[カイエスブレームの翼] ChapterT
■序・島の養老院
棺の中の老女は、その名をメルセデスといった。
細い顎をしたその繊細なつくりの顔は、死んでもなお、
時のひびの刻まれた古代壁画の王女に似ていた。
海原へ向かって飛び立つカイト(凧)を見つめていたメルセデス。
薄汚れた教会の窓から入る日没のぼんやりとした光が、
眠る老女の亡骸を、透き通った陶器のように見せていた。
いつもは細く長く編んで冠のように頭に巻いていたその美しい白髪は、
粗末な棺の中、死顔の左右に分かれて梳かれたまま、
痩せた身体に沿って死者とともに静かに、いまは花に埋もれていた。
魔術師の街カイエスブレームが大昔に忽然と地上より消えてこのかた、
風使いたちの行方は誰も知らない。
だが、カイトで空を飛ぶ者がいなくなったわけではなかった。
古くから、風使いはなろうとしてなるのではなく、
彼らは風に呼ばれて空に揚がるのだと信じられてきた。
アトレーユ少年がカイトの練習に選んだのは、
島の突端にある、海に面した丘だった。
大地から空へ、カイトの離陸には傾斜のきつい、向かい風の吹く崖がいる。
坂を駆け下る助走の速度と向かい風との均衡が、カイトの翼に
空へと舞い上がる揚力を与えてくれるのだ。
胸の奥まで青く染まるように、鳥のように、風の中を飛べたら。
雲の波を越えて、金色の星を渡り、月の門をくぐれたら。
転んでも転んでも丘を駆け下りていくアトレーユ少年の粗末なカイトは、
漁船の帆のお下がりで作った、彼の手作りだった。
アトレーユが通ったその丘の中腹には、煉瓦塀と菜園に囲まれた、
古い養老院があった。
アトレーユが助走と滑空の練習を繰り返す間、
修道院を改築したその養老院に暮らす老人たちは揃って窓から顔を出し、
黒髪に空色の眼をした少年が、その身体にはもてあますほどの大きな翼ごと転倒したり、
滑空に失敗して前のめりに崖の斜面を滑り落ちていくのを見ては、
期待に満ちた陽気な顔を、ああ、とか、おお、の悲鳴に変えて、
孫かひ孫でも見守るかのごとく、洗濯物と植木鉢の向こうから大騒ぎをしていた。
貧困階層の老人ばかりだった。
彼らは敷地内の狭い庭を耕して作物を植え、
村の洗濯や編み物を引き受けて、それで得た僅かな賃金で共同生活をしていたが、
鐘つきの尖塔も建物の外壁も崩れ果てるままになっているのを見ては、
島の篤志家からの寄与を足しても、養老院の経営状況は
ぎりぎりといったところではなかっただろうか。
総出でおいでおいでと手をふっている老人たちの笑顔が
最初は化け物屋敷のようでアトレーユは気持ちが悪かったが、
やがて招かれるままに、
カイトをたたんだ後はそこでおやつを食べるのが日課になっていた。
老人たちは、縁者や救済院から送られたと思しき、
胸に食べこぼしや油汚れの滲んだくたびれた古着や、趣味の悪い服を着ていた。
お下がりのシャツを着た彼らは、弱った足腰で歩を緩慢に運びながら、
アトレーユ少年を大歓迎して迎え入れた。
一体いつから大切に取ってあったのか分からない、缶の中の湿気たビスケット。
味覚の衰えた老婆たちが作る、途方もなくまずい郷土料理の数々。
べたついた焼菓子や味の複雑な料理、砂糖の大量に入ったお茶を、
大勢の老人たちの笑顔に見つめられながらアトレーユ少年は黙々と食べた。
無口な少年は老人たちに可愛がられた。
何度アトレーユだと名乗っても、彼らはにこにこしながら云うのだ。
「いいや。あんたはヴィルトだよ」
明るい日差しと涼しい風の入る窓からは、海と果樹園が見えていた。
老女メルセデスはたいていの日、その果樹園の庭にいた。
蔓科の実がぶら下がる棚の下、緑の木陰から、
カイトで海に向かって飛ぶアトレーユの姿を老女は見ていた。
メルセデスはほかの老人とは違っていた。
