[カイエスブレームの翼]

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[カイエスブレームの翼] ChapterV

■お天気伯爵

湖を抱くマリエンシュタットは青の街、
それに対して砂漠を西に控えたファドジィルは赤の街、と並び称される。
両都市は離れているが、砂漠を通ってマリエンシュタットに届く品々にかかる関税を巡って、
街の黎明期の昔より、仲が悪かった。
三年前の大雨の年(アトレーユからすれば百年も昔の話だが)、
内陸の広範囲に渡って未曾有の大被害をもたらした洪水が、それに拍車をかけた。
農作物の不作への対処として砂漠の民との交易権を握るファドジィルは税を値上げ、
それに対してマリエンシュタットはじめ諸都市は猛反発、加えて昨年の秋、
ファドジィルに合併された近隣小都市のひとつが、マリエンシュタットの擁護と支援を得て
ファドジィルからの独立を試み、ファドジィル領主若きエンデ侯は武力をもってこれを平定、
他都市の干渉と介入を武装と威嚇によって拒むにあたり、
マリエンシュタット領主ロートリンゲン侯はファドジィル側に最終通告を突きつける。
両都市間の戦はもはや避けられないところにまできていた。

「そんなところへ、俺のこのカイトで飛べだって」

ファドジィルへ飛んで欲しいというユーディットの頼みを、
アトレーユは顔色を変えて断固拒絶した。無理もない。
マリエンシュタット空軍の青凧でファドジィル領内に降り立てば、たちまち連行され、
悪くすれば間諜と間違われて死刑である。
百年の隔たりがあるとはいえ、戦争前と戦争後、
マリエンシュタットとファドジィルの緊張関係は時を隔てて、
アトレーユの前に同じように立ち塞がっていた。
細部に新式の変更はあるものの、アトレーユのカイトはどこからどう見ても、
マリエンシュタット空軍の群青凧である。
百年後の世界から飛んできたなどという言い訳も彼らに通用するとは思えない。
(冗談じゃない)
この世で一番苦手なものがあるとしたら、それは女だ。
どんな無茶でも男が叶えてくれると思いこんでいる。
しかし、結局はアトレーユはユーディットを連れて、空に揚がったのだった。
このまま山に居れば凍死、さらにこの世界におけるアトレーユには
何処にも行く処がないのだから、そうする他ない。
ユーディットがやさしく歌うと、風がすうっとカイトの翼を押し上げた。
傷ついた青い翼が嬉しそうに風に泳ぎ、夕暮れの空に浮かび上がる。
森の上すれすれをカイトは飛んだ。
「君の申し出に折れたわけじゃない。
 さっき云ったとおり、俺のこのカイトではファドジィルの街には入れない」
風を呼ぶユーディットの歌は、歌というよりは、
流れるように美しい響きの重なりのように耳に聴こえた。
操縦するアトレーユは隣のユーディットに重ねて念押しした。
分かっているのかいないのか、フレームに掴まったユーディットは髪を輝かせて、
ばら色の雲の浮かぶ夕焼け空をじっと見つめていた。
顔を見るとどうしても彼女の唇を見つめてしまいそうになるので、前を向いた。
何だ、さっきのあの接吻は。
女の子とキスをしたことがないわけじゃないが、どちらかといえば今までのそれは、
アトレーユの方か、女の子の方か、どちらかが、
「仕方なく」「成り行きで」「挨拶程度に」
するものだった。
たいていそれは、公園や、酒場の裏や、マリエンシュタットの城壁沿いの並木道で、
別れ際に何となく、半ば義務的に、触れ合う程度に短く交わされるものであった。
(カイト乗りのくちびるって、荒れてるのね)
(空は風が強いから。---ごめん)
(いいのよ)
唇に薬代わりの蜂蜜を塗ってくれた女の子もいた。
しかしまさか、魔女からまじない付きの接吻をされるとは。
「どんな、おまじないなんだ」
恐々として訊ねると、「内緒」という返事だった。
ユーディットは大人しくフレームに両手をかけていたので
飛行の邪魔にはならなかったが、それでも翼の向きを変えるたびに、
吹きさらしの斜めの機体の中で身体が触れるのには閉口した。
夕日を浴びて歌うユーディットの横顔は、金色の硝子絵のように見えた。
青みを帯びた金髪をなびかせ、翡翠色の目を空にむけて歌を歌う、夕日の娘。
翼と一心同体になっているのは、自分ではなく、
その歌でもって翼を操る彼女のほうに思えた。
風を操る魔女。
「両都市間が断絶される前に、わたし、何としても、
 ファドジィルに行かなくてはならないの」
今まで聞いたどんな女の子の言葉よりもそれは強気だった。
ユーディットの金髪は黄昏の雲のように風に流れ、その目は宵の星のように輝いた。
固い決意を顔に浮かべて、フレームを握り締めたユーディットはひゅうひゅう鳴る風の中から応えた。
そしてこれは、あなたの所属するマリエンシュタット軍にもかかわりの深いことなのよ。
ファドジィルは砂漠の交易都市から、一人の魔術師を街に招いたの。

