[楽園の霧]
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Yukino Shiozaki

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■X.

女を膝に乗せているところを、別の女に見つかるというのは、具合が悪いものである。
たとえ疚しい気持ちはなくとも、何となくまずい。
女の方から勝手にしなだれかかってきたのだ、そんなつもりではなかった。
男が弁解すればするほどあやしくなる。
そんな状況を見事に目撃したのはエトラであり、
女を膝に乗せていたのは、ジャルディンであった。
侍女は均衡をとるためにジャルディンの首に腕を巻きつけており、
椅子にかけたジャルディンの腕は、女の腰を抱いていた。
扉はすぐに閉まった。
 「誰?」
 亜麻色の髪の女が甘えた声で訊いたが、ジャルディンは声もない。
そんなつもりではなかったどころか、まずまずはそんなつもりであったから、なお悪い。
一刻の後、外に出てきたジャルディンを二階の廊下の柱に凭れて待っていたのは、
ギリファム王子であった。ジャルディンは無視した。
 「調子に乗るなよ、傭兵」
 傭兵に素通りされたギリファムだが、しかし怒りはなく、苦笑といった感じだった。
 「亜麻色の髪の侍女は混血の傭兵がお好きとみえる。尻軽な女だ」
 「そちらの恋人だったか?」
 気楽に返答してかわした。
円柱から腕を離し、王弟はジャルディンに附いて来た。
 「俺の侍女を連れ込むとはいい度胸だ。だが、城の中ではご法度だ。
  誰も守っちゃいないがな。俺も」
 「王弟の侍女」、ジャルディンは足を停めた。
 「兄上の侍女だと思ったか」
 ギリファムは得意気に前に回ると、ジャルディンの行く手に立ちふさがった。
歩みを停めたついでに、ジャルディンは解け落ちていた髪を結わえなおした。
どうりで防御の薄い女だと思った。ギリファム附きの侍女だったか。
城の女たちを束ねているのが一番身分の高い王太后である以上、
エトラ附きの侍女はすべて、ナイアード王が自分の侍女の中から信頼する者を選んで
エトラの世話係りとして東の塔に寄越しているのだと思っていた。
ギリファムはお前の考えていることなぞお見通しだといった冷笑を浮かべた。
いろいろ嗅ぎまわっているようだな、傭兵。
 「王はエトラ附きの侍女を自分のところからだけ選抜したのではないぞ。
  俺とトルマンのところからも同じ数の侍女を出させたのだ。
  何故か分かるか。エトラに危害を加える者が中に混じっていないか、
  女どもに互いに見張らせるためだ。
  しかも兄上は巧妙にも、侍女たちを一人ひとり個室に呼び出して、
  東の塔に配属された女の中に、エトラツィア王女の命を狙う者がいると全員に吹き込んだ。
  縄張りがそれぞれ違う女たちは、互いを猜疑の眼で観察し合っている。
  あれでは、よからぬ者がエトラに何かしようとしても、
  エトラが東の塔に居る限りは誰にも、何も出来んさ」
 それでは、やはり、先日東の塔に侵入したのは、ナイアード王その人であったのだ。
決して王女の側を離れてはならぬと王から厳命を受けているであろうお付の者たちを、
短時間のうちにエトラの周辺から引き払わせることが出来るのは、王しかいない。
それゆえ、ジャルディンを追いかけて来た侍女たちは、エトラの部屋に
誰がいるのかを先刻承知で、ああも必死に止め立てしたのであろう。
誰も邪魔することが出来ぬ至尊の君。
その人物とは、ナイアード王をおいて他にない。
 (何のために)