彼女だけは莫大な財産つきでこの島の養老院に渡って来たのだと噂されていた。
食堂にも顔を見せず、アトレーユに話しかけることもなかった。
いつも繊細なレースのついた古い時代の服を着て、髪をきちんと結い上げ、
飾りのついた繻子の靴を履き、薄紫の花の咲く樹のそばに、仙女のように立っていた。
カイトを入れた袋を背負ったアトレーユが丘の上に現れると、
メルセデスは海風の吹く庭に現れ、海側がよく見通せる煉瓦塀に寄る。
アトレーユが飛ぶのを見ても転ぶのを見ても、表情を動かさず、何も云わなかった。
それどころか余所見をして、歌を歌っていることすらあった。
遠目にもそれは分かった。
飛行技術と格闘している時以外のアトレーユ少年にはまったく興味がないようで、
養老院の廊下や教会の庭ですれ違っても、こちらを見向きもしない。
かと思うと、何ともいえない眼をして、じっとこちらを見ていることもあった。
風を巧く捉まえたアトレーユのカイトが、空の手にふわりと掬い上げられるようにして
すべらかに飛行を開始することがあっても、
メルセデスはそんなのは当たり前だと云わんばかりに、
さっさと背を向けて庭から建物へ入り、鎧戸をぴしゃりと閉めてしまう。
そして、老女のその目ははっきりとアトレーユにこう云っていた。
へたくそ。
そのメルセデスが死んだ。
万年雪の山にほど近い難所で最後の修行を終えたアトレーユが、
故郷の島に別れを告げるために養老院に立ち寄った、その前の晩に、
メルセデスは息を引き取った。
葬儀は地所内の半ば崩れた礼拝堂をつかって、日の沈む頃に行われた。
太陽の溶けていく海と空は濃厚な色に広く輝き、
すっかり背丈の伸びたアトレーユの影を長く地に落とした。
呆然としている少年を老人たちは老女の棺の前に導いた。
海から吹く風が墓所一面に薄紫の花を降らせ、それは雪にも見えた。
花の雨の中、アトレーユは眠るメルセデスの胸の上に雪山から持ち帰った花をおいた。
白い花は死人の組み合わせた手の上で海風に震えた。
------この人は、ずっとヴィルトが来るのを待っていた。
揺れる花影の下、老人たちはメルセデスを見つめる少年の肩を
後ろからやさしく抱いて支えた。
蓋をされた棺の上に土が被さっていくのをアトレーユは無言で見ていた。
十六歳になった少年の許に召集令状が届いたことを、老人たちは知っていた。
老女の形見だという赤い石のはまった指環をアトレーユに渡すと、
メルセデスの小さな墓の前で、老人たちはアトレーユに云った。
------この人がここに居たことを、誰にも云ってはいけないよ、風使いのヴィルト。
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■白い水の中へ
海峡を超え、偵察に出たカイト部隊は、その半数が還っては来なかった。
未帰還のカイトの数が増えるたびに、
空を見つめるアトレーユの眼に思いつめた光が帯びていくのを、
トニオ少年は伝令筒を彼の手に渡しながら、不安そうに見上げた。
アトレーユ青年は、トニオの憧れだった。
空軍基地の中で自転車に乗って伝令を配達して回っているそんなトニオ少年の
気遣わしげな様子に気がつくと、水灰色の飛行服を着たアトレーユは何でもない、と
短く答え、そしてこっそりと略式徽章のついた胸の物入れから配給の煙草を取り出して、
トニオに寄越してくれるのだ。
煙草を家に持って帰ると、トニオの父親が家で歓ぶ。
トニオの父は屋根から落ちて腰の骨を折り、大工を辞めて、
もう長いこと寝たきりとなっていた。
トニオが礼を云うと、アトレーユの返事はいつも決まっていた。
「俺、あまり吸わないから」。
マリエンシュタット空軍に所属するカイト乗りはみな、偏屈者だった。
