■W.
「吸い込むな」
ジャルディンの制止に、慌ててバーレンは口と鼻を押さえ、
卓上に広げられた写本から飛び退いた。
ジャルディンも布で顔半分を覆っていた。
エトラツィアが父王の柩の中に納め、そこから王太后が取り出した写本には、毒が塗布されていた。
色もなく、香りもなく、乾燥して剥がれ落ち、頁をめくる度に細かな粉が舞い上がるのが見えたとしても、
傷んだ紙の屑か、埃としか思わぬであろう。
「ジャルディン、あなたは、どうしてそれに気がつかれたので」
勘で、とジャルディンは嘘をついたが、半分は本当だった。
エトラを見舞った翌日、ジャルディンはバーレンを朝から呼びつけ、
絶対に秘密にしろと念をおした上であき部屋の一つに閉じこもった。
ジャルディンは写本から千切り取った紙片を煮立て、蒸留し、
盥にはった薬品の上にその水滴を落とした。
変色した液体を見てバーレンの眼は見開かれた。
「猛毒だ」
濁った液体を見てバーレンは愕いたが、さすがに実務家らしく、壁際に背をつけたまま口ぱくで
解毒の方法をまず訊いた。
ジャルディンは首を振った。
触れるだけでは害もないが、体内に入った後では、解毒の方法はない。
たとえ命は取り留めたとしても、量を超えれば、皮膚がただれ、頭髪が抜け落ち、
舌がしびれ、失明する。
王太后の部屋で本を開いた時、ふと、何か覚えのある感覚に捉われた。
何よりも、革表紙の留め金を外して本を開いた時の、それを見守る王太后の表情が、
ジャルディンにそれを悟らせた。何かこの本にはまずいことがあるのだ。
毒か。
女は毒殺を好むものと教えられて育った。
幼少の頃から少しずつ摂取することによって得た毒物への知識と耐性、
すぐに本を閉じたことがジャルディンを守ったが、
頁に触れたその手で食べ物を口にすれば、経口による毒の作用は顕著であったろう。
或いは、傷口から、血に混じれば。
怖ろしい想像に、バーレンは身をふるわせた。
毒矢で狙われた時に王女は転倒し、その両手に傷を負っていたからだ。
「そのような怖ろしいものを、王太后がエトラ様に」
「王太后かどうかは分からない」
「しかし、王太后さまの菜園には、毒となりうる植物も育てられております。
霊廟にお参りするエトラさまを狙った毒矢といい、この古写本といい、
王太后こそ黒幕、いえ、限りなく黒に近い灰色と見做しても宜しいかと」
毒も薬も、量が違うだけである。
しかしバーレンもそれを承知で、疑いが王太后の上から離れないのであろう。
「何よりも王太后さまがジャルディンにその写本を預け、エトラツィア様に渡すように
お命じになったことが何よりの証拠ではありませんか」
「これは先王の柩の中に納められていたものを、王太后が十年前に取り出させたものだ。
写本の存在を知る人間は限られている。
そして毒殺を謀る女が、疑いが真っ先にかかると承知の上で、
このようなあからさまな方法を選ぶとは思えない」
「大変だ」
或ることに気がついて、バーレンはさっと蒼褪めた。
「王のご命令ですでにエトラツィア様のお食事については毒見をさせておりますが、
食事だけでなく、エトラ様のご身辺の全てに、同じ毒が塗られているかも知れない」
それは既にジャルディンが対処済みであった。
エトラの怒りなどには構っていられない、肌に触れる全てのもの、
衣裳や櫛や履き物、すべて取り替えさせた。
水差しの水一滴ですら、誰かが飲んでみなければ王女にそれを与えるなと厳重に申し渡し、
薬箱の中の包帯も薬草も医療器具も、すべて新しく入れ替えさせた。
しかもジャルディンは、「これはナイアード王のご命令だ」、とまで嘯いた。
勝手に名を借りたが、エトラを守るためである、王も文句はつけるまい。