 「あら、それは、王さまがエトラツィア姫をお好きだからですわ」

 笑いながら先ほどの女はジャルディンの肩に頬を寄せた。
恋を多き女ならではの寛容さで、亜麻色の髪の侍女は、
東の塔を無人にしてエトラに逢いに行った王のいたずらを全面的に
好ましいものとして捉えているようであった。
自分のことでもないのに想像すると愉しいのか、
ジャルディンの黒髪を指に絡めながら訳知り顔をする。
東の塔に走ったジャルディンを追いかけてきた二人の侍女のうち、
生真面目な編み髪の侍女の方はどうも崩し難しとみて、先からジャルディンに軽薄な秋波を送っていた
亜麻色の髪のたこちらの女に目をつけたのであるが、亜麻色は存外に、口が軽かった。
女は、ジャルディンと王が友だちだとすっかり信じ込んでおり、
 「王は何の話があって、あの日、エトラと二人きりになったのだろうな」
 かまをかけてさり気なく訊ねたジャルディンに、今の答えを寄越したのである。
 「お二人きりになりたかったのよ。こんなふうによ。
  王さまだってエトラツィア様と親密な刻を過ごされたいことだってあるわよ。
  先代王は子宝に恵まれず、遺されたのはエトラツィア王女だけ。
  先代の弟王子のお血筋であるナイアード様と、先王の王女さまとのご婚約については、
  ずっと以前から折に触れて取り沙汰されてきたことではあるけれど、
  肝心のエトラ様がご不在とあっては、誰も本気にはしていなかった。
  だけど、遠方で先王の妃であった御方がお亡くなりになられたことで、
  ふと、妃と共に城を出られたきりのエトラツィア王女さまのことを、みんなが想い出したのよ。
  それで、一気に、エトラツィア様の御名が王妃候補として浮上してきたの。
  ナイアード様ご自身はどう思われていたのかは知らないわ。だけど、
  幼い頃に別れたきりのお従妹さまが、あのように美しい少女になって城に戻られたのを見て、
  王さまもすっかりその気になったのではないかしら。
  まだ求婚はなさってはいないようだけど、きっと、そうなるわ。
  それならなおのこと、事前にお姫さまのお心を解きほぐしておくことも、
  これから求愛に向かう男としては、ちょっとくらいは必要だと思わなくて」
 「確かに」、侍女の尻を膝の上に乗せたまま、ジャルディンは頷いた。
 「エトラツィア様は若く美しくていらっしゃるから、あのような方を王妃になされば、
  ご成婚の暁には、王はエトラ様を愛しまれることよ」
 侍女の話は止まらなかった。
実はね、国内の安定を第一に考える王さまと、富国強兵論の先鋒を担ぐギリファム王子とは、
ずっと以前から対立しているの。それだけでなく、ギリファム王子としては、
強国との同盟強化を目的として、隣国の王女を王の正妃とするよう、
王に対して繰り返し要望していたわ。
どうして弟のギリファム王子の妃では駄目なのかとえいば、あちら側が、
カルビゾンの正妃になるのでなければ、姫を嫁がせぬと返答してきたからだそうよ。
 「分かる?」
 ジャルディンは頷いた。
それで、ギリファムは峠道でエトラを襲ったのだ。
エトラツィアがカルビゾンに帰還すれば、
ナイアード王は先代王の王女エトラツィアを正妃として迎えることで、内政に専念し、
それと同時に、隣国との血の結合による同盟の野心もそこで断たれるとあっては、
急進派としては何としても、ナイアードとエトラツィアのいとこ同士の婚姻を阻止したいところである。
となれば、霊廟前でエトラツィアを狙ったのも、その一派であろうか。
城内の不穏分子のもっともたるものがそれとすれば、その他は何か。
毒を塗った古写本をエトラに渡そうとした王太后、
養女とした王の愛妾を足がかりに、願わくば愛妾を王妃の座に据えて、
そこから権力を伸ばそうと目論むローリア侯。
または嫉妬からエトラを亡き者にせんとする、隠された女。
考え込んでいる傭兵の顔に、亜麻色の髪がかぶさった。
 「お仕えしたエトラ様を王さまに取られるような気がして、妬いてるのかしら」
 「べつに」
 亜麻色の髪の侍女と唇を重ねた。
そうしながらも脳裡に先刻のエトラの顔を想い出して、何となく、集中できない感じだった。
 「王の愛妾アマミリス様のこと?」
 傭兵の胸に凭れたまま、侍女は、そこだけは言葉を濁した。

