[カイエスブレームの翼] ChapterW
■ロマンス
柱で支えられた吹き抜けの屋上からは、青空が見えた。
鳥の影が。
季節によれば砂漠から砂を運んで吹く風でファドジィルの空は赤く染まるというが、
春を待つこの時期には、空はまだ青く、雲の色も白く、冷たいばかりだった。
二層式の屋根の円蓋には、内側一面に、古代様式を模した絵が描かれていた。
よく見れば、古い時代の街や山河の地図になっていた。
わざと稚拙に描かれたその絵の中に、筆が滑って出来たような青い彗星が一筋、
採光窓の近くを流れていた。
それは空を飛ぶ凧だった。
風使いの翼。
屋上の階段を誰かが上って来る。
軽やかなその足取りで、振り返るまでもなく誰なのか分かった。
「ここにいたの、アトレーユ」
現れたユーディットは呆れたように、天井画を見上げているアトレーユの隣に並んだ。
柱の間から差し込む光に、髪飾りをつけたその髪が淡く輝いた。
アトレーユの顔を覗き込んで、ユーディットはその腕に手をかけた。
「そんなに毎日、屋上にばかりいるものじゃないわ。
少しは街を歩いて、気晴らしでもしましょうよ」
ファドジィルの貴婦人たちがまとう色鮮やかな衣装を身に着けたユーディットは、
見違えるようだった。瞳の色と同じ翡翠色の、そのすっきりとした装いの細腰には、
金刺繍の飾り帯が結び目から長く端を垂らして結ばれ、
幾重にも花びらのように重なって揺れる長裾は、
ユーディットが歩くたびに薄影をつくって、さらさらと揺れた。
舞踏会用の赤い靴を除けば、ユーディットを飾る耳飾りも腕飾りも、
すべて、お天気伯爵からの贈り物だった。
それを見るたびに、アトレーユは面白くない。
肌身に身につけるものは男からもらわない主義じゃなかったのか。
友人マティアスの忠告が耳によみがえる。
(女に純情を期待しても無駄だぜ)
俺からの襟巻きは受け取らなかったくせに。
「何を見てたの」
「空を」
ぼそっとアトレーユは応えた。
ファドジィル領内に新築されたお天気伯爵こと魔術師バルトロメオの屋敷に
二人が迎え入れられてから、五日が経っていた。
カイトで不時着した時に気絶したユーディットが負った怪我は擦り傷程度であったが、
お天気伯爵によれば、ユーディットの気絶は墜落のためばかりではなく、
その歌でファドジィルまでカイトを運んで来るのに、魔力を使い尽くしてしまったからなのだそうだ。
秘薬を処方されたお陰か、次の日には元気を取り戻していたが、
それでもユーディットの腕にはまだ怪我の痕が残っており、
それを眼にするたびにアトレーユは負い目を感じて、何となく不機嫌になるのだった。
飛行中の事故は、いかなる理由であれ、己の責任である。
アトレーユの方も今朝ようやく、額を覆っていた包帯が取れたところであった。
そんなアトレーユに、もう一度、ユーディットは明るく話しかけてきた。
「街に遊びに行かない?」
行かない、素っ気無くアトレーユは断った。
それだけではさすがに冷たいと思って、付け加えた。
「今は戦争中だ。君と違って俺が街に出たら、マリエンシュタットの人間だとひと目で分かって、
ここの連中から袋叩きの目に遭ってしまう」
「いつまでもそんな空軍の飛行服を着ているからよ。
伯爵があなたにも素敵な服を用意して下さったというのに」
「ファドジィルの服などいらない」
仏頂面のアトレーユには構わずに、ユーディットは屋上のあずまやを歩き出した。
お天気伯爵バルトロメオの住居は、ファドジィルの一等地である高台に
エンデ候から広大な敷地を与えられて、そこに壮麗に構えられていた。
地所内には幾つもの庭園があり、東西諸国の珍しい花を集めた花園があり、
硝子の温室があり、水の青く澄んだ小川と、噴水があった。