揃って痩せ型で、みな若く、無口が過ぎていたり、または奇矯な振る舞いに偏っていた。
彼らは、半ばからかいと畏怖をこめて、空に魂を吸われた連中、と呼ばれていた。
中でもアトレーユは別格だった。
どこといって特徴のない若者である。
短く刈った黒い髪をして、瞳の色はスカイブルー。
しかし、アトレーユのあやつる濃紺色のカイトがマリエンシュタットの城壁から
風を切り、空に舞い上がっていくたびに、
人々はいにしえの風使いの幻を見て騒ぎ立てるのだ。
ご覧、ヴィルトのようじゃないか。
「どうして、みんなアトレーユさんのことを、”ヴィルト”とあだ名で呼ぶの」
トニオの問いに、アトレーユは肩をすくめて答えた。知らない。
筆記具を片手に空域図を広げて眺めているアトレーユの、蝋燭の灯りに照らされた
横顔からは、それ以上は聞き出せなかった。
教えてくれたのは、アトレーユと同じ部隊に所属するマティアスだった。
マティアスはトニオ少年の小さな制帽を取り上げると、内側に指を入れて帽子を回した。
「カイエスブレームの風使いの名だよ」
「魔術師の街カイエスブレーム?」
疑わしそうに、トニオは首を傾げた。
「中世に、魔女狩りを怖れて忽然と消え失せてしまった、あの街のこと?」
そうだよ、とマティアスは頷いた。
カイエスブレームの街は銅版画で見たことがあるだろう?
高い塔と鐘楼だらけの、あの奇怪なる光の魔窟。
ヴィルトはそこにいたと伝わる風使いの少年だ。
マリエンシュタットがまだ深い森に囲まれ、
市街を囲む城壁が、今よりももっと内側にあった時代の、昔話さ。
時代に応じて、外に輪を描くように街の外壁を広げていったマリエンシュタットの中でも、
マティアスは最も古い区域の出身者だった。
現在では治安と日照が悪いことから敬遠されているその旧市街は、
先祖伝来の地から頑として動かなかった人々の暮らす邸宅と、
貧しい階層がはりつくようにして暮らす下町の貧民窟、それに、
崩れるままに放棄された古代の遺跡と遺物が混在しており、その隙間を
今でも現役で湖から水を運ぶ水道橋や、馬車の行きかう石畳が埋めている。
三年前、はじめて故郷の島から出て来たばかりのアトレーユの目には、
マティアスに案内されたそんな旧市街の様子は、ごたついた迷路に見えたものだった。
マティアスはマリエンシュタットの歴史に詳しかった。
好奇心で身を乗り出しているトニオ少年に、咥え煙草をしたまま手帳を広げて、
マティアスは風使いヴィルトの姿を絵に描いてみせた。
いわく、「カイエスブレームの風使いヴィルト」とは、
後ろで一つに束ねたぼさぼさの長い黒髪に、がたがたの前髪、
深い青色の目をした身なりの悪い少年で、濃青色のカイトで、かトンボみたいに、
ひょろりとしたその身を空からマリエンシュタットに運んで来たという。
そして門の警備兵にその名を告げた。
------カイエスブレームの風使い、ヴィルトです。遠くファドジィルより
伝言をことづかってまいりました。
「つけ加えるなら、鳥によく追いかけられて、嘴でつつき回されていたそうだ」
「カッコ悪!」
伝令運びのトニオ少年はマティアスの語る風使いの逸話にがっかりして文句をつけた。
マティアスが描いた手帳の中の少年は、トニオの憧憬を一身に集めるアトレーユとは
似ても似つかなかった。乞食みたい、こいつ。
「それに、遠くファドジィルから伝言をことづかって来ただって。
ファドジィルは百年も前からマリエンシュタットと戦争をしている、敵じゃないか」
「その頃は、まだ仲が良かったのさ」
重々しく、マティアスは続けてつけ加えた。
「それに、間違えちゃいけない。百年前に結ばれた停戦協定後は、
両都市とも宣戦布告はしていない。
だから今現在、ファドジィルは正式には、マリエンシュタットの敵じゃない」