 「アマミリス様がローリア侯のご養女となって王のお側に上がられたのは、
  十代でナイアード王がご即位あそばされた、その直後だったそうよ。
  ローリア侯のご養女となる前は、何処で何をしていたか素姓も知れたものではないし、
  一説には、ローリア侯と王太后が、即位したばかりの若い王の慰めの為に探し出して来た
  適当な女人だとも云われているわ。
  つまり、アマミリス様はもしかしたら、王太后さまの手の者かも知れないってこと。
  宮廷にはお姿を見せたことはないから、どんな方かわたしたちも知らないわ。
  ずっと隠れ家に籠もり切りで、寵を誇りだすこともなく、悪い方には思えないけれど、
  こんなにも長い間王のお心を独り占めしているくらいなのだから、
  それ相応に、女のずるい知恵もはたらく方なのでしょ。
  それもあって、西の塔の王太后さまには悪いけれど、
  城の若い女たちはみんな、東の塔に入られたエトラ様を歓迎しているの。
  先王のお血を引くだけあって、エトラツィア様は生まれながらに気高くていらっしゃる。
  僻地でご苦労をされたせいか、とても自制心が強く、思い遣り深いお姫さまだわ。
  あのお方なら、カルビゾンの正妃として相応しいわ。
  きっと、素晴らしい結婚式になるわ。宴が何日も続くわ」

 華やかなことが好きらしく、亜麻色の髪の侍女は世紀の婚儀に向けて
今からもう夢を膨らませているようであった。
しかし、その侍女の口からも、王の愛妾についてはそれ以上訊き出せず、
そして王と愛妾の間に七歳になる男子がいることについては、アマミリス母子が
下街に蟄居していることもあり、まったく知らぬようであった。
亜麻色の髪の侍女は、バーレンと同じく何度も、「愛妾のことはエトラ様には内緒よ」、念をおした。
エトラツィアとの婚儀が成立する前に王の愛妾の存在が若いエトラに知れては大事であるから、
エトラを歓迎する気持ちと、王太后を筆頭とした旧勢力への反発があればあるほど、
城の若い者どもは一致団結して、平生はお喋りなその口を閉じ、
王女の眼からアマミリスの名を隠しおおすつもりのようであった。
ナイアード王がエトラと王太后の住まいを西と東の塔に振り分け、
完全に分断したのには、王太后の心情を慮ったというだけでなく、王太后派の誰かから、
王の愛妾の存在を悪意の口でエトラに吹き込まれることがあってはならないと、
それを警戒したからなのであろう。
それでは、その城の若い者たちは、
ギリファム王子が画策する隣国同盟についてどう思っているのかと訊くと、
 「他国の姫を王妃として崇めなければならないなんて、我慢ならないわ。
  先方はカルビゾンよりも強国なのよ。よそ者が威張り出すなんて、まっぴら御免よ」
とのことであった。
 一階に下りて廻廊から外に出た。
白い雲の流れる、眩しいほど青空があった。
 「傭兵、訊きたいことがあるならば俺に訊けばいい。教えてやる。
  少なくとも噂好きの侍女どもよりは、確実だと思うぞ」
 ギリファム王子は手近な花木の枝を折ると、その枝先をジャルディンの鼻先に突きつけた。
 「俺はお前を高くかっているのだぞ、傭兵。
  兄の周りにいる文弱どもとは面構えが違う。身のこなしからして全く違う。
  俺は強い男が好きだ。お前からは、戦いの匂いがする」
 だが云っておくぞ、とギリファムはぎらつく眼をジャルディンに据えた。
王弟は枝先でジャルディンの頬をなでた。
俺の侍女はくれてやる。だが、エトラツィアには手を出すな。
 「あれは俺がもらう」
 「王の先約が入っているのではないのか」、ジャルディンは王弟の手を振り払った。
 すると、ギリファムは自信満々にその枝で自分を指した。
確かに、エトラを謀殺する他にも、たとえばエトラが王よりも王弟ギリファムを選ぶなら、
事態はふりだしに戻るだろう。
母を喪い、ふるさとを頼って旅をしてきた王女を峠で葬り去ろうとした男は、
美しく成長したエトラを見て急にそそられ、気が変わったとみえる。
たとえ、エトラの心が王弟を選ばなくとも、無理やりにそうすることもこの男ならば躊躇わぬであろう。
枝を投げ捨てて、豪快にギリファムは笑った。
 「カルビゾンの霧は深い。お前ひとりでは何も出来んぞ、ジャルディン」
 霧が晴れたら、空が見える。
海上に広がる、星が見える。風なき天海、時の舟を漕ぎゆく、輝く星座が。
 (ジャルディン。お前に、この国をやってもいい)
 あの時何と答えたのか忘れた。
母が何故、あの日、帝王であり主であり夫であり、支配者である男を殺そうとしたのかも。

