[カイエスブレームの翼] ChapterY
■火刑の塔
紳士たるもの、不測の事態に直面した時ほど、身嗜みには心配りをするものだ。
お天気伯爵は頑として、アトレーユに正装以外の服装で
エンデ侯の城に赴くことを許さなかった。
幾ら伯爵の趣味が洗練されているとっても、鏡の中に映し出された自分の姿は、
爵位のない詐欺師といった風である。
飾りつきの靴を履き、古典的な飾り帯を腰に締めて、
伯爵に連れられて衣装部屋から出て来たアトレーユは全身、
そのまま優美な古楽で踊りだしそうなほど、上から下まで、古い絵画や
骨董屋でしか見たことのない、凝った刺繍とレースと天鵝絨に包まれていた。
アトレーユは憂鬱に姿見から目を逸らした。
後ろから手をのばして、お天気伯爵がアトレーユの長上着の裾と、襟元を整えてくれた。
重なるレースが首筋に触れて居心地が悪かった。
アトレーユは喘いだ。
伯爵は肩に手を置いた。
「息が苦しい、伯爵」
「いや、男ぶりが上がったよ」
最後の仕上げとして、アトレーユの黒髪に似合う青磁色のタイピンを
宝石箱から選び出した伯爵は、小さなそれを手ずからアトレーユの襟元に取り付けると、
出来映えを確認するようにアトレーユの顔を鏡へと向けて、囁いた。
「幾ら友人が行方不明だからといって、
エンデ侯の居城にカイトで空から乗りつけようなどという心得違いの無礼者は、
このわたしの客人でも友でもない。
美と洗練を支えるものは品性であり、忍耐であり、様式なのだ。
幸いにして、島育ちの君は無学無教養ではあるが、誇りを知っている。
仕込まれた礼儀作法にも勝る、天性の素地がある。
幾ら運と財と学に恵まれ、経験を積んだとしても、心がけの悪い者は到底手の届かぬ、品位がね。
君は自分の中の高次のものと闘うことを知っている人間だ。
ご覧、鏡の中に立っている青年の、その怖気のなさを」
背の高いバルトロメオ伯爵に肩を抱かれたアトレーユは、さしずめ、
優雅な兄に遊ばれる野暮な末弟の仮装である。
翼が日よけになるので日焼けこそあまりしていないものの、典雅な曖昧貴族には程遠く、
押し黙って引き結んだ口のあたりには、島育ちの素朴さが仄見えた。
アトレーユの空色の瞳を、伯爵は誇らしく覗き込んだ。
「空に選ばれ、星の風に磨かれた、硬質の青い精神だ」
「俺はただのカイト乗りだ」
「そうとも」
伯爵は微笑んだ。
「空を翔ける者に、ほかに何が要ろうか」
アトレーユは伯爵の手を振り払った。
こういう時にいちばん、耐え難く、空に駆け上がりたくなる。
伯爵のことは嫌いではないが、やはり、どうしても他の者には分からないのだという気持ちになる。
他に何も要らない。
ただ、空を飛びたい。
「馬車を」
玄関に出た伯爵が手袋をはめた片手を上げると、
たちまちのうちに見事な四頭立ての馬車が現れた。
つり橋を渡って屋敷を後にし、
馬車はアトレーユと伯爵を乗せて、エンデ侯の城へと向かう。
走ったほうが速いのではないかと思うほどゆっくりと馬を歩ませているのは、
戦車でも荷馬車でもない有蓋馬車がファドジィルに現れたのはここ一二年のことで、
うかつに街中で走らせると、馬車に馴れぬ人々を轢きかねないからなのだそうだ。
エンデ侯の城は伯爵の屋敷とはちょうど対角に位置しており、
地平近くに延々と壁の続く広大な敷地は何かと聞けば、新設された造兵廠だということだった。
もともとは砂漠の交易都市の一つとして栄えたファドジィルに半島からの移民が流入し、
砂漠の民と居留民が逆転したのはここ半世紀のことである。
現在では街の中枢は全て移民系に握られていて、