「魔術師」

ユーディットはアトレーユに頷いた。
気象を自在に操る彼は、古代カイエスブレームの魔術を受け継ぐ者、と云われているわ。
「それを聞いて、わたし、ファドジィルに行かなくてはと思ったの。
 ファドジィルはどうして魔術師を街に招いたのだと思う?
 領主のエンデ侯は魔術の類が大嫌いで、そのために魔術に近づいた
 実の妹を三年前に街より追放したほどよ。
 それなのに、地上最後の大魔術師と呼ばれている男を賓客として街に迎え入れたの。
 そして彼は砂漠の彼方からやって来た。
 この世界に、ふたたびカイエスブレームの街を復活させようとしてね」
「何だって」
天まで届く塔を。
この世の雨と風と嵐を、光と闇を、万物を自在に操る、魔術師の街を。
アトレーユは大木を避けて、風の流れに翼を合わせた。
「それは、カイエスブレームの街をもう一度、この世に建設するということなのか」
ユーディットは「そうとも云えるし、そうじゃないとも云えるわ」と、応えた。
魔術師の街カイエスブレームは一夜にして忽然と消えたと昔から云われているけれど、
でも、それは消滅したわけではないの。
あの街は、時のどこかで眠りについているの。
時が流れる川ならば、地上より消えたカイエスブレームは、ちょうど、
気球のように空に浮かんで、時間の河とは切り離されたところを
漂っていると考えてもらうといいわ。
砂漠から来た大魔術師は天候だけでなく、その時の流れさえ操れるらしいの。
彼はカイエスブレームという気球の紐をその手で引いて、
時の果てから呼び寄せたそれを、私たちの生きる今の時間の上に据えることが出来る。
魔術師がやろうとしていることはそれなの。
でもそれは、大きな混乱をこの世界に招くことだわ。
時間の流れを変えたり、無理に堰き止めたり、上流と下流を入れ替えたりすることは、
必ずや、何らかの歪みや犠牲を伴うの。
それが、水泡ほどの、どんなに小さなことであってもね。
ましてや古代の街ひとつが今の時の流れの上に落っこちてごらんなさいな、
時空全体に与える影響とその余波は、
溢れ出た時の流れが逆流したり、過去と未来が入れ替わったりするだけには留まらず、
時空そのものが氾濫を起こして、取り返しもつかないことになるかも知れないわ。
砂漠の魔術師がそれをやろうとしているのならば、何としても、阻止しなくては。
カイトが少し降下したので、ユーディットは歌を歌った。
風が翼を包んで、やわらかく二人を運ぶカイトを空に戻す。

