[カイエスブレームの翼]

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[カイエスブレームの翼] ChapterX

■風使いの闘い


お天気伯爵の屋敷の上層階で、アトレーユは書庫から取り出して来た本を読んでいた。
島で育ったアトレーユは、文盲でこそなかったものの、
島ではあまり本も手に入らず、
壁一面を埋め尽くした本の中のどれが面白いのかもさっぱり検討がつかず、
ユーディットが「これはどうかしら」と選んでくれた、児童向けの冒険小説を、
おとなしくそのままここ数日に渡って読み続けていた。
一字一句をそれこそ丹念に読んでいると、頁がなかなか進まない。
そんな、いかにも読書をしなれていない人間の本の読み方であった。
日差しを浴びて、赤いカイトが青空を滑っていく。
有蓋回廊の柱に凭れて座っていたアトレーユは、赤い鳥のように横切っていくルキノが
空から挨拶の手を振るのに応えて、軽く片手を振り下ろしてそれに応えた。
「今のは?」
後ろにいつの間にかお天気伯爵が立っていた。
過ぎていく赤いカイトを見送りながら、
伯爵はアトレーユの膝に広げてある本を一瞥して、微笑んだ。
文字が大きいので笑ったのであろう。
しかしそれは、子供向けの本であることを莫迦にしたわけではない、温かな笑みだった。
「あれは、ファドジィル空軍のカイトだね」
「彼はルキノという奴で、カイト乗りです」
アトレーユは本をめくりながら応えたが、もう文字は見ていなかった。
庭でユーディットと抱擁していたのを目撃して以来、何となく、伯爵を避けている。
しかし伯爵は立ち去らず、真向かいの柱の影に立って、アトレーユが本から
目を上げるのを待っていた。
仕方なく、アトレーユは本を閉じた。

「少し、話しをしてもいいかな、アトレーユ」
「どうぞ。何です」
「まずは詫びを云わせてくれ。君や、君のいた百年後のカイト乗りたちが
 巻き込まれた白い嵐は、あれは、わたしがあの山脈に巡らせていた、
 魔術の一つなのだ」
「多分そうだろうと思ってたよ」

