■[.
ジャルディンは王が揃えたつわものの中から、さらに何人か選んだ。
わたしも附いて行きますと訴えるバーレンには、睨みつけることで黙らせた。
この、裏切り者が。
「ジャルディン。あれは仕方がなかったのです」
引き下がることなく、バーレンはジャルディンにしがみついた。
「牢の中に入れたりして、申し訳ありませんでした。
しかし、あの時は、ああするより他になかったのです。
わたしが忠誠を誓うのは王です。ギリファム殿下に下ったわけでは、決して」
「バーレン。あんたは嘘つきか」
「いえ。正直者です、そうありたいと」
「よく分かった。あんたは嘘つきだ。貴様など俺の知ったことか、離れろ」
「そんな、殺生な」
「俺は正直者よりも、嘘つきの正直のほうを信用する。
正直者だと自称するあんたは、だから、信用できない」
「意味が分かりません」
そこに用意の出来た馬が次々と引き出されて来た。
ジャルディンの馬を見る眼は確かである。すぐに一頭選んで、跨った。
バーレンは慌てて、その馬の前に両腕を広げて立ちふさがった。
決死の顔に偽りはなかった。
「正直者など不要だ」
「それなら嘘つきでいいです」
バーレンはジャルディンの馬の前に踏ん張った。
「わたしにも守秘義務があります。
とにかく、わたしもお連れ下さい、ギリファム様を追います。
たとえ王の命令に反して、誅してでも、ギリファム様が外国に亡命するのを止めなければ」
「剣は使えるか、バーレン!」
「ええまあ。王の侍従が使えなくては務まりません」
返事も待たず、バーレンも馬に鞍をおかせた。
「バーレン様は、あれでいて結構な使い手だぞ、ジャルディン」
横から口添えする者もいて、ジャルディンは仕方なく、
剣を握り締めて意気のあるところを見せているバーレンを一行に加えて、馬を走らせた。
カルビゾンの城は見る見る後方に小さくなった。
大空の下、久しぶりに馬を思い切り走らせているせいか、気分も晴れて来た。
あまり理不尽なことを好む性質ではないが、狭苦しい牢から出された時には、
仕返しだとばかりに、出迎えたバーレンの首をもう少しで締め上げてしまいそうだったのだ。
「勘弁して下さいよ。あなたが牢の中であまり酷い目に遭わないように、
獄吏たちに金を渡して、便宜をはかったのは、わたしですよ」
なかなか達者な馬術を見せて草波を蹴立て、横に並んだバーレンはなおも
ジャルディンに言い募った。
あなたが部屋の何処に古写本を隠したのか、知っていたのはわたしだけです。
ギリファム様の部下がそれを探し出す前に、あの夜のうちに、こっそりと、
わたしがそれを取り出しておきました。
ジャルディンは刺客が来る前に、天井の梁を削った洞の中に、あの古写本入れておいた。
見つからなければもうけものくらいの気持ちであった。
ギリファムの手に落ちる前にバーレンがそれを取り出していたとは。
ただし、その理由は、あまり褒められたものではなかった。
「王太后の罪の証拠であるあれを、王の側近であるわたしが抑えておけば、
王太后派の牽制が出来るのではないかとそう思ったのです。
あの方がエトラツィア様にこれ以上危害を加えるような気配があれば、
あの古写本を突き出して、王太后を告発できます。
同時に、ギリファム様に対しては、あなたに協力者がいることを匂わせておけます。
それが何者か分からぬうちは、あの方も牢に入れたあなたを不用意には殺しますまい」
殊勝な心がけではあるが、ジャルディンは騙されなかった。
「古写本に毒が塗られていたことは、下手人と、俺と、あんたしか知らないはずだ。
王弟にそれを告げ口したのは、誰だ」
「守秘義務です」
「帰れ」
「分かりました、白状します。わたしです」
しぶしぶバーレンは認めた。
カルビゾンの西に広がるのは荒野である。低いところに雲が流れていた。
軍隊を率いて城を出た王弟ギリファムの一行の跡を追って、彼らは駈けた。
到着は夕方になる。
「ジャルディン、あれは致し方がないことだったのです」
バーレンは言い訳に必死だった。
「ギリファム様はわたしに酒を振舞いながら、わたしの肩に腕を回して、こう囁いたのです。
ジャルディン・クロウこそは、かの地に王太后が送り込んだ王女の刺客。
ところが、エトラツィアに惚れた。
その理由で奴は王太后から王女に寝返ったのだ。
バーレン、手遅れにならぬうちに、あの傭兵をエトラの側から引き離したほうがいいぞ」
愕いたわたしは、そこで、早合点してしまったのです。
そうかそれで、王太后は西の塔にあなたを呼びつけて、
あの古写本をわざわざ、あなたの手を通してエトラ様に届けさせようとしたのだと。
「裏切った刺客の口は閉じさせなくてはなりません。