砂漠にしか咲かないという芳香豊かな花々が毎日、床にばら撒かれて、
そこを踏んで歩くと、部屋の特色に合わせたその花の香りが、涼しい香気を放った。
そして床に敷かれたその花々は、人がそこを通った後には、
いつの間にかすべて新鮮なものに入れ替わっているのだった。
何よりも愕くことには、屋敷を含めたこの敷地全体は、空中に浮いていた。
地上よりほんの僅かに、しかし紛うことなき大地との乖離を見せて、
バルトロメオ伯爵の住まう処は、空中に停止した模型のように、地上から浮いているのだった。
何でも、エンデ侯が贈与したファドジィルの街中の土地を受け取るにあたって、
バルトロメオ伯爵は、好みに応じた改装の自由をその条件としたそうだ。
一夜にして現れた屋敷と空中庭園の絢爛さに、ファドジィルの人々は度肝を抜かれた。
砂嵐の日であっても屋敷周りのそこだけは上空の雲が晴れて青空が広がり、
かと思えば、街が晴れているのに、屋敷の周囲だけは
地面の下から雪や雨が空に向かって逆に落ちていく逆現象を見せており、
夜ともなれば、三日月の夜であっても、満月の光が、屋敷を照らしつけていた。
花木の庭には春夏秋冬の小鳥の影が飛び交って、めいめいのその歌声で、
うっすらとしたこだまを響かせて鳴いており、どこからどう水を引き込んだのか皆目分からぬ
人口の川には、北極海にしか見受けられない魚までもが悠々と泳いでいた。
それらの怪奇現象は、お天気伯爵の魔術の力を目に見えてまざまざと
ファドジィルの住人に知らしめることになった。
支柱もなく空中に浮く敷地の、それではその下はどうなっているのかと覗き込むと、
そこには白い、もやもやとした霧の塊が果てしの無い海のように広がっているだけで、
ためしに飼い猫をそこに放ってみた者は、家に帰ると、確かに飼い猫のものであるところの
首輪をつけた巨大な鱗魚が玄関から飛び出て来るのに出くわし、腕を噛まれた。
霧の渦巻きの上にお天気伯爵の家は浮かんでおり、
四季を問わぬ美しい花々が、そこに絶えることなく、咲き誇っているのだった。
「収監ではなく、客人として、君たちを我が家にお迎えいたそう」
屋敷に招くにあたり、お天気伯爵はそう確約した。
アトレーユたちがファドジィルにカイトで不時着したまさにその日、
マリエンシュタット使節団はファドジィルからの退去を命じられ、
その後百年も敵対関係の続く、最初の交戦に突入していたのだが、
アトレーユとユーディットがそれを知らされたのは、ファドジィル入りの翌朝だった。
庭にひろげた昼食の席で、開戦の旨を告げた伯爵は、
打ち沈んだ二人を前にして、品のいいその顔に薄い笑みを浮かべた。
樹木からこぼれる木漏れ日がたくさんの珍しい料理を並べた卓上に
やわらかな影を作っていた。
「ファドジィル領主エンデ侯は、若くして、なかなかのやり手だ。
砂漠から招いたわたしを街の中に取り込んでおきながら、
わたしを手元に温存したままで、
まずは最初のカードをマリエンシュタットに切ってみせたというわけだね。
嵐を起こし、マリエンシュタット軍を壊滅させることも可能なわたしの力は同時に、
ファドジィル側にも同じ牙を向けることだってあることを、彼は知っている。
そう、わたしは、大地に霜をおき、雹を降らせ、全ての畑を台無しにすることだって出来る。
気象を操り、日照りを続かせ、野を枯れ果てさせることも出来る。
しかし、魔術師ふぜいの力を借りなくても、戦は出来る。
エンデ候はわたしにあまり借りを作らぬよう、まずはそれを見せておきたいのだろう。
カイエスブレームの魔術師も、当世、安く見られたものだ」
「それでは、伯爵」
ユーディットは希望を見出して訊いた。
「マリエンシュタットとの戦に、その魔術をもって、ファドジィルの力添えをするおつもりはないと」