本の革表紙には、星の海を渡る舟の絵があった。
アトレーユは後ろの柱に頭をつけた。
偵察機の消失については、最初から、何かの魔術のせいではないかと推定されていたことだ。
軍の上層部も同意見であったし、他ならぬ自分がそれに遭遇して、こうして
百年前に飛ばされて来たとあっては、魔術師の仕業であると信じるほかない。
お天気伯爵が語る内容は、アトレーユにはほとんど分からなかったが、
大雑把な解釈では、カイエスブレームをこの世界に降臨させるにあたっては
時空の柱を何本か立てる必要があるのだそうだ。
雪の山脈でアトレーユが吸い込まれた、あの白い水のような、光のような、
柱状の風圧がそれである。
「実験のつもりであのような辺鄙な処を支柱を立てる場として選んだのだが、
 百年後の世界へそのような影響を及ぼすとは、不覚のことだったのだ。
 君の友人たちの行方についても、わたしには皆目分からない。すまなく思う」
「百年後、あのあたりは空路として開拓されて、
 気候の良い時期には空の道となっているんだ」
そもそもは未帰還機の真相究明の任務を担って基地から飛び立ったアトレーユである。
厳しく伯爵を糾弾し、仔細について追及し、調査するべきところであったが、
この時代でそれをしても、知り得たことを報告する先もなければ、
ファドジィルとの戦争が抑止できるわけでもない。
友軍機の行方に重点を置いて、個人的な感情から魔術師を責めるにしても、
鎮痛な顔の伯爵を前にしては、それも、今さらのように思われた。
本から埃を払い、アトレーユは最も知りたかったことを、わざと軽い口調で訊いた。
「俺は元の時代に戻れるのか?」
返事はなかった。
アトレーユは本をぱらぱらとめくった。
頁の狭間に薄い影が次々と生まれては消えた。
晴れた日に空を飛ぶと、地上にはちょうど、このようなカイトの影が出来る。
雲の上にも出来る。
それは確かにカイトの飛行軌跡であったが、振り返ると、そこにはもはや何も残ってはいない。
翼の影はどこにも残らない。
空には何の記念碑もなく、何の殿堂もなく、カイト乗りの墓標もない。
伯爵の返事を聞く前から、アトレーユは決めていた。
元の時代に戻れないのなら、近いうち、俺はこの屋敷から出て行こう。
そして、戦争をしている間はマリエンシュタットにも行けないのであれば、
街中に小さな家を持ち、ここで暮らす算段を立てよう。
その時にはファドジィル空軍に入隊しろと誘うルキノの申し出を受けるか否かはまだ分からないが、
彼が紹介してくれる女の子と次々に付き合ってもいい。
そのうち、俺にも好きな子が出来るだろう。
ユーディットのことは伯爵に任せておけば心配はない。
湖を抱く城壁の街マリエンシュタット。
十六歳までそこにいた、内海の小さな島。
砂漠のファドジィルには海も青い湖もないが、そのかわり、同じ空がある。
「アトレーユ」
気遣うように伯爵がそっと近づいた。
しばらくして、アトレーユは本を抱えて顔を上げた。
「伯爵はこの本を読んだのか?」
「もちろん」、伯爵は頷いた。
「あんた、字が下手だな」
「なぜ」
怪訝そうに少し笑みを浮かべた伯爵に向けて、
アトレーユは本を開いて見せた。
「一番最後の頁にあんたの名前が書いてある。『バルトロメオ』。これ、あんたの署名だろう」
「子供の頃にね。それは、子供の頃のわたしの字だ」
少し笑って、お天気伯爵はアトレーユの隣から本を覗き込んだ。
銅版画のたくさんついた、子供向けの冒険小説だった。
魔術師は生まれた時から大人の姿であり、不死身だと云われているが、我々もちゃんと、
赤子から老人へと時とともに年を経て、普通の人々とまったく同じ、人に許された命数を生きるのだよ。
大きくなったら何になろうかと、夢見るころもあった。

「これは、彗星一号に乗って、火星と金星の
 独立戦争に参加する男の子の物語だったかな。
 馬の首星雲には、首だけの馬がたくさんいて、
 蹄鉄城に棲む馬の首の王の左目は、暗黒界の入り口になっている。
 ナンセンスの極みだったが、わたしよりも、この本を歓んで読み耽っていた少女がいた。
 彗星一号が、火星の運河から飛び立つところの、扉絵を開いてみてごらん」

アトレーユがそうすると、その挿絵の中に、
小さく名前が手書きされているのに気がついた。
飛び立つ彗星一号に向かって手を振っている女の子の絵を矢印でさして、その名は
隅の方に目立たぬように書き込まれていた。『クラリサ』。
「彼女は自分でそれを書いたのだよ。
 この物語の中に出てくる少女は、自分だと言い張ってね」
かたちのいいその長い指で、懐かしそうに、伯爵は挿絵をなぞった。
「わたしたちは秘密の友達だったのだ。
 魔術師であるわたしには友だちがおらず、
 そんなわたしに、小さなクラリサだけは、いつも変わりなく優しくしてくれた。
 「魔術師さん」、わたしのことをそう呼んで、窓に手をかけ、わたしが来るのを待っていた。
 クラリサが、大きくなっても、ずっとね」
伯爵の翡翠色の瞳は底知れぬ輝きを放ち、自分に何かを云い聞かせているようでもあった。
深い後悔と消えることのない痛みと、海の波のように果てしなく繰り返される、
今も消えぬ熾火の想いがそこにあった。

