[カイエスブレームの翼] ChapterZ
■カイエスブレームの翼
遠い昔、戦争が起こり、男たちは異郷へ行った。
帰りを待つ女たちは、夫や息子の不在のあいだ、不安や孤独、
誰にも打ち明けられない胸のうちを、動物や植物に語りかけるようになる。
女たちは草木に詳しくなり、獣たちは女たちに懐いた。
大切な人の身代わりとして、女たちはそれらをわが子同然に大切に扱い、
今日は良い天気だ、あの雲をご覧、明日は雨になりそうだ、そんな言葉をかけるようになった。
やがて彼女たちは魔女と呼ばれて、火炙りとなるだろう。
旱魃も降雪も、この女たちが招いたのに違いない。
女たちが森で怪しげな呪文の言葉を獣相手に唱えているのを、
人々は確かに聞いたのだ。
「ごらん、風が吹くよ」。
マリエンシュタットにはアトレーユが知る限り魔女はいなかったが、
魔女の痕跡は中世の逸話として数多く残っていた。
現在のマリエンシュタットに魔女がいない理由については、魔女裁判により魔女は火刑もしくは、
水漬けにされたため、湖のある街は生き残りの魔女から忌避されたのだということだ。
そして古い伝説は伝える。
マリエンシュタット湖に日没の光が落ちる時、黒い水面に夕陽が最後の赤い光を落す時、
日暮れの湖の上に、一人の魔女が立っていたという。
水面に靴をつけて、遠目には細い棒のような姿で、何をすることもなく、
赤い花びらのような光を踏みしめて、魔女は夕暮れの湖に沈むことなく立っていた。
話がここに差しかかると、たいていの女の子たちは悲鳴を上げて、
傍の男にすがりつく。
「怖いわ」「なに、大丈夫さ」「帰り道どうしようかしら」「もちろん、送っていくよ」
見え透いた手口ではあったが成功率は高く、つまりそれだけ魔女というものは怪談に近く、
同じやり口で女の子を釣ろうとは思わなかったにしろ、横でそれを聞いていたアトレーユにも、
魔女についてのうっすらとした不気味は残った。
魔女は得体が知れない。
どんな怖ろしいことをするか分からない。
中世の人々は魔女と呼ばれる女たちに全ての罪を着せてその服をはぎ、
財産所領を取り上げた上で女たちを焼き滅ぼした。
引き立てられて行く女たちに石を投げつけ、ひとかけらの罪悪感もなく、彼らは喚き立てたのだ。
『魔女を殺せ、魔女を殺せ』。
雪が降っていた。
熱い灰のように降っていた。
消えていった幾万の魔女たちの祈りに見えた。
雪は血の匂いがする。
こんなにも白いのに、血の匂いがする。
「ユーディット。ルキノ」
雪の中、アトレーユは、火刑の塔に走り寄り、
黒々とした塔の中に閉じ込められた二人に向かって声を上げていた。
大昔の火刑の名残か、火刑の塔の周囲には草も生えず、あたりの大地も黒く錆びていた。
近付こうとしたアトレーユは、あと少しで扉に手が届くという処で、
見えない壁にぶち当たって跳ね返され、後ろに転んだ。
ユーディットの顔が悲痛に歪んでいるのが見えた。
この雪も君の魔力なのか、ユーディット。
それならば、魔女の魔力でもって、そこから出て来い。
「ユーディット」
どんな方法でもいい、エンデ侯を殺してもいい、どんな怖ろしい魔術でもいい、
そんな塔の中にいる君をここから見ていることには耐えられない。
風は熾らず、雪はただ下に落ちるばかりだった。
「アトレーユ」
閉じ込められた塔からユーディットとカイト乗りのルキノは手をたずさえてアトレーユを呼んだ。
拳を握り締めて、アトレーユは上階からこちらを見ている二人に顔を上げた。
後ろに下がると、塔の真上に炎が見えた。
