[カイエスブレームの翼] ChapterU
■魔女
マリエンシュタット空軍における、半ば笑い話となっている定説がある。
カイト乗りは、女にモテるかモテないかが両極端、というのがそれだ。
「要するに、口が軽けりゃモテるのさ」
行き着けの酒場でマティアスがそう断言したその瞬間、
酒場に居合わせたカイト乗りの半数が、
(では、俺はダメだ)
卓に突っ伏した。
そこで、マティアスは連中に講義をはじめた。
諸君、気落ちしたまうな。
カイト乗りならではの女の口説き方というものがある。
ご面相なんか案外、よほど面食いでもない限り、女心にはたいして関係ないのさ。
つまりこうだ、と衆目の中でマティアスは手近な女の子を一人選び、
実演で口説き出してみせた。
ためになったのかならなかったのか、その後の首尾は各人のみぞ知るであるが、
横で見ていたアトレーユにはマティアスの口説の、その半分も意味が分からなかった。
君の瞳は北極星の光にも勝るとか、真珠色の星を集めて君のために首飾りを作りたいとか、
君こそが俺の翼を招く地上のともし火だとか、
何が星で何がともし火なのか、さっぱり不明のままであったし、
聞いているだけでも何やら背筋がぞくぞくしてくるほど、いかれポンチな台詞だと思った。
空の上から眺める夕焼けの、ばら色を集めて、君にあげたい。
本当にそんな陳腐な文句で女の子がオチるのか?
「マティアス」
「質問かアトレーユ。何だ」
「夕映えは確かにばら色をしているが、ばら園じゃないし、花も咲いていない……」
「お前、本当に詩情がないんだな」
首を締め上げんばかりにしてマティアスはアトレーユの枯れた根性を
叩きなおしてくれたものだが、それにしても生徒の方の出来が悪かった。
マティアス仕込の口説き文句は口から出る前にアトレーユの喉で引っかかり、
女の子を前にして立ち尽くしたまま、ぼやけた塊となって減速し、そのまま消えた。
云えたのはこれだけだ。
「カイトとダンスするように、君と踊りたい」
女の子には意味不明であろう。
結果としてフラれたものの、傷心は浅く、アトレーユはかえって安堵した。
俺には無理だ。
女の子をダンスに誘うより、カイトを操縦して空を飛ぶほうが、よほど簡単だ。
その女の子が隣にいる。
「落ちるわ!」
橇から助け上げた少女がアトレーユの隣で悲鳴を上げた。
空軍のカイトは二人乗り用には出来ていない。
いくら女の子が軽く、搭載重量を超過してはいないといっても、下向きの重力が倍かかる。
しかも、空を飛んだことのない人間と一緒では操縦の命ともいうべき、
翼の回転変異がこれではまったく取れない。
谷間から吹き上がる強風によって一度は空に舞い上がったものの、
二人を乗せたカイトは不安定に大きく傾いて、制御を失い、
今度はまっしぐらに残雪の峡谷を目掛けて落下をはじめた。
傾きの角度がきつくなり、それにつれて雪原が頭の上に広がっていく。
「落ちるわ!」
「黙っててくれ!」
翼の骨組が真上で軋んだ音を立てた。
失速から安定を取り戻すにはじゅうぶんな高度が要るが、すでに必要な高度が足りない。
森に不時着するには、そこへ辿り着く速度が足りない。
揚力が消える。
これは落ちる。
アトレーユはフレームを握り締めている少女の両手をもぎ離すと、少女を突き飛ばした。
雪の積もった岩棚に少女が無事に落ちたかどうかも見なかった。
アトレーユを乗せたまま翼は垂直に持ち上がり、岩壁の切れ目へと吸い込まれた。
水音が遠く響く暗い谷底目掛けて、カイトは風を切り、機首を下にして落ちていく。
暗闇に走る水の流れが細い蛇のようだった。
その雪解けの河の轟きを聴きながら、アトレーユはフレームを固く握り締めた。
最悪の死に方、最高の死に方。
眼の前が真っ暗になり、河の音が接近する。
谷底に激突する予感に、アトレーユはぼんやりと笑みを浮かべる余裕があった。
翼と共に死ねるなら本望だ。
ひゅう、と風が止まった。
風をつらぬき、歌が聴こえた。
峡谷いっぱいに、風を振るわせ、美しい歌声が響き渡った。