「お話の中で、彗星一号がいつか星の彼方から帰還して迎えに来てくれるのを
 待っていた女の子の名は、本当はメルセデスだったのに、
 彼女にとってはそれは自分だったのだろう。
 クラリサは侯爵家の娘で、そして現ファドジィル領主を輩出した侯爵家は代々、
 魔術師を迫害していた家だったから、
 わたしたちが結ばれることは、最初から叶わぬことだったのだ。
 それでもわたしは、エンデ侯の妹である、クラリサのことが好きだったよ。
 そして、そんな私の勝手な想いが、ついには彼女を悲劇に突き落としてしまった。
 人目を忍んで魔術師と逢っていることが見つかったクラリサは、
 魔術と契った女として、ファドジィルの古い迷信に従い、街から放擲された。
 はだしのまま、下着姿で、石でもって追われたのだ。
 人々が投げる石の音が、それを見ていないわたしにも、今も聞こえてくる。
 火刑台の魔女に火を放ったかつての人々よりも、笑いながらそれに加わった人の数だけ、
 なおも、それは罪深い。
 砂漠の城から駆けつけたわたしは狂気のようになって、クラリサを探した。 
 荒野で見つかったのは、彼女を追い払い、彼女を打擲していた、
 彼女の血のついたたくさんの石だけだった」

覚えておきたまえアトレーユ、と伯爵は片手で顔を覆った。
この世で最も薄汚い振る舞いをする者ほど、人の心を平気で踏みにじる者ほど、
被害者面をすることと、相手が悪いことにすり替えて特定の的を糾弾することに、
怖ろしいまでに長けているのだよ。
彼らはクラリサに石を投げたその手で今も、平気な顔をして暮らしている。
まるで何ひとつ自分は悪いことをしなかったとでもいうように、
穢れた顔をさも繊細そうな善人面で覆いつくし、得をして良かったとばかり、
図々しく人を突き飛ばして生きている。
彼らは何ひとつ償うこともなく、禍を受けることなく、日の当るところで生きている。
クラリサの声なき悲鳴が今も聞こえる。
誰も彼女を助けようとはしなかった。
それはきっといい見世物であっただろう。
『ご覧、あの子が叩かれているあのザマを。ちゃんとああなるように手引きしてやった甲斐がある』
『搾取するのにちょうどいい相手もいたものだ。何を盗っても、相手にはもう口がない』
誰にならわたしのこの悲痛が分かるだろうか。
誰となら、この消えない怒りを分かち合えるだろうか。
彼らの愛する肉親を公衆の面前で惨殺してやったなら、少しは己の所業に気がつくのであろうか。
街の民に略奪を受けたクラリサの別邸へと向かったわたしは、そこに、
骸骨に見えるまでに一夜にして形相の変わったエンデ候を見出した。
若き領主は妹の、子供の頃の人形を手に、復讐の念に燃えるわたしの姿も、もはや
目には入っていない様子だった。
過酷な自然の中に生きる砂漠の民は、近代的な道徳や法よりも、迷信に従うのだ。
彼にはそれを止める術はなかった。
妹を追放した領主の汚名をすすんで引き受け、エンデ候はそんなファドジィルのために、
魔術師であるわたしの力を借りたいと申し出てきた。
わたしはそれを受けたよ。
だが、クラリサが我々の許に戻って来ることはない。

「魔術師は万能だと云われているが、これほどに非力なのだよ。
 魔術の秘術を尽くしてこれだけ世界中を探しても見つからないのだ、
 クラリサは死んでしまったと思う他あるまい。
 もし生きているのならば、必ずや、
 星の空から呼びかけるわたしの声にあの子は応えてくれるはずなのだ。
 彗星一号の物語、彼女が読んでいた本はここにこうしてあるのに、彼女だけがもういない」
「伯爵」