太陽のようにそれは不気味な火炎を上げて、伸び上がるとみてはまた低く火柱を縮ませ、
火の玉となって漂ったまま、夜空の下に赤く静まっていた。
「屋上にある火種が塔を貫く信管を伝って落ちてくると、
中の人間が燃え上がるそうだ」
ルキノは震えながら四方の壁を指した。
「俺たちはここで、魔術の炎にじわじわと炙られるそうだ」
いつも陽気なその顔はユーディットと同様、血の気が引いて蒼褪め、
口ひげまでもが震えていた。しかし、ルキノは健気にも声に力をこめた。
「こんな処にユーディットを一人では置けないと思ったんだ」
「待ってろ、ルキノ。ユーディット。今、カイトを取って来る」
アトレーユは塔から離れた。
人工的に張った結界ならば、解ける術があるはずだ。
エンデ侯の嘲笑が上がった。
「無駄だと云ったはずだ、ヴィルト君」
アトレーユ目掛けて、小石ほどの何かが飛んできた。
「受け取りたまえ」
エンデ侯の手から放り投げられ、夜空に弧を描いて落ちてきたそれは、
受け止めたアトレーユの手の中で粉々に脆く砕けた。
松明の灯りの影、指の間から黒いかけらが地にこぼれた。
焼け爛れて炭化した、小さな何かだった。
伯爵がユーディットに与えた、赤い指環。
「お前……!」
「溶鉱炉の中で熔かし、鉄床で打ち、ようやく壊れました」
アトレーユには構わず、エンデ侯は憎悪と嘲笑をこめて、バルトロメオ伯爵に告げた。
篝火に照らされたその半面は悪鬼のようだった。
侯は塔のルキノに向けて顎を向けた。
「あそこにいる甥のルキノに感謝することです、伯爵。
クラリサの持っていた指環をあの小娘がはめているのを見た時、
指ごと切り落としてくれようかと思いましたが、
駆けつけてきたあの甥が身を張って止めたのです。
死んだ異母姉の遺児のあれを半島の片田舎から
ファドジィルに呼び寄せてやった大恩も忘れ、
魔女と共に焼け死ぬほうを選んだとは、我が甥ながら愚か者。
ああして塔の中に一緒にいれば、
わたしが魔女を火刑にすることはないだろうとでも、思っているのだ」
エンデ侯はいよいよ凄みを増して口許を皮肉に歪めると、
落ち窪んだ眼窩にその眼光だけをぎらぎらと燃え立たせ、
自ら階段を下りて、雪の中へと進み出てきた。
「本人のたっての頼みで魔女と共に塔の中に入れてやりましたが、
甥の一人や二人、人柱にもほど遠い。
ルキノも考えの浅い莫迦な末路を選んだものだ。
最愛の妹を石打の刑に追いやり、その命令執行書にこの手で署名をしたこのわたしに、
妹の肉を削ぎ、骨を砕いたあの石の雨の音を思い出すたびに、
その殴打を、妹に浴びせられたその加辱を、政敵どもの勝ち誇った哄笑を思い出すたびに、
己のはらわたが焼鏝でえぐられるような苦しみを味わってきたこのわたしに、
これ以上の肉親の情を期待するとは」
「アトレーユ」
静かな声で、バルトロメオ伯爵がアトレーユを呼んだ。
端整なその横顔を、篝火と雪の灯りが交互に縁取った。
それでも伯爵の声はひどく落ち着いて、月を見上げるその眼には、
過ぎ去った冬や、まだ見ぬ春を、白い月面の何処かに探し求めているかのようだった。
すらりとした長い影を地に引いて、伯爵は優美に片腕を伸ばすと、
離れたところで怯えて見ている城の者たちを指し示して、アトレーユに促した。
「巻き込んですまない、アトレーユ。君はあの者たちと逃げてくれ」
「伯爵も、エンデ侯も、いい加減にしろ」
焼け焦げた指環を地に叩きつけて、アトレーユは伯爵と侯の間に割り込んだ。
雪が舞い上がった。
