■Z.
眼の前に次々と並べられるご馳走には、
ご丁寧にも、宴席でしか見られぬような、羽根飾りや飴細工までついていた。
邪魔なそれを取り除けて、ありがたくいただいた。
狭い牢の中には織物を張った樫材の椅子が持ち込まれ、場違いなそれに腰かけた若者は、
硝子の器で葡萄酒を時々口にしながら、囚人の食事の様子を楽しそうな顔で見ていた。
「もう少しいかがですか。すぐに用意させますよ」
傭兵は片手を伏せた。
賓客に対してもこうはあるまいと思われるほどの豪勢な食事は、
牢の中での粗食に慣れた胃には少々重かった。
庶子王子トルマンは、手を打った。
すると牢の扉がさっと開き、控えていた給仕たちが、卓の上に広げられていた
もてなしのすべてを片付けていった。
新たな葡萄酒を持ってこさせると、トルマン王子は牢屋の中から人払いをした。
差し出された酒をジャルディンは飲み干した。
「あなたは変な人ですね、ジャルディン」
牢の中に二人きりになると、トルマン王子は微笑んだ。
ジャルディンがギリファムの手で放り込まれたのは、城の獄塔だった。
風のとおりが良いので半地下であってもじめついてはいないが、居心地がいいわけもない。
牢獄を訪れたトルマン王子がまず命じたのは、傭兵の手枷足枷を外すことだった。
それから、牢を掃除させ、藁を全て取り替えさせ、
その間には、持ち込んだ湯で傭兵の身体を侍僕に洗わせ、怪我の手当てをさせ、
服を着替えさせ、続いて傭兵をご馳走攻めにしたのであるが、
「あなたの為ではないのです。わたしがこういうことに、我慢ならないので」
恩恵を与えることに対しては、さり気ない、そんな言い訳までしてみせた。
ジャルディンは洗われて濡れたままの髪を肩の後ろに払った。
「わたしのささやかな趣味については、ギリファム兄上から聞いたのではないですか。
それなのに、わたしの注いだ飲みものを躊躇いなく口にするのだから」
ジャルディンは手の甲で口を拭いた。
毒入りなら分かる。
分からぬ場合もあるが、少々の毒ならば、身体に免疫がある。
国を離れても、それだけは忘れずに、常に慣らしてきた。
毒薬学に関しても医学に関しても、海の彼方の国の進歩はこちらの大陸の比ではない。
「お腹がすいていたのですか」
「そうだ」
傭兵の素直な返事に、トルマン王子は笑った。
内々のことではありますが、王とエトラツィアが婚約しましたよ、ジャルディン。
お披露目の前ですが、そのように、王から直接教えていただきました。
王冠だけでなく、あんなきれいな姫を手に入れて、兄上は幸運な方だ。
「まあ、飲んで下さい」
「要らん」
「そう仰らず。皆が噂をするように、きっとあなたは相当な身分の方なのだろうな。
堂々としていて、それが似合っている。
いったい、どこのご落胤なのか、ご出自をこっそり教えて下さいよ」
「タットキリア。最強にして最高貴の帝王を父に、それが慰んでいた女を母に」
「あはは、それは冗談が過ぎるというもの」
「何をしに来た」
「世間話に」
王弟の眼を盗んで牢を訪れたにしては、庶子王子のやり方は派手である。
面会については、ギリファムの許しを得ているのだろう。
老人の手で甘やかされて育った顔をジャルディンに向けると、トルマンは頬杖をついた。
エトラツィアが結婚の内諾をしたことで、彼女は、城内外の一部を敵に回しましたよ。
「ナイアード王とエトラツィアの結婚を歓ぶ者ばかりではないことは聞きましたか」
王に他国の姫をあてがい、強国との同盟を切望する急進派。
正妃の後ろ盾の座を狙っていた後見人。排他主義の妄信家。または怨恨。
王太后の指示でエトラの父親の形見の写本に毒を塗ったかも知れぬ王家の末王子は、
エトラの命を狙うものを、いちいち数え上げてみせた。
トルマンは、何用があって牢を訪れたのだろうか。
「可哀想だな」
若者はおとなしい顔で、憂いてみせた。
「兄王の前に出ても、エトラツィアは全然嬉しそうな顔をしていない。
ナイアードの兄上に愛妾と子がいることを知ってしまったからというだけではなく、
あれではまるで、不幸になるためにカルビゾンに戻って来たようだ。
ジャルディン、あなたはエトラツィアをよく知っているのでしょう。
あれがあの人の幸福かどうか、あなたはどう思いますか」
などと素朴な疑問を呈してくる。
「もっとも王とても、成婚のあかつきには美しいエトラツィアをすっかり気に入り、