アトレーユは胸にあるお守りのことを考えていた。
この赤い指環を持っていた老女の名は、メルセデスといった。
クラリサが若くして三年前にファドジィルから追放されたとすると、
その後メルセデスと名を変えてマリエンシュタット領内に隠れ住んだ彼女が、
百年後、養老院の老女としてカイト乗りの少年と島で出会うことも、
じゅうぶんに可能ではないだろうか。
老女の形見としてアトレーユがもらった、ファドジィルの紋章が刻まれた赤い指環が、
何よりもその証拠ではないだろうか。
(メルセデス、いや、クラリサは生きている)
百年前の今なら、まだ、この世のどこかで。
自分は年老いた彼女を知っている。風を呼ぶ彼女の、その歌を。
「伯爵」
指環を見せれば、伯爵は信じてくれるだろう。
だが、アトレーユの口は開かなかった。
アトレーユを止めたのは、伯爵からもらった赤い指環を嬉しそうに眺めていた、
ユーディットの笑顔だった。
魔女は人とは結ばれず、そして魔術師と結ばれるのが、いちばんの倖せなのだろうか。
赤い指環をはめたユーディットは眩しいほどにきれいだった。
そして、ユーディットは何やら大層な神秘でも打ち明けるかのように、
アトレーユにそれを教えたのだ。
『同じ時の中に、同じものは、二つとしてない。だから命は、貴いの。』



事件は、お茶会の時に起きた。
屋敷の周辺を飛んでいる赤いカイトとアトレーユが挨拶を交わしているのを見た伯爵は、
彼らを屋敷に招いたらどうかな、とアトレーユに勧めてくれたのだ。
マリエンシュタットとの戦が始まったばかりの不穏の空気の中では
アトレーユはまだ気楽に街に外出できず、病人でもないのに
屋敷の中で子供向けの本を読んでいるしかない若者の無聊は、さすがに
憐れを誘ったものとみえた。

「すげえな、これがお天気伯爵のお屋敷か!」

ファドジィル空軍部隊を引き連れて現れたルキノは、
はじめて見る魔術師のからくり屋敷に大喜びした。彼らは内部の豪華さに歓声を上げ、
洗練された趣味の内装と、その異国風の優美を崩さぬ程度の
ほんの少しばかりの魔術らしい装飾を見回したり、触ったりしては、愕いたり、笑ったりした。
常ならば、たとえばアトレーユが廊下を歩いていると、壁から壁へと白い馬の影が
横切って壁に吸い込まれたり、
寝台で寝ていると、いつの間にか、隣に美しい女がいたりして、
(この時には悲鳴を上げた)、起こる怪奇も心臓に悪いものが多かったのだが、
「任せておきたまえ」
請合った伯爵の言に偽りはなく、本日の摩訶不思議は、
常よりもひじょうに控えめとなっていた。
ルキノが連れて来たファドジィルの赤凧部隊の連中は、ほぼ、アトレーユの知る