花の中で眠っていた、棺の中のメルセデス。
故郷の島にも冬になると、雪が降った。
海上に広がる薄黄色の空から降る雪は、海風の匂いがしていた。
海にやさしく溶けていく、穏やかで明るい午後の雪だった。
「クラリサは生きている。名を変えて、マリエンシュタットにいた」
アトレーユはエンデ侯と伯爵の双方を見据え、はっきりと云った。
火刑の塔の上では業火の炎が赤黒く踊っていた。
その火は何ひとつ照らさぬままに、闇の中に赤く怖く燃えていた。
クラリサは生きている。
「クラリサは未亡人で、莫大な財産持ちで、海が見える処にやって来たよそ者だった。
俺は子供の頃、島でその人と逢ったんだ」
首から提げている指環を、今こそ、アトレーユは取り出した。
エンデ侯の眼の前に指環を突きつけた。
「その人からもらったものだ。
ここにファドジィルの紋章がある。あんたの妹姫の指環だ」
アトレーユの手の中で、指環は小さく赤く光った。
しかしエンデ侯はアトレーユが差し出した指環をよく見もしなかった。
喉の奥から呻き声を一つ上げただけで、やがて眼をそらし、陰鬱に低く笑い出した。
「クラリサが、生きている……?」
気違いじみた、暗い笑いだった。
エンデ侯は狂憤を底に沈めた硬い声で、鋭く反駁した。
そんなはずはないのだよ、ヴィルト君。
いや、マリエンシュタットのアトレーユだったかな。
「どこの何者でもよい、カイト乗りであろうとなかろうと、
何故そのような偽りごとを持ち出して、
ファドジィル領主たるこのわたしを今さら騙そうというのか」
「騙してなどいない」
愕いてアトレーユは眼を見張ったが、エンデ侯の硬い表情に突き返された。
アトレーユは証拠の指環を手に侯に追いすがった。
「あんたの妹のクラリサは生きているんだ」
「領主の身内へ加えられた、ただ今の怖ろしき放言、確かに聞き届けた」
侯は厳しい態度で赤い指環をアトレーユの方に押し戻した。
なるほど、確かにそれは亡き妹の指環に似ているようだ。だが、
そのような偽物にわたしが騙されるとでも思うのか。
おおかたその指環こそ、そこなる砂漠の魔術師が拵えたまがい物であろう。
エンデ侯は冷酷な目つきで伯爵を睨みすえた。
「何とか云ってくれ、伯爵」
伯爵を振り返ってアトレーユが求めたが、しかし伯爵は黙って、侯を静かに見返すだけだった。
エンデ侯はその尊大な頭をぐっとそらし、伯爵に糾弾の指を突きつけた。
今ひとたび云う、わが妹をたぶらかし、
むごたらしい死に至らしめた卑劣な魔物に対し、人の世の正当な裁きを。
砂漠の掟がわが妹を追放したのと同様に、
同胞たるわたしには、同じその砂漠の掟が定めたまう、報復の権利がある。
戦争のためにその力を借りたいと要請し、
そこなる魔術師をファドジィルに誘き出したのはすべてこのため、今こそその時。
「砂の街を治めるわたしは、湖の領主ほど甘くはない。
頭を冷やしてとくと覚えておくがいい、風使い。
衛兵、ここなる風使いを捕えて牢に入れよ、衛兵!」
「クラリサの行方を探しもしないで、その死を信じるほうがおかしい」
居丈高な候にアトレーユは云い返した。
無力なクラリサを人々の前に引きずり出して、その刑罰を黙認したのは侯自身ではないか。
人が打たれる一部始終を知らぬ顔して眺めていた卑怯者こそお前の方だ。
「風使いふぜいに」
冷ややかにエンデ侯は見下した。
「統治者の責務も峻厳も、理解できようはずもない」
「この復讐の不当性を俺は誰よりも知っている」
迫り来る衛兵には構わずに、アトレーユはエンデ侯へと訴えた。
雪が降っていた。