報復なり、首尾よく王女を毒で葬るなり、
よしんば失敗しても、写本に毒など塗っておらぬと切り抜けることで、
王太后はその罪を流れ者の傭兵に被せることが出来る。
一石二鳥を狙った、あれは王太后の仕掛けた罠なのだと。
わたしは、エトラ様の御為にも、何としても、王太后派を城から一掃したかった。
それで、うっかりギリファム様に、あの写本のことを喋ってしまったのです。
ところが、ギリファム様は嫉妬に駆られて、エトラ様を思い通りにするために、
あなたを捕縛にかかるのだから、すっかりあてが外れてしまいました」
有能なのか迂闊なのか分からぬ男である。
ギリファムがジャルディンを獄塔に放り込んだのは、
嫉妬もあるだろうが、彼の言葉どおり、エトラにはたらきかけるには
その側にいる、従順ならざる傭兵が邪魔だったからなのであろう。
バーレンは声を弾ませた。
「あなたのお気に入りの亜麻色の髪の侍女を、
世話係りとして牢の中に通わせたのも、あれも実は、
わたしがギリファム王子に頼んでやらせたことなのです。お役に立ちましたか」
男が鎖に繋がれているところを女に見られて、何が嬉しいか。
横目で睨みつけると、ようやく、バーレンは押し黙った。
実際のところ、亜麻色の侍女は確かに役立った。
「ジャルディン。酷いことになったわね」
女が来る前に、れいによってジャルディンは壁に磔にされていたのだが、
亜麻色の髪の侍女は、持ち込んだ湯で毎日、傭兵の身体を丁寧に拭いてくれながら、
ひそひそと外の様子を教えてくれた。
鎖で固定されて何も出来ないのに身体が密着するのには閉口したが、
「こうしないと、外に聴こえるもの」
なやましい眼でそう云われたら、そうかと思い、好きにさせていた。
色気過剰にしろ、親切な女だった。
「王の愛妾が殺された?」
亜麻色は頷いた。
「遺体は河から見つかったそうよ。下方の娘が、王の寵愛を一身に受けていたのですもの、
分不相応のその報いだなんて云う者もいるけれど、あんまりだわ。
女の胸を一突きした挙句、河に落とすなんて、人間のやることじゃないわ」
凶行は明け方に行われたそうよ。夜にはお屋敷にいたそうだし、
朝早い乳搾りの男が橋の欄干に血痕を見つけた時には、血は、まだ新しかったそうだから。
お気の毒ね。アマミリス様は何者かに外に呼び出されたに違いないわ。
「子供は」
「誰の」
「いや、何でもない」
城の大方の人間は、王の愛妾に子がいたことを知らない。
河から見つかった遺体が王の愛妾一体だけならば、子供は何処へ行った。
「王さまは気丈にしていらっしゃるわ。
政務も滞りなくはこばれて、愛妾を喪った哀しみに耐えておられるわ。
それでもアマミリス様の暗殺に、よりいっそう城の警固を固められ、
エトラ様を東の塔から、ご自分の側、つまり王の塔の中にお移しになられたの。
そのほうがいいわ。あそこなら安全だわ。
でも、エトラさまはご病気よ。重態という噂もあるわ。もっともお披露目の儀については、
順調に準備が進んでいるから、それはないとは思うけど。ジャルディン、こっちを向いて」
亜麻色の侍女は美人の上に、気が利いている。
至れり尽くせり、髭まで剃ってくれた。
「とにかく、そういう話よ。真相は分からないわ。
東の塔に詰めていた侍女たちは、それぞれ元の職場に戻されて、
わたしも、もう王女さまの係りを解かれて、ギリファム様の許にいるの。
男って愛する女を後生大事に隠してしまいたいか、見せびらかしたいかのどちらかなのね。
そして、王は独占してしまいたいお人なのだわ。
王の塔の一隅にエトラ様を閉じ込めて、ほとんど誰にも出入りを許されていないそうよ。
いくらアマミリス様の怪死があった直後とはいえ、
あれでは、お姫さまがお気の毒だわ。ご病気になってしまうのも無理ないわ」
亜麻色の髪の侍女は最後に余計な心配を言い置いていった。
もしかして、エトラ様はもうお亡くなりになっているんじゃないか、なんて説もあるくらいよ。
「確かに、エトラツィア様は軟禁にも等しい状態です」
ジャルディンに声を掛けられたことで、バーレンがふたたび喋り出した。
「そのような噂が下女たちの間に流れたのも、お姿をお見せではないからでしょう。
それもこれも、エトラ様を護るためです。
外を護衛で固め、王の最も信頼する女たちだけが、王女にお仕えしています」
騎馬の一行はカルビゾンの砦を越えて、国境を渡り、河沿いに馬を走らせていた。
自らの軍隊を率いて城を出奔したギリファムは西に消え、そして西には、ローリア侯の所領があった。
「ジャルディン・クロウ。余の弟を追いかけて、
その意図を確かめ、できれば無血のうちに説得し、連れ戻すように」
