[楽園の霧]
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Yukino Shiozaki

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■V.


 母から教えてもらった言葉は、誰にも通じなかった。
それを告げると、母はジャルディンの唇の上に、ほっそりとしたその指をおいた。
水と緑、光と影がつくるくっきりとした濃淡に彩られた宮殿において、
母に与えられた室だけは、風も光も、やわらかな屈折を描いて窓から入った。
壁や天井に映って揺れる薄い影は、水草のようだった。
その窓もたいていは籠居の家であるかのようにひっそりと閉ざされて、
後宮の中、そこだけが忌むもののように、遠巻きにされていた。
だめ。誰にも喋ってはだめ。
 (それはお母さまの故郷の国の言葉なの。
  ここでは誰にも分ってはもらえないわ。
  誰にも、分ってはもらえないわ、誰にも)
 やがて、外に、訪れを告げる鈴の音がする。
母は顔をそむけて、四方の壁に逃れる道を探すかのような差し迫った不安を浮かべ、
そして悲痛に眼を伏せた。
白磁の肌を包む薄布をかきよせ、薄紅色の唇を引き結び、
潤いを待つからだを、この世から隠すようにした。
このように急では、湯あみもさせては下さらない。
 (ジャルディン。外で遊んでいらっしゃい。夕暮れになるまで、ここに来てはだめ)
 その日のようにまだ太陽が高いこともあれば、月が中天を過ぎてからのこともあった。
天窓から差し入る明るい陽光は女の白い肌をくまなくさらけ出し、
蝋燭の灯りは、女の細い喘ぎやわずかな抗いを、闇の底に深く沈めた。
それに重なる褐色の男の影は、あのような執着でもって、片時も離さぬもののように
確かに女を愛していたのだと気がついた頃には、女はもうこの世の者ではなかった。
 ジャルディンは寝台の帳をはらい、寝ているエトラの顔の横に片手をついた。
金色の髪を枕に広げて、エトラは眠っていた。
薄暮の空を渡る鳥が窓の向こうに見えた。菫色の雲間には、黄昏の星があった。
夕暮れに暗い室だった。
ジャルディンはエトラの上に身をかがめ、寝台に重みをかけぬように覆いかぶさると、
その額に口づけた。
 「-------何て、云ったの。いま」
 「起きてたのか」
 出て行こうとしていたジャルディンは、エトラの寝台に戻って来た。
エトラは瞼を開いた。いま、何て云ったの、ジャルディン。
傷み止めの薬のせいか、眠たげな声だった。傭兵が触れた額に手首をおいて、エトラは天蓋を仰いだ。
寝台の天井には婦人用の部屋らしく、野花と聖獣の絵が描かれていた。
 「矢は掠っただけだ。すぐに歩けるようになる」
 「聴いたことのない言葉だったわ------」
 「ここでは誰も知らない言葉だ」
 「あなたの故郷の言葉なの?」
 「そうだ」
 「もう一度、云って。もう一度、聴きたい」
 「たいしたことでは」
 夕陽に照らされた傭兵の影を、エトラはぼんやりと見上げた。ジャルディンが負けた。
 「”はやく良くなるように”」
 王女はまばゆそうに笑った。
 「ありふれた言葉なのね。おまじないね」
 「よく効く」
 「よく効くですって。子供みたい。でも、憶えておくわ」
 あなたが怪我をしたら云ってあげるわ。でも、接吻はしないわ。
 「まじないの言葉とあれで、一組だ」、意地になった。
 「だからって、人が寝ている間にしなくてもいいじゃない」
 ジャルディンは弁解の口を開きかけたが、やめた。肌着を洗濯した時のように、
また睨まれてはかなわない。
 「エトラツィア、無事か」
 霧は夢のように晴れた。
陽が差して急速に明るくなった視界、人垣が何重にもなった中庭の片隅に、
ナイアード王が駆けつけられた。
側近が慌てて王を押し止めた。エトラは仰向けにされていた。
 「王よ、王女の脚にあたった矢には毒が塗ってありました」
 「毒が」
 ナイアード王はかっとその双眸を燃え立たせた。
 「毒が」