愛妾とは縁を切るかも知れませんけどね。
それでも七歳になるアマミリスの生んだ子は、王の子であることには変わりなく、
王とエトラの間に子が出来た後も、庶兄として、王族の末端に名を連ねることになるでしょう。
これは王太后さまとも相談していたことですが、もしそうなれば、
わたしがその子を弟にするか、または養子にしてもいいなと思っています。
中途半端なものですよ、王子と呼ばれながらも、公式には王族として扱われることもない。
自分が庶子だったからかな、同情します。異国の姫を母に持つ、エトラにもね」
ジャルディンにはトルマンの感傷に付き合う暇はなかった。
食事の代金分だけ聞くだけ聞いて、
「トルマン王子」
「なんです」
「王子は、ナイアード王とギリファムと、どちらの政策方針の肩を持つ」
知りたかったことを訊いてみた。
若い王子は知らん顔をした。
「さあ。それをあなたに打ち明けたところで、あなたはわたしを信じないでしょう。
そんな顔をしていますよ。
王は内政強化を目指し、ギリファム兄上は領土拡大を目指す。
どちらもカルビゾンの向こう五十年を視野に入れておられての、私慾のないお考え。
わたしはどちらでも構いません。
内戦となったら武力を有するギリファム兄上が勝つかも知れませんが、
カルビゾンの民は、この十年の治世の正しさと、恩恵、
不要な戦を遠ざけることに全力を傾けてこられたナイアード王を深く敬愛していますから、
ナイアード兄上を斃す者は、カルビゾン全土を敵に回すことを覚悟したほうがいいでしょうね」
見かけほど無邪気ではなさそうな深いところをのぞかせて、しかしトルマンは、
あくまでも、それも噛み砕いて面には出さぬ、物柔らかな態度であった。
そして、実はあなたにお礼を云いたかったのだと云い出した。
「礼」
「あの写本のことです」
ジャルディンの部屋から、写本は見つからなかった。
十年前に王太后が王の柩から取り出し、毒を塗ってエトラの手に渡そうとした写本は、
傭兵のところで、かき消えた。
何処に隠したと尋問されたが、
「この男が口を割るわけがありません。拷問は悪魔の所業です。おやめ下さい」、
バーレンの懇願とに耳を貸したギリファムが傭兵の拷問を中止し、王弟はその代わり、
弟王子に直接それを問い質したのだそうだ。
「毒が」
眼をまるくした異母弟に、ギリファムはたたみかけた。
「王太后はエトラツィアを亡き者にしようとした。
お前はそれを手伝ったのだ。そうだろう、トルマン。
写本に毒が塗られていたことは、バーレンの証言で明らかだ。
エトラの手に毒つきの写本を渡らせ、エトラが毒を摂取摺るように仕向けたな。
よしんば死なずとも、あの本に触れた手で化粧でもすれば、顔がただれよう。
いかにも棺おけに片脚突っ込んだ婆あが好んでやりそうな、陰湿な復讐方法ではないか」
「兄上。何ということを」
トルマンは落ち着いて云い返した。
では、その証拠の写本を見せてもらいましょう。
まことにわたしが調合した毒であるかどうか、わたしの助手を証人に立ててもらいましょう。
お気の済むまで、わたしの部屋を探して下さい。
写本に塗られたものと同じ毒が見つかったのならば、
兄上がわたしをお疑いであるところの、その途方もない嫌疑にも少しは耳を貸しましょう。
王太后からエトラツィアに渡されたという、その問題の写本はどこですか。
「写本はない」
「では、世迷言として、いま聞いたことは忘れます。
兄上こそ滅多なことは口にされぬがいい。
先王の王女を殺めようとした疑いをかけるなんて、
王太后への許しがたき無礼として、わたしが王や世に問うて、兄上を訴えてもよいのですよ」
「………」
「と、こういうわけなのです」
「写本に毒を塗ったのは誰だと思う」
「わたしだと思いますか。王太后に願われてそうしたと。
さあ、どうでしょうね。もしかしたらそうかも知れない。
証拠の本がない間は、謎のままということにしておきませんか」
トルマンはジャルディンの盃にあらたに葡萄酒をそそぎ、ちらりと笑った。
本に毒を塗ったのがこの若者だとしたら、まことにこれは稀代の犯罪者ともいうべき、
しらばっくれた鉄仮面か、または、毒薬の魅力に憑りつかれた
行過ぎた趣味の行き着く果ての、奇人であろう。
「わたしはギリファム兄上に云ってやりました。あなたがあやしいと」
「俺が」
「一介の傭兵がどうしてそんなに毒物に詳しいのです。