獄塔から出されたジャルディンは、真っ直ぐに、ナイアード王の許に連れて行かれた。
散々ギリファムが、『兄は策士家で、えげつない男』、と呼ばわるとおり、
どうして、王は実際にそういったお人であった。
弟ギリファムはそちを高く買っていた。それゆえ、そのそちに弟を追わせることとする。
ナイアード王は王座にゆったりと構えて、疲労の気配はあったものの、
愛妾の死の痛手は窺わせず、また、喪にも服してはおられなかった。
濃紺の衣に身を包み、頭上には王冠を戴いて、厳正なる裁定者のごとく、そこにおられた。
傭兵よ。余は勝負をする、と王は云われた。
王は、微笑みすら浮かべていた。
「エトラツィア・シルヴィ・カルビゾンの命を賭けた、ちょっとした愉しみを。
余が負ければ、エトラツィアはよくて監禁、暗殺に脅かされる余生を送るであろう。
余が勝てば、エトラツィアは、終生、余の王妃として我が許で安んじて生きよう」
王はジャルディンに函を見せた。
函の蓋は外され、中には封蝋の切られた手紙があった。
おとといの早暁、余の愛人が殺害され、七歳になる余の息子が何者かによって領外に拉致去られた。
「一味は余の息子の命と引き換えに、余の退位と、
そこに記されし条件での軍事同盟を要求しており、
その後押しをする勢力は国内ではなく、外国にその拠点があることを匂わせていること、
ここにあるこの書面のとおりである。差出人はローリア侯」
王はこのような密談の際に使う聾唖の小姓に眼の動きで命じ、
傭兵の手にその書函を渡らせた。
「不忠義者ローリアは城下の屋敷を引き払い、隣国の支援を待ちながら、
その所領に篭城中である」
王は云われた。
「侯は強国に与し、このカルビゾンの実質上の支配者たらんとして、此度の凶行に及んだ。
しかし、そのような卑劣な手段に屈する王などこの世にあったためしはない。
カルビゾンの王が、そのような強請に屈すると、ローリア侯は何故、愚かにも確信しているのか。
王たるものは子供可愛さに、国をよそ者の手には譲り渡したりはせぬ。
また諸国においても、ローリアの非道を唱えこそすれ、彼の肩を持つ者はおらぬであろう。
ローリア侯は墓穴を掘ったのだ」
しかし、余の弟ギリファムが、軍勢を率いてカルビゾンを出たとあっては、まったく話が別である。
王の眼光はじっと傭兵の上に据えられて、動かなかった。
ギリファムとローリア侯の間に密約があったとすれば、これは予断ならぬ一大事である。
そちも知るように、ギリファムは列強との同盟を切望する急進派の頭目であった。
ギリファムとローリア、それに諸外国が結託したとなれば、
カルビゾンはギリファムを旗印とした攻勢軍の前に開城するか、
余の許に集い戦い抜くか、そのどちらかに二分されるであろう。
かかる事態において、余が敗北したとする。
ギリファム、ローリア侯、諸外国、
この三者の利害が一致した場合には、余を退けた後、
同盟国はギリファム王子を王に推し、ローリアはギリファムと手を組む、
そうでなき場合には、七歳になる余の庶子王子を余に代わって擁立し、
その祖父としてローリア侯が摂政に立ち、カルビゾンの実権を握る。
凶行を断行し、王に向かって要求を突きつけてきたローリア侯の腹積もりは
このあたりにあると思われるが、ジャルディン、そちの見解を聞かせよ。
「俺はよそ者」
ローリア侯の脅迫文を読み下し、それを函ごと聾唖の小姓に押し返すと、
素っ気無くジャルディンは王に応えた。過客の意見に動かされるあなたではあるまい。
心を捧げる国もなく、国々の興亡にも興味はない。
王位を狙う弟が、外国勢力と手を組んで、自国を攻略にかかるなど、よくあることだ。
しかし、はたして、軍を率いて城を出たギリファム王子の真意は、そのようなところにあるのだろうか。
「それを、確かめに行ってもらいたいのだ、傭兵よ」
王は頷かれた。
余にしても、ギリファムが外国と呼応して、本気で王座を奪う積りでいたとは思えない。
もしそうであったとしても、ギリファムに伝えよ。
正当なる理由がある時には、余は弟に国を譲ることに、何ら不服はない。
余の弟ギリファムは、多少、力みがちのきらいはあるが、頭はそう悪くない。
あれくらい気骨があるほうが、戦火の絶えぬ時世の王としては相応しいのかも知れぬ。
「ただし、それはかかる卑劣非道な手段に屈して、譲られるものであってはならぬ。
余から王冠を奪うために、ローリア侯と結託し、カルビゾンを襲うつもりかと問え。
おのが野望の為に自国に外国軍を引き入れ国土を荒らすなど、言語道断の所業、
そのような愚弟には、余は決して王冠を譲らぬと、弟に伝えよ。
わたしが目指すカルビゾンは自治による、完全な独立国家である。