「魔女狩りがおきて、カイエスブレームの街がそこに住む人々と共に姿を消した時、
 それをしたのは、カイエスブレームに逃れてきた大勢の魔女たちだったと云われているわ。
 高い尖塔の上に集まって、彼女たちは歌を歌った。
 その歌は、光さす、遠い彼方まで鐘の音のように響き渡ったの。
   ああ、わたしたちは、ここより永久に
   苦しみより解き放たれて、遠くへゆこう
   哀しみを終わりにしよう
   時のさざなみが静かに寄せる
   星の岸辺へとゆこう
 彼女たちは歌いながら、一人ひとり、塔から身を投げて消えていったの。
 大きな月が、白い舟のようにカイエスブレームの尖塔の上を過ぎた時、
 カイエスブレームは土塊ひとつ残さず、地上から消えていたというわ。
 残ることを決めた魔術師や魔女たちはそれを見届けた後で、世界に散った。
 その末裔が、わたしなの」

日没となって、空は紫色に暮れた。
山際に月の出を認めたアトレーユは、その方角を測って、慌てた声を上げた。
「ちょっと待ってくれ。何処へ行くつもりだ、ユーディット」
「ファドジィルよ。さっきから何度もそう云っているでしょ」
「駄目だ」
「大丈夫、見つからないように潜入出来ると思うわ。
 橇で行こうと思ったけれど、こうして空を飛ぶほうが、
 ずっと簡単で早く向こうに着くわね」
ユーディットは微笑んだ。
最初は腕が疲れて落ちてしまうのではないかと思っていたけど、
大きな羽根に包まれているみたいで、空を飛ぶのは気持ちがいいわ。
お星さまに手が届きそう。
星が雨のように降るというのは、本当なのね、アトレーユ。  
するするとカイトが傾いて、山を越え、河を超え、
青い翼は宵の空を確実にファドジィルへと向かって飛んで行く。
アトレーユはなす術もなく風を浴びていたが、やがて憤然と、
「君はいいが、俺は駄目だ」
再度の抗議を試みた。
「マリエンシュタットの人間がファドジィルに入ったら、捕まってしまう。
 しかも俺は民間人じゃなくて軍のカイト乗りだ。
 軍の機密など知らなくとも、マリエンシュタットの街や周辺の空域に詳しいというだけで、
 ファドジィル側から厳しい尋問を受けるだろう。
 味方の不利になることは出来ない。近くで君を降ろして、俺は引き返す」
アトレーユの知っているのは、百年後のマリエンシュタット軍の情報である。
過去にあたるこちらの世界では何の役にも立たないだろうが、
彼の軍人としての習性が、敵に捕まることを拒絶した。
しかもファドジィルは砂漠が近いこともあって、もっと過去に遡れば
野蛮なことで知られた街である。
串刺しにされたり、炎天下に縛られたまま放り出された捕虜の処刑方法は、
その日の食事がまずくなるくらいには、野卑で陰惨な印象をアトレーユに残していた。
相手が女の子なので、女に話せる程度にぼかしぼかし、
それをユーディットに語って聞かせた。
しかし、怖がるどころかユーディットはいっこうに平気な様子で、
「それは、大昔の話でしょ」
元気よく、さらりと流してしまった。
「いやあね、アトレーユ。わたしを怖がらせようと思って」
「え、いや。そういうわけでは」
「女の子にはもっと、夢のある素敵な話しをするものよ」
「………俺にそれを求めるな」
そして、俺の話しを聞いてくれ。
だがユーディットはうっとりと夜空に目を上げて、この星をすべて集めて、
銀糸の糸で綴ったら、素晴らしい天の河のタペストリが出来ることよ、と、
いつかどこで悪友の誰かが口にしたようなことを、隣の朴念仁に変わって、
じゅうぶんに夢みる口調で補ってくれた。
「特にこんなにもきれいな星空ですもの。そうよ、きっと、砂漠の魔術師なら、
 その魔術をもって、恋人に星のドレスや、極光の花束を仕立ててくれるわ。
 虹色の星々を砂糖でかためて金平糖にして、
 月の陶器のお皿に、かつんこつんと星が澄んだ音を立てて鳴るように、散りばめてくれるわ。
 蒼い月光の差す雲のお城に色とりどりの南国の魚を泳がせることだって、
 乾いた砂漠を一瞬で海原や大河に変えることだって、、
 真昼の太陽を何日にも渡って黒く翳らすことだって、大魔術師の彼には出来るのよ、
 ファドジィルでもそれはそれは素晴らしい家をお持ちになったそうよ」
「その、砂漠の魔術師というのは、いったい」
まだまだ続きそうなユーディットの、そしてアトレーユには理解不能の、うわ言を遮るべく、
果敢にもアトレーユは口を挟んだ。
「普段は砂漠の中の、霧の孤城に住んでいるの」
夢想を遮られたユーディットは、渋々口調をあらためて、現実に戻って来た。
「ファドジィルに招き入れられた彼は、お天気伯爵と呼ばれているわ」
「お天気伯爵」
ふざけた名前もあったものだ。しかし、
フレームを握り締めたユーディットの顔は深刻で、真剣そのものだった。