 -----息が詰まりそう。
   帰りたい、ふるさとへ。花咲く森。雪の降る国へ。

 果たして、超帝国の帝王を道連れに自殺をはかった女の胸裡に、
まだ幼い息子の姿はあったであろうか。
切りつけられた帝王は騒がず、閉鎖的な後宮に飼われている女の鬱屈や一時的な発作など
よく承知であるといった様子で、女の手から短刀を取り上げただけで、罪は不問であった。
泣き崩れていた女は、それでも迫り来る死を知っていただろうか。
後宮中の女という女が、その手にあらゆる懲らしめの鉄具を持ち、
爪をとがらせて、女を打ちにやって来るのを。
 『王よ。わたくしどもは王の御為に。
  あのものは王の眼をぬすんで、年長の王子たちを通わせておりました。
  王は、騙されておいでだったのです。あれは卑しき、いやらしい女です。』
 もしかしたら、密葬の終わったあの日、
はじめて少年は父の顔をまともに見たのかも知れない。
ジャルディンは異国から連れて来られた女よりも、父に似たが、
子供の頃は母に似ていたのかも知れない、それも冷酷な父の顔からは窺い知れなかった。
母を失った息子の為ではなく、それがあの男なりの、女への手向けだったのかも知れない。
帝王は女たちを処刑にした。

 城の庭で背を丸めている老人の姿に、ふと、園丁には似つかわしくないものを覚え、
ジャルディンは立ち止まった。
 「バーレンの父親。カルドだ」
 ギリファムが教えた。
どうやらギリファムはカルドが苦手のようで、ジャルディンの腕を引いて物陰に隠れた。
腰を屈めて菜園の世話をしている痩せた老人は、王の侍従バーレンの父であり、
先王に仕えた前宰相である。
 「今日は具合が良さそうだな。天気のいい日には、ああして庭に出ている。
  悪い病に侵されて見かけはすっかり老けたが、頭はまだいいぞ。油断ならぬ爺だ」
 「カルド」
 引退した宰相の名を呼んだのは、ギリファムではなく、
ちょうどそこへやって来たトルマン王子だった。
バーレンの父カルドは、頭を下げて庶子王子を迎えた。
トルマンとカルドは、実の祖父と孫のように、菜園の中で談笑していた。
 「王太后といい、カルド爺といい、弟の奴は、年寄りの受けがいい。
  トルマンは素直でかわいいとさ。いい年した男が素直、だとさ。笑えるだろう」
 建物の陰に隠れたギリファムは、馴れ馴れしくジャルディンの肩に手をおくと、
その耳に口を寄せた。
教えてやる、あの素直でかわいい、俺の異母弟の夢中なものを。
 「毒物学だ」
 老人と畑にいる弟の姿に冷ややかな視線を向け、ギリファムは手柄顔で得々と語った。
 「だからああして、余生の趣味で畑いじりをしているカルドと仲がいいのさ。
  交易人から遠国の種を運ばせては、カルドに頼んであやしげな毒草をあそこで育てている。
  それだけでなく、王太后の菜園もあれが全て取仕切り、
  婆あの薬もあれが煎じているのだ。
  かわいい顔をした弟は、城の中に毒の種を蒔く、毒殺魔なのさ」
 「ナイアード王もそれを承知か」
 「とっくにな」
 ギリファムは頷いた。 
 「何なら、トルマンに直接訊いてみるといい。
  お前ならば、矢に毒を塗ることなどお手のものだろうと」
 「ジャルディンさん」
 そこへ、エトラの侍女が困った顔でやって来た。
 「ジャルディンさん、エトラツィア様を知りませんか」
 「いないのか?」、ギリファムが顔を厳しくした。
 「よく探したのか。ようやく傷も塞がって、歩けるようになったばかりだろうが」
 「手伝う」
 身に覚えがあるような、ないような、疚しい気持ちでジャルディンは侍女に従った。
城の事情を聴き出す為とはいえ、こちらから誘った女を膝に乗せていては
追いかけることも出来なかったが、あの時エトラは、何か用があったのかも知れない。
 「助かりますわ、ジャルディンさん。
  エトラ様はきっと、あなたを探しにお部屋を出られたのです。
  一度は戻られたのですが、またすぐに出て行ってしまわれて。
  わたくしどもがお茶の用意をしている、ほんのわずかな間に、
  お姿が見えないようになってしまわれたのです」
 「俺も探してやる」
 「まあ、ギリファム様まで。ありがとうございます」
 手分けして王女を探しに行く一行の後姿を、菜園の中からトルマン王子とカルド老が
じっと見送っていたのを、彼らは気がつかなかった。