「さあ、それはどうかな」
茶器を取り上げたバルトロメオ伯爵は、二人の茶碗に温かなお茶をそそいだ。
硝子の器の中で赤い華の咲く、甘い味のするお茶だった。
わたしはエンデ候との約束は守らなければならない。
契約相手がたとえ王侯貴族であっても、下民や奴隷との間に結ばれたものであっても、
それが罪であっても正義であっても、
魔術師の交わす契約とは、羊皮紙に焔の文字で書き込まれた、神聖不可侵なもの。
自分にとって不利であろうとなかろうと、魔術師である限りは、
その契約を履行しなければならない。
エンデ侯が戦への協力を要請をするならば、
その時にはやはり、わたしは魔術師の掟に従って、
マリエンシュタットを一撃の下に瓦礫の山と変え、彼らを湖の底に沈めるだろう。
さもなくばこの世の誰が、人智を超える力を持った我ら魔術師に、その行動の枷をはめるというのだ。
この世の誰にも、何が正しくて何が悪いのかなど、決められはしないというのに。
「人を突き飛ばし、人の頭を土足で踏みにじり、
我意をうるさく喚き立て、卑しい笑顔で陰湿な中傷に励み、
何食わぬ顔で出しゃばる無恥の者こそ、もっとも得をし、倖せになるのだよ」
何かを云いかけたアトレーユとユーディットを制して、
「かといって契約を反故にしてもいっこうに差し支えはない」
くすくすとお天気伯爵は笑った。
「罪を糾弾するべきその口を、そっと控えめに閉ざす者こそ、
自己満足的な清廉と忍従という面からは、
この世の誰よりも短命で、倖せであるのかも知れないのだからね」
ちょうど、エンデ侯にまんまと虚仮にされた、今のわたしのようにね。
豪奢な衣装を身に着けた砂漠の魔術師バルトロメオは、様子良く片肘をつき、
後ろで束ねたその金髪を王冠のように輝かせ、
ユーディットと同じ翡翠色をしたその眼を愉快そうに細めた。
おや、それともこれは、
最初からそのような契約はなかった、そんな魔術だったかも知れないね。
エンデ候やファドジィルの人々が見た、罪の無い幻かも知れない、
一夜にして全て忘れてしまう、冬の夢のようなね。
カイエスブレームの復活が叶うのであれば、ファドジィルでもマリエンシュタットでも、
わたしにとっては同じこと。
力を貸すのはどちらにしようか、のんびりと、決めることにしてもいい。
どちらにせよ、古代カイエスブレームの魔術を受け継ぐ、最後の魔術師としての、
わたしの誇りが最終的にそれを決めることだろう。
お天気伯爵はにっこりと笑った。
さて、どちらの味方につこうかな?
「伯爵は、信用できない」
「魔術師だもの、当然でしょ」
魔女であるユーディットはお天気伯爵の日和見的な態度をあっさりと認めた。
アトレーユが、実は俺は百年後の世界から、行方不明になった友軍機の捜索のために
カイトで空を飛んでいたんだ、俺は百年後の人間で、
マリエンシュタットとファドジィルは百年後も険悪で、戦が近いんだ、などと、
しどろもどろに拙い説明をした時にも、
ユーディットは少し眉を寄せて顔を曇らせただけで、
「だから、あなたの銃やカイトの形、少し変わっているのね」
そう云って、何にも疑問には思わずに、そのまま信じてしまったほどだった。
屋上にも庭園が設えられており、ユーディットは日の当るそちらへと出て行った。
二層式のあずまやの天蓋には、風使いの青い凧の他にも、
天界を渡るあらゆるものが描かれていた。
鳥、星、月、雲、虹、そしてアトレーユの見たこともない金属製の、星の海を渡る舟。
舟には男の影があり、地上の城には女の影があった。
どのような仕掛けかは分からぬが、天体の運行に合わせてゆっくりと空の色が変わり、
星が回っているその絵の中で、
星空を過ぎる舟の中から男は女に手を差し伸べ、女もまた、舟の男に向けて、