「砂漠の民が水が欲しいと云えば、雨を降らせ、
 畑の作物に日光が足りなければ、お日様を雲より現してみせる。
 だから、そんな綽名がついたらしいの。
 お天気伯爵は気まぐれに使うその魔術のお陰で、大変に崇められているそうよ。
 でも、本当はそんなことをやってはいけないのよ」

詳しくは語れないけれど、わたしたちの魔術の力は、いわば、錯覚の力なの。
たとえば不治の病で寝たきりになった人に、あなたの病気は治りましたと囁くだけで、
病の人が元気に起き上がって働き出すことがあるでしょう。
でもそれは、病そのものが快癒したわけでも、根絶されたわけではいないの。
「目を閉じると、何も見えなくなるわね。
 目隠しをした人に、あなたは今、壁の前にいると
 誰かが云い聞かせると、そう信じてしまうわ。
 本当は階段の前に立っているかも知れないのに、
 その人にとっては、壁の前なのよ。
 魔術師の作用力とは、それに似ているの」
ファドジィルは彼のその力を、対マリエンシュタットとの戦に備えて軍事利用するために、
禁忌のその力と取引をして、お天気伯爵を街の中に迎え入れたの、と
ユーディットは顔を曇らせた。
エンデ侯はまだお若いけれど、英明な君主よ。
近代的なその頭脳が毛嫌いして退けていた魔術を、その利用価値を認めるや否や、
迎合へと切り替えたようにね。
「エンデ侯はお天気伯爵にこう約束したの。
 マリエンシュタットとの戦において、その偉大な力を勝利のためにファドジィルに
 貸してくれるのならば、カイエスブレームを降臨させる土地を永久領土として提供しよう、と。
 魔術が戦に利用されたことは過去にもあったわ。
 その代わり、彼らはみな、魔術の掟に反する者として、
 黒魔術師の烙印を捺された上で、仲間の魔術師たちからの処罰を受けた。
 でも、お天気伯爵は、地上最後の大魔術師と云われているほどの力の持ち主よ。
 もしかしたらそれすらも、彼は怖くはないのかも知れない」
「それで君はどうやって、お天気伯爵とやらを説得するつもりなんだ」
「分からない」
フレームを握るその細い手に、覚悟のような力がこもった。
それでもなぜか、ユーディットは落ち着いていた。
星空の下、カイトの翼が傾斜した。
翼が風を欲しがっているわ。歌うわね。