 「霧がさいわいしました。狙いは外れ、掠っただけです。毒抜きの処置はしました」
 ジャルディンは人々とは反対側に立ち、周囲を見上げていた。
何事かと中庭を見下ろしている城の者たちの間から、第二矢は飛んで来なかった。
王と大勢の兵に守られてエトラが運ばれて行くと、ようやく緊張がほどけた。
霊廟前には踏みにじられた花束と、血が落ちていた。
エトラツィア様はお休みになられております、お静かに。
東の塔の控えの間は侍女がつめ、そしてナイアード王から急ぎ差し向けられた王の侍医、
街から呼ばれた薬師らが、ちょうど帰るところであった。
 「消毒を済ませました。王女はもう心配ございませぬ。すぐに傷口も塞がりましょう」
 毒抜きの手当ても早く、皮膚を掠っただけでは致死量には至らぬものと判断がついてはいたものの、
王の侍医からそれを聴いて安堵した。
名目上はジャルディンはエトラの従者ということになっている。
ご婦人の部屋であろうとエトラがそれを許す限り出入りは自由のはずであるのだが、
ジャルディンがその日の夕刻までエトラの部屋を見舞いに訪れなかったのには、
理由があった。


 負傷したエトラが東の塔に運び込まれた後、ジャルディンは中庭に残って、
エトラを狙った矢が飛んできた方向を見定めようとした。
あの霧の中である。
エトラを貫くはずの毒矢は、致命傷を与えることも、突き刺さることもなく、渦巻く霧に邪魔をされて
標的を掠めただけに過ぎなかったが、それでもエトラの命を狙ったものには違いない。
いずこからそれは放たれたのであろうか。
芝と石畳の上を歩き回っているうちに、年のいった侍女に呼ばれた。
招かれた先は、西の塔であった。
 「ジャルディン・クロウと申したか」  
その女は老齢というにはまだ物腰が若く、しかし若さからはすでに遠く、
人生への執着や無念が寄る年波と共に燃えかすのように顔容にこびりついている、
そんな女であった。ジャルディンの後ろで扉が閉められると、女は傭兵に椅子を指し示した。
西の塔は、王太后に相応しい品格とどっしりとした調度で整えられて、
花や宝飾品で飾られ、多少重々しいきらいはあったが、存外に居心地は悪くなかった。
 「近う」
 「王太后」
 「もっと近う。人払いはしてある。そう構えずともよい。椅子をつかうがよい」
 ジャルディンは椅子にはかけなかった。
王太后の部屋からは、今朝方エトラが何者かに狙われた霊廟が見えた。
ジャルディンが不動でいると、王太后は、遣る瀬無く笑った。
 「かような際、真っ先にわらわらに疑いがかかるのは分っておる。
  ジャルディン、そちも、そう思うておるのであろう」
 「何の話だ」
 「------先にゆうておく。わらわは、ことを重々承知の上でとぼける、
  そのような態度が、ことの他嫌いじゃ。
  わらわが王太后だからではない。
  人を敬う心のない人間と話をしても無駄であるゆえな。よう覚えておくがよい」
 そこに居るのは、一国の王太后であった。
深紫に金色の刺繍をちりばめた衣裳は、華美すぎず地味すぎず、女によく似合った。
皺の刻まれた唇に濃い口紅を塗っているほかは、化粧気もなく、
それがかえって侮りがたい気品をかもし出していた。
物腰の優美さやその立派な態度で、充分に人の尊敬を勝ち得る女であった。
それでも、ジャルディンは王太后への偏見から冷たく云った。
 「やましいことがなければ、疑いを怖れることもない」
 「どうせそうであろう」
 傭兵の忠言が聴こえたふうでもなく、カルビゾンの王太后は呼び鈴に手をかけた。
 「茶はいかがじゃ、傭兵」
 「遠慮しよう」
 「毒入りだと思うか」
 苦笑し、呼び鈴から手を離すと王太后は椅子に凭れた。
扇でジャルディンを近くに呼ぶと、
肘あてに腕をかけて、緑色の宝石の嵌った指環をはめた手を組んだ。
威厳あるその姿は、まこと、一国の女王として過ごした人のものであった。
王太后が常に服用しているらしき薬草の匂いが、うっすらと部屋に香っていた。
一幅の絵画のような居ずまいを見せて、王太后は唇をひらいた。
エトラツィア。