その腕を宇宙に差し伸べ、互いを求め、永遠の愛を呼び合っては、すれ違っていった。
アトレーユがそれを見上げていると、
「見て」、戻って来たユーディットがアトレーユの眼の前に手を掲げて見せた。
左の中指に、指環があった。
ユーディットは指環をはめた左手をアトレーユの前にひらつかせた。
「お天気伯爵に頂いたの。
これは世界を変える、或る力を秘めた指環なのですって」
指環の煌きはユーディットの顔を赤く照らして、ちらちらと繊細に輝いた。
「でも、これは本物の宝石だけど、新しく作らせた複製だそうよ。
本物の指環は、失われてしまったそうなの」
お愛想的にユーディットの指環に目を走らせたアトレーユは、
ふと、同じものを持っていることに気がついた。
飛行服の胸に手をおく。
老女から遺贈された、全く同じ指環がお守りとしてそこにある。
宝石の裏にファドジィルの紋章が刻まれていることを除けば、
かたちも色も、ユーディットの手にあるものと、そっくりだった。
マリエンシュタット空軍に在籍している間、アトレーユはあらぬ疑いがかかることを怖れて、
ファドジィルの紋章がついたその指環を常に首からかけて携えていたが、
島の養老院にいた老女から遺言でもらった紋章つきの指環、これも、
もしかしたら何かの魔力をもった指環なのだろうか。
さり気なくユーディットに訊ねてみた。
「どんな力」
すると、あろうことかユーディットは頬をうっすらと染め、
お天気伯爵にもらった指環に顔を近寄せると、
悩ましげな小さなため息までついて、指環の輝きをじっと見つめるではないか。
もちろん決まってるわ、というのが、ややあって得た、その応えであった。
声までもぽうっと赤く染まったような様子で、ユーディットはうっとりと呟いた。
「恋の力よ」
「恋………」
「お天気伯爵は、失くした恋をずっと探していらっしゃるのですって」
そしてこの指輪は、その恋人が持っていた指環を、
二人の想い出のよすがになるようにと、細部まで忠実に再現して、
同じものを作らせたそうなの。
ユーディットは、指環に囁くようにして、その夢見る瞳を伏せた。
「でもその恋はもう、時の彼方へと過ぎ去ってしまった。
それで伯爵は、今までずっと大切に持っていたこの指環を、わたしに譲って下さったの。
素敵なのよ、まるで騎士が貴婦人に愛を乞うように、わたしの前に片膝をついて、
伯爵はこれをわたしの指にはめて下さるの。
あんなにも風采のご立派な方が、とてもいい声で、そして少し寂しそうなご様子で、
『もう二度と逢えない女人を懐かしむために、これを大切に持っていた。
そこへ、あなたがやって来たのだ、ユーディット。
どうか、これを受け取ってくれたまえ』
なんて仰るのだもの、もらい泣きしそうになったわ。
きっと昔、愛した方にも、伯爵はそうやって、その方の手を取り、
狂おしいまでの愛をその方に告げたのに違いないわ」
面倒くさ。
アトレーユは踵を返した。
「何処に行くの、アトレーユ」
「散歩」
「その格好のままで?危ないわ」
二層式の屋根の最上階へと上る階段から、アトレーユは振り返った。
「魔女のいない処へ行きたいんだ」
ついでに、その指環の見えないところに行きたい。
女がひかり物に弱いってのは、本当だな、マティアス。
階段を駆け上がる。
街を一望する屋根の端には、カイトが繋留してある。
円柱の間から外に出て、柱からカイトの綱を解く。
最低限の部品を提供してもらった後は、この五日間、アトレーユは
付きっ切りで壊れたカイトを自分の手で修理した。
故郷の島では自分でカイトを作った。
老朽船から帆をもらい、木を削り、リリエンタールとかいう大昔の初代カイト乗りの作った
翼型の模型を参考にしながら、昼も夜もなく、誰とも口を利かず、