それは、星の音にも、竪琴の音にも似ていた。
禍々しき不吉の歌にも、輝かしき賛歌にも聴こえた。
(風よ、さあ、あの翼を救いなさい。わたしの許へ、連れてきて)
懐かしい歌だった。
振り仰いだ。
岩棚に立つ娘の姿が逆光の中、白い幻のように浮かんで見えた。
アトレーユは目を細めた。
(歌声で、生きとし生けるものの生命を奪うと伝えきく、雪山に棲む魔性)
歌に応えて翼が踊り上がる。
枝から飛翔する鳥の速さで、谷底から雪原へ、真っ青な、大空へと翼が跳ね上がる。
風に腹を殴り上げられでもしたかのように、アトレーユのカイトは歌声に乗り、
岩壁を逆走して空中に、空高くに瞬時に飛び出していた。
さあっと清んだ風が流れ、アトレーユの頬を打った。
時雨のように青い光がまぶたに散った。
視界が晴れている。
谷底に墜ちて河に沈んでいるはずだったのに、青空に浮かんでいる。
本能的に対気速度からカイトの操作抵抗を取り戻し、翼の平衡を保ったアトレーユは、
雲ひとつない空を飛びながら、地上世界を見渡した。
カイトを叩き落した謎の白い光は上空にはもはやなく、山脈を背にして、
雪の残る森や丘陵、遠い彼方の地平まで、くっきりと明るく見渡せた。
放心から覚めたアトレーユは、はっとなって、マティアスのカイトを空から探した。
友軍機の手がかりや残骸を求めて、雪の地表に目を凝らした。
しかしそれはもはや、どこにも見当たらなかった。
一巡り空を哨戒した後で、アトレーユは雪原に降下した。
カイトから雪の上に身ひとつで先に降り立ち、戻って来る青い翼のむき出しの骨組み部分を、
いつものように伸ばした片手で掴んで止める。
旋回する翼の風に煽られた針葉樹から積もった雪が余波で舞い上がり、それは
日の光に透けて、金色の霧のように細かくあたりに降りしきった。
疲労で吐く息が白かった。生きている。
アトレーユはふらついて、雪に膝をついた。
空から地へと連続で急激に上がったり下がったりしたせいか、気分が悪かった。
手近な雪を一握り掴んで、口に含み、うがいの代わりに咀嚼する。
喉をすべる冷たい雪の味で、ようやく頭がすっきりしてきた。
カイトを岩陰に立てかけておいて、途中、落ちていた毛糸の肩掛けを拾い上げ、
それを持って少女の許へと、アトレーユは歩み寄った。
少女はこちらを向いてじっと立っていた。
青みを帯びた長い金髪に、翡翠色の眼をした、ほっそりとした娘だった。
「橇から助けてくれてありがとう。礼を云うわ」
「歌ったのは、君なのか」
少女は灰色の肩掛けをアトレーユから受け取ると、
ひだの多い白い服の上に羽織って、胸の前にかき寄せた。
山岳で見かけるには場違いな格好をした娘だった。
先が雪の中に半ば埋もれた、踵の高い華奢な赤い靴を履いていた。
それは今にも真っ白な雪の上に花びらをふり落として踊り出しそうなほどに、エナメルに輝く、
ばら色をした舞踏会用の靴だった。
雪風に少女の長い髪がふわりと揺れた。
「わたしの名は、ユーディット」
アトレーユが訊ねる前に、少女の赤い唇がそれを告げた。
「そうよ、魔女なの」
「そんな莫迦な」
アトレーユは絶句し、皮手袋をはめたままの両手を握り締めた。
ユーディットは落ち着いて、その白い服から雪汚れをはらった。
「魔女は、魔女狩りにより、大昔に根絶したはずだって思っているの、軍人さん」
「アトレーユだ。それに俺は、軍人じゃない」
「軍の飛行服を着ていたら誰だってそう思うわ。たとえ階級章がなくても」
少女の瞳は月の明るい夜の、空の色をしていた。
水盤に硝子を幾重にも重ねたのと同じ、明るさと鋭さを持っていた。
秘密の輝きを散らして、ユーディットはその眼でアトレーユを見つめた。
「魔術師の子孫は各地にたくさん潜んで生きているわ、
カイエスブレームがなくなった、今でも」
ユーディットはその唇から小さな声で再び歌を紡いだ。
アトレーユは背後を振り返った。
岩陰に残してきたアトレーユのカイトの翼が、歌に応じて、はばたくように風に震えている。
ユーディットは薄く微笑んだ。信じた?