しかもバーレンから聞いた、あなたの毒素の摘出方法は、完璧です。
王太后から渡された本に毒を塗ったのは、あなたではないのですか」
明るい眼をしてトルマンは身を乗り出した。
「もしそうなら、どんな調合をしたのか、わたしに精製方法を教えて下さい。
悪用はしません。学究心です。礼金といっては何ですが、お金は惜しみません。
そうだ、あなたが早く牢を出られるように、わたしからも王に頼んでみよう。
あなたに、わたしの研究室を見てもらいたいな。そして、意見を聞かせて下さい」
辞退の顔をしているジャルディンを知らぬげに、
「ギリファムの疑惑をかわせたのは、ひとえに、あなたが本をエトラには渡さず、
毒の撒かれた古写本をギリファム兄上の眼の届かぬどこかに隠してくれたからだ。
王太后にかわり、礼を云います。
王太后は胸を病んでおられて、もう先は永くない。
あやうく何者かに陥れられそうだったなど、とてもではないがあの方には云えません。
それで、あなたにあらためて訊くのですが、写本はどこに隠したのですか。
エトラツィアの手に渡っていないことは確かなようですが」
ジャルディンは黙ることで答えた。
トルマンは肩をすくめた。残念だな。
「本さえ先に手に入れることが出来たら、ギリファム兄上を逆に遣り込めることが出来るのに。
現物さえあれば、何とでも細工できますから。
ほら見て下さい兄上、これはわたしの調合した毒ではなかったでしょう、そう云って。
いつも虐められているので、少しは仕返しをしてやりたい」
「王とエトラツィアの婚約が決まったことで、もっとも歯噛みしている者は誰だ」
「さあ、誰でしょうね」
それを知っているように、トルマンは眼を細めた。
「ある人々にとっては、権力や、いちばんであることが、この上なく大切なのだな。
わたしのように他に打ち込むことがある者の眼には、あれほど醜悪なものはない。
汚らしいことに関わるのは御免です」
お暇でしょう、また来ます。
わたしがこうして頻繁に出入りしていれば、ギリファム兄上も、その他の兵たちも、
あなたにそうそう酷いことはしないでしょうから。
大丈夫ですよ、ギリファム兄上は、あなたを殺したりはしません。
あれでいてギリファム兄上は、あなたのことを気に入っているのだ。
強い奴だと褒めていました。兄上の軍隊に勧誘されたら、是非、入るといい。
トルマンは牢を出て行った。
格子のはまった天井の窓から差し込む明かりが、床にねじれた模様を作っていた。
ジャルディンは少し顔をしかめた。
ギリファムに殴られた時に切った口の傷がまだ痛いのだ。
午後になると、王がエトラのご機嫌伺いに訪れる。
もうじき、王がお渡りになります、侍女が告げに来た。
エトラは頷いた。
化粧といっても、することもないが、短い髪のごまかしに、耳飾くらいはつけておくべきだろう。
どちらがどちらに気を遣って務めているのかは知らないが、
結婚を控えている仲として、きたるお披露目式の時には、
二人の仲がよいことを臣下に喧伝しなければならない。
今からその予行練習をしておくに越したことはない。
もとより、嫌いではない従兄である。少しだけ演じれば、わけもないことだった。
支度を整えに、侍女が出たり入ったりを繰り返し、やがてその刻限になった。
王と逢う時には、侍従も侍女も遠ざけ、二人きりになるのが常だった。
ナイアードとは、少しの間、他愛のないことを話して、たまには二人で笑うこともあった、兄妹のように。
振り返ると、ナイアードの信頼篤き編み髪の侍女が、生真面目な顔で立っていた。
「姫さま。申し上げにくいのですが、王は、そのお花を好まれません」
花瓶には、白い花が挿してあった。
カルド老が高台の庭園から摘んでくれた花だ。
あの時もらったものは、あの日、街に降りた時に河に流してしまったが、
いまが盛りのいちばん美しいものを、今朝あらためて別の者の手で取りにやらせたのである。
侍女にその理由を訊き返すことなく、躊躇なくエトラはそれを花瓶から抜き取った。
しかし、遅かった。
「棄てなくてもよい」
手に手を重ねて、王がそれを止めた。
編み髪の侍女は一礼し、扉を静かに閉めて出て行った。
静かになると、花を挟んで、エトラは王と向き合った。
王はエトラではなく、白い花を見つめておられた。
「王がこのお花を好きでないとは、知りませんでした。
もう二度と、部屋には飾りません」