半島出身の貴族である領主エンデ侯の采配の下、軍備増強をはじめ、
この数年で急激に近代化が進められたファドジィルの街並みは、
街路の舗装という面からも、着実に変化が顕れてきているようだった。
馬車から眺める市場には、交易都市から運び込まれたあらゆる商品が並び、
さながらそれは世界中の宝飾品の全てをひっくり返したようにきらびやかで、
ユーディットが街に行きたがるのも無理はなかった。
(砂漠の彼方へ行くことにしたの、アトレーユ)
(伯爵は、わたしがいれば他に何もいらないと、そこまで云って下さったわ)
そのユーディットが買い物に出かけたまま姿を消した。
しかしバルトロメオ伯爵は何一つ慌てることなく、
「今宵はちょうどエンデ侯に招かれている。君も来たまえ、アトレーユ」
すぐにも捜索に飛び立とうというアトレーユをカイトから引き離し、
衣装部屋に押し込んだのだ。
「おそらく、彼女はエンデ侯の許にいる」
何の根拠があるのかは知れないが、砂漠の日没を眺めながら、伯爵はそう云い切った。
馬車はファドジィルの街を抜けていく。
アトレーユが馬車の窓から振り返ると、伯爵の屋敷の屋上に繋がれている青いカイトが、
夕暮れの空に頼りなく浮かんでいるのが小さく見えた。
(アトレーユ)
召集令状を片手にアトレーユが島を去る時、
養老院の老人たちは、アトレーユに小さな袋を渡した。
中には金が入っていた。
貧しい共同生活の中から、細々と老人たちが貯めてきた、なけなしの金だった。
これだけでは屋根や壁の修繕も出来ない。
これだけでは翼の片方も作れない。
それでも、老人たちは働いて得たこのお金で、アトレーユに新しいカイトを贈ろうとして貯めていた。
(いらない。受け取れない)
アトレーユは金袋を押し戻した。
(空軍ではカイトが支給されるし、給料ももらえる。俺、その金を貯めて、
この養老院を建て直すだけのお金を持って、島に戻ってくるから)
(そこまで、わしらは生きてはいないよ)
老人たちは笑顔で笑った。
いいから、受け取っておくれ。
このお金があんたの役に立つのなら、こんなに嬉しいことはない。
アトレーユ、あんたが空を飛ぶ時には、わしらの心も一緒に飛んでいるような気がする。
果てしない青い空が見える。
青い翼が飛んでいく。ああ、あれは、わしらの子だ。
人の世から遠ざけられて、朽ちていくばかりの老人に、
忘れていた夏の風を運んで来てくれた風使い。
ここにいる者たちの心を連れて飛んでおくれ。
この世の何処かに、懐かしい魂が一つあると思うだけで、それだけで、
本当に倖せなんだよ、アトレーユ。
カイトが高い尖塔に遮られて視界から消えた。
外が暮れていくのに合わせて、伯爵の魔術なのか、馬車の中に薄紫の灯りが燈った。
腹立だしくなってきて、アトレーユはわざと窮屈な襟元を乱し、脚を組んだ。
窓枠に肘をついて黄昏の空を眺めているそんなアトレーユを、
向かいに座って本を読んでいた伯爵は、くすりと笑って、再び頁に目を落したが、
そこまで保っていた沈着冷静がふいに崩れ、一瞬、魔術師の目に憂慮の影が暗く走ったのを、
アトレーユは見てはいなかった。
窓の外に広がる東西混合の様式の街並みは、アトレーユの知る城壁と湖の街マリエンシュタットとは
また別の夕暮れの姿を見せており、遠くのマリエンシュタットは既にもうとっぷりと
日が暮れているだろうと思ううち、その時ふと、アトレーユの脳裏に百年前の歴史にまつわる、
一つの謎が記憶の底から甦ってきたのだ。
百年前、対マリエンシュタットおよび、諸侯連合軍との緒戦を勝利でおさめ、
快進撃を開始していたファドジィル軍は、唐突かつ不可解に、
