■三十.

 毛利家の異母兄弟。家中これで安泰と頼もしく仰がれる、厳島とその弟、美藤。 が、どんな岩にも雨水の滲み込む眼に見えぬ小孔があるように、この兄弟船にも、外部からの荒波が有象無象の思惑を乗せた飛抹となってとんでくることがしばしばあった。 それらに対して厳島は揺るがず、美藤も一顧だにしなかったが、その上で、どちらかといえば兄の厳島の方が、弟の身を案じる理由からそれらの雑念に 神経質な注意を払っていたといえよう。
「厳島ッ」
 耳底に残るのは、母、萩姫の悲鳴である。そしておのれを捕えて離さぬ、女人の腕である。庭は一面、躑躅の赤だった。
「厳島、厳島を返して」
 それとも、それらは後に聞かされた恨みごとからこしらえた、暗い夢だろうか。
「誰か、誰か。わたくしの厳島を取り戻して」
 赤い花の咲き乱れる庭の奥には、父、毛利忠義の側室がすんでいるはずだった。 何処から来たのか、その側女の一切は他の者には明らかにはされず、忠義が遠乗りのついでに見染め拾った女だという話だけが、伝わっていた。
 どうしてその庭に迷い込んだのか、厳島は憶えていない。幼いながらの好奇心だったのか、それとも母たちが悪く云う彰子という女を、懲らしめてやる為だったのか。
「その女、断崖から身投げをしようとしていたそうだ」
「芝居は巧かったとみえるな」
「いや、彰子さまは崖下に咲いた藤の花を摘もうとされていたのだ。そこを、通りすがった忠義さまにたすけられた。遠乗りにお出かけになる忠義さまは、いつも その近辺で海をご覧だったということだ」
「成程。では、そういうことに」
「案ずるな。忠義さまはお考えの上で、あの女を拾われ、お傍においておられるのだ。代々弓国の皇家と契りを交わしてきた、弓国正三位辻堂家の女をな」
 忠義さま。
 萩姫さま、厳島さま。そして、京に残してきたわたくしの妹、蓉子。
 轟く波音が、断崖が近いことを厳島に教えていた。そこまでおのれを連れ去った女の髪が、金色の薄日の中に黒い紗のようにほどけてなびいていた。
 父が助けた女が、父の愛人として吉田郡山城に上がった時から、今日の不幸は始まった。 城にはすでに出羽家から嫁いできた正室の萩姫と、嫡男の厳島おり、忠義の彰子への寵愛は、萩姫をないがしろにしたとして豪族出羽家を激怒させる。
 女の声は優しかった。
 厳島さま、此処から、ご一緒に海に沈みましょう。
 幼子を奪い、追いかけてくる萩姫を振り上げた懐剣で傷つけたその女の声は、海の色よりも青かった。混じり気のないほどに、風に青かった。
 厳島さま、此処は、殿とわたくしが初めて出逢った場所なのです。
 黒髪が縁取る女の悲壮な顔は、夕顔の花か、蜻蛉じみて、すでにもうこの世のものではないようだった。厳島は、武家に生まれた者の習性で、女の懐剣に刻まれた文字を見ていた。 『さざなみ』。
   むき出しの海の匂いが、厳島の顔面を打った。女は厳島の手を引いた。天地を分かつ青に向かって、彰子は踏みだした。 厳島は、身重の彰子の腰に手を回し、ありたけの力で女を陸に引き留めた。 弱い女だと思った。弱いながらに、この女はだいそれた何かを心に秘めて、命を断とうとしている。やめろ、やめろ。
 彰子は海風の中に泣き崩れた。片方の手は、忠義の子を宿した胎の上におかれていた。 崖際から半身を乗り出した女は、銀波の打ち寄せる水底に、まるでいつかの藤の花を探すような眼つきをしていた。
 変事を受け、彼らを探しに駈けつけた忠義の忠臣のひとりが、彰子と厳島をあやうく抱きとめた。女の立場と苦悩のわけをよく知る彼は、彰子への思慕も あったのだろう、毛利家と主君を裏切り、 それからの年月、彰子と厳島、それにほどなくしてこの世に生まれた美藤を、隠れ里に匿った。

 厳島は美藤の兄であり、隠れ里においては友であり父であり、以来、少年の身をはって母の彰子と美藤の暮らしを支えてくれた、恩人である。