昨夜呼びつけられた西の塔の王太后の部屋には、誰かが隠れていた。
衝立の裏にあったその気配に気がつかぬジャルディンではない。
知りながら、ほうっておいた。
ジャルディンは、半ば期待していたのだ。
王太后が褒美をちらつかせ、エトラを殺せと、自分に持ちかけてくることを。
「こんな本は焼き捨ててしまいましょう」
憤るバーレンにジャルディンは首を振った。
毒を落として色の変わった盥の薬液は百倍に希釈するより手っ取りはやい方法で
窓から下の堀に投げ捨て、革張りの本の方は布で二重にくるんだ。
後始末をする間、バーレンは部屋の外に追い出していたが、それを終えると、
二人は連れ立って昼食をとりに食堂へ向かった。
現王の側近であるバーレンは、普段はもう少し上等なものを自室に運ばせるのであるが、
今日はジャルディンに付き合ったのである。
山形に組まれた柱に支えられた廣い食堂は、城内に勤める者たちで混みあっていた。
縦に長い卓の一隅に、人だかりできている。
「これは、バーレン様」
「何をしている」
王の侍従の登場に兵士たちは卓上に広げたものを隠す素振りをみせた。
「賭けか」、バーレンは散らばった財布や硬貨に眉をひそめた。
城内での賭け事は禁止といっても、禁じきれるものではない。
バーレンもそれを知っているので、あえて彼らの愉しみに水を差すことはなかったが、
自分も参加すると云って、財布を取り出した。ジャルディンもそうした。
勝負事から逃げる男は、男ではない。
賭けの対象は三本立てで、ナイアード王とエトラツィア王女の婚儀が成立するか否か、
挙式は今年のうちか否か、最初の御子は王子か王女か、「または双子もあります」
とのことであった。
王の忠臣らしく、バーレンは、婚儀成立、挙式は年内、生まれる子は王子に賭けた。
ジャルディンは、婚儀不成立、挙式は来年以降、子は王女に賭けた。
願望ではない。大穴を狙ったらそうなっただけである。
「ジャルディンは厭世家ですね」
それを見てバーレンがいやな顔をした。「または破滅型かのどちらかです」。
構わずに、ジャルディンは食事を始めた。
エトラと泊まった街道はずれの旅籠で口にした煮込みのほうが旨かった。
旅の途上にあった数日前のことが、昔のことのようだ。
海の向こうに忘れた国のようだ。
どうして忘れられようか。
朝焼けの海にしだいに姿を現す超帝国の王城は、空と海を支配する司令塔のようだった。
そのかたちは、両の翼を広げた猛禽に喩えられた。力と権威の象徴だった。
悪い国ではなかった。悪い人々では。
俺が、そこには居られなかっただけだ。あそこには。
母が殺されたからではない、父が王位を俺に投げたからではない。
胸の中に違う風を入れたかった、空と大地を埋め尽くす、自由なものを得たかった。
想い出を払うために、戦場を駈けた。
そして、そうする間、ジャルディンの胸には、超大国の王子である誇りと傲慢が確かにあった。
たった一人でこの未踏の大陸を制覇しているかのような、故国に対する挑戦と優越感があった。
怨みもなければ、慕わしくもない父帝王への。
食事をとる間、バーレンが嫌な顔をするので、毒つきの写本は布に包んだまま足許に置いておいた。
毒殺を恐れ、少量の毒物を摂取し毒に身体に慣らす王族は少なくない。
しかし、城を離れていたエトラにはその習性がなく、
もしもこの写本に塗られた毒を、手の傷からでもその体内に入れることでもあれば、
死なぬまでも、容貌変わり果てていたかも知れない。
それはいかにも、恨み深い女の選ぶ復讐手段のように思われた。
毒殺が女の好む常套手段だとすれば、その昔、後宮の女たちが母に対してとった直接的な凶行は、