「同じようなもんだよ」
マティアスから取り戻した制帽を目深にかぶりなおしたトニオ少年は大人ぶった。
軍施設で働くだけあって、難しい言葉を知っていた。
「敵じゃないのなら、どうしてこの半年の間、
緩衝地帯でマリエンシュタットの監視偵察機が次々と行方不明になるのさ。
ファドジィルのやつらが卑怯にも、隣接都市の仲裁で結ばれた協定を破って、
マリエンシュタットのカイトを落としているに決まってる」
トニオ少年はしつこくマティアスに食い下がった。
「それに、今の話じゃ答えになってないよ、マティアスさん。
どうしてそんな、イカれた風体のひよひよした頼りなさそうなへっぽこ風使いが、
マリエンシュタット空軍随一のカイト乗りである、アトレーユさんに似てるんだよ」
それはこういうわけさ、マティアスはもう一度トニオの頭から帽子を取り上げた。
紺色の制帽を回転をつけて高く投げ上げる。
太陽の光を散らしながら帽子は勢いよく回って落ちて来る。
その落ちて来た帽子を、マティアスはぴたりと指先で挟んで受け止めて見せた。
トニオの目が丸くなる。
分かったかい、とマティアスはトニオに片目をつぶった。
こんな芸当が出来るのは、伝説の風使いと、アトレーユくらいさ。
ほら、あんな風にね。
空の高みから、マリエンシュタット空軍のカイトが基地に帰投するところだった。
たった一機。それで、アトレーユだとすぐに分かる。
特徴的なのはその着地だ。
それを何と喩えたらよいだろう。
地に足がつく前に、アトレーユの身体はフレームから離れ、カイトから飛び降りている。
乱れもなく降り立つ、それは基地の連中が
「地面とキスする男」、と口笛を吹いて称えるほどに、音も無い。
空に片手をまっすぐに伸ばす。
弧を描いて空中に留まっていた翼は、忠実な鳥のようにアトレーユの許に戻ってくる。
鳥を腕に止まらせるように、それを掴まえる。
通常の着陸ではカイトを背負ったままで地面に降り立つが、アトレーユはそれをしない。
それはちょうど、伝説の風使いの少年と同じ離れ業だ。
彼には翼がある。空を飛ぶ。
空に揚がる者は大勢いるが、アトレーユのような者は、一人もいない。
「ついでに、アトレーユの奴は正規の軍人じゃない。
徴兵期間の二年を過ぎてもここにいるのは、
権利として認められている一年の予備役を経て、
空軍が正式に彼を将校として迎え入れたがっているからだ」
そのマティアスが、緩衝地帯の監視に飛び立ったまま基地に還ってこなかった時、
アトレーユははじめて軍の上層部に申し出た。
「俺が飛びます」。
友軍機を探索に行くというアトレーユが広げて見せた地図と、軍の見解は同じものだった。
マリエンシュタットとファドジィルの間はもう百年もの長きに渡って冷戦状態にあった。
ファドジィルは遠い。
百年前に戦場となった土地もまた、海峡の向こうであった。
目下、戦場は封鎖され、今はそこは両都市の睨み合う仮想前線となっている。
偵察に出たカイトの多くが行方不明となってこの方、マリエンシュタットは
同盟都市との連盟で、休戦中のファドジィル側に厳重なる抗議を重ねてきた。
それに対するファドジィル側の回答は再びの戦をも辞さない強気なものだった。
-----ファドジィル軍の哨戒カイトも同領空で頻繁に消息を絶っている。
貴軍の関与を認められたし。
これは、非をこちらに被せた上での開戦の口実だ、とマリエンシュタット側は憤った。
マリエンシュタットは休戦条約を尊守している。
我々がファドジィルの赤凧に手を出したことなどない。
ファドジィル軍はこちらの青凧とカイト乗りたちを捕縛、または墜落させておきながら、
罪をこちらに着せるつもりなのだ。
それを覆したのは、他でもない、自軍のカイト乗りたちであった。