  
 カルビゾンの城下は、賑わっていた。
帽子を深くかぶり、男の格好をしてきたものの、
あまりこのような雑踏の中に身をおいたことがないエトラは、人に酔った。
商家が連なる表通り。入り組んだ狭い街路で構成された密集市街地。
広場には市がたち、青空の下、野菜の清んだ匂いがし、大勢の人々で混雑していた。
轍の痕が刻まれた石畳。集会場の風見鶏。
幼い頃に、ギリファムがおしのびでよく連れて来てくれた、そのままだった。
あんな陰気くさい気違い女と一緒にいたら、お前までそうなってしまうからな。
ギリファムが母のことをそう呼ぶたびに、むきになって抗議したものだ。
お母さまは、おかしくなんかないわ。
おかしいさ。塔から落ちた時に頭を打ったのさ。
王子は幼い王女に屋台の菓子を与えることで黙らせた。
からかいながらも、ギリファムは幼女のお守りを結構愉しんでいるようであった。
 橋の上に立つと、雑踏のざわめきは少し遠のいた。
水の上には涼しい風が吹いていた。橋の欄干に凭れて下をのぞいた。
豊かな青流の底は見えなかった。
そこからエトラは城を仰いだ。
ここからでは幻の城のように遠く見えた。
青空が見たくて、東の塔から外に出た。
附いて来た侍女は、エトラの前に現れた老人を見ると、礼をして、引き返して行った。
エトラは訝しく思った。
ひと睨みで王から寄越された侍女を下がらせることの出来る、この老人は何者か。
 (エトラツィア様)
 エトラの前に深く頭を下げたその老人は、王の侍従バーレンの父、カルドであった。