やはり尋常ではない怨恨の深さの為せる業であったといえるだろう。
それでも、たとえ寵を独り占めしている女への積年の嫉妬が起爆剤となったとはいえ、
後宮の女たちが母を私刑にしたのには、立派な大義名分があった。
詮議の間の床にひれ伏して、女どもは王に涙ながらに訴えた。
『王よ、わたくしどもは、ひとえに王の御為を思ってやったのです。』
それを冷ややかな憎悪で睥睨していた玉座の男は、その胸に、
まだ血の滲む刃傷を負っていた。
死の前日、女が王につけた傷だった。
『王があのものに殺されておしまいになると、わたくしどもは、それを怖れましたのです。』
(ここに来てはいけません)
帝王の留守中、成人した男では帝王の他に唯一、後宮に出入りを許されていた兄王子二人が、
母の室に入って行くのを、ジャルディンは庭から見ていた。
「ジャルディン、あなたはエトラ様から、いかほど給金をもらっているのですか」
果実をつまみながら、バーレンが訊いた。
ジャルディンは首をふることで応えた。
葡萄酒を注いだ。こちらの味は悪くない。
「それでは、エトラ様をカルビゾンに送りとどけた段階で、
王から金子が降りるお約束になっておりましたか」
それも違う。金のことなど考えたこともなかった。
旅の間の宿代も、すべてジャルディンがエトラの分まで払っていた。
長年僻地で召使に守られた閉鎖的な暮らしをしていたせいか、
エトラには金銭感覚がまったくないようで、通りすがりの行商から果実を一つ買うのに、
馬一頭買えそうな宝石を取り出したのを見て、財布を取り上げた。
それ以後は、ジャルディンが全て自分の財布からエトラの分も出していた。
返してもらっていないが、べつにいい。
エトラをカルビゾンに送り届けて、エトラが無事にやっていけそうなら、
その時点で別れようと思っていたし、もとより、当座の金には不自由していない。
しかし、謹厳実直なるバーレンにはこれは大問題であるようで、
「それはいけない。すぐに、王女の護衛としての正等な対価と、礼金、賃金をお渡しします」
しきりに詫びた。
そして、これはナイアード王のご意向でもあるのですが、と断った上で、
「ジャルディン、傭兵稼業からは脚をあらって、正式にこの城に勤めませんか」
熱心に勧誘を始め出した。
エトラツィア様もあのようにあなたを頼りにしておられ、ナイアード王も頼もしく思われておられます。
ナイアード王は大らかにみえてひじょうに慎重です。
信用しなかったわけではないのですが、あなたについては少々調べさせたのです。
城に詰めたきりのわたしでも、ジャルディン・クロウの名は風の噂に聞いたことがありましたが、
まさかこのように若いとは思わず、数々の武勇伝には、愕くばかりです。
カルビゾンに留まって下さるのであれば、高待遇でお迎えしますよ。
「武勇伝?」、ジャルディンは顔を上げた。
嬉しそうにバーレンは身を乗り出した。近くの兵士も集まって来た。
「あれとか、これとか」
ああ、とジャルディンは頷いた。そんなこともあったような気がする。
契約が終われば後を振り返らずさっさと立ち去るのが常であったから、
戦場の記憶は朽ちるままになっていた。
「ジャルディン・クロウに乾杯!もののふの中の武士とはこの男」
食堂に集まった兵士たちは調子よく音頭をとって、
まだ昼だというのに酒を飲み干してジャルディンを讃えた。
バーレンは声を弾ませた。
「そうだ、あの怪奇談を聞かせて下さい。ほら、赤ひげの卑怯者との一騎打ち」
「赤ひげがそっくり兄弟だったんだ」
ジャルディンは仕方なく話した。
「前から来ると思ったら、後ろにもいる。同じ顔をしていた」
「おーい、ジャルディン。二人いて、何でそれで一騎打ちだ」
