかけて、トルマンは兄の小言から離れて反対側へ行った。
 「それに、まだお美しい」
 「それはお前に女を見る目がないからだ」
 ギリファムの嘲りは容赦なかった。
霧が流れると、風が吹いた。空が見えてきた。
 「トルマン、お前は王の弟の自覚がないのだな。男の自覚もないのだな。
  さもなくば、いい歳をしてあのような婆あどもと仲良く遊ぶことなど出来んはずだろうからな。
  枯れ果てた婆あが若い男をはべらせてご機嫌になっているのを見て、
  その相手をしている自分が情けなくはならぬのだな。
  こんな話、恥ずかしくて諸国には云えぬわ、弟が老女たちの情夫となっているなどと」
 「兄上、云いすぎですよ」
 さすがに憮然として、トルマンは云い返した。
そこには先までの愚鈍な反応は偽りであったかのような、才智と強気が仄見え、
逆に兄ギリファムを侮っているような、余裕がみえた。
わたしは、ギリファム兄上よりは、王族の親族としての義務をわきまえていると思いますよ。
 「王太后がどうあれ、わたしは貴方と違い、
  先代さまの血を受け継ぐエトラツィア王女の帰還を歓迎していますから。
  エトラが出て行った時にはまだわたしは母と共に街中に暮らしていたので、当時のことは
  ほとんど何も覚えてはいませんが、しかしそれだけに、
  先代さまが愛された姫を巡る大人たちの遺恨や禍根には無縁です。
  綺麗な妹がわたしに出来たようで、嬉しいですよ。
  ギリファム兄上こそ、王に隠れて恥ずかしいことをしているのではないのですか。
  それに、兄上のエトラへの毛嫌いを見ていると、どうも、
  わたしよりもよほど王太后とお親しいようだ」
 「なんだと」
 雲間から光が差してきた。
 「あ、エトラだ」
 胸壁からトルマンは中庭を覗いた。ギリファムとジャルディンもそれにならった。
中庭はまだ霧に埋まったようになっていた。その灰色を薄く透かして、
庭を横切っていくエトラの姿が見えた。
父の眠る霊廟に参るのだろうか。花束を抱えていた。
気に喰わぬ顔でギリファムが文句をつけた。
 「ああして霧を従えて歩いているところを見ると、まさに魔女だな」
 その音を、戦場で生きてきたジャルディンだけが捉えた。
彼らが見下ろす下界で、エトラが霧の波に突き飛ばされるようにして前のめりに地に倒れた。
 「エトラツィア?」
 何が起こったのか分からぬトルマンとギリファムが同時に声を上げた時には、
既にジャルディンの姿は物見塔の階段に消え、霧の流れる地上に向かって走っていた。
螺旋階段の石段を駆け降り、ようやく塔から中庭に飛び出してエトラの許に駆け寄ろうとすると、
エトラは、
 「物陰から出るな。ジャルディン」
 片脚を押さえたまま、きっとしてジャルディンに云い渡した。
エトラは自力で霊廟の屋根の下にまで這いより、柱に背をつけていた。
 「霧が晴れるまで、誰も来ないで。わたしは大丈夫です」
その頃には非常を告げる鐘が鳴り響き、城に詰める衛兵が武具を手に城の中を駆けていた。
 「エトラツィア様」
 反対側から駆けつけた王の側近バーレンが、常に似合わず生垣を飛び越えてみせたのに続いて、
兵士はエトラの許に集結すると、霧の中に盾を掲げて四方を固め、王女を護った。
後で知ったことであるが、意外にも非常召集の鐘を最初に鳴らし、
霊廟前に出動するよう号令を飛ばしたのは、ギリファム王子だということだった。
ジャルディンは中庭を囲む城の窓という窓、柱の陰、幕壁の隙間を眺め回した。
あれは矢音だ。
この霧の中で、エトラを狙ったのだ。 
エトラの命を、カルビゾンの王女を。
 -----ジャルディン。わたしの母はわたしを守るために、カルビゾンを出たの。
  


[続く] 

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