 「エトラツィア様。よくぞ、カルビゾンにお戻りあられました」

 高台の庭園では、花ざかりの木々が、細かな明るい影を落としていた。
老人とエトラは、庭園に通じる階段を渡った。
カルド老が、そこにエトラを誘ったのである。
庭園には花弁を重ねたあらゆる花が美しく咲き誇り、訪れた若い王女の姿に色を添え、
さざ波の立つ噴水の水盤には、風に落ちた花がゆったりと流れていた。
 ------お花をつんで
 老人はエトラにも憶えがあった。
父の宰相だった男だ。
病のせいで引退したと聴いていたとおり、すっかり痩せていたが、
その眼光は衰えてはおらず、老人とはとても思えぬほどに口調もしっかりとしていた。
カルド老は、誰もいない庭園に来ると、
 「決して姫さまには知らせてはならぬと厳命を受けておりましたが、
  しかし、お伝えせずにはいらせませぬ」
 感情をまじえぬ抑揚のない口調で、静かに語り出した。
 城からは死角となった、その庭園においてカルド老の口から聴かされたのは、
従兄ナイアードに関する、艶ごとであった。
王の愛妾の存在には、さほど愕かなかった。
しかし、ナイアードとその愛妾の間に男の子までいると聴くと、エトラの顔は曇った。
エトラに支えられて庭園の腰掛に腰をおろしたカルドは、
美しく成長したエトラを眩しげに、そして遠い眼をして見つめた。
ナイアード王と愛妾アマミリスの間の子は、男子で、もう七つになるという。
それは、ちょうど、エトラが母と共に城を出た歳であった。
エトラは庭の花を見ていた。 
 「隠していても、いずれは姫さまのお耳にも入りましょう。
  その時に見苦しくうろたえることがあれば、皆、お姫さまのことを何と思いましょうや。
  姫さまがナイアード様の正妃となれば、姫さまはカルビゾンの女王。
  何があっても、揺るがぬ心をお持ちでなければなりませぬ」
 お姫さま、と老カルドは一輪の花を摘んで、エトラの若い手に渡した。
老人の手と、少女の手は重なり、そして離れた。
 「お姫さま。エトラツィア様。幼き頃、エトラ様は、この花がお好きでした。
  憶えておられますか」
 エトラは憶えていた。花びらが幾重にも重なった白い花。
わたしが好きだったのではない。お母さまがお好きだった花だ。
お母さまの胸からは、いつも、この花の香りがしていた。
誰かが、母に届けていた。
 「カルド」
 老人と眼が合った。宰相としてまだ若かった父に仕えた男。
ローリア侯と並んで、王太后の最も信任篤き忠臣にして、母を魔物と呼んだ男。
しかし、エトラは別のことを訊ねた。
そしてその脚で城を出た。
ジャルディンに附いて来てもらうつもりだったのだが、
探し当てた傭兵は亜麻色の髪の色っぽい侍女と小部屋の中で親密にしており、
扉を閉めたエトラの後を追ってくることもなかった。

 (エトラ。カルビゾンまで供をしてやる。必ず送り届けてやる。俺を信じろ)
 (女のはだかなんぞ見慣れている。誰が王女に手を出すか。気にするな)