そこに誇張はなく、真実、美藤は兄への信頼が揺らぐ時、または兄が自分に疑いを持つ時は、自分が死ぬ時だと思っている。 それほどに強い兄弟の絆ゆえか、彼らは互いを思い遣るあまり、しばしば意見がすれ違うこともあった。矢面に立つのはこちらだとばかりに、 互いを危険から遠ざけようと、押し合うようなこともあった。そういった過去の積み重ねを経て、毛利家の兄弟は、まことに他では見受けられぬような、 深い情で結ばれていた。
「忠義さまがご存命の間は仕方なくとも、その後はいっそのこと、厳島さまは美藤さまを絶縁するのが、最良の策である」
「せめて毛利の家名は名乗らせぬよう、最初からどこぞの養子にでもなされば、問題なかったのだ」
「そこだ。魁代家がその候補だったというではないか」
「それを頑としてお認めにならなかったのが、他でもない、厳島さまときているからな。ご生母さまと生き別れにされたというのに、 彰子さまのことを実の母親として今も慕っておられる有様だ」
 毛利家中に刺さったままの遺恨、皇国貴族の血を分ける美藤という枝を以南の毛利家の幹深くに 継ぎ足した女、辻堂彰子への憎悪は、遺された兄弟の関係を強くもし、また、理屈や配慮を度外視した肉親の情の固さという、致命的な弱みも作った。 それが分かりすぎるほど分かりながら、厳島は美藤を手離そうとはしない。うるさい者へは、「美藤は『瑞巌』の遣い手、朝日将軍である」とだけ云えばよいという、 立派な正当理由も立つことが、善くも悪くも、他を黙らせる云い訳にもなった。
 異母弟の面影の上に、厳島は、胸の痛むものを見出してやまない。「母上」と呼び、粗末な家の中で寄り添い合って暮らした女人との想い出の濃厚は、 薄紫の蔭りや匂いとなって、いつもこの弟にまつわっていた。厳島は笑みをつくった。
「美藤、何処へ行く」
「港に向かいます」
 錦紐で束ねた黒髪を馬の尾のように揺らして、緑の映りの濃い廊下を美藤は歩いてゆく。 翠、金、黒が基調の以南風の男性的な調度に、南国の濃い影が差していた。
「港。また、何をしに」
「怪しき異国船が沖合に見えたというので」
 美藤の表情は固かった。
「亜多良のものかと」
 厳島は美藤を追いかけた。
「乗りこんで、調べるつもりか。時と場合によれば拿捕しても構わんぞ」
「物騒な。兄上」
 美藤は取り合わなかった。
「船を出しても、追いつく前に逃げ切るだけの砲門と快速を持っているあちらに、一体何が出来ると云うのです」
「しかし、美藤」
「兄上がお疑いの件。無論承知です」
 黒々とした太柱と眩しい日光の対比は、黒檀と銀螺鈿の絡み合いとなって美藤の姿を飾り、毛利の屋敷廊下に寄せる波の文様を描いた。
「藤子が、春先に船乗りと思しき異人と接触していた件。わたしも留意しております」
「では、藤姫が以北へ向かったのには、やはりそこに原因があるとみるか」
「少なくとも、無関係ではないでしょう」
 投げ文という古典的かつ、今も昔も変わらぬ匿名の手法にてもたらされたその目撃情報には、神社の鳥居の処で藤子らしき女と、 背の高い異人が言葉を交わしていたことが、かな釘流の手蹟で手短に記されていた。
「藤子の様子がおかしくなった時期と一致しています」
 馬を呼ばせた美藤の顔を、陽光が斜めに照らしつけた。
「その異人の話が本当ならば、藤子がそのことを即座にわたしに告げなかったのには、よほどの事情があるかと」
「そうだな」
 いつもながら、美藤の態度に潜む藤子への絶対的な自信らしきものに一抹の危惧を覚えたものの、厳島はそこには触れなかった。 厳島が幼い頃に彰子の手によって実の母、萩姫と引き離されたのならば、美藤もまた、幼少の頃に母の彰子と生き別れたからだ。 性格的に多少いびつなものがあったとしても、それは美藤のせいではなく、ましてやこれ以上ないというほどの弟に、何の文句があろうか。
(藤姫に、彰子さまを重ねているのだな。美藤が性急に藤姫を取り戻そうとするのも無理はない。失うことが怖いのだ。不憫だ)
「急ぎますので」
「ちょっと待て」 