納屋に閉じこもってカイト作りに没頭した。
カイトの骨だけはバルトロメオ伯爵の口利きでファドジィル軍から横流ししてもらったが、
青い翼の方は、市場から買って来た染料と、屋敷の庭に咲く花の汁を
煮詰めたもので、ユーディットが適した布の切れ端を青く染め変えてくれた。
あて布を当てて、針と糸を持ち、翼の修繕も自分でやった。島でもそうしていた。
あの子は気が狂ったに違いないと云われたものだ。
海際の崖に行くとあの子がおかしな真似をしているのが見えるよ、
金にもならない無駄なことを、と汚い声で罵声を浴びた。
誰に分かるだろう、空を飛びたい、この気持ちを。
誰になら、この透明な焦燥を、そのままに分かってもらえるのだろう。
笑わなかったのは、養老院にいた老女メルセデスだけだった。
青い翼が広がり、風に震える。
空を飛びたいと、震えている。
アトレーユはカイトを持ち上げて、フレームに姿勢を整えた。
屋上からはファドジィルの街が見渡せる。砂漠と山脈が、遠く望める。
アトレーユの知る、軍の中で資料として見たことのある百年後のファドジィルの街並みとは
若干の違いはありはしても、砂漠からの風を避けた、低い建物が続く様子には変わりない。
百年前の空を飛ぶのだと思うとおかしな感じがしたが、
そんなアトレーユの迷いを青く澄み切らせるほどに、空はいつもの空だった。
空だけは、いつも変わらない。
冷たく広く、冴え冴えとして、何もごまかせない。
それを見上げているうちに、切れるほどに心が清んでくる、
傷むほどに何かを求めて、強い気持ちが湧き上がってくる、
思うさま、あの空の青へと駆け上がり、解き放ちたい。
外べりに脚をかけて、アトレーユは強い向かい風が吹いてくるのを待った。
手作りのカイトを背負って丘を駆け下る少年を、養老院から見つめていたメルセデス。
歌を歌っていた。
少年のために風を招いて、少年が海に落ちることのないように、いつも見ていた。
何も云わずに、少年のカイトを空に揚げてくれていた、年老いた魔女。
すべらかに、ファドジィルの空にカイトが滑り出す。
最適の風を捉まえた翼が透き通る青い影を引いて快く浮き立つ。
翼が風の流れへと走り出す。
屋根の柱に手をかけて、ユーディットが歌を歌っている。
飛び立つカイトからアトレーユが振り返ると、ユーディットは微笑んで手を振った。
「いってらっしゃい」
カイトが大空に舞い上がり、見送るユーディットの姿は、たちまち小さくなった。
お天気伯爵は、ファドジィル空域での飛行の自由についても、
領主エンデ侯の勅裁による認可状をアトレーユの為にとってくれていた。
だが、もちろん、それで無礼講というわけにはいかないようだった。
上空に揚がったアトレーユはすぐに、後方から追いかけてくるファドジィル軍の
赤いカイトに気がついた。
アトレーユの情報は行渡っていると見えて、乗り手を確認するために一度こちらの周囲を
回った赤いカイトは、アトレーユを認めると、そのまま速やかに後方へと下がった。
尾行の赤凧は一機のみで、牽制と監視以上の行為は起こさない様子だが、
それにしても互いがうっとうしいことには変わりない。
自軍が守る街の上をマリエンシュタットの青凧が飛ぶのは連中にとっても業腹ものであろうから、
余計な刺激を避けてアトレーユは街の外に出ることにして、砂漠へと向かった。
砂漠といっても砂丘ではない。
ファドジィル周辺を囲むのは、潅木と岩のばらつく、土の赤い、乾いた荒野である。
外に出たアトレーユに続いて、ファドジィル空軍の監視カイトも付いてきた。
飛行中の会話は困難ではあるが、無理ではない。
自己顕示欲の強い腕自慢なら、アトレーユの機の前をわざと横切ったり、常に前へと出てきたり、