「そうしてくれるとありがたい。でもこれは、せっかくだから、そのままにしておおき」
ナイアードはエトラから花を取り上げると、ゆっくりとそれを花瓶に戻した。
柩に花を入れる、永訣の仕草だった。
「-----香りが、好きでない」
言い訳を呟く従兄の横顔は、その花が好きだと云っていた。
「これを、何処から」
「高台の庭園です」
「この花は、カルビゾンが建国された時から一株だけそこにあり、
代々の王が大切にしてきたものだ。わたしもそうしなければならないのに、
それをすっかり忘れていた。誰かに世話をさせなければ」
「カルドがそれを」
「彼が」
ナイアードはかすかに嫌悪を浮かべた。エトラはそれを見逃さなかった。
この城で母と暮らしていた頃、この花は母の側にあった。
蒼くみえるほどの白い花。
誰かが届けていた。
王はエトラの胸中を読み取ったように、つけ加えて云われた。
「この花は、お前にとっては亡き母上につながる想い出の花なのだね。
わたしが好かないというので、それを取り上げてしまうのは悪い気がする。
それでも、どうも気が塞ぐ。今後はおかないようにしてもらう他ない」
そうします、とエトラは応えた。
実は、そんなに花は好きではない。
あれば眼を留めるが、なければないで、気にならない。
それを飾ったのは、それが特別な花だからだ。何かのやさしさに繋がる花だ。
エトラは花を見つめた。
その頬を王の両手が包んで、こちらを向かせた。
窓硝子からの陽の光に、エトラの金色の髪は淡く、やわらかに輝いた。
それはかえって、ひどくこの少女を儚くみせた。この世ならぬ人のもののように。
「短いのもいいが、はやく女らしい長さに戻るといい」
「半年もすれば」
「きれいな髪だ。-----金色の髪、アルケイディアの人」
王の手の中で、耳飾が音を立てた。
胸の中に日差しの破片が喰い込むような、その予感に、エトラは身を任せた。
しかし王はエトラにそれ以上、触れることはなかった。
エトラを放した王は、どこか疲れたような眼で、エトラの顔を見つめた。
わたしたちは夫婦になるのだから、もう少し親しくしてもよいかと思うのだが、
お前は他の者のことを考えているようだね、エトラ。
「あの黒髪の傭兵のことだね」
「いいえ」、エトラは王に首をふってみせた。
「彼をギリファムの手に預けたままにしていることを、
お前は怒っているのだろう。牢に入れていることを」
「いいえ」
「敵国の密偵だとギリファムが訴え出たかぎり、疑いが解けるまでは、
わたしにもどうにもしてやれぬ。
弟が彼を捕えたのには、どうせ、ほかに何か理由があるのだろう」
「思い当たることはありません。
しかし彼が密偵だという疑いについては、誓って否定できます。
あれは一介の傭兵にしか過ぎません。
王、だから、わたしは王にお願いをしたいと思います」
「云ってごらん」
エトラの細い首を、日差しが切った。
衣裳の裾が、波打った。
先王の王女は、王が止める前にその場に膝をついていた。
たとえ異民族の姫であっても、その者は、新婚の祝いとして、
初夜のその夜に、王より格別のご配慮を賜ることが出来ると聞いています。
白い花の香りがした。
ナイアードは眩暈に耐えて、エトラを見下ろした。
この花の香り。過去が霧となって追ってくる。
王の声は掠れた。
「膝をつかなくてもいいよ。願い事はなにか云ってごらん。
それは、王の裁量により、聞き届けられる」
「それでは、ジャルディン・クロウの解放を願いたいと思います」
「それがお前の望みなのか」
「はい」
「従妹どの。随分と変わった結婚の贈り物であることを承知で、それをわたしに頼むのか」
「王の御心のままに」
「お前は初夜の床で、夫となる男に、べつの男の助命をねだろうというのだよ」
エトラはその水色の眸で、まっすぐに王を見上げた。
ややあって、沈黙の後に、王は苦笑をもらされた。
賢い女ならば、そのようなことを男に対して真っ直ぐに頼んだりはしない。
お前のやり方は純真なものではあるが、男を不愉快にさせるものだ。
「ナイアードお兄さま、誤解です。
わたしはあの者をカルビゾンに伴ったことを後悔しています。
あの者には褒美を与えて、すぐに城から去らせるべきでした」
「彼を立ち去らせるのに異存はない。
ギリファムが、あの傭兵を使って、どうやらお前に無理難題を降りかけているようだから」