カイトに夜間飛行は厳禁とされているが、それは不慣れな者の話で、
飛行回数を重ね、軍で専門の訓練を受けた者になると、
夜空が晴れてさえいれば星座から方角を割り出して、迷うことなく
目的地へと飛ぶことが出来る。
危険なのはむしろ高度を落とした時だ。
木々や高い塔など、地上の思わぬ遮蔽物に、暗闇の中で激突する危険性がある上、
また地上も安全ではなく、夜間の離着陸は、常に細心の注意を必要とした。
前方に、ファドジィルの街灯りが見えてきた。
着陸するのならば、そろそろ、街にあまり近くないこのあたりで
安全な場所を選び、目立たぬように降りなければならない。
「ところで、降りる時にはどうするの?」
ユーディットが訊ねた。
素朴なその問いに対する答えを、アトレーユは用意していなかった。
まさか今日やったようにもう一度ユーディットを突き飛ばして先に降ろすわけにはいかない。
雪山と違い、ここには彼女を無事に受け止めてくれる積雪もない。
怪我を覚悟の上で、二人で降りるしかない。
しかし、何しろアトレーユはまともな降り方を普段しつけていないせいで、
対地速度を測った上での有人機体の停止技術には心得が不足だった。
しかも二人である。
いつものようにアトレーユから先に飛び降り、旋回してくる凧を空中で受け止めるならば、
女の子一人分の重力分、前進力を増して滑って来るカイトを受け損ね、
制御を失った凧をユーディットごと墜落させる可能性があった。
転倒を覚悟で、限界まで速度と高度を落とし、このまま機体ごと突っ込むしかないが、
ユーディットの歌の力をあてにして、アトレーユはカイトの速度を徐々に落とし、
二人分の重さを考慮に入れながら着陸に相応しい場所を探した。
月光を頼りに暗い地上を見渡すと、地表はまばらに樹木の生えた荒野である。
ところどころに岩がある。
その岩が、突然、炎を噴き上げるのを見て、アトレーユはカイトの機首を大きく逸らした。
「アトレーユ」
「罠だ!」
まるで、最初からマリエンシュタット空軍の青凧がここに来ると知っていたかのように、
細長い滑走路が闇の中、松明の火でかたちづくられて、忽然と地表に出現したのだった。
空から見るそれは炎の並木道に見えた。
そしてその松明の火が導く道の先は、まっすぐに、ファドジィルの城壁だった。
赤々と夜空を照らし出す松明の向こうに、その外壁と塔が見えた。
迂回しようとしたアトレーユのカイトは、その時、
見えない鎖に絡め取られたような固く強い静止を見せて、高度をぐんと下げはじめた。
強い力で引き寄せられるままに、凧は松明の滑走路へ向けて、影絵の鳥のように降りていく。
地上が近づくにつれて松明の陰に潜んで待ち構えている兵士らの姿も上から目視出来た。
このままでは捕縛される。
「アトレーユ!」
アトレーユは片腕をフレームから離すと、ユーディットを身体の下に抱きこんだ。
「しっかり掴まっててくれ」、アトレーユは叫んだ。
これを逃れ得ずして、何がマリエンシュタット空軍の飛行士か。
捕縛が怖いのではない。
二人乗りの不安定なカイトでこのままあの炎の中に突進していくと、
松明を薙ぎ倒す可能性があり、人身事故と火災の危険があったからだ。
何かの不可視力に牽引されているカイトの、その僅かな緩みの時をつかんで、
アトレーユはカイトをその力から引き離した。
反射的な技巧でアトレーユが振り切った翼は、それまでかかっていた引力ごと、
夜空に跳ね飛ばされて吹っ飛んだ。
松明の赤い光と兵士の黒い影が林のように交錯して行き過ぎ、斜めに飛んで消えた。
青い翼が覆いかぶさった。
星が消え、大地の匂いがした。
悲鳴を上げるユーディットを頭から抱えた。
翼が落ちる。
機体が持ち上がり、縦になって転覆しかかる。
アトレーユは重心を傾け、それを立て直したが、その加重作用で今度はぐるりと横に回って、
カイトは一度ふわっと浮いた後、近くの大樹に片羽根から激突した。
運が良かったというべきであろう。
係っていた力が分散したお陰で衝突の衝撃は少なく、木々の枝葉が緩衝材となった。
ユーディットを抱えたまま、アトレーユは機体の外に放り出された。
木の根で胸を打ち、息が詰まる。
身動きもままならず、倒れ臥していると、こちらへと駆けつける大勢の足音がした。
松明の明かりが真昼のように二人を押し包み、その光を頼りに、
アトレーユは顔を上げて機を求めた。
カイトは片羽根が無残に折れたかたちで、樹の枝からぶら下がっていた。
言葉もなく放心して転がっていると、取り囲んでいる兵士の輪が開いて、
「何とも、無謀な風使いもいたものだねえ」
背の高い人影がアトレーユの前に現れた。
鷹揚で、品のあるふくよかな男の声だった。