その為にはギリファムの意をくんで軍備の増強も辞さぬつもりでいた。
ただし、それは他国勢力の指図によるものではなく、
またその配下にあって、おもねるものでもない。
同盟は強要ではなく、こちらの自由意志により、力の均衡の等しい国と締結されるべきである。
ましてや私欲に走った諸侯の脅迫に左右されるものであってはならぬ。
傭兵よ。見事この事態をおさめた暁には、救国の英雄に謝礼は惜しまぬ。
欲しいだけ褒美を求めるがよい。余はそれを叶える」
王と傭兵の眼が合った。
「望みのものを」、王は促された。
「都合のいい申し出だ。返答のしようもない」、ジャルディンは控えめに吐き棄てた。
「王は、俺に、ギリファム王子を殺すことをお望みか」
「なんとな」
「国内急進派と外国勢力が手を結んだ場合、彼らを打ち砕くには、
彼らが御印としてかかげるギリファム王子を消すのがいちばん手っ取り早く確実だ。
ローリア侯があなたに強気に出ることが出来るとしたら、王子誘拐の有無ではなく、
それはギリファム王子を味方につけた場合のみだ。
さもなくば、その卑劣を隠すに足りる、大義名分が立たぬであろう。
それが証拠に、ローリア侯は、王位簒奪の汚名を着ることを恐れ、
病を理由としたゆるやかな退位と、弟王子への譲位をあなたに求めている。
あなたの脳裡に、ギリファム王子を亡き者とすることで、
カルビゾンの安寧を望む心がなかったとは云えまい。それは非情ではなく当然だ。
一国の支配権を巡る華々しき争いに、このような一介の傭兵を投げ込んで下されようとは、
光栄の至りだ、ナイアード王」
「褒美で動かぬとあれば、そちは何で動くのであろうか」
弟ギリファムの殺害を頼んだとも頼まぬとも、王は明言をされなかった。
王は、その額に、指環をはめた指先をあてた。
指環に刻まれたカルビゾンの紋章の、その下から微笑まれた。
何かの悔いと追憶をない交ぜにした、自虐的な苦い笑みだった。
(あなた様の御国は滅びました。同族の方々は、皆、塔の上から身を投げて果てたのです)
(お一人だけ生き残るとは、あさましきおなごもあったもの。
滅びた国の女を妃として、何の益がある。
敵の王に穢されたその身を恥じて、窓から飛び降りなさるがよい。
奇跡は二度と起こりませんぞ。
姫君、そのお手伝いをして差し上げましょうぞ。こちらに、窓に。さあ)
(生き人形のような女だ。どんな魔性で王を捕えた)
あの日も、霧が出ていた。
あの人の胸からは、いつも白い花の香りがした。
塔の中の姫君。
ずっと見ていた。
伯父上が戦利品として連れて帰った、窓辺の姫君。
一度として、微笑みかけてはくれなかった。
抱きしめても、愛を囁いても。
(エトラツィア。エトラ、何処にいる。霧がかかった。戻っておいで)
(王女さま。お花です。これを握って眼を閉じておいでなさい。しっかりと)
(エトラ。------何をしている!)
(ナイアード王子。貴方も、この方が都合がよろしいのではないのですか。
貴方さまが姫の許に通う姿を、この王女は見ていたのではないのですか。
その美しさに惑わされた貴方さまが、王の妃を抱くところを)
姫。わたしの名は、ナイアードと云うのです。姫、どうか、わたしの名を呼んで下さい。
苦しい恋を抱えていた十六歳のあの時、アマミリスに逢わなければ、どうなっていたか分からない。
王である伯父を殺して、姫を奪って逃げることまで考えていた。
どのような罪も、罪には思われなかった。
エトラツィアの幼い首を絞める者の姿を庭園で見た時も、
おのれの叶わぬ恋もそれで隠蔽されるのならばと、もう少しで、そのままにしておくところだった。
そして霧の中にすべては隠れた。
異国の姫を殺めようとし、それを見ていた幼い王女の首を絞めようとしていた者の姿も。
「ジャルディン・クロウ」
「王は、お疲れのようだ。失礼しよう」
退かずともよい、王はそれを止められた。
「褒美には釣られぬとな。では、そちの情に訴えるしかないようだな、傭兵よ。
国が滅びた時の無残ならば、そちとても、誰よりも深く知るであろうからな」
「カルビゾンは滅びぬ。あなたも死なぬ。
ローリア侯が欲するのは、カルビゾンの統治権だ。
臣民の敬愛の篤いあなたを弑逆すれば、若き王の死に国中が潮のごとく憤るのは必定、
ローリア侯もギリファム王子も、それは避けるだろう」
「しかし、エトラツィアは殺されようぞ」
「ギリファムがそれをさせぬだろう」
「ギリファムとエトラが結ばれることこそ、あってはならぬことだ。
両名が結ばれ、その間に子が生まれれば、余の庶子の後見人としてのローリア侯など、
もはやその存在価値もない。
また、カルビゾンを属領にせんとする諸国は、