生きてふたたびその姿を見ることになるとは思わなんだ。
わらわが憶えているのは、赤子の頃や、ほんの小さな王女であった、あの者の姿。
夫であった先王が、その時ばかりは歓びを隠さず、妃が子を生んだのだと、
嬉しそうにわらわに報せてきた、あの王女。
あのように美しく成長して、もう立派な女じゃな。
王太后は頬杖をついた。
流れ者のそなたは知らぬであろうが、
エトラツィア王女がまだ幼く、ここに居た頃、城の庭園で何者かに首を絞められたことがあった。
大事には至らなんだが、あの時も、誰もかれもが、わらわを疑った。
下手人は挙がらなかったとゆうに、誰もがわらわだと決め付けて、わらわに冷たい眼を向けたものよ。
 「辛いことだった」
扇を傾け、王太后は重いため息をついた。
王妃になったというだけで、かかる讒言の中で生きねばならぬ。
世には、名誉のうちに生涯を生きる女王もいるとゆうに、
夫にも家臣にも疎んじられ、汚名の中でこうして石の城の中で朽ち果ててゆく、
わらわのような女もいる。
 「わらわは何が違ったのかの。それらの、女王たちと」
 それもこれも、子宝に恵まれなんだせいか。
子を生みあげておれば、王も、もう少しわらわを尊重してくれたのか。
いや、そうではあるまいな。
子があろうと、あるまいと、愛に包まれて王の隣にいる女王もいるのであるから。
王太后は自嘲した。
それでも、わらわは王妃であった。先王の、正妃であった。
王妃たるもの巷の女のように騒ぎ立てるものではないと、王が遠国より姫を連れて帰り、
それを妃と据えた時にも、わらわはそれを黙って容認した。
わらわと同じく石女と思われていた妃が懐妊し、
王女が生まれたと王より聴けば、微笑み、「それはよきこと」と、祝いを述べた。
それは男子が生めなんだ王妃たる者の、耐え忍ばねばならぬ罰であると、
わらわはそう心得ていたゆえな。
閉じこもりきりでおられた姫とは、ほとんど目通りを許す機会もなかったが、
王が攻め滅ぼした国から連れ帰られた時には、まだいとけない少女であられたものを、
まだよく分からぬうちに、王は妃にしてしまわれたのだ。
それは、それほどに美しき姫であられた。
大怪我を負われていた。
父母と国を失っただけでは足りず、敵に下らされるとは何と惨たらしいことかと、
金の髪の姫がいたわしく、胸が痛んだものであった。
望郷の念に打ち沈んでおられる姫にも、いろいろな贈り物を折にふれて届けさせては、
気を遣ったものであった。
それは、王を夫に持った妻の義務であったゆえな。
静かに語りながら、王太后は、扇を手の中で弄んだ。
 
 「かかる誠意の行き着く果てが、
  王亡き後、姫を城から追い出した、怖い王妃との評判であった。
  皆は知らぬであろうな。
  正気と狂気の間を彷徨うておられたあの妃に対する王の寵愛こそ、常軌を逸しておられた。
  誰にも分からぬであろうな。
  それを長年間近にしながら、王の名誉のために誰にも打ち明けられぬまま、
  こうして耐えてこなければならなかった、わらわのあの情けなさ、悔しさを。
  女の性も誇りも踏みにじられ、あれが王に棄てられた女よと、臣民に嗤われながらも、
  女王である限り王を支え、この姿を人前に晒して生き恥をかかねばならなかった、あの忍耐を。
  王は悪いお人ではなかったが、その情愛は、異国の姫のみにそそがれて、
  まるで美しい生き人形を手にした酔狂者のように、あの女のみをこよなく愛され、
  やがて生まれた娘の王女ともども、珠のように愛でておられたものだった。
  傭兵。そなたには分からぬであろうな。
  それでもわらわはカルビゾンの王妃であった。
  威厳だけは失うまいと、この身ひとつで矜持を保ってきた女の闘いなど、
  そなたには想像もつかぬであろうな。王妃として嫁いできた限りわらわには、
  市井の女たちのように、逃げる場所も頼る先もなかった。
  わらわのその苦しみなど、男であり、自由な身であるそなたには想像もつかぬであろうな」

 王太后の愚痴はほぼ正確に、超帝国の帝王の愛を一身に受けていた