その矛先をおさめて、自領へと撤退していくのである。
自軍が有利なうちに停戦協定を速やかに結び、三年前の大洪水で疲弊した経済を
戦争によってこれ以上摩滅させることを初期段階で回避してみせたエンデ侯の
鮮やかな手腕については、後の歴史の評価も高いところであるが、
それからほどなくして、多事多難はあれどもその後アトレーユの時代まで
まがりなりにも続く百年の泰平の基礎を築いてみせたファドジィル領主エンデ侯は、
若くして崩御する。
エンデ侯のこの死については当時から、さまざまな風評があった。
エンデ侯は病の悪化を理由にロートリンゲン候との停戦協定の調印の場にも姿を見せず、
全権大使がそれに代わったが、実はエンデ侯は既に死亡しており、
ファドジィル軍が突然に前線から退却した時が、まさにその時だったというのだ。
その仮説を裏付けるものとしては、その直後から急速にファドジィル側の攻勢が落ちて、
和平工作へと切り替わったことと、壮麗なる葬儀など一切不要との遺言どおり、
停戦協定締結直後に逝去したエンデ侯の葬儀は密葬にて済まされ、
葬儀に参列した各都市の大使も、エンデ侯の死顔を見ていないことが挙げられる。
つまり、棺の中に誰も入っておらず、エンデ侯はとっくに土の下であったとしても、
誰にもそれが分からぬままに、棺は霊廟へと安置され、封印された可能性がなくはない。
そして歴史の闇に今も隠され続けているエンデ侯の死期とその死因の真相については、
もう一つ、まことしとやかに囁かれている、ある流説があった。
エンデ侯の死因、それは、永く患ってきた砂漠の風土病による病死として公式に発表され、
公文書にもそう記されている。
だが、砂漠の民は今でもエンデ侯の死は宿痾によるものではなく、呪いによるものだと信じている。
その言い伝えの最後にはいつも、禍々しき、一つの影がつきまとう。
女の姿をしている。
それは兄によって街から追放された女であり、具現化したわざわいであり、
怨念により甦ってきた、血みどろの、呪わしいものであった。
決して離れぬ影のように、それは襲い掛かってくる。
エンデ候の息の根を止めたのは、魔女だ。
(莫迦ばかしい)
アトレーユは紫に暮れていく空に浮かぶ星を眺めた。
都合の悪いことは全て異端者のせいにする、頭の悪い連中の云いそうなことだ。
メルセデスはそんな人じゃない。
「伯爵」
アトレーユは首から提げていた指環を取り出した。
伯爵は愕いて、赤く光る指環を凝視した。
<
「それを、どこで」
「マリエンシュタット領の内海の島の、そこの養老院にいた老女からもらった」
老女が死んだことは伯爵にはふせておいた方がいいような気がした。
街路をゆっくりと歩む馬の蹄鉄の音と馬車の振動が、
伯爵の眼から真実を誤魔化してくれるように祈った。
俺にこの指環をくれた人が何者だったのか俺は知らない。
でもこの指環にはファドジィルの紋章がある。
伯爵がユーディットに渡した指環と、紋章の有無を除けば、同じ物のように思う。
「島を出る時に彼女から渡されたんだ。元の世界での、三年前。
あんたの恋人が持っていた指輪だと思う。だから、これは伯爵に返すよ」
アトレーユは指環を伯爵の手に渡した。
伯爵がクラリサを探しに行くのならそれでもいい。
クラリサのことは忘れて、ユーディットを花嫁として迎えるのなら、それでもいい。
死んだはずの恋人は、多分、マリエンシュタットで生きている。
この指環は、この同じ時間の横軸の何処かで、
後の老女メルセデスであるところのクラリサも所有しているはずの指環だ。
このややこしい時間と物質の交錯と重複を解析する何かの黄金率があるのかどうか、