無駄な見せびらかしと挑発行為を繰り返すところであるが、
何となくその飛び方に、粗雑ながらも利口なものを感じて、敵機ながらも、
アトレーユは好感を持った。
たかが風に泳ぐカイトであっても、乗り手の性格は如実に顕れるものなのである。
それは実人物の表層的なものとは関係のないところで、風とカイトが暴露するものだった。
悪友マティアスに云わせれば、アトレーユの飛び方は、それを端的に一言で表すならば、
「闇討ち」
ということになるらしい。基地の仲間は腹を抱えて爆笑したものの、
アトレーユには釈然としないところであった。
緩やかな円を描いて飛びながら、言葉を交わす。
ファドジィルの赤凧はすいと接近してくると、話しかけてきた。
「気晴らしか、マリエンシュタットから来た、ヴィルト殿」
「アトレーユだ」
「青いカイトで空から来た黒髪の風使い。こっちじゃみんなそう噂してるぜ。
カイエスブレームの風使いの再来だってな」
赤カイトの乗り手はそこで、親指を下に向けた。
地上で話そうというのである。
銃を携帯して来なかったことに気がついて僅かに躊躇したが、アトレーユはそれに乗った。
理屈ではなく、相手の飛び方が気に入ったからだ。
それに、マティアスや仲間の笑顔を思い出したせいで、カイト乗りの連中がむしょうに恋しかった。
「ルキノだ」
並んで着陸した赤いカイトの乗り手は、そう名乗った。
赤毛に口ひげを生やした同じ年頃の青年だった。
ルキノは率直にアトレーユを讃えた。
「着地を拝見。本当にヴィルトみたいだな」
アトレーユにとっては慣れっこの賛辞ではあったが、あまり嬉しくはない。
風使いヴィルトの逸話にはあやしげなものが多くて、大方は後世の創り話だろうが、
どうやらあちこちの街を渡って過ごしていた風使いらしく、
どこの街に行っても、今にいたるまでカイエスブレームの風使いは有名人であった。
ヴィルトは一人ではなく、もしかしたら同名の者が大勢いたか、世襲制の名か、或いは、
魔法を使って飛んでいた者の総称かも知れないと唱える学者もいる。
どちらにせよ、アトレーユには魔法は使えない。
ただその飛行と着陸の技を見て、人はいにしえを偲ぶのだ。
まるで昔の空は今よりも青く、星の底はもっと深かったとでもいうように。
ルキノはお喋りな男ではなかった。
それもアトレーユの意に適った。
己を知らない者ほど卑屈に相手を妬んだり、上手に出ようと躍起になるが、
先ほどの賛辞を見ても、正直で、賢い男であることが分かった。
どことなくマティアスに似ていたからかも知れない。
互いに無言のまま、煙草と酒を交換し、木陰に座ってしばらく黙って大空を見ていた。
春がまだ浅いといっても、マリエンシュタットよりは南に位置するせいか、
日差しは温かく、木々も緑をつけていた。
空に紫の煙を吐いて、ルキノは笑いかけた。
「変わった味だな」
百年後の煙草だとはまさか云えないので、「マリエンシュタットのものだ」とだけ応えた。
「今日は女の子は一緒じゃないのか」
「置いてきた」
ルキノは酒を一口飲み干すと、アトレーユに酒瓶を投げ、アトレーユはそれを受け取った。
俺、あんた達がファドジィル郊外に落ちたあの夜、あの場にいたんだ。
見てたぜ、あんたがすごい操縦を見せて、二人乗りのカイトを急旋回させたところ。
松明の明かりの中で、空飛ぶ獣みたいに、俺の頭の上を過ぎていった。
女の子を抱いたまま、樹に引っかかった凧からあんた達が落ちて来た時、
最初に駆けつけたのは俺なんだ。
壊れたカイトを見上げていたあんたの目が忘れられない。
良かったな、また元通りに飛べるまでに、翼を直せたみたいで。
片目をつぶってみせたルキノは、砂色の軍服の前を開き、すっかりと寛いでいた。
赤いカイトと青いカイトは、翼を広げて、草地に並んでいた。