ギリファムと自国の姫との婚姻を敢行する為にも、ただちにエトラツィアを殺すであろう。
カルビゾンの王冠は、余のものでもなければ、ギリファムの者でもない。
先王の直系であるエトラこそが、カルビゾンの女王である。
彼らはエトラツィアを殺すであろう。
若き女王、カルビゾンの正統なる後継者を」
王の冠がきらめいた。
いいえ、この方こそがわが主であると、ナイアード王の言葉に反発し、
若き王を誇らかに主張したかのように、ジャルディンには見えた。
余が賭けるのはエトラツィアの命であるといった意味が、これで分かろう。
肘掛けに腕をかけて、王は手を組まれた。
余が負ければ、余は退位するだけで済んでも、エトラツィアは殺されるのだ。
「侵略による国土拡大よりも、わたしの在位中は、内政の充実にあてたい。
これは、戦争と飢餓をあじわった、わたしの悲願である。
たとえ、わが子の頭部を城壁の内に投げ込まれようと、
カルビゾンの門は、他国の干渉には開かれぬ。
アマミリスの遺児には、死んでもらう他ない」
重ねて、問う。傭兵よ、礼は惜しまぬ。
ギリファム追い、その意志を確かめ、謀叛の気持ちあらば、そちの裁量で弟を止めよ。
王女エトラツィアの為にはたらいてくれるよう。
余が負ければ、エトラツィアは確実に、先王の王女を亡き者にせんとする者共の手で、殺されるのだ。
ジャルディンは、そこに運ばれてきた剣を奪い受け取った。
ギリファムに取り上げられていたものを、王が取り戻して傭兵の為に整えさせたのである。
小姓の手を借りて出立の支度をする傭兵の姿を、玉座に少し身を傾けて王は見つめておられた。
「幾つかおかしな点がある」
「申すがよい」
「ローリアは、何故、アマミリスを殺さねばならなかった」
ジャルディンは、剣帯に剣をかけた。
「あなたへの脅しとして息子を攫うならば、息子だけを奪い去るか、
アマミリスもろとも誘拐すればよい。ローリア侯は、何故アマミリスを殺した」
「そちはどう思う」
「俺はその女を知らない。だが、あなたと、あなたの愛妾が、
もしも真に心かよいあわれていたのであれば、アマミリスは、
あなたの廃位をたくらむローリア侯に決して首肯しなかっただろう。
王を脅す人質として、幼い息子を渡すことを、許さなかっただろう。
何故ならば、下街での暮らしに満足していたアマミリスは、王の愛妾としてときめくことなど、
まったく望んでいなかった女だと、俺にはそう思えるからだ。
どのような言い争いが橋の上であったのかは知らない。
だが、胸を一突きにされていた、このことからも、アマミリスは日頃から、
よからぬことを吹き込む侯とはうまくいっていなかった、またはついに離反した、と、そう思える。
逆らうようならば殺せ、或いは最初からアマミリスを殺して子供を奪えと命じられていなければ、
刺客はあのように一突きには殺さぬ」
「アマミリスのことは、気にせずともよい。
------余に仕えたが為に気の毒なことをした。余はこれでも、怒りを耐えている」
「王」
王冠を煌かせて、静かに王は立ち上がられた。
その濃青の衣裳に包まれた身は、ジャルディンよりも大きく見えた。
「そちの言質は聞き届けた。ところで、余もそちと同じく、
ギリファムが裏切ったとは微塵も考えてはおらぬ。
無断で勝手に軍を出したことについて釈明をするならば、帰順を許すとギリファムに伝えよ」
余に忠誠を誓う者を供として用意させた。連れてゆくがいい。
ジャルディンは城を出る際、エトラには逢えなかった。
ナイアードより目通りを許されたのだが、生憎と、沐浴中とのことであった。
エトラの部屋には、主の不在を知らぬげに、白い花が活けられていた。
二つ向こうの間から、湯を遣っているらしい音がした。
湯桶を運ばせ、衝立を立てて、そこで身を清めているのだろう。
少しだけ覗きたかったが、止めておいた。
エトラは、傭兵の出立を知らなかった。
父の命日だった。
王に願って、今夜は霊廟での祈祷を赦してもらった。
戻って来たエトラは、花瓶の下に紙片が差し込まれているのを見つけた。
風が入って、花びらがこぼれ、白い花びらはゆるやかに回転しながら、足許に落ちた。
王女は濡れ髪を耳にかけた。
うつむいて、傭兵の走り書きを読んだ。
それだけ読むならば謎の言葉だった。
『アルケイディアの乙女は、楽園を襲った魔王を封印して、眠りについた。』
その下には古写本から抜き出したと思しき、詩句が書き付けられていた。
父と母が語り聞かせてくれた言葉を、エトラは憶えていた。
アルケイディア、七つの宴の都よ。楽園、豊かなる光。
緑かがやきわたる、アルケイディア。
右手に君が心、左手に永遠を。