果たしてそのようなものが存在するのかどうかも、アトレーユには分からない。
しかし彼には、たとえユーディットを哀しませるようなことになったとしても、
このままクラリサの生存を伯爵に黙っておくことは出来なかった。
三年前、ファドジィルの街から追放されたクラリサは、この世の何処かで、
今も星空を見上げて、誰かが迎えに来てくれるのを待っている。
しかし、バルトロメオ伯爵は赤い指環を手にしたまま、何も云わなかった。
その翡翠色の眼に限りない懐かしさと、痛々しいまでの希求を浮かべ、積もり積もった
永く辛く苦しい年月を、今こそ振り捨てるような断念をこめて、指環をじっと見つめていた。
やがて、
「君がもらったものだ。持っていたまえ」
迷いを振り切った伯爵は、アトレーユに指環を返した。
馬車の中には沈黙が流れた。
行く手の闇の中にようやく浮かび上がってきたエンデ候の城を眼で追いながら、
しばらくしてお天気伯爵はアトレーユに訊いた。
「君は、ユーディットが何故、舞踏会用の靴を履いているか、知っているかな」
楽団つきの町の舞踏会。
雪洞の灯りと、やさしい夜風、音楽に乗って笑いさざめく若者たち。
雪の上にばら色の影を落していた、ユーディットの赤い靴。
「魔女である彼女とは、誰も、踊ってはくれなかったからだそうだよ」
伯爵は窓の外に滲む街灯りを眺めた。
わたしが小さなクラリサと出逢ったのは、ロンバルディアだった。
大学の修士課程に在籍していたわたしは旅に出て、そこで母方の親族の元に
遊びに来ていたあの子と出逢ったのだ。
魔術師であるわたしは常に奇異と偏見の眼で人々から遠巻きにされており、
ロンバルディアのその祭りの夜も、独りきりでいた。
そんなわたしに、
『それなら、わたしがあなたと踊ってあげるわ、魔術師さん。』
クラリサはそう云って、小さなその手をわたしに伸ばしてくれたのだ。
侍女たちとはぐれて迷子になっていた彼女の方こそ、心細かったであろうに。
わたしが怖くなのかと訊くと、クラリサは云った。
『カイエスブレームの街がまだあった頃は、人は魔術師ともっと仲が良かったのよ。
風使いの少年が、わたしたちの架け橋になってくれていたわ。』
ユーディットを見た時、わたしは思ったよ。
遠くへ去ったクラリサの代わりに、せめて、この子だけでもわたしは倖せにしてやろうとね。
わたしが味わったような想いだけは、この子にはもう決して、させないでおこうと。
伯爵はアトレーユの手に戻したクラリサの赤い指輪から眼を逸らした。
「君は、魔女のあの娘をわたしの許へと運んできた、風使いだ。
どうか、変わりなく、ユーディットの友だちでいてやってくれたまえ。
我々が砂漠の彼方に遠く立ち去ってもね」
返事のしようもなく、アトレーユは指輪を握り締めたまま、窓の外の城を見た。
エンデ候の城に着くと、敷地外れの迎賓館へと通された。
馬車を降り、正面玄関の階段を昇っていくところで、伯爵は立ち止まった。
階段を上り詰めた円柱の間に、深紅の衣装をつけた領主が出迎えに現れたのだ。
「ようこそ、バルトロメオ伯爵」
「お招き頂き、光栄至極。エンデ侯」
「お呼び立てして申し訳ありません」
エンデ侯は年の頃二十代後半の、金茶の髪をした、中背の男だった。
病身のためか顔色が悪く、頬がこけてはいたが、
その灰色の眼は己の統治する眼下の街に向けて炯々と輝き、その為にかいっそう、
顔色の青白さや唇の薄さが目立つ容貌であった。
アトレーユは彫像でしか知らないが、後世に伝わるその彫像は実物の彼を見る限り、
怜悧な面を写し取っているという点からも、かなり写実だっといえよう。