 厳島はいそぎ駈け寄った。
「帰りに、以北の使者殿を見舞ってはくれないか」
「以北の。九遠を」
 そんな男もいたかといった美藤の口調のあまりさに、厳島は苦笑した。
「うまいことを云えなど期待しておらん。不自由がないかどうか、顔を見てくるだけでいい」
「九遠どのならば、変わりないと、巌の口からも聞き及んでおりますが」
「美藤」
「分かりました」
 気は進まないようであったが、美藤は兄の頼みをきき入れた。
 馬をとばして美藤が港に到着すると、待っていた魁代巌が出迎えた。
「美藤さま、あれに」
 美藤は馬を降りぬまま、巌が指し示す方向に向かって、桟橋に馬を乗り入れた。鱗を敷き詰めたような白波であった。 海原の彼方に帆をたたんで浮かんでいる船影がある。美藤は眼をほそめた。
 飾り十字船。
「キャプテン・バルトロメウの旗艦です」
「渡来する十字船を束ねている男といったな」
「以南の港にこれほどに接近したのは、初めてのことかと」
   人相書が示すバルトロメウの貌かたちは、神社で藤子と密会していた異人のそれとよく似ている。
「停船命令の狼煙を上げ、船を出しますか。美藤さま」
「いや、いい」
 巌に応え、美藤は馬上で鞭をしならせた。亜多良人たちが精巧な望遠鏡を有しているのならば、あちらからもこの桟橋が見えるはずだ。旗持ちが掲げている、 毛利家の家紋も。
「用があるならば、あちらから来るだろう」
 その美藤に応えるように、沖合の帆船から一艘の長艇が海に降ろされ、高官らしき人物を乗せると、異人の水夫たちが以南の陸地に向かって漕ぎだした。


   以北の仲間が見たら眩暈を起こすこと確実な路線で、以南にいようが何処にいようが、九遠翔は九遠翔だった。 確実な路線とは、不埒な路線のことである。手持無沙汰な軟禁生活を、実に有意義に翔は活用していた。
「翔さま」
「翔さま。お待ちになって」
 魁代藤子と交代する名目で以北に向かっていた以南の使節団が道中、襲撃にあった件につき、翔の身柄は拘束された。 藤の庭から拉致されるようにして翔が連行されたのは、それまで滞在していた屋敷よりも数段手狭な、監視のしやすい、かといって窮屈さのない、 新しい小屋敷だった。屋敷には翔の身の回りの世話係として、侍女という名の、色とりどりの花が咲いている。翔はこちらの方が気に入った。
(たとえ彼女たちの中に毛利家の間諜が混じっているものだとしても)
 気が利いている、と翔はご満悦である。
「不自由など。とんでもない」
 人好きする笑みを惜しみなく明るいひだまりに散らしている翔に不満はない。池の鯉に翔は餌をやっていた。翔を囲んで寄り添っているのは、 揃って器量よしの若い女たちである。侍女とはいっても、しかるべき名家の令嬢たちらしく、身についた行儀作法の中にもどこかしら高慢がほのみえる。
「ご覧のように快適に過ごさせてもらっています。以南の食事は美味しいし、あなた方とも自由に話せる」
 やや化粧過多な若い女たちに、翔は微笑みかけた。 めいめいが張り切ってつけている雑多な香の混在の接近に頭がくらつこうとも、女への愛想を惜しむような男ではない。いついかなる時も、 女を機嫌よくさせることは、円滑な人間関係において最優先されるのだ。
 以北の男というだけで盛り上がるものか、侍女たちは競って、翔の関心をひこうとした。
「お膳に気に入らないことがあれば、どうぞお申しつけ下さいね、翔さま」
「以南は食材が豊かだ。以北ではこうはいかない。まるで天国です」
「外出できなくて、気が腐りませんこと」
 水の中で背びれをよじらせている鯉にふたたび餌を投げ、翔は首をふった。
「もともと遊びで来たわけではありませんから、まあ、こんなものでしょう。わたしはともかくも、 軟禁生活に付き合わせてしまい、不遇をかこったかたちになっている宮田さんに、申し訳ないくらいです」
「宮田」
 途端にざわと、侍女たちはどよめいた。
「宮田」
「ほら、あそこにいる、あいつよ。なまずみたいな顔をした」