アトレーユは「信じた」、と応えるしかなかった。
「君は、魔女だ」
自分に言い聞かせるように呟くと、アトレーユは後腰から拳銃を引き抜いた。
一連の動作は半ば機械的に素早く行われ、照準距離を取って飛び退ると、
アトレーユはその銃口をユーディットへと向けていた。
ユーディットは黒々と光るアトレーユの銃を見て、「何をするの」、愕いた声を上げた。
アトレーユは軍で受けた訓練に従い、標的の動きを拳銃で牽制した。
「動くな」
命じられたユーディットは、たいして怖がるでもなく、不愉快をあらわにその顔に浮かべた。
「軍人じゃないと云ったくせに」
「君は魔女だ、自らそれを認めた」
伸ばした腕の先に銃を持ち構え、その狙いを定めたまま、
付け入る隙を見せないようにアトレーユは強いて顔を引き締めた。
苦手なんだ、女の子。
「俺は、この地で行方不明になったマリエンシュタット空軍のカイトを探しに来た。
君はその歌で風を自在に操る魔女だ。俺はそれを確認した。
三回、この眼でそれを見たら十分だ」
これは任務だと自分に言い聞かせ、
アトレーユは出来る限り厳しい口調で数え上げた。
上空で未確認の嵐に遭遇し、空から落ちた俺のカイトが地上すれすれで揚力を取り戻した時、
二度目は崖から落ちる君の橇を目掛けて、カイトが急降下をした時、
そして峡谷にカイトごと落ちるところを、墜落寸前に谷底から空へと跳ね上がった時、
その全てにおいて、不自然で唐突な強い風を感じ、女の歌声を耳にした。
「君の歌が導いた風だ」
「そうよ」
ユーディットは肩掛けを胸の前で合わせた。
風よ、さあ、あの翼を救いなさい。迷える鳥を、わたしの許に、連れてきて-----。
あなたを助けるためであり、わたしが助かるためでもあったわ。
「魔法といっても、風を操るわたしの歌は、カイトの翼を動かせるだけがやっとなのよ。
空を見たら、あなたが落ちて来るところだった。
だからわたし、橇の中から立ち上がって歌ったわ。
その歌に愕いて、橇を引かせていた鹿が暴れ出して、
最初からよく繋いでいなかった綱が解けて、鹿が逃げ、橇が滑り出したのよ。
恩に着せるつもりはないけれど、あんまりだわ。
魔女は嫌われ者だ、禍々しきものだ、 だから銃を向けてもいいとでも?