「鎖鎌で後ろの赤ひげ二号を、その鎌を回して、前の赤ひげ一号を同時に刺した」
「一振りで同時にか。すげえ」
「確かにすごいが、何でそれで怪奇だ」
「後で死体を捜したのだが、胴体は二つあるのに、頭部が一つしかない。
どこを探しても、赤ひげ一号か二号か知らんが、片方の頭がない。
顔はそっくりだった。そのそっくりな顔が一つ足りない。何処を探しても頭が一つない。
一つの死体の胴体だけが、二つに分かれたようにしか見えなかった。
だから褒賞は一人分しか要らないと云った。奇妙なのはこれからだ」
「どうした」
「一年後、ずっと離れた別の戦場に赴いた時のことだ。
戦いが済んで死体の間を歩いていると、
赤ひげ一号または二号の、その首が落ちていた。胴体はない、首だけだ。
鎖鎌で切られた痕がある。確かにあの顔だ。
首を持ってそこらに訊いてみたが、誰もそいつと闘った覚えはないと云う。
その日斬られた首のように、まだ新鮮だった」
「へええ……」
「薄気味悪いなあ」
「そいつは変な話だなあ、ジャルディン」
「変な話だ。昼間からするような話ではなかった。すまなかった」
「そんなことはない。剛の者には怪奇談がつきものだと云うぞ」
「カルビゾンの我々、そのくらいで怖気づくような臆病者ではありませぬぞ」
「そうだそうだ」
「よし、みんな立て。ジャルディンに乾杯だ」
「ジャルディンに乾ぱーい!」
「王女の護衛に乾ぱーい!」
どうせなら、もうちょっとまともな武勇伝で騒がれたい。他にもいろいろあるだろうに。
「それで、その赤ひげ一号または二号の生首はどうしたのです」
「他の死体と一緒に穴に埋めた。持ち歩く趣味はない」
陽気な兵士たちから離れて、食堂を後にした。
(エトラ)
エトラを殺して、得をするのは誰か。
霧のたちこめた日、幼い王女の首を庭園で絞めたのは誰か。
その頃から、エトラツィアの存在を疎ましく思っていたのは。
過去に遡る怨恨や、異国の姫が生んだ王女への狂信的な排他思想の線が濃厚だと思った、
その最初の思い込みがものを見えなくしている可能性もある。
では、ナイアード王が先代の王女であるエトラツィアを娶ることで、王座への野心が断たれる人物は。
あるいは正妃の座をエトラに代わって狙うのは。
エトラの母に夫を奪われた王太后。
従妹を魔女と呼ぶ王弟ギリファム、
王太后から恨み言を聴かされて育ったであろう庶子王子トルマン。
現王の代わりに弟王子を擁立せんと企む、それぞれの後ろ盾。
或いは、エトラの帰城と共に隠されたか、いまだにその姿を見せぬ、ナイアード王の愛人。
「誰からそれを」
バーレンは嫌な顔をしたが、その額を叩くと、観念して白状した。
おられますよ。いつでも街中に出て行ける我々とは違い、ご不自由な身分であられるだけに、
まだご結婚をされていないお若い王が愛妾をおくのは、当然です。
絶対にエトラツィア様には内緒ですよ。
廻廊の端にジャルディンを連れて行って、ひそひそとバーレンは声を潜めた。
愛人と申しましても、ご身分のある方で、非公式の奥方のようなものです。
エトラツィアさまがまだこの城におられた頃、ナイアード様がまだご即位する前、
十六、七の頃から、ずっとナイアード様のお相手をつとめている方です。
この十年の間には、べつの女に変わることもたまにはありましたが、
王はその方をずっとお側においておられる。
さほど美しい方ではありませんが、王にはよろしい方なのでしょう。
遠方に行ったままのエトラ様を差し置いて、一時は彼女を王妃にしようという動きもあったほどで。
「名は」
「アマミリス・ローリア・デフィ。ローリア侯のご息女です」
「王とその女の間に、子は」