「せっかくわたしが風の道を開き、
 道標の明かりを灯してお迎えして差し上げたというのに、
 風使いの意地をみせて自力で着地してみせたというわけかな」

まず目に入ったのは、男の品のいい顔と、ユーディットと同じ翡翠色をしたその目だった。
「あのまま静かに、わたしが招くままに飛んでいれば、
 砂埃ひとつ立てずして、君たちは無事に着陸できたものを」
知るか、そんなこと。
アトレーユは身を起こして、ユーディットを片腕に抱いたまま男を睨み付けた。
男は気にした風もなく、樹に引っかかったままのアトレーユのカイトを
痛ましそうに見上げた。
「二人乗りで空から墜ちれば、即死もあり得たであろうに、腕のいい風使いだ。
 それにしても、女の子を巻き込み、凧を破損させたのは感心しないね。
 風使いの意地と矜持も、時と場合をわきまえて、ほどほどにするといいよ。
 今回はたまたまこれで済んだが、着陸に失敗すれば、
 折れた凧の骨が突き刺さって、大怪我を負うことだってあるのだからね」
「あんた、誰だ」
気絶したユーディットを抱いたまま、アトレーユは身構えた。
ゆらぐ松明の灯りと熱を浴びて輝く、きらびやかな衣装が見えた。
洗練された飾り帯を腰に巻き、宝石つきの靴を履いて、
大昔の貴人のように、伸ばした金髪を後ろで束ねた、堂々たる男だった。
貴人は香水を浸み込ませたハンカチを取り出すと、
「娘さんの汚れた顔を拭ってあげなさい、その娘さんは、魔女だね」
アトレーユにそのハンカチを差し出した。
金髪をくしゃくしゃに乱して、ユーディットは壊れた人形のように首を傾け、
気を失ったままアトレーユの腕の中で目を閉じていた。
「俺たちをどうするつもりだ」
「そう噛み付くものではないよ」
貴人は嘆かわしそうに首を振った。
青い凧がこちらに向かって飛んでいることは、わたしの友だちの鳥たちから聞いて知っていた。
だからあのように歓迎の準備を整えて待つことが出来たのだ。
わたしの一存で、マリエンシュタットの人であろうと魔女であろうと、
君たちのことはわたしの客人として遇するように、ファドジィル側には申し付けてある。
「だから、わたしに向けているその銃をしまってはくれまいかな。
 伝説のヴィルトに似た、黒髪の風使いよ」
安心したまえ、君のあの青い凧も、ちゃんと元通りに直してあげよう。
貴人がその手を掲げると、カイトは瀕死の獣が立ち上がるように、
枝葉の間からその機体をもたげ、ゆるやかな風を引きながら、ゆっくりと地上へと滑り落ちてきた。
貴人が指し示した処へと、それはまるで、夜空の切れ端のように、
音もなくやわらかな夜露の草地へと導かれ、壊れれた機体をそこにそっと休めて、横たわった。
「やめてくれ!」
アトレーユは叫んだ。
「何をする、それは、俺の翼だ」
立ち上がり、よろめきながら気違いじみて掴みかかってきたアトレーユを、
「君だって怪我をしているのだ、無茶はいけない」
抱きとめるように軽く押しのけて、貴人はいとおしそうにその目を細めた。
君は、本物の風使いだ。その目を見れば分かる。
もう永らく、君のような風使いに逢わなかった。
君は知っているかな。
風使いは地上の理ではなく、空の虚空に心を預けし者が、選ばれるのだよ。
「カイエス、空を飛ぶ。青き翼、いとはるかなる、星の岸辺へ」
大昔、そう、カイエスブレームの街に風使いヴィルトがいた時代よりも、もっと古くから、
この歌は彼らのために、捧げられてきたのだ。
松明の灯りと影の中で貴人は名乗った。
わたしは、砂漠の魔術師、バルトロメオ。
もっとも、お天気伯爵と、人は呼ぶがね。




[続く]


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