ジャルディンの母に対する後宮の女たちの、怨み節そのままであった。
水と光の渡り廊下をわたり、帝王が女の許に通えば通うほど、
王が愛でたその透けるような雪白の肌や、いつまでも穢れを知らぬようであったその肢体、その唇を、
後宮の女たちは憎悪で焼き尽くさんばかりに睨んでいた。
そんな時の女たちの顔は嫉妬のあまり蒼褪め、まるで表情を失くした。
ジャルディンの眼の前にいるのは、そんな女の一人であった。
それが女たちの、せめてもの誇りであるというのならば、そうなのだろう。
城に入った日に斜陽に燃える西の塔の窓に見かけた、その顔であった。
母を殺した女の姿であった。
 「そのような繰言を聞かせるために俺をここに」
 「気を悪くしたか」
 「侍女どもに聞かせてやるといい。同情してもらえるだろう」
 「わらわは同情など要らぬ。傭兵、王太后の前である。口を慎みや」
 ジャルディンを横目に据えて、王太后は椅子の肘あてを扇で軽く叩いてみせたが、
傭兵の無礼に怒ったわけではなさそうであった。
深い憂慮に慣れた仕草で、王太后はこめかみに指をあてた。
分っておる。誰にも分ってはもらえぬことは。
わらわのこの寂しさを分ってくれたのは、トルマン王子だけであった。
庶子とはいえ、かりにも王家の血をひく男子を街中で育てるのは不憫であろうと、
ナイアード王が王位にのぼられると同時に、
異母弟を王族男子として城に引き取るようナイアードに進言したのは、わらわである。
先代王の弟ははやくに流行病で亡くなられたが、三人の男子を遺された。
末子のトルマンだけが、母が違う。
側女から生まれたトルマンは、その日陰の出生ゆえに、
かえって報われることのなかったわらわの気持ちも、よく分かってくれたのであろうな。
聡明なるナイアード、武人として望ましき猛々しさを持つギリファム、しかしトルマンがいちばん優しい。
あれは、ほんに、やさしい子である。
 「王太后、用件を云ってくれ」
 適当に済ませてさっさと出て行きたい。
椅子にかけた王太后はジャルディンをちらりと見た。
そのか弱げな、未練をこめた流し目には覚えがある。
泣き言を散々並べ立てては、男を味方に引き入れようとする手管。
かつて知っていた女どもとまったく同じだった。
ギリファムではないが、この女には同情してやる余地があるし、トルマンの云うように、
不幸ではあっても悪い女ではないのかも知れない。
しかし、幼少期の想い出が、ジャルディンにそれを拒ませた。
傭兵が動かしがたいとみるや、「そなたもわらわを悪人扱いにするのであるな」、
王太后は諦めの吐息をついた。
ジャルディンは何も云わなかった。
王太后は立ち上がると隅の机においてあった古びた写本を取り上げて、
濃紫の裾をさばいて戻って来ると、ジャルディンにそれを差し出した。
 「持ってゆくがいい」
 それは革張りの装丁本であった。
古い本らしく隅がささくれて、繰り返しめくった痕があったが、留め金だけは新しく直してあった。
留め金はかかったままになっていた。
 「そちを呼んだは、これを渡すためである」
先代カルビゾン王が、大切にしておられた本じゃ。
あの人が、いちばんお好きな本であった。
王太后は静かな顔でジャルディンの手に渡った写本を凝視していた。
王はその本を、いつも近くに置いておられた。
わらわにも故人の想い出に繋がる、懐かしみのあるものじゃ。
そちの手から、エトラツィアに渡してやっておくれ。
 「形見か」
 どっしりとした革張りの表紙には、カルビゾンの紋章が金箔されていた。
写本を受け取り、留め金を外し、頁をめくったジャルディンは、そこに、アルケイディアを見た。
 「字が読めるのか?」
 意外であったのか、王太后が片眉を吊り上げた。ジャルディンはすぐに本を閉じた。
あれは、もう忘れているかも知れぬ、王太后は深紫の裾をひいて、窓辺に立った。
霊廟の屋根が見えた。
王太后は窓硝子に額をつけた。
手すきの硝子の波模様が、そこに映る女の痩せた頬に筋を刻んだ。
その本は、過ぎし日、幼いエトラツィアが王の柩の中に入れたものなのだ。