「ああ。あの方ね。季節外れの漬物みたいな顔色の」
 その云い方に既に棘がある。
「陰気で気難しそうで、いつもじろじろと、わたしたちを見て。彼がいると、翔さまともなかなか気安くお話できないわ」
「翔さまだって、窮屈にお感じよ」
「宮田など、鯉の餌のお毒味役がぴったりだと思いませんこと」
「それはひどい」
 屈託なく翔はのけぞってみせた。
「ああみえて、宮田さんは剣の達人なのになあ。男として、渋いと思いますが」
「渋いは渋いでも、あれは渋柿の類だわ。仏頂面しか取り柄がないの」
「いえいえ。宮田さんの『槐』には、わたしでも敵うかどうか」
 翔贔屓の侍女たちである。翔の口からそう聞くと、ますます騒ぎ始めた。
「では、試してごらんあそばせよ」
「そうだわ。翔さまの『響』と、宮田の『槐』を一度対決させてみたらよいのだわ」
「宮田も分限を知り、もう翔さまやわたしたちには、付きまとわないでしょうから」
「手厳しいなあ」
 鯉の餌は、翔の手の中で紙吹雪のように砕け、女たちへの翔のやり過ごしのように軽く、池に落ちていった。
「ね、翔さま」
「うーん。さすがに宮田さんの『槐』と相対するような愚は、遊び気分でおかせたものではない。ご勘弁を」
「あら、だって」
 女たちは不満そうに、口を尖らせた。
「魁代家の下方の者たちが云っていましたわ。翔さま、魁代巌さまにも一目おかれていらっしゃると」
「まさか、まさか」
「本当ですのよ。御妹君の藤子さまにも、誰に対しても、滅多に褒めたりなさらない方ですのに」
 あの巌がそんな世辞を云うとは思えない。先日の藤の庭の散策。その結末において、翔は捕縛に駈けつけた巌から剣『雷電』を喉元に突きつけられている。
「美藤さまと喧嘩しているように見えたのかな」
 足場を移し、翔は池の上に渡された石橋の上に立った。侍女たちも附いてきた。南国の太陽はややきつい。
「もし巌さまがわたしについてそう仰ったのなら、美藤さまへの配慮でしょう。美藤さまとは話し合っていただけなのですが、 遊びで少々剣を交えましたから」
 濁りを帯びた水面に、以南の空が映りこんでいる。青色の澱みの底を鮮やかな鯉がずるりと泳ぐ。波紋の立った池の水に、 翔を囲む女たちの姿もまた歪んだ。この庭の何処かに、『槐』を抱えた宮田は暗然と控えている。
「そうだわ、翔さま、訊いてよろしい?」
「答えられることならば。何でしょう」
「昨日、美藤さまは何のご用事で、こちらにいらしたの」
 滞在は短かった。いっそ来ぬ方がましではないかというほどの短時間だった。朝日将軍が来たというので、侍女たちが色めきたって化粧をしている間に、 毛利美藤は来た時と同じように巌を連れて帰ってしまったのだ。
「そうですね」
 太鼓橋の曲線を水面に追いながら、翔は適当なことを云った。もちろん、侍女たちは、あわよくば美藤のお眼に止まらんとして 期待していたのであろうから、姿を見るか見ないかのうちに美藤が立ち去ったことに不満を募らせているのだ。
「何だったかな。たいした話はしませんでした。お城の厳島さまからの挨拶をわたしに伝えて下さった程度です」
「あのそれで、翔さまは美藤さまについて、どうお思いになって」
「え、美藤さまのことですか」
 ううん、と唸ってみせて、翔は無難なあたりを応えた。
「さすがは朝日将軍だなと」
「そうでしょ!」
 現金にも、途端に侍女たちの顔は得意げに変った。
「頭の固い古い者たちは、美藤さまのことを憎まれているけれど、そんなの、わたしたちには関係ないわ」
「何といっても、美藤さまは厳島さまの御弟だもの」
「魁代藤子さまがいなくなって、本音を云えば、わたしたち嬉しいの。やったあ、機会が巡ってきたんだわって」
 女たちは何やら何かに意気込み、身の程を超えて積極的に張り切っている。男によったら辟易するようなこういった女の本性や不平、 ぐねぐねした陰湿性のだらしのないところも、翔には楽しいのだから、翔の不埒な路線も筋金であろう。