しずかなる、夕べの雨に包まれし御園よ。
右手に君が心、左手に永遠を。-----そんな言葉は、本当はなかった。
アルケイディアの乙女は、魔王と戦い、楽園に永遠の安息をもたらして眠りについた。
右手に民の心、左手に永遠を。
乙女がその右手に握っているのは、魔王によって殺された楽園の人々の心だった。
エトラは顔を伏せた。
心を病んだ異国の姫にこれを語り聞かせる時、父は、どのような気持ちで
その箇所を云い換え、そして、母はどのような気持ちでそれを聴いたか。
国を滅ぼした男は、遺された姫を愛したが、亡国の姫のほうは、どうだったのか。
母は誰のために泣いていたのか。
失われた楽園、母にとってのアルケイディアはカルビゾンではなく、
そしてわたしにとってのアルケイディアは、母の国でも、父の国でもない。
「姫さま。お支度を」
侍女が呼んでいた。
「姫さま。祈祷には王太后さまもご参列なさるそうでございます。
エトラツィア様とお二人きりで、御逢いしたいと」
エトラは首肯した。
日が翳り、黄灰色の空に、翅のような薄い雲が流れていた。
霊廟に眠るのは、わたしの父ではないかも知れない。
それでも、父としてわたしを慈しんで下さった方だ。
その御魂やにおいて、父の后であった方がわたしを認めて下さるならば、
あの方も歓んで下さるだろう。
ローリア侯はかねてより密かに隣国と通じ、機をみて裏切りを求められていた。
王の庶子王子を奪い去ったのは、侯の意志ではなく、
カルビゾンを制圧しようと謀る外部圧力の言いなりになったことである。
ナイアード王が賢君であればあるほど、カルビゾンに対して軍事協力を求める諸国は、
青年王に対して不満があった。
一方、カルビゾン内部には、強国との同盟強化を望むと聞き及ぶ弟王子ギリファムがいる。
弟王子を王となし、王族との血の婚姻により同盟を成立させる、または、
ナイアード王には速やかなる退位を求め、その庶子である男子を、ローリア侯の
後ろ盾のもとに傀儡王とする。
カルビゾンの覇権を狙う国々の筋書きはこのようであった。
ローリア侯が王の御子を攫うだけならばよい、王は脅迫には動かされぬ、しかし、
王位継承権を持つギリファム王子までもがカルビゾンを裏切ったとなると、
ナイアード王は孤立する。
それゆえ、それを見た時の、バーレンをはじめとする王の忠臣たちの歓喜は限りないものであった。
「ジャルディン。あれを」
軍隊率いるギリファムを追って西へ進むうちに、やがて、ローリア侯の所領が見えて来た。
日没の影の中に横たわる兵士の死体がそこかしこにあった。
泥と木と漆喰で出来た家並みは、住民がとっくに避難したものか、しんと静かだった。
そして、侯の居城とおぼしき城館からは、火の手が上がっていたのだ。
城館の一角を指差してバーレンは息を呑んだ。
「カルビゾンの旗が上がっている。ギリファム様だ」
一行は歓声をあげた。
夕暮れの空に棚引くのは、まさしく、カルビゾンの旗であった。
地平線には低い山並みが続き、流れる雲が空一面を覆い、なまぬるい風が吹いていた。
先方からギリファムの使者が馬に乗り、こちらに向かって力強く土塁を駆け下りてきた。
バーレンがそれを迎えた。
「バーレン様」
「報告を」
「ギリファム様は王の御為に、ローリア侯の居城を急襲。
すぐそこまで迫っていた隣国の傭兵部隊はギリファム様が掲げた王旗を見て、
ローリア侯に加勢することなく兵を引き上げました」
「よくやった!それで、王弟殿下は」
「御自ら陣頭に立ち、領地を棄てて逃走したローリア侯を追っておられます」
討ち取ってないのか。
さっと顔を引き締めて、ジャルディンは火焔の行方に眼を凝らした。
火の手は勢いを増すばかりだった。
「ジャルディン。聞きましたか」
喜色満面でバーレンがジャルディンを振り向いた。
「王弟殿下は、カルビゾンの攻略よりも、守護であることを選んだのだ。万歳」
バーレンはギリファムがカルビゾンを裏切らず、
ローリア侯、および外国諸勢力に与しなかったことがよほど嬉しいようで、
騎士たちと顔を見合わせては、歓びを隠さなかった。
「王弟殿下、万歳。カルビゾン万歳」
彼らはその場で勝鬨まで挙げて、ローリア侯の敗走に喝采を上げた。
風下にいる彼らは、どっと流れてきた大量の煙に包まれた。
ジャルディンは間をおかなかった。
首魁を討ち取らねば、負け戦である。
それに、ローリア侯はアマミリスの子を連れているはずだ。
「お前は急ぎ城に戻り、ナイアード王にそれをお伝えしろ」
王弟の使者に命じると、
「俺に続け」
馬首を返し、ジャルディンはすぐさま、ローリア及び、
それを追討中のギリファム王子の跡を追い、煙の中から飛び出した。