偵察に飛び立ったカイトの全てが行方不明になるわけではなく、
仲間の見ている視界の中から、忽然と消えうせる場合もあった。
マリエンシュタット空軍のカイト乗りたちは事実を告げる宣誓の後に、証言台に立った。
本当です、我が軍ならびに、ファドジィル空軍の赤いカイトも、
眼の前で原因不明のままに空からかき消えました。
この目で確かに見ました。
「墜落したのか?」
「分かりません。消え失せたとしか、見えなかった」
カイトは偵察や誘導としては有効であっても、
軽量が命の薄い翼には武器も火器も搭載出来ない仕様となっている。
それゆえ、両軍のカイトが空で激突をしたとは考えにくく、その形跡もない。
地上の塹壕にいる両軍も、落ちていくカイトやその破片はいっさい目撃していない。
そして、行方不明になった僚機を出しながらも、偵察から運よく帰還できたカイト乗りたちは、
同じことを口を揃えて証言するのだった。
『白い水に突入していくようだった。完全に迷った気がした。』
軍の首脳部は顔を見合わせた。
どれほど快晴であっても、不意に眼の前が白く曇るのだそうだ。
それは魔法じみていた。
人々は中世に想いを馳せた。
消えた魔術師の街、カイエスブレームが、何か関わっているのではないだろうか。
城壁からは、はるかな地平に昇る、晩冬の太陽が見えた。
湖の霧が晴れて、青い湖面があらわになっていく。
風に吹かれてそれを見ていたアトレーユは、やがて腰を上げた。
ここから見下ろすマリエンシュタットの街並みや湖は、春を待っていまだ眠りの中にある。
空も地上も静かだった。
夜明けの静寂の中で、支度を終えたアトレーユは革手袋をはめると、
カイトを担ぎ上げて城壁の階段を登った。
朝風をはらんだ翼がアトレーユの肩の上で震えている。
生命を吹き込まれた化石のように、その骨や青い羽根が有機的に脈打ち、
繊美な吐息で風に応えて、春を待ち、振動している。
軍のカイト乗りはみな、愛機の翼に名前をつけた。
恋人の名や故郷の名、星座の名や、好きな酒の銘柄など、さまざまだった。
彼らは自分だけのそれらの名を、カイトの翼のどこかに愛称として誇らしく書き記した。
友人マティアスの翼の名は、『グロッケンシュピール』。
アトレーユのカイトの名だけは、誰も知らなかった。
「いっそヴィルトと名付けて、昔話の風使いにあやかったらどうだ」
マティアスは軽口を叩いたが、アトレーユは相手にしなかった。
アトレーユが翼に名をつけず、何も書き記さないことを、「自信家の証拠さ」、
中傷する者もいたが、それでもアトレーユは口を開かなかった。
カイトはカイト、翼は翼だ。
外壁を駆け上ってくる風が、水灰色の飛行服姿のアトレーユの黒髪をかき乱した。
広げられた青い翼が辛抱しきれぬように、大きな力をはためかせて唸り出す。
アトレーユは風を逃しながら、猛禽を宥めるように、朝日を映すカイトの背を撫ぜた。
今日も一緒だ、あの空へと俺を運べ。
もしこの翼に名があるとすれば、俺はこの名をお前にやる。
メルセデス。
勢いをつけて塔から飛び立つ。
翼が風を瞬時にとらえ、浮き上がる。
下から吹き付ける強風を受けて、目に見えぬ階段をすべらかに昇るように、
夜明けの空へと舞い上がる。
気圧の急激な変化は命取りだが、庭のようによく知る城壁上空である、
風の道を間違うことは無い。
マリエンシュタットの街があっという間に小さく下方に過ぎていく。
城門の門番だけが、かつて風使いのヴィルトにもそうしたように、
詰め所から顔を出して制帽に手をかけ、こちらに挨拶を寄越している。
アトレーユは革手袋をはめた片手を上げてそれに応え、さらに雲を高く揚がった。
朝焼けの雲が火の波のように明るく押し寄せる。地平のはるかには海のライン。
風が強く、空気は冷たい。春の浅い上空は清潔に快晴だ。