「王」
「それくらいの情報はわたしの許にも入ってくる。
結婚の夜といわず、今晩のうちにでも、お前の願いは聞き届けられる。
ジャルディン・クロウを解放するよう、わたしからギリファムに命じよう。
二度とあの者をカルビゾンに立ち入らせぬことを、条件に」
その時、早馬が城に入る報せの喇叭が不気味に鳴り響いた。
控えの間から王が戻って来るまでに、随分と長くかかった。
エトラは愕いて、従兄を支えた。王の顔はそれほどに蒼褪めていた。
「ナイアードお兄さま。何があったのです」
「エトラ」
常に泰然として、温和に見えても豪胆なところのある王であったが、
今はその顔をこわばらせ、その精神に強い打撃を受けておられた。
エトラは王を追いかけた。
このような従兄を見たことがなかった。
「今の急使は何、ナイアードお兄さま」
「エトラ。カルビゾンの覇権を巡る争いを、このようなかたちで突きつけられようとは」
王は額に片手をあてて、エトラの手を借りながら、椅子に崩れ落ちた。
「王。いったい何事です」
「しかし、わたしは王である。何があろうと、王に挑むものの前に、屈することはない」
王は動揺を抑えたが、エトラの手を握るその手は冷たく、わなわなと震えていた。
白い花がそれを見ていた。
やがて、王の侍従バーレンが東の塔に駈けつけて来た。
王弟の唱えるジャルディンの密偵容疑を鵜呑みにしたものか、バーレンがギリファムに与して
ジャルディンを牢に送って以来、エトラはこの者と疎遠にしているが、
そんなことを云っている場合ではなかった。
「王の侍従をここに」、すぐさま命じた。
「王。おそろしいことになりました」
「バーレン。落ち着くのだ」
飛び込んできたバーレンは王の前に崩れ落ちるようにして膝をついた。
その頃には、ナイアードは己を取り戻していた。
王を仰ぐバーレンの方が、ただならぬ様相であった。
かりに、この侍従が陰ではギリファムの為に働くものであったとしても、この動揺と、
王を気遣うそのいたましいまでの同情ぶりは、偽りのない本物であろう。
バーレンの顔には汗が浮かび、その拳は握り締められていた。
今朝方、下街の橋の上から、一人の女が河に落とされて、助からなかった。
引き上げられた死体は素姓が不明であったが、午後になってようやく判明した。
極秘のうちに、身許が知れた。
王の愛妾アマミリス。
胸を一突きにされて河に投げ込まれていた。
そして、そのアマミリスが連れていたはずの、七歳になる男子は、行方不明であった。
朝霧の中ですべては行われた。
「追って、おそらくは脅迫文が届くでありましょう」
バーレンの声は引き攣っていた。
「これは、畏れ多くも王の御子を人質として、王に退位、または要求を突きつける、
脅しに違いございません。外国勢力の介入の疑いもある、非常でございます」
「うろたえるな。バーレン。何があってもそのような卑劣な手口に、王は動かぬ」
「しかし。アマミリス様が。御子さまが」
「アマミリスは死んだのだ!そなたが今することは、
かかる非道に手を染めた一党を突き止めることと、御子の救出ぞ、バーレン」
「は、ははっ」
「エトラツィア」
茫然としていたエトラは、我にかえり、王の側に行った。
アマミリスが殺された。
七歳になる男子が攫われた。
霧の中で、首を絞められたことがあった。
-------お花をつんで
その花を憎むものがいた。
侍女の噂話。ギリファムの言葉。
母の部屋にあった白い花。
(ナイアード様は、少年の頃、エトラツィア様のお母上がお好きだったそうよ)
(伯父上である王の、妃に、恋されていたのですって)
(気が狂っていたという異国の姫は、よほど美しい方だったのね)
(その方が亡くなって失意のうちにあるところへ、
その方に生き写しのエトラ様がご成長あそばして、お手許にお戻りになられたのよ。
それは王もお若いエトラ様に夢中になられるわよ。古い恋がようやく成就するのですもの、
間に合わせの愛妾など、もう飽きて、邪魔に想われているのではないかしら)
(エトラツィア。俺と兄なら、俺を選んだほうがいいぞ。
兄王は策士家だ。えげつない男だ。
だからお前も王を信用するな。こんな話をお前にするものではないが、云っておく。
昔、お前の母の許に、兄はよく通っていたのだ。塔の中で何をしていたのかは知らんがな)
(ところで、エトラツィア様は本当に、先王さまの子なの?)