父親が大切にしていることを知っていたのか、それとも誰かにそうするようにと云われたのかは知らぬ。
アルケイディア、七つの宴の都。
そこには金色の髪をした乙女がいて、右手に心を、左手に永遠を持ち、
常春の処女として、聖獣に護られ、楽園の神殿に眠るそうだな。
王は暗愚でもなければ悪いお人でもなかったが------まるで、少年のようなところがあられた。
王妃であった女は笑った。
金の髪をした美しい姫がいると聞いて、王はその国に戦を仕掛け、それを求められた。
最初は、お伽話の続きをねだるような王の憧れであったかも知れぬ。
しかし姫は、王が夢見た乙女そのままであった。そしてあの姫は、確かに王に愛されたのだ。
諦めていた子をなすまでにな。
エトラはあの姫に、よく似ている。
 「納棺のあの日、エトラツィアがその写本を王の柩の中に入れるのを見たわらわは、
  後で墓を暴き、その本を取り出させた。
  エトラツィアがカルビゾンに戻って来ると聴いて、真っ先に想い出したのはこの本のことであった。
  霊廟の中で王と共に朽ちるはずの本は、ずっと、わらわがこうして手許においてあった。
  亡き人を偲ぶものとしてでなく、女の浅ましき意地でな」
 王太后は苦しみを経てきた女の浮かべる、何重にもなった深い慙愧と疲れを、
窓硝子のおのれの姿に映した。
王が薨逝された折、エトラツィアはまだ幼かったゆえ、その手で柩に納めた本のことなど、
憶えてはおらぬやも知れぬな。
それでも、わらわが忘れてはおらぬ。
アルケイディア。楽園のことじゃ。
柩の蓋が閉まる前に、金の髪の姫は娘と共に柩に寄り添い、おのが身代わりに、
王が愛したその本を、王のご遺体の胸の上においた。

 「生きている間、ずっとわらわから夫を取り上げていた女が、死の国においても、
  まだわらわの夫の傍らにいようとする。わらわから生きる全ての倖せを取り上げた女が、
  安息の霊廟においても、正妃であるわらわを凌ぐことを見せつけ、わらわを嗤おうとする。
  王は姫に、伝説のアルケイディアの乙女の姿を重ねて、こよなく愛された。
  その本の中に書かれてある乙女のことじゃ。
  その間に生まれた王女が、その写本を王の柩の中に入れるのを見た時、
  そればかりは、我慢ならなんだ。
  いずれわらわが隣に眠る霊廟ぞ。
  そこにまで、王の妃、いや妃とも呼べぬ、あの気の狂った姫がしのび入り、
  わらわの代わりに王に抱かれて眠るのかと思うと、たいがいにせよと、そう想うた。
  王の柩に落とされたその本は、まるでわらわの無残な人生の仕上げのように想われた。
  死んでもお前には安息はないのだと、そう宣告されたも同然であった。
  そればかりは我慢ならなんだ。もう充分に、わらわは苦しんできたのではなかったか。
  夫に棄てられた女として、踏みにじられてきたのではなかったか。
  何ひとつとして、あの女には天罰が下らぬのに、夫を奪われた女には、安らかな眠りさえ許されぬのか。
  わらわは王妃であった。
  わらわが預かっているものは、家ではなく、国であった。
  どれほど辛くとも、国を乱すような真似は出来なかった。悋気のままに振舞うことも、
  臣下のうちに愛人を作って醜聞を振りまき、臣民の尊敬を損なうことも。
  女には、愛がすべてか、傭兵。
  それならば、わらわとて、夫を取り戻すために手段を選ばなかったであろう。
  空閨が淋しくば、適当な者を閨に引き入れることもしたであろう。
  城の者どもが噂をするように、かよわき女を弓で射るような、怖い王妃にもなったであろう。
  それをせなんだは、せめてもの、王冠を戴く者としての、わらわの矜持であった。
  鉄の女、情ごわい女と呼ばれようとも、崩してはならぬ、王妃としての責務であった。
  それを、その写本は、未来永劫、わらわなどには何の価値もないのだと、
  死の国でなおも王の柩の中から高らかにわらわを侮辱するつもりなのかと、そう想われた。
  それだけは我慢ならなんだ。かような地獄に耐えねばならぬほどの悲惨はあるまいと想われた。