いくら軍人だからといっても、それ、少し短絡思考過ぎやしないこと」
「君はその歌で、マリエンシュタットのカイトを墜落させたのか」
「そんなことしないわ!」
「証拠は」
「証拠ですって」
「君は魔女だ、ユーディット。大昔ならいざしらず、
魔女の存在は文明の光明があたる現代では、忌むべき異端として否定されている」
「ええそうよ」
ユーディットは苦々しく首肯した。
「わたしの祖先の多くは中世暗黒時代に魔女狩りで火炙りに処せられたわ。
それは領主や教会や騎士団が、魔女から財や所領を取り上げるための口実だった。
汚い笑顔を振りまいて、彼らはそれを善行と称しながら、罪の無い女たちを焼いたわ。
でも、口の立つ、目先の利欲に目のない大騒ぎの好きな連中が、
さも良いことのように装いながら、弱者への干渉と搾取を繰り返し、
被害者面をしていちばん酷いことを平気でしてのけるのに、時代の違いがあるかしら。
残り少ない生き残りは、魔女であることを隠しながら、細々と各地で生き延びてきた。
そのせいもあって、魔女の黄金の血は、魔術師の街カイエスブレームが
この地上にあったいにしえに比べれば、もうずっと薄まっているのよ」
魔女狩りから辛うじて逃れて、世界に散った魔女たちも、
今ではもう混血がすすんで、純血の魔女などこの世にはいない。
上空を飛行するカイトを狙い撃ちで地上に墜とせるほどの魔力を持った気象使いなんて、
尊敬される魔女だったわたしの祖母でも無理だったでしょうし、
わたしだってお伽話の中にしか知らないわ。
「それは、風使いのヴィルトがいた時代の、物語よ」
云い切ると、きっとなってユーディットは、気丈にもアトレーユの銃口の前に進み出た。
「撃つなら撃ちなさいよ。その代わり、
あなたのカイトの翼が傷んでいることを考えてみることね。
あなたのカイトがこの山岳地帯から無事に抜け出るには、
どうしたって私の風の力が要るわよ。それでもいいなら、撃ちなさいよ」
「それは、つまり」
ユーディットの剣幕にたじろいで、アトレーユは慌てて銃口を少し引き下げた。
何しろ相手は魔女だ。
何をされるか分からない。
青みを帯びた少女の金髪が、怒りのためか、ぼうっと燃えるように見えた。
いざとなれば走って逃げるべく退路まで探した時点で、アトレーユは彼女に負けていた。
「それは、つまり、何よ」
「この一帯に乱気流の白い嵐を起こしているのは自分だと、
君は認めたことになる……」
「違うわよ、失礼ね、もう、莫迦、この、わからずや。空を見てご覧なさいな」
まるで彼女の尻でも撫でたかのような罵倒を浴びたアトレーユが、
うろたえつつもユーディットの指し示す方角を仰ぐと、
そろそろ日の翳ってきた空に、赤いカイトが見えた。
雪山の上空を滑って、こちらに向かっている。
ファドジィル軍の赤凧だ。
編隊を組んでおり、その数は七機。
そこまでを目視すると、アトレーユは銃を片手に握ったまま、「隠れるんだ!」、
ユーディットの腕を掴んで、メルセデスの翼を隠した岩場へと雪を蹴散らして走っていた。
大急ぎでカイトを分解してたたみ、
特にその特徴的な青い羽根を空から見えないように胸に抱え込んで隠すと、
引きずるようにして窪地へと滑り降りる。
まだらに雪の被った岩陰に潜んだところで、山を回った赤いカイトが接近してくるのが見えた。
ユーディットが灰色の肩掛けを肩から取ると、急いでそれを広げて二人の頭の上にかけた。
赤いカイトは緩やかな動きで上空を行過ぎていく。
かなりの高度だ。
「あの高さからではここは見つからない。大丈夫だ」
ユーディットの肩掛けの隙間から空を仰いで、アトレーユはほっと息をついた。
肩を寄せ合い、空を通過していくファドジィル軍の赤凧を目で追う。
「どうして隠れるの」、ひそひそとユーディットが近くから訊いた。
「マリエンシュタットとファドジィルが、開戦を控えているからに決まってる」
ユーディットは目を見張ったが、何も云わなかった。
アトレーユは眉をしかめた。
何となく奇妙な違和感。
先ほどからずっと、何かが腑に落ちない。
行き過ぎていく凧を見る限り、自分を雪原へと叩き落としたあの謎の白い嵐は、どうやら
あの高度を飛ぶ限りは、起こらないようだ。
それだけではない。
思い違いでなければ、空を飛んでいくあのファドジィルの赤いカイトは、
空軍史の資料に載っていた、旧式のカイトの形状をしている。
風洞実験により飛躍的にカイトの性能は上がり、それ以後、カイトのかたちはどの都市のカイトでも、
理想的な原型からほとんど変わってはいないが、その初期の翼の形をしている。
身を寄せ合ってファドジィルの監視カイトが飛び去るのを見送り、
赤いカイトが空に消えても、二人はしばらく黙って岩陰に座っていた。
やがて二人は立ち上がった。
アトレーユは少女に手を貸した。
少し雪が降り出して、夕暮れの空にちらちらと小さなものが降っていた。
赤い靴を履いた少女のすらりとした脚が、夕映えの雪に小枝のような影を作った。
まじまじとそれを見て、空軍支給の革長靴を履いた彼は彼女に訊いた。
「寒くないか?」
「そういうことは最初に訊くものよ」
アトレーユはの飛行服を探り、首から襟巻きを抜き取ってそれを
ユーディットに渡そうとしたが、「いらない」と断られた。
「意地をはるなよ」
「意地じゃないわ。男の子のものを身に着けているところなんかを誰かに見られたら、
ふしだらな娘だと思われてしまうもの。そんなことになったら、もう誰も、
わたしとは口を利いてくれなくなるわ」
「あ、そう」
この無人の雪景色に他に見ている人気があるとは思われないが、
アトレーユは引き下がった。ただし自分だけ暖かいのは不公平なので、
襟巻きはそのまま鞄にしまった。
「肌の上に身につける品物を受け取っていいのは、家族か、親族か、きょうだいからのものだけよ。
花束もお菓子も胸に留めるブローチも、許婚以外は男の人からもらっては駄目」
ああ、そうかよ。
辟易してアトレーユは横を向いた。
いつの時代の話だよ、それ。
-------いつの時代?