爵位の序列からいけば、侯爵の方が伯爵よりも格上となるはずだが、
バルトロメオ伯爵についた称号はいわば綽名の類で、栄誉称号とも封号とも無縁である上、
魔術師は地上の決まりごとには従わないのが通例なので、
エンデ侯に対する砂漠の魔術師の態度は慇懃ではあっても、領主に対してそれ以上、
頭を下げることはなかった。
それどころか、斜め後ろのアトレーユが思わず、軍人の習性で四方に警戒の目を
走らせたほど、対峙したエンデ侯とバルトロメオ伯爵の間には、
ひそやかな、そしてただならぬ、緊迫感が流れていたのである。
エンデ侯は、すぐにアトレーユに気がついて、階段の上から話し掛けて来た。
「マリエンシュタットのカイト乗りとか」
「アトレーユです」
「すぐに調べさせたが、どうやらマリエンシュタット空軍には、
そのような名の者、軍籍表には見当たらないようだが」
それはそうだろうと思ったが、アトレーユは口を出さなかった。
「不時着の折に怪我をしたとか」
「もう治りました」
「そのほうの国許とは目下交戦中である。
本来であれば捕虜として牢屋に入ってもらうところを、ここにおられる伯爵に免じて、
放免としている。また、わたしの甥のルキノも、そう頼むのでね」
「ご厚意、ありがとうございます」
「その礼として、マリエンシュタットの内実や軍備など、
わたしが訊ねることに答える用意はおありかな」
「ありません」
訊かれたところでアトレーユが握っているのは百年後の情報である。
たとえば、マリエンシュタット領主ロートリンゲン侯は湖での釣りが好きで、それが嵩じて
城にも生簀を作ったとか、または、偉そうにそこから俺を見下しているあんたは
遠からず不慮の死を迎え、しかし後世には名君の名を残すぜ良かったな、
などと云えたものではない。
きっぱりとアトレーユが拒絶すると、エンデ侯は高い声で笑い出した。
なるほど、カイト乗りといのは、
偏屈で頑固で、恩知らずの上に、かように傲岸不遜なものなのだな。
名人になればなるほど、どうもそのようになっていくようだ。
伝説のカイエスブレームの風使いがファドジィルに訪れたと、何やら巷が騒がしかったようだが、
このわたしには、有益なものを運んで来てくれたわけではないようだ。
「エンデ侯」
お天気伯爵が厳しい声で遮った。
「わたしの客人のもう一人が、こちらにお邪魔しているのではないかと思う」
「そのとおりです、伯爵」
「まずは、彼女と逢わせて頂きたい」
「もちろん、そうしましょう。たまたま市場で見かけたので、
わが城にお連れしたのだが、ご不自由なく、過ごされておられますよ。
------あのようにね」
エンデ侯はそのやせ細った腕を高々と夜空の月へと向けた。
その月の真下に、高い塔があった。
黒々と細く高く聳え立ち、窓のほとんどないその外壁が月光に鋭く光っていた。
闇夜を透かすと、どうやら、繰り返し炎に包まれて燃えた痕がその壁を
不吉に黒く煤けさせているようだった。
「エンデ侯!」
伯爵がきっと候を睨んだ。
アトレーユは塔の最上階の窓に、ユーディットの姿を認めた。
ユーディットの隣には、ファドジィル空軍カイト部隊のルキノがいて、アトレーユに向かって、
(今はこうするしかないんだ、悪いようにはしないから)
何やら慌しく口をぱくぱくさせながら、両手を振ったり、傍らのユーディットを指し示して、
俺が絶対に守るからとでも云うように、忙しく表情を変えて何かを訴えていた。
「あの塔の名前をご存知でしたか、伯爵」
冷たく微笑みながら、ファドジィル領主エンデ侯はお天気伯爵の蒼褪めた顔を
とくと味わうように見つめ返した。