「このまま、翔さまが以南に残り、魁代のお姫さまは以北にとどまればいいのに」
 そんなことまで云う者もいる。薄く笑って、翔は錦鯉に眼を落とした。

 巌を従えて屋敷を訪れた昨日の美藤は、庭先から翔を呼びつけ、この庭に立ったままだった。
「港に行って来た」
 短く、美藤は翔にそう告げた。
 港で何かあったのだな、と翔は覚えたが、あえて問い返しはしなかった。
「翔」
 縁側に膝をついたなりで、翔は庭に立つ美藤に頭を下げた。
「久しく。兄がよろしくとのことだ。辛抱させていること、すまなく思うと」
「お気遣い、いたみいります」
 出来る限り軽やかに聞えるように気をつけて、翔は応えた。
「日々、愉しく過ごさせてもらっています」
「以南の使節団が襲撃を受けた件につき、以南と以北の間に戦端が開かれるようなことは、今のところないようだ」
「何よりです。そう願います」
 一旦は巌が取りあげた『響』も、手許に戻されたことだ。翔の方からは、現在の待遇に対して特に洩らすような不満はなかった。
「一刻も早く襲撃事件の黒幕が判明し、両国の誤解が解かれるよう願っていますと、厳島さまにはお伝え下さい」
「分かった。それでは」
 行こうとする。翔は呼びとめた。魁代藤子が翳りの花ならば、美藤は日差しを断ち切って燦々と揺れる硝子質のむらさきだ。 陽炎の如く遠く燃え、相手を見る眼が異物を眺めるように冷めている。
 もう一人、そんな男を知っている。牢獄のような地下の部屋で漫然とエロ本を読んでいた友人を想い出し、翔は胸裡で笑みをこぼした。 別段、奇異なことでもあるまい。同じ銘刀を持つ者はどこかしら似るものだ。たとえかけ離れているように見えたとしても、 異質さという点で共通がある。では、もう一人の男はどうだろう。
「美藤さま」
 風が吹いた。空が荒れても、池の中の鯉は暗い水底をすべり泳ぐ。
「お訊ねしたいことがあります。以南には、美藤さまの他にも、もう一方、『瑞巌』の所有者がおられます」
「霧立大和」
「その方です。以南軍のお医者さまとか」
 美藤は頷いた。
「不運にして一時的に皇軍の捕虜となっていることは、この際、除外したいと思います。どのような御方でしょう」
  「巌に訊け」
 にべもない。
 この手の御仁を見ると絡みたくなる悪い癖が出て、翔は素知らぬ態で続けた。
「どうにも腑に落ちないことです。魁代藤子さんと霧立大和医師は、どうして以南を出て行ったのか。いえ、 そこには当然理由があるのでしょうが、わたしが知りたいのは、何故この二人だったのかということです。美藤さまとではなく」
「以北の」
 応答は、ひややかだった。動揺した風もなく、美藤は黒髪をゆすり、庭から翔をぎろりと見返した。
「云っておく。藤子は亜多良人に騙されて、一時的に我を失ったにすぎぬ」
「はい?」
 亜多良人。唐突すぎて、翔にはわけが分からない。
「霧立は医師不足の邑に、医師としての使命感から自らの意思で赴く途中であった。藤子はそれに便乗した。 以南やわたしから逃げる為ではなく、藤子は亜多良人に唆されてそうしたのだ」
「あの。その辺り、もう少し詳しく教えてはいただけませんか」
「何故」
「何故と云われても。ぜひ」
「以北のそなたには関係のなきこと」
 ごもっとも。かといって引きさがるわけにもいかぬ。と、何を考えているものか今度は美藤が、翔に挑んできた。
「知りたいか」
「……」
 池の鯉がはねた。
「さほどに知りたいならば、教えてやってもよい。毛利家の秘密に関わる」
 翔の顔に鞭の先を突きつけ、美藤は近づいて来た。
「安堵せよ、命をとるとは云わぬゆえ」
 片脚を縁側にのせ、美藤は翔を影の中においた。翔と美藤の眼が合った。翔は動かなかった。真意を疑う翔に向けて、美藤は口端を皮肉めいて吊り上げた。
「以北の者を抱き込むか。それも、面白い」


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