 どれも真実であった。彼は嘘をついていない。
嘘をついていない。
タットキリアの王子であることも。
河の流れを見つめながら、エトラは頬に落ちてきた髪を耳にかけた。
もし、彼が真に超帝国タットキリアの王子であるならば、
強大な軍事力を背景に持つ彼に、この世の誰が抗えようか。
ジャルディンこそ、大陸の覇者としてカルビゾンを従え、
そこの王女を奴隷にも出来よう。もしもそれが真実であるならば。
石橋の欄干の上に腕を組んで、エトラは微かに笑った。
とんだ超帝国の王子さまもあったものね。
見なければ良かった。
侍女を膝にのせて、何ごとかを囁きあっている、彼の姿など。
 (カルビゾン王妃。ナイアード王妃。王妃エトラツィア。
  誰も、訊いてはくれない。わたしがそれを望んでいるかどうかなど)
 カルビゾンに戻った途端、まるで既に決まったことであるかのように、
誰もがエトラを従兄ナイアードと結ばれるものとして扱い、そう見做した。
ナイアードも、エトラをそうなるものとして決めていた。
エトラの部屋を見舞いに来たナイアードは、寝台の側に椅子を寄せて、
やさしくエトラに云って聞かせた。
まるで知らない人がそこにいるようだった。
エトラツィア。先王は、生前、わたしとお前の婚儀をお望みであった。
わたしは先王の弟の子であり、お前は先王の王女である。
従兄妹どうしの婚姻は、王家の絆を強固にする。
わたしたちが結ばれれば、臣民も、カルビゾン王家への尊敬を新たにしてくれるであろう。
 「お前が他に好きな男がいるならべつだが、こうしてカルビゾンに戻って来たのだ。
  先王の、いや、お前の亡きお父上のご遺志に沿うことを考えてみてはくれないか。
  もちろん、お前がそれを望まないのであれば強要はしない」
 「ナイアードお兄さま」
 「意味は分かるね。わたしとお前が夫婦になり、お前はカルビゾンの王妃となるのだ」
 「……はい」
 「いいのだよ。返事は今でなくとも。でもこれだけは聞かせておくれ。
  わたしのことを嫌いかい、エトラツィア」
 「いいえ」
 「それなら良かった。嫌われていないのだね」
 「どうして、わたしがナイアードお兄さまを嫌うでしょう」
 「お前は昔、わたしよりもギリファムに懐いていた。
  わたしよりもギリファムの方がよいのではなかろうかと思ってね」
 そこに込められた意味が分かるほどには、エトラは城の事情に精通してはいなかった。
王は微笑まれた。
 「どちらにせよ、廷臣たちがいま話し合っている。
  十代で即位して十年、わたしもそろそろ王妃を持たねばならないとあって、
  周りがうるさいことこの上ない。
  わたしはこのままでもいいのだが、世継ぎの問題は無視できない。
  帰ってきた途端に煩わしい想いをさせてしまってすまないが、
  その怪我が治り、お前の帰還のお披露目が終わったら、
  その時にあらためてわたしはお前に求婚しよう。
  返事を考えておいておくれ、エトラツィア」
 「ナイアードお兄さま」
 立ち上がった従兄に、エトラは訊いた。
ナイアードお兄さまは、どうお考えなのですか。わたしを王妃にしたいと望まれているのですか。
もちろん、というのが、王のお答えであった。
 「だが、わたしは急ぐつもりはないのだよ。エトラツィア」
優しく微笑むその顔をみて、エトラには従兄の嘘が分った。
ナイアードお兄さまは、城に帰って来たわたしを重荷に思っていらっしゃる。
カルビゾンに帰還した従妹を迎え入れながらも、どことなく昔と変わらずに
よそよそしい一線を引いているようであった、ナイアードの態度。
それにも得心がいった。
王には、既に、愛する女人とお子がいた。
カルド老はその女人の名を教えてくれた。
ローリア侯の養女アマミリス。

 「とは申しましても、アマミリス嬢は、
  姫さまが気にされるような身分の女人ではございません。
  間に生まれました男子も、庶子として、片付くことでございましょう。
  姫さまは何も気になさることはありません。
  祝福はエトラ様の上にございます。
  エトラツィア様は自信をもって、
  ナイアード様の正妃の座にのぼられればよろしいのです」

 見舞いに来たナイアードは、エトラに妻となって欲しいと云った。
それは先王の遺言であり、それが臣民の願いだと。
だからあれほど、淡々と、優しかったのだ。
エトラの手に手を重ねて、物柔らかに語りながら、あれほど覚め切った眼をしていられたのだ。
河の風に吹かれながら、エトラは呟いた。
それでいいわ。
 (ナイアードお兄さまが悪いのではないわ。王族の結婚とはそのようなものだわ。
  だから、男たちはみんな外に愛する人を得るわ。
  お父さまが、お母さまを、こよなく愛されたように。
  そして、王太后を非業の生涯のうちに閉じ込めたように。
  同じことがわたしの上に返ってくる。これは、その報いだ)
 おそらく、ナイアードは、愛妾の存在を隠せる限りは隠しておく積りなのだろう。
さもなくば、あの誠実な従兄のことである、求婚にあたっては事前に全てを打ち明けて、
エトラの理解を求めようとするはずだ。
それを避けたのには、ひとえに、従兄がエトラとエトラの母の二の舞を、
その母子の上にかけるまいとの配慮なのだろう。
しかし人の口に戸は立てられぬもの、必ず耳に入ることもある。
エトラは、カルド老に礼を云った。
誰から何を聴かされても、これで、取り乱すことだけは避けられる。
 「その方々は、いま、どこに」
 そして、エトラは、教えられた邸宅を目指して、城下の下街におりて来たのである。
アマミリスは、養父であるローリア侯の屋敷にはおらず、別に家をもらっているとのことであった。
誰かに行き先を打ち明けても邪魔をされること必定なので、
変装がわりに男装し、一人で出てきた。
ナイアードが愛する女の顔が見たかったのではない。
王妃になるやも知れぬ己の心構えとして、カルド老の励ましに触発されたのでもない。
エトラは、亜麻色の侍女を膝にのせていたジャルディンを忘れたかったのである。