そんなはずはない。
わたしとナイアードお兄さまは、十二歳しか違わない。
そんな怖ろしいことがあっていいわけがない。
(誰が寝所にしのんで来ても、判別がつかないわよ。あの姫は正気ではなかったのだから)
「王。エトラツィア様の顔色が」
「エトラ」
「ご様子がすぐれませんようで。これはいけない」
夜中になって、ナイアードが見舞いに訪れた。
お前は何も心配することはない。ゆっくりおやすみ。
天井を見つめたまま、エトラは王の手を退けた。
天蓋には、狩の模様が描かれていた。狩猟の様子の上には、月と星があった。
そこは、王の寝所であった。愛妾の殺害を受けて、王がエトラを東の塔から、
より警護の厳重な、王の塔に移したのである。
王のほかは誰も立ち入れない、奥の間へ。
王は手づから、エトラを抱き上げて此処にはこばれた。
エトラに拒まれたことを、王は怒らなかった。
怖ろしい話を聞いた後では無理もないと、大目にみられて、憔悴した顔を少し寂しくしただけであった。
アマミリスのことを気にしているのだね。
心苦しいことではあるが、あれが、あの者の運命だったのだと、そう想うより他ない。
水に落ちる前に、胸を刺されて即死であったことだけが、わずかな慰めだ。
苦しまずに済んだであろうから。
息子も、どうやら生きていると信じたい。たとえ敵の手に捕われていようとも。
寝台の天蓋を見上げたまま、エトラは呟いた。
闇のどこかで、海のように、霧が満干を繰り返している。
もしも、この人がわたしの父親であったとしても、わたしたちは結婚するのだろう、
従兄妹として、最初からそう決まっていたことのように。
わたしの父は霊廟で眠り、母は同族の魂と共に天に召された。
「ジャルディン・クロウの即時解放を。王」
「お前だけは、誰にも手出しをさせぬ」
「あの傭兵は、きっと王のお役に立ちます。だから、ナイアードお兄さま」
「あの黒髪の傭兵は、無条件に人を従わせるようなところがあるね。
威張ってるわけではないのに、貴風がある。
たくさんの人を殺して来ただろうに、微塵も、因縁や亡霊を引きずってはいない。
我々とは正反対だ」
「カルビゾンの名において。王よ、獄塔より彼をお救い下さい」
「カルビゾンの名において、それを、結婚の儀においても、わたしとお前は口にするだろう」
従兄妹同士は、見つめあった。
王と王女の眸は同じ色をしていた。カルビゾン王家の色を。
苦難の道を辿って、わたしの許に帰ってきた従妹よ。
お前の歓ぶことならば何でも叶えられる。
王はやわらかく約束された。
ギリファムが彼を高く評価しているのだ、せっかくだから、彼はこのまま城に据えおこう。
お前の云うように、あの傭兵には使い途がありそうだ。
愛妾を喪って、誰よりも打撃を受けているであろうに、若い王は自制心を喪わず、
その身ひとつで、愛児を奪った強敵を向こうに回しておられた。
ここは王の塔だ。この中にいる限り、お前だけは誰にも手出しをさせぬ、エトラ。
この部屋は、王妃となるものが使う部屋なのだよ。
わたしを誅さんとする者共が、もしもこの部屋に押し寄せて来ることがあったとしても、
他の者に殺められるくらいならば、その時には、わたしがお前を殺してあげよう。
もう二度と失わぬ。
「これはここにおいておく。お前にとっては、これが何よりも懐かしいものだろうから。
お前の慰めとなるように」
王はご自分のご寝所に立ち去った。
寝台から起き上がり、エトラは王が残していったものを見つめた。
王が嫌いだといった、あの白い花が王女の慰めの為に一輪、窓辺に活けられてあった。
霊気を帯びた月の光のように、そこにあった。
翌朝、カルビゾンをさらなる大波が襲った。
王弟ギリファム王子が、自分の軍勢を引き連れて、カルビゾンを出て行ったのである。
[続く]
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