百年後のマリエンシュタットの連中と大差なく、癖が強く、
そのくせ無口ではにかみやで、
自分のことをあまり話さないところも同じだった。
その一方で役者顔負けの話し上手もいて、彼らが
空の体験談を話す時には、たいていは大言壮語の大嘘になっていた。
「マリエンシュタットの湖に舟を浮かべて、八艘跳び」
というのもあった。
何でも、マリエンシュタットの湖に小舟を浮かべ、そこをカイトで舟を転覆させないように、
次から次へと飛び渡り、見事に対岸に渡ってみせたというもので、マティアスはそれを
「アトレーユがやったんだ」
アトレーユの知らぬところで自慢げに、基地の近所の子供たちや伝令配達のトニオ少年に
勝手に言い触らして回ったこともある。
一から十まで大嘘のその作り話にはいつの間にかに尾ひれがついて、
大嵐の晩に怒涛の荒波に翻弄される八艘の漁船を次々に飛び移り、
十八名の漁民を見事アトレーユが助け上げたということにまでなっていた。
静かな湖面での八艘跳びならやれと云われればやってやらないでもないが、
幾ら何でも、暴風吹きすさぶ嵐の夜の海上では
海面の重たい風にカイトが負けて無理である。
大方、カイエスブレームの風使いにまつわる眉唾ものの伝説も
こうやって彩られてきたのであろうが、その手のいい加減な、しかしからりとして愉快げな、
どこまでも根も葉もない大嘘に終始したカイト乗り特有の笑い話が、
その日の午後のお茶会でも弾んでいた。
今日のアトレーユはその伯爵が「わたしの若い頃のものだが」と
用意してくれた中から選んだ、地味目の服を着ていた。
庭に出した卓には伯爵の心づくしの珍しい料理がひっきりなしに召使の手で運ばれて、
球技やカードを愉しんだ若者たちは旺盛な食欲で飲み食いし、
煙草をふかし、軽い酒を味わった。
空には彼らが乗って来た赤いカイトが係留されて、赤い風船のように浮かんでいた。
中にひとりだけ、ジャコモという名の目つきの悪い若者だけが、
仲間が笑えば鼻先でちょっと笑うといった風に常に周囲を軽蔑しながら調子を合わせており、
気がつくと、その目でちらちらと下から窺うようにして、アトレーユを見ていた。
「だって、気持ちが悪いじゃないか」
ジャコモが鋭くそう言い返したのは、静まり返った後だった。
食後にふるまわれたのは、お友達が来るのならわたし、お菓子を焼くわ、そう云って
ユーディットが張り切って作った焼菓子だったが、ジャコモはそれに口をつけず、さらには、
ユーディットが注いで渡したお茶を、ユーディットが屋敷に入った後で、
その場で庭にこぼして捨てたのである。