空にはまだ星が残り、薄らぐ月が別れを告げている。
あらゆる青色の果て無き深みに脳天から吸い込まれそうになる。
横殴りの突風が雲間から飛び出してきて、襲い掛かり、吹き付ける。
吹き飛ばされて墜ちる、一瞬そう思う。
カイト乗りたちが風の牙に見るそんな悪夢の一つは、
フレームにかける重心を移動させて機体を傾け、均衡をとることですぐに消える。
「それが怖い奴は空に揚がるな、だとよ。教官のこの言葉、どう思う、アトレーユ」
「怖くはない」
ざわつくカイト乗りに、カイトを磨いていたアトレーユは一言で応えた。
翼に向かって呟いた。
風を裏切るほうがもっと怖い。
墜落することよりも、翼を奪われることのほうが、俺は嫌だ。
仲間は理解しかねるといった風に両手を広げた。
「死ぬほうがいいのかよ」
「生きているほうがいい。でも、空に揚がる時には、
しがみつくものを捨てないと、あがれない」
詩人がどのように美々しく讃えようと、空にあるのはひたすらの無窮であり、
容赦のない厳しさであり、風ばかりが吹いている、雲と星の荒野だ。
そこを飛ぶ時にはいつも、泣きそうになる。
巨大な月の輝きも、硝子を撒き散らしたような夕暮れも、
胸を打ち壊しそうなほどにはろばろと美しいばかりだったし、
誰ひとりいない天界が静かであればあるほど、
ずっと声なき声で泣き続け、叫び続けているような気がする時もある。
身体ひとつがむき出しにされて、風にちっぽけな魂が洗濯されていくその間、
それをじっと耐えていなければならず、アトレーユにとってそれは心地よくも怖ろしくもない、
ひたすら自分を見失い続けていくような、愉悦と、透徹の繰り返しだった。
フレームを握る手さえここで離せば、この美しい透明の中に溶け入ることが出来る。
カイト乗りならば、誰がその夢想と誘惑を拒むことが出来るだろうか。
空に抱合されて、しっかりと抱かれて、光の雲の中で、眠りたい。
そして、耳許を掠める風の音で我に帰る。
鳥の群れが、アトレーユのカイトのすぐ近くをすれ違っていく。
生まれたての鳥が必死で羽根を上下させて仲間に追いつこうとしている。
それを見送ったアトレーユは雲の陰に入り、日光が目を刺すのを避けた。
太陽が近くなるので上空は南大陸のように暑いに違いないと、大昔は考えられていた。
実際は地表よりもはるかに寒く、飛行服を着ていても体温が奪われていく。
空には星の風が吹く。
太古からの風が流れて過ぎる。
追い風に運ばれて、予定よりも早く、やがてファドジィルとの緩衝地帯が見えてきた。
上空は涼しく晴れた冬の空。
下界は残雪を被った、森と雪原だった。
『アトレーユ、消息を絶った友軍機を探してくれ。君に任せる』。
行方不明になったマリエンシュタット軍の青い凧と、ファドジィル軍の赤い凧、
両軍のカイトの失踪原因を明らかにしなければ、互いに非の被せあいとなり、
このままでは百年の休戦が破られて、ふたたび両都市は戦争となる。
それが双方には関係の無い魔法に関わることであるならば、なおのこと、
真相を究明して、マリエンシュタット側にもファドジィル側にも、
証拠を提示してみせなければならない。
軍の首脳部も、アトレーユも、山脈沿いの空路があやしいと睨んだ。
昔話にも伝わる、空から糸が垂れてきた、または、
遠く離れた海の魚が突然、生きたまま風に運ばれ山岳地帯に落ちてきた、などなど、
そこは数々の不可思議事象が起こることで古くより知られた、魔の空域だった。
果たせるかな、眼下の雪渓に、マリエンシュタット軍のものらしき青いカイトの残骸が
見えるではないか。
万年雪の山脈を背後に控えた山岳でアトレーユは高度を落とした。
谷底に引っかかるようにして雪に埋もれている友軍機の翼に、機体の名が見えた。
『グロッケンシュピール』。