いますよ。散々渋った後に、
「男の子です。もう七つにおなりです」
バーレンは口調をあらためた。
「いいですか、ジャルディン。愛妾の存在ははともかく、
ナイアード様とアマミリス様の間にお生まれになったその男子の存在は、
老臣や、わたしを含めた側近中の側近しか知らぬことです。絶対に内緒にして下さいよ。
独身の王が愛妾を持つのは珍しいことではありませんが、
カルビゾンとの縁組を望む諸外国への対応もあって、
アマミリス様のことは公にはされてはこなかったのです。
王は宮廷や狩りにアマミリス様を華々しく伴うこともされず、
下街に隠れ家を用意して、いつもそこで、ひと眼をしのんで逢瀬を重ねておられました。
男の子が生まれた時にも、極秘にされて、祝い事などいっさい行われませんでした。
おそらくは、過去にこの城で白眼視されておられたエトラツィア様とその母君のことが頭にあり、
王太后が生きておられる間は、同じ轍を踏むまいとされたのでしょう。
それほどに、王はアマミリス様とその男子を世間の眼からは隠しておられたのです」
「では、俺にも喋らなければいい」
「あなたが無理やり聞き出したのです」
まだ痛むのか、ジャルディンに叩かれた額をこすりながら憤慨したものの、
喋ったことをバーレンは後悔はしていないようであった。
どうせ、すぐにばれることです。
いつかはエトラツィア様も、王の愛妾の存在を知ることになるのです。
「今はお達しが行き届いて、
エトラ様の身の回りの侍女たちも口を閉ざしておりますが、
こういったことは隠しおおせるものではありません。
むしろあまりにも長い間愛人関係が続いていた為に、かえって城の者たちは、
そろそろ下街に囲った愛妾とは離別の潮時だと捉えています。
王にはそのおつもりはないようですが」
「ギリファム王子やトルマン、それに王太后はアマミリスのことを知っているのか」
「ご両名とも、アマミリス様のことも、隠し子のこともご存知でしょうね。
ただし、さすがと申しましょうか、あの方々はこと王家に関することには口が堅いので、
外部には漏洩していないと思います」
「ローリア侯とは」
「先代王の宰相であったわたしの父と並び、カルビゾン王家にお仕えしている重臣です。
もっとも、アマミリス様は、ローリア侯の実の娘ではありません。
ナイアード王のお相手を務めることになった時に、
ローリア侯がアマミリス様をご養女とされた上で、王の許に差し上げたかたちです。
カルビゾンの王は正妃の他に二人まで妃をもてるのです。
エトラツィアが正妃となられた暁には、おそらくは時機をみて、
王はアマミリス様を妃の位にのぼらせ、アマミリス様への長年の友情と、
ローリア侯の献身に報いて差し上げる御心でおられるはずです」
「その愛妾には下街の何処に行けば逢える」
「なんで、あなたがアマミリス様に逢うんです」
王の愛妾とその隠し子の存在については口を割ったものの、
愛妾アマミリスの居所については、バーレンはがんとして口を割らなかった。
「それならいい」
「何処に行くおつもりです」
「そのローリア侯の処へ」
「ローリア様ならば、このところ連日お城にご登城されておられます。ほら、あれに」
「何故、ついてくる」
「ローリア様とあなたを二人きりになどさせられませんよ。
ジャルディンはエトラ様の味方でしょう。話がこじれないとも限りませんから」
味方といえば味方かも知れない。
好奇心かも知れない。
廻廊を曲がってこちらに近づいて来る老人を目指して歩きながら、
バーレンはジャルディンに釘をさした。
「云っておきますが、ローリア侯はいい方ですよ。
王の愛妾の義理父となった後も権勢を誇り出すことなく、