「魔女の作ったものなんか食えるかよ」

ジャコモは何か悪いことでも云ったかと言いたげに、仲間を見回した。
アトレーユは応えの代わりに、彼らの眼の前でユーディットの菓子を口にほおばり、茶を飲んだ。
味音痴のアトレーユにはそれが格別に美味しいのかどうかいまひとつ分からなかったが、
二個目に手を伸ばした。
ジャコモの反応は、魔女が悪しきものとして伝わるこの地ではごく平均的なものであったし、
初対面でユーディットが魔女だと知ると、銃を突きつけたことのあるアトレーユには、
彼を偉そうに批難する資格もない。
アトレーユの隣で、ファドジィルのルキノも菓子をかじった。
「旨いぜ、これ」
ルキノはジャコモの態度を咎めた。
「ま、お前が食べたくないのなら喰わなきゃいいけどな。
 それでもここは俺の顔を立てて、お天気伯爵のみならず、エンデ候の客人でもある、
 ユーディット嬢にあまり失礼な真似はしてくれるなよ」
「魔女の上に災いあれかし」
ジャコモは唇をゆがめて言い放った。
「エンデ侯とおじおいの仲であるルキノには悪いが、
 三年前の大洪水、あれも、魔女の仕業だっていうぜ。
 ファドジィルから追放された魔女クラリサの逆恨みの怨念が呼び寄せた嵐じゃないのか。
 洪水を起こし、いかづちを振り下ろし、風を招いて人家を吹き飛ばす。
 大勢の人間を殺して回るようなそんな魔女を、
 もう一度街の中に招き入れるなんて、俺は気持ちが悪くてたまらないね」
「おい止せよ、ジャコモ」
「だいたい、マリエンシュタットのカイトがファドジィルの空を侵した時点で、
 エンデ候は即座にヴィルト気取りの飛行士を領空侵犯の罪状で捕え、
 一緒にいた魔女を今度こそ、広場で火刑に処するべきだったんだ。
 それが街を守る者の役目だろう、違うのか」
歯を鳴らさんばかりにして、ジャコモは魔女への憎しみをあらわにした。
アトレーユを見据えたまま、ジャコモは唾を飛ばした。
「追放なんてまだ手ぬるい、エンデ候が実の妹にかけたその情けが、
 七日七晩のあの大雨と洪水と、凶作を招いたんじゃないのか。
 きっとクラリサは今も生きていて、ファドジィルに復讐しようとしている。
 カイエスブレームの末裔は疫病を撒き散らす化け物だ。
 攫ってきた赤子を熱湯につけて、動植物と言葉を交わし、
 あやしげな魔方陣を描いては人の倖せを打ち壊して回る。
 魔女など、一所に集めて、今こそ灰になるまで焼き滅ぼすべきだ」
「お前、なんで、ここに来たんだ?」
ルキノは頭を抱えてジャコモに対して情けない声を上げた。
「そんなに魔女や魔術師が嫌いなら、
 招待に応じてここに来なきゃいいだろうが。
 意見を力説するのは結構だけどな、時と場合をわきまえろよ。
 アトレーユがただのカイト乗りであることは俺が保証するし、
 ユーディット嬢のほうも、お菓子を焼くのが好きな普通の女の子だ。
 いやあこの菓子は旨いなあ、ここにこうちょっと、
 酒漬け果実の飾りがあるのがまたいいんだよなあ、
 よろしくお礼を云っておいてくれ、アトレーユ」
「もちろん、用があって来たのさ」
「しつこいぞ、ジャコモ」
「いい加減にしろよ」
他の面々も仲裁に入ったが、ジャコモはますますその顔を険しくした。
そしてその顔は、まっすぐにアトレーユへと向けられた。
アトレーユに指を突きつけ、ジャコモは唸った。
「領主が許しても、俺は許さん。
 ファドジィルの空に入ったマリエンシュタットの凧を、この手で墜としてやる。
 決闘を申し込むぞ、アトレーユ」
「分かった」
アトレーユが即座に応じて立ち上がったから、一堂は愕いた。
菓子くずを口元から払い落したアトレーユは、「今からだ」、と開始の時を告げた。
「おい、アトレーユ」
「ルキノ、適当な場所を選んでくれ」
「ジャコモの無礼は俺から詫びを入れる。だから早まるな」
「そうだ、今のはどう見てもジャコモが悪い」
「気にするなアトレーユ、あいつはちょっと、普段から問題が多い奴なんだ」
「支度をしてくる」、自室に向かって早足に歩きながら、
それを追いかけて来たルキノたちの顔の眼の前でアトレーユは扉を閉めた。
アトレーユは革手袋を探し、水灰色の飛行服に袖を通した。
革のベルトを締めて、身支度を整える。

(----------メルセデス)。

もしもメルセデスがエンデ候の妹クラリサであったなら、
そしてバルトロメオ伯爵の恋人であり、
それがために石で打たれながら街を去ったのであれば、その名誉のために俺は飛ぶ。
俺を空に揚げてくれたのは、メルセデスだ。
彼女への侮辱はそのまま、俺の翼への侮辱だ。
しかし、アトレーユがジャコモの挑発にのったのは、それだけではなかった。
庭で抱き合う伯爵とユーディットを目撃してこのかた、彼の胸の中に重たく曇って
もたれていた、もやもやしたものが、ここに来て発散のはけ口を見つけたというのが正しい。
手袋をはめながら部屋を飛び出して行くアトレーユは、まさに、
典型的な空を飛ぶ莫迦野郎だった。