(----何かが、気にかかる)
眼の前に火の粉が飛んだ。ジャルディンはその熱を振り払い、馬で潜り抜けた。
しかし、胸の中で点滅している悪い予感は、それでも消えなかった。
日暮れの地平を駈け飛ばすと、やがて軍馬の嘶きが聴こえてきた。
荒野に馬車が見えた。
そしてその馬車を巡り、侯と王弟の攻防が既に始まっていた。
カルビゾン軍は前方の道を塞ぎ、退路を遮断してローリア侯を絡め取ろうとしていたが、
ローリア侯側もここを抜けねば後がないので、屈強の兵を揃えて、必死に抗う。
蠢く人馬は、地上に落ちた黒霧のごとく右に左に大きく蠢いた。
ギリファムの姿もそこにあった。ギリファムは勇ましく働いていたが、侯の強兵と撃ち合い、
一撃を受けたそのはずみで剣を手放し、手綱を奪われて人馬の隙間に
引きずられるようにして地に落ちるところであった。
「ジャルディン、ギリファム様があれに。お怪我を」
「落馬した王弟殿下をお救いせよ」
「ランテロー様、ランテロー様。お救いに参りましたぞ。バーレンです、ランテロー様」
ナイアード王とアマミリスの子の名を、バーレンが呼んだ。
馬車の窓がひらき、少年の顔がのぞいた。
窓はすぐに内側から別の者の手で閉められた。
ジャルディンとバーレンはその一瞬を逃さなかった。
「あれだ、あの馬車の中に、王の御子ランテロー様が」
「バーレン、王弟を護れ」
「ジャルディン、来たのか」
落馬したギリファムはすぐに立ち上がり、護衛に囲まれて達者であった。
素手で敵の槍の柄を掴み取り、繰り出される棍棒を落ちていた盾で受け止めながら、
ギリファムは命じた。
「ジャルディン、反逆者ローリアを討ち取れ」
ジャルディンは馬の腹に拍車を入れた。
王弟の側を駈けぬける際、ジャルディンは剣帯に手を走らせ、
武器を失ったギリファムに細剣を投げ落としてやった。
目指すはローリアである。すぐに見つけた。
「引き返せ、ローリア侯」
馬車を見棄てて落ち延びようとしていたローリア侯は老体を馬鞍の上に立てて、
追い詰められた眼で振り返り、傭兵を睨み据えた。
「お前ごときに。ジャルディン・クロウ。それに、もう遅いわ」
「カルビゾン王に雇われた。ローリア侯。お命頂戴つかまつる」
ジャルディンは剣を構えた。
二つの騎馬が勢いをつけてすれ違った。
居合わせた者たちは、傭兵が揮う青光る一線を見た。
夕映えを散らす曇天の空に、氷柱が折れるような音がした。
傭兵の黒髪が風に踊った。
ジャルディンは最初から最後まで前だけを見ていた。
駆け抜けた馬を回して戻すと、ジャルディンは乱闘中の兵らに呼ばわった。
ローリア侯は死んだ。投降せよ。
そして遠くに走っていた馬上から、ゆっくりとローリア侯が転がり落ちた。
駈け付けた従兵が、その死を確認して、手を振った。
「ローリアが死んだ、ジャルディン・クロウがローリアを仕留めたぞ!」
ローリア侯の死は、一気に敵の士気を落とし、ローリアの兵は次々に武器を手放して投降した。
ギリファム王子は怪我を負っていたが、元気であった。
ジャルディンを牢に入れたことなど忘れたような顔をして、ジャルディンに歩み寄って来た。
王弟は上機嫌であり、その態度は相変わらずであったが、苦笑いを浮かべている顔の下には
侯を討ち果たした傭兵の凄腕への感動を押し隠している彼の賛嘆と、
見事な機転と速攻で勝利をおさめた己への、自慢と満足とがあった。
「どうだ。兄上は俺がローリア侯と結託したかと思ったのだろう。
あのような変節漢の老いぼれに与して国を裏切るような俺さまではないわ」
からからと自画自賛に哄笑し、傭兵に笑いかけた。
「どうせ、お前は心配性の王の使者としてここに来たのだろう。
ご苦労だった。ひとまずその言上を聞こうか」
ジャルディンは馬から降りなかった。
奪取された馬車は兵に囲まれ、中にいた者が外に出されているところであった。
兵が武器を取り上げられ、ローリア侯の奥方が力なく草叢に倒れたところを運ばれたのに続き、
少年が抱き上げられて降ろされた。
「ランテロー様。よくぞご無事で」
真っ先にバーレンが駆け寄った。
「御父上の侍従バーレンです。ランテロー様、もう大丈夫です」
ランテローは小声で何か応えた。しっかりとした顔をしていたが、
バーレンの顔を見るとそれまでの恐怖と緊張が解けたのか、
少年は父の侍従の腕にぐったりと凭れて、辺りの惨状から眼を逸らした。
「あれがアマミリスの生んだ、兄上の子、ランテローか。ふん、初めて見た」
本当に初めてみたらしく、ギリファムは興味深そうに眺めていたが、
ジャルディンに話し掛けようとして、王弟は傭兵がそこにもういないことに気がついた。
「あいつは何処に行った」