以前と変わりなく誠実に宮廷にお仕えしておられます。
先王とナイアード様の二代に渡ってご奉公して、王の信頼も篤く、
隠居したわたしの父の友人で、城の一隅に室をいただいて老後を過ごしている
わたしの父の許にも、よく見舞いにいらして下さいます。
ローリア侯を疑うならば、その前に王太后を疑って下さい」
じゃあ、エトラを弓矢で狙ったのは誰だ。
古写本に毒を塗布したのは。霧の中、幼い王女の首を絞めたのは。
面倒くさいので、いっそのことエトラを連れてこの国を出ようか。エトラはおまけで。
あの娘が王妃でなければ嫌だというなら仕方がないが、そうでないのなら、
幾らでも倖せになる道は他にある。
頼める領主の一人や二人、心当たりがある。あいつやあいつなら、エトラのいい伴侶になる。
全幅の信頼をもって任せられる。
(少なくとも俺よりは)
まったく自分を信用していない傭兵の、その背の高い影が近づいたところで、
王の忠臣は庭を横切ってこちらへやって来るジャルディンとバーレンに気がついた。
どんな疑いをこの初老の男の上にかけていたとしても、一瞬で吹き飛ぶような笑顔で、
王の愛妾の義理父は白髭をたくわえたその顔をほころばせ、愛想よく二人を迎えた。
「おお、バーレン。それに、傭兵ジャルディン」
「ローリア様」
「今しがた、君のお父上を見舞ったところだよ。
だが生憎、カルド殿はお加減が悪そうであった。
見舞いを届けて失礼してきた」
「父へのお気遣い、ありがとうございます。日によって具合が悪かったり良かったりで」
「君もはやく結婚したまえ。孫の顔を見れば、お父上の病も癒えるであろう」
「はあ」
「ジャルディン・クロウ」
ローリア侯は朗らかな笑みを浮かべてジャルディンに向き直り、傭兵を好意的に眺めた。
聞きしに勝る、いい面構えであるな。
ナイアード王陛下の侍従とも気が合うようで結構なことだ。
これなるバーレンは、わしも世話になった前宰相カルド殿のご子息でな、
わしにとっても本当の息子か孫のようなもの。
だから申すのだが、バーレンのように若い者が城の敷地内に家をもらい、引退した老人と暮らし、
家と城を往復するだけの生活を送っているのはているのは、わしにはいいことには思われぬ。
「そこで、どうだ、ジャルディン・クロウ。
君のような美丈夫ならば風流の道にも詳しかろう。
どうか、バーレンを夜の街に連れ出して、彼にいろいろ教えてやってくれたまえ。
君のような美丈夫が一緒ならば、女たちもほうってはおかぬだろう。
実際、君が通り過ぎるたびに、城に勤める女たちがかしましくてかなわん。
カルビゾンの女はどうだな。気に入ったかな。
侍女の中に恋人の一人や二人、すでに出来たのではないかな?」
勝手に決めるな。
かりに王の愛妾アマミリスがその義理父に気質が似ているとしたら、その女は、
朗らかな、罪のない人物であろう。
(つまり、いちばん性質の悪い)
いみじくも王弟ギリファムが王太后を評した言葉をジャルディンが胸にかきつけていると、
そこに、城の鐘が鳴った。
ローリア侯とバーレンは、顔を見合わせて頷いた。
バーレンはジャルディンに、「これから、御前会議なのです」と、断った。
「ローリア様はこの為に、城下のお屋敷から今日はご登城なされたのです。
会議とは、他でもない、カルビゾンに戻られたエトラツィア王女のお披露目の件と、
エトラツィア王女の王妃選出に関する採決です」
「王妃については、他に候補もいないことだ」
ローリア侯も顎鬚を撫でた。
「ナイアード様と御従妹エトラツィア姫のご婚儀は、先代さまのご遺志であった。
内々とはいえ、速やかに決まるであろう」
長年、王に尽くしてきた自身の立場など切り捨てた顔をしているローリア侯は、