決闘の場として選ばれたのは、ファドジルの属領で最も険しく高い、崖の上であった。
下は千尋の谷である。
赤いカイトのジャコモと、青いカイトのアトレーユは、並んで風が吹くのを待っていた。
決闘は古式ゆかしく、風使いの闘いの作法に則って行われることになった。
崖を駆け下りながら、相手よりも遅く飛び立った方が勝ちである。
カイトが飛び立つ時には向かい風に向かって翼を乗せていくが、それを逃すと、
揚力を掴み損ねて、崖から落ちる。
その恐怖を堪えて、いつまで飛び立つのを辛抱していられるかが勝負の決め手であるが、
風を掴んで浮き立つまではほんの数秒、それをあえてやり過ごし、なおかつ
翼という重荷を背負ったままで崖に向かって身を投げていくのは、
投身自殺にも等しい暴挙といえた。
熟練のカイト乗りならば、風の怖さを知るがゆえに、まずやらない。
ところがここに集った若者たちは、風の怖さを知る以上に、
風の怖さを知らぬ顔をすることも得意な年頃であった。
噂を聞いて、ファドジィル空軍の全ての若者が決闘を見守るために崖の上に集っていた。
谷底に向かって続く傾斜面の果てから、黒々としたぬるい風が吹いてきた。
赤い凧と青い凧は、合図を待って、崖の突端に立っていた。
「この勝負は不公平だ」
ルキノがアトレーユの肩を持った。
「俺たちと違って、マリエンシュタットの人間であるアトレーユは
 このあたりの気圧の変化も風の流れも知らない。
 しかも、この谷間の風は渦を巻いている上に、底は岩場だ。落ちたら終わりだ」
「マリエンシュタットのカイト乗りは下に湖がないと飛べないってか」、野次が飛んだ。
「何だと」
「それとも魔女の力を借りないと、離陸も一人では出来ないか」
ルキノが抗議してくれたが、アトレーユは「いいんだ」とそれを退けた。
一瞬で勝負のつくこの決闘が気に入った。
迷う暇も計算する間もない、ただ風に挑んでいくだけでいい。
相手は隣のジャコモでもない。赤いカイトでもない。
風と俺の一騎打ちだ。
強い風が吹き付けてきた。
カイト乗りの本領発揮だ。
ルキノが旗を振り下ろした。
赤いカイトと青いカイトは同時に走り出し、そして、勝負はあっさりとついた。
崖際ぎりぎりで赤いカイトは空高くに舞い上がり、
そして青いカイトは、勝ちを知らしめると同時に、崖から飛び出して墜落していたのだ。
「アトレーユ!」
叫んだのはルキノなのか、それとも他の誰かなのか、アトレーユには分からない。
落ちた途端、アトレーユのカイトは谷間を吹き抜ける巨大な風の渦に噛み付かれて、
台風の中の木の葉のように、ごうごうと唸る風の中へと吸い込まれていた。
ばたつく翼が風に引っ張られて、直立したかと思うと逆さまになり、岩崖すれすれを
右から左へと振り回される。
複雑に入り組んだ崖が牙のように左右にそそり立っている。
どんと風に突き飛ばされて、また翼が回転する。
風の流れはカイトを激しく揺さぶりながら、岩場を目掛けて吹き飛ばしていく。
地平と空が逆さまになり、眼の前が暗くなり、大きな空が見えた。
青い空だった。
そしてアトレーユは、それを見た。
群青色のカイトが空を飛んでいる。
ぼさぼさの長い黒髪を首の後ろで束ねた、ひょろりとした少年。
くたびれた外套を羽織り、鳥を連れて空を渡っている。
光の空を飛んでいる。
遠い海の輝きを楽しそうに見つめ、星の野原を駆けていく。
(カイエスブレームの風使い)。
谷に吹く逆向きの対流に翼が触れる。アトレーユはそれを逃さなかった。
機体が反転し、天地が正常に戻る。
渦流の中から青いカイトが弾丸のように大空に飛び出した時、
解き放たれたアトレーユを迎えたのは、こちらに向かって手を振り、
頭の上で手を叩いている、ファドジィル空軍の飛行士たちの歓声だった。
口笛と賞賛の拍手の中で、カイトを手放し、崖の上に飛び降りる。
太陽の周りを巡って一周して戻ってきた青い翼を片手でつかまえたアトレーユは、