「アトレーユ、どうしたの」
アトレーユが不穏に黙り込んだのを見て、ユーディットが振り返った。
彼はぼんやりと顔を上げた。
「マリエンシュタットの、いや、ファドジィルでもいい、今の領主は誰だ」
すらすらとユーディットは答えた。
「マリエンシュタットの領主はロートリンゲン侯、ファドジィルを治めるのは、エンデ侯」
「ロートリンゲン侯に、エンデ侯だって」
アトレーユは大声を放った。
そうよ、どうかして、とユーディットは不審げにアトレーユの顔を覗き込んだ。
昨年の秋に、エンデ侯が近隣諸侯の反乱を抑えてファドジィルを平定したところじゃないの。
妹姫をファドジィルの地から追放した冷血漢と云われていたけれど、
統治の手腕は手堅いと、彼の評価はかえって内外に高まったわ。
それを忘れてしまうなんて、頭でも打ったの。
「それが本当なら、本当に俺の頭はおかしくなったのかも知れない」
「冗談よ」
魔女の冗談なんか聞きたくもない。
アトレーユは愕然となった。
黙ったままアトレーユは立ち尽くしていたが、やがて、重たく首を振ると、
たたんでいたカイトを雪の上で組み立てはじめた。
春が近いといっても、ここは雪の山中である。日が暮れるまでに降りなければ凍え死ぬ。
翼を確認すると、確かに、左翼の一部が破損していた。
飛べないことはなさそうだが、これでは蛇行し、失墜する危険性が高い。
ユーディットが指摘したとおり、不慣れな空域から脱出するには魔女の歌の力を借り、
その風の助けがいるようだ。
機に女の子を乗せてこれから夕空を飛ぶのかと思うと気が重たかったが、
致し方なかった。
少しでも重量を減らすためにアトレーユは鞄を開き、非常食の缶詰を捨て、
軍務規定書を細かく千切った上で雪に埋めた。
そして、翼の向こう側でこちらに背を向けているユーディットに呼びかけて、
鞄に入っていた焼き菓子を半分渡した。
翼を挟んで、向き合ったまま焼き菓子を食べた。
「湿気てるわ」
「贅沢云うなよ」
「わたしが焼いたお菓子は美味しいわよ」
「へえ、ふうん」
「温かいお茶が欲しい」
「いいか、ユーディット。カイトは二人乗り向きじゃない。
説明している暇も、練習している余裕もないから、出来るだけ安全に飛ぶが、
俺が右といえば右に身体を傾け、左といえば、そうしてくれ。
機首が上向きになったら、君の歌で向きを変える風を与えてやってくれ。
層流が乱流になるのを防ぐためには機首を下げて高度を落とすが、
それが可能なだけの高さを飛ぶのは、二人では無理だ」
「分かったわ」
「ところで、何だそれ」
「見たら分かるでしょ、お花よ。雪の中からほら、お花が咲いている。
これは雪山にしか咲かない花なの」
「おい」
「もうすぐ、春ね」
「捨ててくれ、飛行の邪魔になる」
ふくれっつらをしてユーディットは花束を河に捨てた。
翼を骨組に張ってカイトを組み立てる。
手馴れたその作業に没頭することでアトレーユは辛うじて平常心を保っていたが、
内心では、込み上げてくる或る確信と不安を抑えつけるのに懸命だった。
ユーディットがこちらを振り返って、「支度は終わったかしら」と赤い靴で近付いて来た。
それにしても、見かけないカイトね。
マリエンシュタット軍のカイトは群青色と決まっているけれど、
こんな形、見たことないわ。
「だからわたし、最初にアトレーユが空から落ちてくるのを見た時、思ったの。