「ジャルディン様は先に城にお戻りになると」
「もう夜になるぞ、どうしたというのだ」
あかく染まった荒野の果てに遠くなる傭兵の騎馬影をギリファムは不審そうに眺めていたが、
行動力だけはある王子らしいところを見せて、ちょうどそこへ来たバーレンが、
王弟殿下お見事なご決断でございました、と感涙しきりなのを押し退けて、
「元気なものを集めろ。俺も帰るぞ」
顔つきを改め、帰城を命じた。
夕闇が、カルビゾンを包んだ。
祈祷の刻限となり、西の塔から出てきた王太后は、その両側に、
バーレンの父である前宰相カルドと、庶子王子トルマンを伴っておられた。
それまで、王は巧みに両者が邂逅せぬように配慮し、また宴席においても、
王太后は欠席を貫くのが常であった為、
その日はじめて、王太后とエトラツィアは、ようやくまともに顔を合わせたのである。
もとより、仲良くなれようはずもない寡婦と孤児であった。
王太后が適当にあしらうには、エトラはもう子供ではなく、
エトラが父に縁あるものとして王太后を慕うには、両者の間には、
仕える身近な者たちがさまざまのかたちで吹き込んできた、長年の偏見が横たわっていた。
王太后はひじょうに不器用な女人であり、それはこの方を情ごわく見せていた。
また、エトラの方も、母をカルビゾンから追い出したのはまさにこの方と
一時は信じていたこともある見知らぬ貴女を眼の前にして、振舞うそのすべを知らなかった。
王太后は、しばらくの間、エトラツィアの若い姿を無表情に見つめていた。
カルドとトルマンの両名を遠ざけ、二人を下がらせてしまうと、ようやく口を開いた。
カルドとトルマン王子は、ちらりと顔を見合わせ、王太后に礼をすると速やかにその場を去った。
夕陽に照らされた王太后の影が、エトラの影に近づいた。
「母御のことは、残念であった」
「お悔やみを。ありがとうございます」
エトラは頭を下げた。それで、もう、会話は途切れてしまった。
霊廟に入るのは、王族である王太后、エトラ、侍女一名に限られた。
ふと、エトラは城の伝承を想い出した。
どのような城にも抜け道はあるが、カルビゾン城の抜け道の入り口は、この霊廟だと聴いた。
もっともそれが本当であるならば、とっくに王がそれを塞がれていることであろう。
祈祷といってもすることもない。めいめいが膝をつき、先代王の柩の前で、黙祷するだけである。
エトラは高台の庭園から白い花を切り取って尊父の墓前に捧げようと思っていたが、
王太后が臨席するとあっては、それも憚られ、何も持たなかった。
すでに日は落ちて、薄青い黄昏となり、霊廟の中に灯される蝋燭の火は、星のようになっていた。
霊廟の周囲は兵をめぐらして厳重に警護されており、何人たりと近づけはしなかった。
敷布の上に膝をついた王太后とエトラの後ろには、侍女が控えた。
夜となった。
「そなた」
暗闇に、蝋燭の火が揺れた。
不意に、王太后が話しかけてきたので、エトラは眼を開いた。
濃紫の衣裳を身に着けられた王太后は、先ほどとは少し違う譲歩をみせて、
厳格の態度のうちにも想い出した何かを、エトラに訊ねようとされていた。
エトラは待った。
やがて、王太后は意外なことをエトラに囁いて訊いた。
そなたには、左肩の後ろに、ほくろがあるか。
あります、とエトラは応えた。
霊廟の中では音が陰々と響くので、声を抑えた。
「どこじゃ」
「このあたりに」
エトラは指先で抑えてみせた。
自分の肩などそうそうは見ることもないが、はだかになって、少し首を傾けると見える。
さようか、と王太后は目を細め、蝋燭に囲まれた夫の柩に顔を向けられた。
後ろで侍女が立ち上がる気配があった。
蝋燭の灯を増やしに回るのであろう。そして、それきり戻っては来なかった。
「ここに眠られておられる御方にも、同じところにほくろがあった。
幼い娘も同じところにあると、たいそう嬉しそうであったゆえ、憶えておった」
「………」
「口さがない者が何を云おうと、先王がお認めになった王女はそなたの他においてない。
確かにそなたはあの御方の子である。
何とはなしに似ておる。面影がある。わらわがそれを認めるのじゃ。安心するがよい」
「王太后殿下」
エトラは王太后との会話に気を取られていた。
背後の闇で起こった変化にも、気がつかなかった。音もなくそれは近づいていた。
「ナイアード王とわたくしとの婚姻を、お認め下さったとか」
王太后は頷かれた。
「今宵はそのことも、亡き人にお伝えしようと、此処に参ったのじゃ。------危ない」
「王太后殿下」
互いを庇い、王太后とエトラは重なりあって倒れた。
霊廟の伽藍に、凶刃が閃いた。
[最終回に続く]
>続[\・最終回]へ >目次へ