幾重もの鐘音を意味する言葉、マティアスの翼だ。
(マティアス)。
その時、青空がふいに真っ白にはじけ飛び、乱気流に大きく翼がはためき出した。
多くのカイトが消息を絶った地点だ。
カイトの制御が何かの凶暴な力にもぎ取られ、奪われていく。
巨大な力で真上から押し伏せられて、メルセデスの翼が地上へと押し下げられていく。
アトレーユのカイトを目掛けて光の吹雪が押し寄せ、視界を塞いだ。
斜めに風を切り下ろしながらカイトは落下する。
湿った強風に四方八方からアトレーユのカイトは突き飛ばされた。
カイトから手を離さないのがやっとで、呼吸もままならない。
それはまさしく、白い水の瀑布だった。
揚力を失ったカイトはアトレーユごと、光の水槽に突っ込まれるかたちで
雪の山脈へと引き寄せられ、素早い螺旋を描きながら、光の中を落ちていく。
身を切る風に雪の冷たい匂いが混じるのをアトレーユは覚えた。
いつかの冬、基地で雪合戦をしながら仲間たちと雪に顔を埋めたことを想い出す。
雪の匂いはどこか血の匂いに似ている、
こんなに白いのに、赤い血の匂いがする。
白い闇の向こうから、マティアスがアトレーユに雪球をぶつけて叫んでいた。
怖い顔をして呼びかけていた。
眼を開けろ、アトレーユ。しっかりろ。
風が切れた。
そして自分のものではない、遠い声をアトレーユは聞いた。
女の子の声だった。
--------助けて
岩場に羽根が叩きつけられる直前にカイトが奇跡を起こして機首を上げ、
翼が水平を取り戻し、大きく旋回した。
投石機から繰り出された横殴りの石のように地上すれすれを振り切って過ぎた。
弧を描き、雪煙を上げながら引きずられていくのに合わせて、正気を取り戻し、山を見た。
瞬時にアトレーユはカイトを立て直して向きを変えると、山肌に沿って空を駆け上がっていた。
橇に乗った若い娘が、それを引いていた家畜を失い、悲鳴を上げているのが見えたのだ。
家畜を繋いでいた綱を雪の上に引きずったまま、橇は雪を蹴散らして
崖際に向かって暴走してゆく。
アトレーユは手を伸ばした。
「つかまれ!」
泣きそうな顔をして娘が空に手を伸ばす。
カイトが上を過ぎる前に、岩に当たって橇が跳ね、少女の悲鳴と共に、
アトレーユと少女の手は離れた。
跳ね上がった橇は勢いを増して、崖縁へと滑り落ちていく。
アトレーユは再びカイトの向きを変えて少女の許へ行こうとした。
谷間から吹き上げる突風が障壁となって立ちふさがり、アトレーユのカイトを
上空へと跳ね飛ばす。
アトレーユを少女から引き離していく。
太古に氷山が作った崖の裂け目は細く、雪解け水を走らせて黒々と深く、底も見えない。
橇に必死でしがみついたまま、今にも転覆してばらばらに砕け散りそうな橇の中から
少女は恐怖に凍りついた顔をしてアトレーユを見上げていた。
橇は少女が雪原に飛び降りる暇も与えず、さらに速度を上げて、
雪崩に追われる小動物のように斜面を跳ね上がりながら下っていく。
風に舞い上がった雪がアトレーユを冷たく打った。
首から下げたお守りが飛行服の中で熱を持っていた。
護符の類をありがたがって持ち歩く趣味はないが、これは形見だ。
死んだ老女がアトレーユに遺した赤い指環。
それには、ファドジィルの紋章が刻まれていた。
その時、もう一度奇跡が起きた。
橇の娘はアトレーユと同じ年頃に見えた。
蒼褪めた顔でこちらを見上げている彼女の紡いだ言葉をアトレーユは聞いた。
『何としても、ファドジィルに行かなくてはならないの』。
橇が崖から落ちた。
アトレーユの手は少女の手を掴み、フレームを握らせ、空高くへと飛んでいた。
[続く]
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