さすが老獪であった。愛妾の義理父として宮廷を牛耳ることを避けたのは、
バーレンの云うように彼の人柄などではなく、ローリエ侯の処世術であろう。
「ナイアード様が先王の王女を正妃として娶られるならば、これで、カルビゾン王家も磐石である」
空を仰いで、老ローリア侯は、しみじみと嘆息した。
「月日は流れたの。
先代にお仕えしたわしや、バーレン、君の父上カルド殿は、
エトラツィア王女の御母上の国を攻め滅ぼす遠征に参加したのだよ。
三十年前のことであるが、今でも鮮明に覚えておる。
王族の方々は立派に戦い、そして王家の女人たちは、大人も子供も塔の上から身を投げたのだ。
わしらの見ている前でな。
そのせいか、いつまで経ってもあの戦の勝利には重たい哀しみがまといつき、
それもあって、カルビゾンの者たちは、金の髪の姫君をよけいに疎んじたのだ。
あの姫の哀しむさまを見ていると、自分たちの罪を見せつけられているような気がしてならなんだ。
先王が連れ帰った姫を妃にすると云われた時、何を隠そう、最も反対したのはわしであったよ。
気高く構えておられる正妃さまが御いたわしかったのもある。
そんな王妃さまに代わり、激しく糾弾したものであった。
あれは魔女だとわしは云った。
王族の中であの姫だけが生き残ったことこそ、何かの凶事の前触れではないか、
怨みを宿した禍々しき魔物をカルビゾンに入れてはなりませぬ、不吉です、とな。
今想えば悪いことをした。異国の姫に何の罪があったろう。何重に悔いても足りぬよ。
王の死後、幼子を連れて宮廷を去る姫を、見送る者もおらなんだでな」
ローリア侯の眼には、どうやら嘘ではなさそうな、悔恨のいたみがあった。
その慙愧の念により、養女アマミリスが正妃になれぬのも致し方なしとして
受け入れているようであった。
粛然として、バーレンもローリア侯を庇った。
「ローリア様だけではございません。父カルドも申しておりました。
姫があまりにも美しいので、王はすっかり魅せられてしまったのだ、
あの塔から飛び降りて助かるわけがない。生き残ったあれはこの世の者ではないのだと」
「その姫も、お亡くなりになられたか」
羽ばたく鳥の影が、城に落ちた。
青い空に、のびやかに翼を広げ、白い鳥がとんでいた。
三人はそれを見上げて、鳥の行方を追った。光と雲に包まれて、鳥影は消えた。
やがて、ローリア侯が重々しく云った。
「せめて、先王が愛されておられた王女が健やかにご成長あそばされ、
こうして城に戻られたのが何よりの救いじゃ。
鄙の地での暮らし、ご苦労されたであろう。
母御の分まで、あの王女を倖せにしてやらねばの」
(嘘をつくな)
ジャルディンはローリア侯のよく動く口に、軽蔑を向けた。
この男はその時々で、もっとも自分に有利なように、自分の姿を都合よく変えているだけだ。
バーレンを促して会議の間に赴くローリア侯とすれ違うと、侯の衣裳からは、
かすかな薬草の匂いがした。
西の塔でも同じ香がしていた。
ローリア侯は、王太后の許に、立ち寄ったのだろうか。
控えの間は、人払いをして、無人だった。
王女の部屋にしのび入るその人影を、咎める者は、誰もいなかった。
暖炉の火が揺れていた。
四方に薄布を垂らした天蓋つきの寝台に、王女は透き通る繭につつまれるようにして眠っていた。
エトラツィア。
呼んでも、少女は深い眠りに落ちて、目覚めなかった。
先ほど、そのようになるように、薬を呑ませておいたのである。
その者は王女の掻け布を静かに取り払った。少女の肢体があらわになった。
影は寝台の上に半身を傾け、眠る王女に覆いかぶさった。
少女の瞼はぴくりとも動かず、唇は、その者を迎えることも、拒むこともなかった。