そう、あれは、魔女を炙る火刑の塔。
古代カイエスブレームの魔術を受け継ぐあなたにも、決して手が出せぬ結界です。
中世のファドジィル領主は代々、捕えた魔女をあの塔の中で、焼き殺してきました。
一度には殺さず、じわじわと、その炎が魔術に染まった女たちの白い肌にちろちろと、
すりがねでその血肉をこそげ落すように、ゆっくりと時間をかけて、
火傷の拷問と死刑をかけた。
この世のものとも思えぬ彼女たちの苦悶の叫びと、苦しみのあまりに壁を叩く音を聞きながら、
砂漠の民は、ようやく街から穢らわしい魔女が取り除かれたことを知ったのです。
その後、あまりにも無残だというのであの塔は使われなくなって久しい。
わたしとても、妹のクラリサをあそこに入れるよりは、石打ちの刑を選んだほどに、
あの塔で魔女の身に加えられる刑罰は、さほどに身の毛もよだつものだった。
あれこそは、魔術師の街カイエスブレームがこの世に遺した火刑の塔。
あの塔の壁が、なぜ黒く煤けているのか分かりますか、伯爵。
あれは、閉じ込められた魔女たちが苦しみのあまり、歌を歌い、
己の身を焼く炎を僅かな空気の風に乗せ、涙の代わりに外に流した、その名残なのです。
エンデ侯は袖で口を押さえて笑った。
その時には魔女の涙と共に、塔そのものが、まるで灼熱の鉄塔のように爛れて見えるとか。
「魔術による拷問の塔。灰となるまで、決して出られはしないのだ」
「ユーディットを塔から出せ」
「云っておくが、たとえ凧があったとしてもあの結界には近づけんよ、
たとえ君でもね、ヴィルト君」
エンデ侯に掴みかかろうとしたアトレーユを制したのは、伯爵であった。
片腕でアトレーユを遮り、怒りに燃えて、伯爵はエンデ侯へと進み出た。
階段を昇っていく伯爵は、その全身が、怒りで白々と燃え立っているように見えた。
エンデ侯は、それを待ちうけ、なおも口元に笑みを浮かべていた。
夜風までもがおののいた。
「魔術師であるわたしを敵に回すか、エンデ侯」
「得策ではないかも知れませんね」
「それを今、身をもって、御身に教えてやろう」
「今さらだ、伯爵」
エンデ侯はかっと眼を見開き、迫り来る伯爵を見据えた。
その痩身が病の焔と共に伸び上がり、
落ち窪んだその眼からは凝縮した呪詛が火の矢となって飛んだ。
わが妹を破滅に追いやった魔術師に、今こそ正義の裁きと鉄槌を。
妹を殺した男に、未来永劫消えることのない、地獄の悪夢と苦しみを与えよ。
バルトロメオ伯爵は眼を細めて立ち止まった。
「復讐の時は来たれり、というわけか、エンデ侯」
「領主の立場からはそれもままならぬ」
「クラリサを失った代わりに、あの娘を焼いて見せようというのか」
妹を失った男と、恋人を失った男は、はっしと睨み合った。
その声は、星空から落ちてきた。
「エンデ候」
アトレーユが振り仰ぐと、塔に閉じ込められたユーディットは真っ青な顔をして、
月光に絶え果てんばかりの様子で、辛うじてルキノに支えられていた。
己の運命をとくと知り、恐怖に震えながら、それでもユーディットは下界の男にそれを告げた。
「エンデ侯。あなたが伯爵とアトレーユを傷つけたら、わたしはあなたを許さない」
ユーディットは塔の中で焼き殺されてきたすべての魔女の亡霊のようだった。
その青みを帯びた金髪は、月光に揺れて、はじめて逢った時の白い服を着て、
塔の中の花のように見えた。
「伯爵とアトレーユを傷つけたら、わたしが許さない」
エンデ侯の息の根を止めたのは、魔女だ。
[続く]
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