お話の中に出てくる風使いの少年と同じ、青い凧に黒い髪をしている。
まるでカイエスブレームの風使いのようだわ、と。
そして愕いたの。着地の仕方が、物語の中のヴィルトとそっくり同じなんですもの。
あなたはまるで、カイエスブレームの街から来た人のようよ、アトレーユ」
止め処もなく続くユーディットの他愛もないおしゃべりに、女の子との会話中、
手持ち無沙汰に煙草を吸い出す野郎どもの気持ちが何となく少しは
分かったような気がしてきたが、どのみち、アトレーユは半分以上は聞いてはいなかった。
ファドジィルで起きた内乱がエンデ候の手で平定されたのは、百年前の秋だ。
アトレーユはひとつ思いついて、大河が氾濫した大雨の年のことを、ユーディットに訊ねた。
今だに語り草となっているその大災厄の年ことは、
アトレーユも島の老人の口から聞いたことがあった。
途端にユーディットは身を震わせた。
あの時はたくさんの人が死んだわ。
「天の扉が開いたようだった。七日七晩、雨が降り、
大河という大河が溢れ出して地を覆いつくしたの。三年前のことよ」
くらついたアトレーユは樹木に凭れて、目を閉じた。
間違いない。
ロートリンゲン侯がマリエンシュタットを、エンデ侯がファドジィルを統治していたのも、
大雨が続いて河が氾濫し、洪水が陸地を覆ったのも、
それは全て百年前の歴史の彼方の出来事だ。
ユーディットの頭のほうがおかしいのかとも思ったが、それだけでは、
先ほどこの目でしかと見た、ファドジィルの旧式カイトの説明がつかない。
それに、目下は将校への登用を控えて正規の軍人ではないとはいえ、
アトレーユは空軍に属する人間である。
地形の形状や異変をひと目で覚えることには長けており、
友人マティアスの機影を上空から確かに見たと思った地点に先ほど戻った時にも、
そこにその青い凧はなく、また、周囲の積雪模様にも差異があったことに今さらながら気がつく。
どうやら白い嵐に巻き込まれた時に、百年前の世界に飛ばされてしまったようだ。
続くユーディットの言葉はさらにアトレーユを愕然とさせるに足りた。
「三年前のその洪水のせいで、農作物は壊滅的な打撃を受けたの。
凶作が遠因になって、もうじきにファドジィルとマリエンシュタットの間で
貿易権を巡る戦が起こるとみんな云っているわ。
わたし、戦になって両都市の城門が閉鎖される前に、どうしても
ファドジィルに行かなくてはならないの。
それで、急いでいたんだわ」
ユーディットは不意にアトレーユの両腕を掴み、翡翠色の瞳を近寄せた。
青みがかった金髪が眼の前で揺れた。
光を浴びた羽毛のように柔らかそうな髪だった。
赤い靴でつま先立ちをすると、ユーディットはアトレーユの腕の中にすべりこんできた。
異性からの贈り物の譲渡がどうこうの騒ぎではない。
たじろいだアトレーユがユーディットの肩を掴んで退ける前に、唇は唇に重なっていた。
「これはおまじないよ、アトレーユ」
魔女の接吻には、その者を守る、効力があるの。
空を飛ぶ者に、祝福を。
夕映えの中、続いて魔女の唇から紡がれた囁きは、半ば脅迫であった。
わたしを、ファドジィルに連れて行って。
さもなくば、風を熾してあげない。
[続く]
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