暖炉の薪がはぜ、火が踊った。
------お花をつんで
幼い少女の声が霧の中にした。
影は幼い王女を庭園に連れて行った。
細首に手がかかった時も、王女はその仕掛けを遊びだと想い、微笑んだ。
誰もいなかった。霧が全てを隠した。
「あの時に、死んでいれば良かったのだ」
寝台に覆いかぶさったその者は首枷を与えるかわりに、王女の唇に口づけた。
手はエトラの髪を撫でた。
その唇は眠る少女の頬をやさしく伝い、ほっそりとした首から、肩へ、そして胸へと這った。
胸の上でとまった。
寝着を通して、呼吸に合わせた微かな反応があった。
男の愛撫をまだ知らぬ少女の肌は、すべらかなだけであった。
その者の手は少女の肌には触れぬまま、影となって真上から、しばらくその隆起を見ていた。
ゆっくりと影の指が折り曲げられた。その白い胸から心臓をえぐり出すような動きを見せた。
空中でその手は握り締められた。拳は引いたものの、影はしばらく少女の胸の上から動かなかった。
やがて、人影は苦しげな息をもらし、半身を起こして、寝台から離れた。
エトラは眠っていた。
王女の部屋に暗い囁きが低くこぼれた。
お前が、これほどまでに、あのひとに似ていなければ良かったのだ。
「この膝をついて、その愛を乞うたあの姫に。
押し退ける力もなく、接吻や愛の言葉や、行為を黙って受けていた、あのひとに。
そのくせ、その心には触れさせてはくれなかった、あの厳しい人に。
------わたしには、選べない」
城の廊下を歩いていたジャルディンは、顔見知りの侍女の姿を女たちの中に見つけて、
「おい」、侍女を呼んだ。
あら傭兵ジャルディン様だわきゃあ、と女たちが歓んだ。
亜麻色の髪の女は特にジャルディンに気があるようで、彼に向けて色っぽい眼差しをくれてきた。
針仕事の日であったのか、女たちはみな、手に裁縫道具を入れた駕籠を持っていた。
一人の侍女と眼が合った。
侍女は「はい」、平然とジャルディンに応えた。
ナイアード王の信頼する侍女の一人で、王の命で、エトラ付きになっている侍女だった。
この時間にはそこに居るはずのない女だった。
「なにか」
歩み寄って来た侍女は生真面目な顔つきでジャルディンの顔を見つめた。
編んだ髪を後ろで束ねたその女の目尻が、ジャルディンの見ている前でぴくりとふるえた。
それを見たジャルディンは侍女を突き飛ばすようにして横に退け、東の塔に向かって走った。
塔の護衛が愕いてジャルディンに声をかけたが、片端から蹴り転がし、
塔の上階に向かった。そこに、追いかけてきた先ほどの編髪の侍女がジャルディンに追いつき、
彼の腕を女の力で必死に掴んで引き止めた。
後から階段を駆け上がって来た色っぽい亜麻色の髪の侍女も、事態を見るや、
いそいで編髪の侍女に協力してジャルディンの腕にぶら下がり、引き止めにかかった。
「おやめ下さい。後生です。エトラ様は、ご無事です」
ジャルディンは女二人がかりの制止の力を振り払い、
「エトラ!」
侍女を突き飛ばして、エトラの名を呼んだ。
エトラの部屋の周囲はいつもそこに詰めているはずの人間がすべて引き払われて、
控えの間にも誰もいなかった。
「エトラ!」
扉はあっさりと開いた。
室内に飛び込んだジャルディンが寝台に突進すると、
エトラは呼吸も穏やかに、すやすやと眠っていた。
廊下に戻ってみたが、その間に途中の小部屋に隠れていたであろう人物は、
ジャルディンがエトラの部屋にいる間に、編髪の侍女の手引きで、外に逃れ出た後であった。
[続く]
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