  その夜のうちに、夫の柩から写本を取り出させた。
  わらわはその写本を取り戻すことで、ようやく、背の君がこの手に戻ったかのような、
  そんな虚脱に包まれたものであった。
  あの夜、はじめてわらわは泣いた。
  長年、堪えに堪えていたものが、王の死と同時に、あの夜に迸り、
  その写本を胸にかき抱いては王の名を呼び、喉が枯れ果てるまで、声を振り絞って泣いたものだった。
  わらわは-----それほどに、惨めなるおなごなのだよ、傭兵よ」
 
 窓硝子に額をつけた王太后は、おそらくはこの十年、何度もこうして窓辺に立ち、
王の眠る霊廟を西の塔から見つめてきたのだと思われた。
ぽつりと王太后は云われた。
 「あの娘に、その本を返してやろうと思うのだよ」
 王が身罷られてからもう十年も経つ。
わらわの怨みも哀しみも、怨み尽くし、泣き尽くした。
すでに御世も代わり、廷臣たちの顔ぶれも代わり、
お若きナイアード王もわらわを尊重してくれこそすれ、わらわの意見など皆目きかぬ。
わらわの反対にも耳を貸さず、首尾ようエトラツィアが帰還して入城を果たす姿を見た時、
そして過日の姫に似たその若く美しい姿を見た時、そして覚えのある感情が案の定、
またこの胸にこみ上げて来た時、心底、もうたくさんだと、わらわは思うた。
わらわを可愛がってくれたわらわの乳母が、老いた或る日、
歳をとると、ある日ふと何もかもが白くたいらに見えてくる、歓びも哀しみも、
何もかもが色をなくし、意味をなくして等分に見えてゆくと、そのように笑って呟いておったが、
わらわも老いた。もう、今さら時めくこともなく、それを求めもせぬ。
平穏な老後をせめて波立たせてくれるな、
エトラツィアの帰還はせめてわらわが死んでからにしてたもれと、ナイアードに頼んだが、
無駄であった、それでは、もうわらわにも道はない。
あとには余生しか残されてはおらぬ身じゃ、ここで再び、また、あの同じ苦しみに堕ちとうはない。
女の苦しみをここまで味わった後に、またこのようにして、まったく同じことを繰り返しとうはない。
それをすれば、わらわの生涯は、まこと愚かであったというだけになる。
傭兵ジャルディンよ、わらわは、エトラツィア王女を許そう。
このような不遇の王妃に仕えたが為に、陰湿に凝り固まり、
見苦しき老女と化したわらわの侍女たちにも、その他の城の皆にも、ようゆうて聞かせよう。
わらわは、先代の王女エトラツィアを歓迎してつかわす。
そして、ナイアード王とエトラツィア王女の婚姻を望む。
それは先王の御遺志である。
カルビゾン王太后はそれを支持する。
諸外国に向けた、王女の帰還の正式のお披露目の前に、それを云うておきたかった。
これがわらわの、先代王妃としての、最後の仕事である。
王女には、何の罪もないのであるからな。
 「王太后さま」
 扉が叩かれた。
王太后は、「その本を持って、エトラの許に行きゃ」、ジャルディンを促した。
 「そちが西の塔に招かれたと知って、バーレンが様子を見に訪れたのだ。
  この窓から見ていたゆえな。
  ああして王の側近がぶらついているところを見ると、
  エトラツィアの負った怪我については安心してもよいのであろう。
  わらわが命じて遣わした毒消しの薬草など、おそらく彼らは使わずに棄てたであろうがな。
  何ひとつ手を下してはおらず、何ひとつ夫を責めなんだとゆうに、
  まるでわらわこそが魔女扱いである。わらわの生涯とは何であったのか。哀しいものよ」
 「王太后」
 写本の背表紙を掴んで、ジャルディンは王太后を振り返った。
 「王女が幼い頃に、この城の庭園で王女の首を絞めた者。今回の矢。下手人の心当たりは」
 知らぬ、というのが背を向けたままの王太后の応えであった。
 「エトラツィアを憎むといえば、わらわしかおらぬ。人は皆、そう決めてかかっておる。
  誰かを槍玉に挙げておけば、せめてわが身は安全というわけじゃ。
  幾らでも疑い、幾らでも調べるがよい。わらわはではないのだから」