 橋から歩き出したエトラは、そのまま街路を奥に進んだ。
この辺りかと思しき通りで辺りを見廻した。
子供の声がした。
一軒の卑しからぬ、しかし目立たぬ造りの家から少年が現れ、
そして、その母らしき女が戸口から現れようとするところであった。
カルド老は何と云ったのだったか。
 (アマミリス嬢は、ローリア侯や王太后さまが王の慰めの為に、
  わざわざ気に入るようなものを探し出して来た女だと、そのように
  決め付けた噂もありますが、とんでもない。
  あれは、ナイアード様がご即位される前、まだほんの少年であられた頃に、
  おしのびで出た城下町で祝祭の日に見初められた、肉屋の娘なのです。
  本来であれば、とてもではないが王のお側にはべることは許されぬ下の下の卑しき女、
  どのような手管で王に取り入ったものか、子までなし、
  月に一度か二度、王がおしのびでやって来るのを待っているだけの、
  いわば商売女も同様の女です。エトラ様が気になさることはありません)
 王に愛される下街の女が卑しいのであれば、それでは、
敗国の女から生まれた、ここにいる自分はどうだ。
自分がひどく、ひどく、浅ましいことをやっているような気持ちになり、
エトラは女の姿を視界に入れる前に、背を向けて、急いでそこを離れた。
お父さまは、正妃に冠を与え、そしてお母さまに、愛を与えた。
ナイアードお兄さまは、わたしに王妃の冠を与え、そしてその方に、愛を与える。
懐かしい人々に逢いたかっただけだ。
流浪の月日、淋しい暮らしの中、夢の中で支えてくれた、
懐かしい想い出にもう一度包まれたかっただけだ。
カルビゾンを出て行こう。
ここは、わたしの国ではない。
 「エトラツィア」
 橋の上で抱きとめられた。
エトラの帽子が下に落ちた。
その人はしっかりとエトラを抱きしめた。
走ってきたのか息を切らしていた。
このような場所に居るはずのない高貴な人であり、そして、
この道を誰よりもよく知っているであろう、その人だった。
エトラを抱きしめたまま、「よかった」、その人は声をふるわせた。
 「アマミリスのことを聞いてしまったのだね、エトラツィア」
 「……ナイアードお兄さま」
 「わたしがいけなかったのだ。何もかも、お前に話してしまえばよかったのだ。
  傷つけることを怖れて黙っていたことが、かえってお前を傷つけることになってしまった。
  城から姿を消したと聞いて、もしやと想ったのだ。見つかってよかった」
 「王。早く城にお戻りを」
 目立たぬ馬車が近くに停めてあり、側近がそっと王を促した。
エトラを抱きしめている王は、それも聴こえてはいないようであった。
貴方はわたしではなく、わたしがアマミリス嬢を傷つけることを怖れたのではないのですか。
しかし、エトラの抱いたそんな疑いはナイアードの顔を見た途端にとけるように消えた。
そこには、まぎれもない彼の強い情があった。
城に帰ったあの夕方に、エトラが確かに従兄の顔に見たと想った、狂おしいほどの愛が。
傭兵の顔を想い出した。
 「エトラツィア?」
 王の腕を振りほどき、エトラは後ろに下がった。
アマミリスとその子供に逢わなくてよかった。誰も傷つけずにすんだ。
遠方から戻って来た王女のお披露目が公式に開かれる。
その日までに、カルビゾンを出て行こう。 



[続く] 

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