駆けつけてきたファドジィルのカイト乗りたちに抱きつかれ、もみくちゃにされていた。
「すごいぞ。あんたは、やっぱりヴィルトだ」
ルキノは泣かんばかりにして、アトレーユの両肩を抱いた。
「カイエスブレームの風使いだ!」
その後、担ぎ上げられるようにして酒場に連れ出され、
砂漠の強い酒を勧められるままにあおり、ふらふらしてきたところで、
陽気に歌うカイト乗りの連中にお天気伯爵の屋敷の前まで送ってもらった。
真夜中の空には、月の光が満ちていた。
肩にカイトを担いで、浮遊している屋敷からつり橋を渡って屋敷に戻ったアトレーユは、
庭に面した回廊の暗がりに立つ、ユーディットの姿を見つけた。
いきなり黙ってカイトに飛び乗るなり、大勢の赤いカイトと共に空の彼方へと消えた今日である。
気まずかったし、疲れてもいた。
そこで、こっそりと向きを変えた。
だが、ユーディットはとっくにアトレーユに気がついていた。
「アトレーユ」
立ち上がったユーディットは、舞踏会用の赤い靴で、静かにこちらへ歩いて来た。
何故かこわばっているその顔を見て、怒っているのかとアトレーユは思った。
青みを帯びたその金髪に月の光がきらきらとこぼれ、ユーディットはまるで
銀の王冠をつけた王女のように見えた。
その翡翠色の瞳には、哀しみに近い憂いがあった。
一気に酔いが覚めたアトレーユは、カイトを担いだまま、無難な話題を探した。
「ルキノが、今日の君の菓子を褒めてた」
「わたし、伯爵から、結婚を申し込まれたの」
月の庭には、夜の花が咲いていた。
寂しい色に見えた。
赤い指環に手を重ねて、ユーディットはアトレーユを見つめた。
アトレーユ、伯爵はあなたを百年後の世界に戻す術を、本当はちゃんとご存知なのよ。
それで、わたし、伯爵にお願いしたの。
戦のためにその力を使わず、アトレーユを元の世界に返して下さるのなら、
伯爵の求婚をお受けして、ご一緒に霧のお城へ参りますと。
「今日、エンデ侯から、伯爵への使者が来たの。
 マリエンシュタットとの戦に伯爵の力を使うつもりだわ」
わたしはそれをさせたくないの。
バルトロメオ伯爵は、わたしがいれば他に何もいらないと、そこまで云って下さったわ。
愛した少女を喪った時に、伯爵の心は一度、壊れてしまったのね。
迫害を受けて流離ううちに数が減り、魔法使いはもうほとんどこの世には残ってはいない。
彼が魔術師の街を復活させようとしたのも、そのためなのよ。
永い間の孤独に耐えてきた、ご立派な方だと思うわ。
「だからって」
アトレーユは茫然として混乱したまま言葉を継いだ。
「だからといって、君が犠牲になることはないだろう」
ユーディットは首を振った。
それだけじゃないの。
わたしは魔女だもの、人の中で暮らすことに、ちょっと、疲れてしまった。

「私たちは砂漠の彼方へと遠く去り、
 伯爵にも魔術師の街カイエスブレームの復活を諦めてもらいます」
 
その前に、あなたを元の世界に戻してあげるわね、アトレーユ。
それがわたしが伯爵に出した条件なの。
アトレーユは声もなく、黙ってユーディットを見ていた。 
夜空に星が流れた。
その流れ星は、クラリサが待っていた迎えの船かも知れなかった。
(苦しみも哀しみも、もう終わり。わたしを星の世界へ連れて行って)
噴水の水が銀色にあふれては、その飛沫が風に乗って飛んで来て、二人の間にこぼれた。
風に髪をなびかせてそれを見ていたユーディットは、やがて、踵を返して、
「わたしの焼いたお菓子は美味しかったでしょう?」
ちょっと笑うと、アトレーユをそこに残して去っていった。
ユーディットの姿が消えたのは、翌日だった
ファドジィルの街中に買い物に行くと云って出かけたまま、
ユーディットは戻って来なかったのである。



[続く]


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