 傭兵の姿が、迎えに来たバーレンと共に西の塔を出て行くのを窓から確かめると、
王太后は椅子に腰をおろし、
 「もうよいぞ」
 部屋の暗がりの衝立に向かって声をかけた。
衝立を回って現れたのは、ナイアード王の末弟、庶子王子トルマンであった。
子犬のような足取りで、隠れていたトルマンは椅子にかけた王太后の許に行った。
 「あれで良かったのか。トルマン」
 「ええ」
 トルマンは椅子の後ろに回りこみ、急激に老け込み、疲れた顔をみせて黙っている王太后の肩に、
まるで本当の息子か孫のように、親しくその若い頭を寄せた。
すべて聴いておりました。ご立派でした、王太后さま。
王太后は王子の若い手を握り締めた。その頬を涙が伝った。
トルマン、お前は、苦しみばかりであったわらわの生涯の最後に神さまが遣わして下された、
わらわの唯一の慰めの子。そのお前が頼むことならば、わらわは何でもそうしよう。
王子は王太后の頬に落ちる涙を拭った。泣かないで下さい、王太后さま。
いつまでも王太后さまのお側におります。
 「トルマン。わらわは、あれで良かったのであるな」
 王太后の膝に凭れ、濃紫のドレスに頭を擦り付けると、トルマンは微笑んだ。
 「ええ、王太后さま。あれで、よかったのです」

  
 窓の外には、薄い紗を幾重にも重ねたような、ものうい色の雲が風に速く流れていた。
海の彼方の超帝国にも、このような輝く夕暮れがあった。
『壊れない白磁の玩具』、それがジャルディンの母につけられた、後宮での悪意の綽名であった。
寵愛の白い肌の女に堕胎を施す時、帝王はいつも、手づから堕胎薬を女に呑ませた。
何度でもその処置は繰り返された。
王は男子しか欲せず、そして一度きりの例外を除いてそれ以後、女が孕むことを悦ばなかったから。
 (王-----)
 薬の苦しみの中、女は王に抱きつき、堪えられぬ嘆きと痛みにその身をよじり、
男の首筋に切なくすがりついて声を放った。
湯の中の魚のように背をそらし、男の胸に汗ばむ身を閉じ込めて、上気してゆく頬をひくつかせ、
その国の者たちには分からぬ言葉を、啜り泣きのように幾度も繰り返した。愛しています、わが君。
 ジャルディン。
エトラは、天井の画を見上げていた。
蒼く暮れてゆく空には、星が瞬いていた。薄暮に浸された室の片隅から、少女の細い声だけがした。
 「ジャルディン。わたしは幼い頃、ナイアードよりも、ギリファムに懐いていたの。
  彼の後ばかり追いかけていたものだったわ」
 エトラは笑ったようだった。
ナイアードよりも、彼の方が小さな女の子と遊ぶのがうまかったのよ。
城壁の淵ぎりぎりを歩いたり、けん玉をしたり、木の枝を剣にして戦ごっこをしたり。
男の子がやるような遊びばかりだったけれど、馬にも乗せてくれた。楽しかった。
 「ギリファムも、おとなしいナイアードも、どちらもわたしに優しくしてくれたわ。
  わたしがあまりにも小さくて、彼らもわたしを憎みようがなかったのね。
  それとも、他に理由があったのかしら。彼らは、わたしに優しかったわ」
 「傷を見せてくれ」
 ジャルディンは蝋燭に灯をつけた。
かけ布をめくり、半身を起こしたエトラは毒矢で傷ついた脚をジャルディンに見せた。
包帯を巻いた周辺も赤くなって、かなり熱を持っていたが、この腫れはすぐに引くだろう。
転倒した際に、支えた手も傷ついて、エトラの手も包帯に包まれていた。
 「ジャルディン、月が昇ったわ」
 矢の軌道が外れなければこの夜には世を去っていたかも知れない王女は、
擦り傷だらけの手を膝に重ねて、窓の外の夕闇に顔をそらした。
エトラは、カルビゾンに戻って来なかったほうが良かったと思っているのだろうか。
ジャルディンは何も持たずにここに来た。
先王の形見の本をエトラに渡すことはなかった。
王太后がジャルディンに渡した革張りの写本には、無色透明の、
命にかかわる毒の粉末が、頁に塗布されていたのだ。



[続く] 

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