地平の彼方には雪の山脈がうっすらと見えた。
ルキノのために、アトレーユは短く、一応は訊いておいた。
「監視役だろう」
「まあ、そうだ。だけど今はただのカイト乗りの休憩だ」
空を飛ぶ者特有の気安さで、あっさりとルキノはそれで通してしまった。
続けてルキノは打ち明けた。
「それに、俺はエンデ侯とは縁戚関係なんだ。だから多少の逸脱は大目にみてもらえる」
気になると見えて、ルキノの関心はもう一度、ユーディットの上に戻って来た。
「あの女の子は魔女だって?」
「ああ」
「そうか。なら、惜しいな」
アトレーユの横で、ルキノは腕を頭の後ろに回して、つまらなさそうに樹にもたれた。
魔女なら、惜しいな。
知ってるか、アトレーユ。
「魔術師が、このたびのマリエンシュタット戦に協力するというのは建前で、
お天気伯爵は、魔女の花嫁を探すために、
砂漠の孤城からファドジィルの人里に降りて来たって話しさ」
カイエスブレームの消失後、魔女はその数が激減して、今では稀少価値だ。
中世の魔女狩り以降、へたに魔女と結ばれて異端者の烙印を捺されてはかなわないというので、
魔女や魔女と婚姻する者は今でも偏見をもって見られていることからもそれは明らかだ。
濡れ衣を着せられて火炙りになることこそ現代ではないものの、
何らかのかたちで迫害を受けて、彼女たちは今も苦労をしているはずだぜ。
魔術師と魔女なら、お似合いだ。
おおかた、お天気伯爵はあの子を奥方として迎えたいのさ。
相手が魔術師なら、俺たちには、勝ち目はないからな。
「まあ、がっかりするなよアトレーユ。
ファドジィルにだって、かわいい女の子はたくさんいるぜ。
国交が断絶された以上、
戦争が終わるまでは、あんたはマリエンシュタットには帰れないんだ。
こっちで暮らすほかないんだから、その間は楽しくやればいい」
勝手に一人決めして、ルキノは身を起こした。
「いい子を紹介してやる。どんな子がいい」
「伯爵には、恋人が」
ぽつんとアトレーユはこぼした。
「彼には、探している恋人がいるんじゃないのか」
「ああ、そのことか」
ルキノは口ひげをつまんで、二三度またたきをし、肩をすくめた。
「何だかそういう話だな。でも、それはもう、三年も前の話だ。
それに、その恋人は、伯爵の前から姿を消して、もうこの世の人ではないというぞ」
あまりそのあたりのことを、伯爵に根掘り葉掘り訊ねたりするなよ、アトレーユ。
何しろ相手は魔術師だからな。
死んだ恋人のことを訊ねたりしたら、彼から何をされるか分からんだろう。
帰り道、別れ際にそう念を押して、ルキノはアトレーユを屋敷の上空に残して去っていった。
空からは、伯爵の屋敷の全景が見渡せた。
着地体制に入ったアトレーユは、あるものを目にして、そのまま上空で行き場をなくした。
庭に、伯爵とユーディットの姿があった。
薄紫の花の木陰で、ユーディットは泣いていた。
二人は空の上のアトレーユには気がついてはおらず、アトレーユが見下ろしている中で、
ユーディットは一言二言、何かを辛そうに伯爵に告げ、伯爵がそれに応えていた。
晴れているのに、雪が降っていた。
明るく輝く花びらのように、雪は庭にいる二人の上に降っていた。
伯爵はユーディットを慰めているようにアトレーユには見えた。
その肩を抱き、青みを帯びた金髪をかき寄せ、忍耐強く、そうしていた。
そして、伯爵が差し伸べた腕の中に、待ち焦がれた安らぎをそこに見るように、
やがて振り返ったユーディットはその胸にゆっくりともたれかかって顔を伏せ、
伯爵は静かに、そんなユーディットを抱きしめ、優しげに何かを囁いていた。
[続く]
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