大昔からずっと変わることなく、地上のこの醜悪の上に。
虐げられた女たちの上に、踏み潰された心の上に、その沈黙の上に。
アトレーユの後ろで、お天気伯爵は黙ったまま、その雪を見ていた。
雪は、白い月から零れてくるようにも見えた。
行き場のない焦燥と怒りで、アトレーユは指環を握り締めた。
「クラリサは生きているんだ!」
「そんなはずはない」
その否定は、エンデ侯ではなく、塔の中のルキノの口から放たれた。
ユーディットの隣でルキノは鎮痛な顔をして、塔の高みから地上の彼らを見比べていた。
おじの領主の顔を窺いながらも、ルキノは口ごもった後に、アトレーユに打ち明けた。
「そんなはずはないんだ、アトレーユ」
「ルキノ」
アトレーユはルキノを振り仰いだ。
黒々と聳え立つ火刑の塔から、ルキノは首をふった。
荒野で死んでいた可哀想なクラリサを空から見つけて、
地に埋めたのは俺なんだ、アトレーユ。
「岩陰に倒れて、眠るように眼を閉じていた。
カイトで傍に降り立った時、クラリサは間違いなく死んでいた」
血だらけのその亡骸に、俺が服を着せて、
河の水で出来るだけ清めてやって、あの子が見たら歓びそうな、
いちばん涼しげできれいな緑の樹の根元に、花と共に埋めてやった。
弔いの鐘も鳴らされず、誰ひとり、あの子をみとらないままに、
彼女はひとりぼっちで大勢の人々に憎まれながら死んでいったんだ。
ルキノは唇をかみ締めた。
俺だって、どれほどそのことを悔やんで今日まで生きてきたか。
「クラリサはもう苦しみから解き放たれて、星の世界へといったんだ。
だからもうこれ以上、あの子のことを邪推するのは止めてくれ。
そしてクラリサは、きっとあんたの許に行こうとしていたんだと思う、伯爵。
石を投げつけられ、傷ついた足で歩きながら、
砂漠の彼方の、あんたの許にね」
それを聞いた伯爵の顔に悲痛が痛ましい痙攣のように薄く浮かんだ。
だが、伯爵は背筋をのばして立ったまま、塔を振り返ろうとはしなかった。
そこにはユーディットがいて、無言のままに、伯爵の背中を見ていた。
ルキノは繰り返した。
クラリサは死んだんだ、三年前に。
その墓は洪水の時に河底に沈み、指環はきっと、その時に流されて失われたんだろう。
アトレーユが持っているその指環は、洪水の後に発見されて、
巡り巡ってマリエンシュタットに渡ったのに違いない。
アトレーユはそれを手に入れたんだ。
「指環は確かにクラリサのものかも知れない。だけど、クラリサはもういない」
「嘘だ」
アトレーユは云い返した。
メルセデスは赤い指環を持っていた。
歌を歌い、俺のカイトを風に乗せ、空へと揚げてくれていた。
海風を渡る懐かしいあの歌声。
魔術師に愛された女でなければ誰があのようなことが出来るものか。
誰かが嘘をついている。
伯爵か、エンデ侯か、ルキノのうちの誰かが。
「アトレーユ」
その時、ユーディットが震える声で彼を呼んだ。
塔の窓枠に片手をついて、ユーディットは紺碧の重なる夜の空の果てを見つめていた。
「アトレーユ、ここから、伯爵の屋敷が見えるわ」
地上にいるアトレーユにはそれは見えなかった。
高い塔の上から、ユーディットは夜空に手を伸ばした。
「屋上に繋いだ、あなたの青いカイトが見えるわ」
「そこから眺めているがいい、魔女」
エンデ侯が指を鳴らした。
たちどころに押し寄せた衛兵たちにアトレーユは押し包まれた。
「アトレーユ!」
ユーディットとルキノが悲鳴を上げた。
囲まれたアトレーユを一瞥し、歩み寄ろうとした伯爵の前に、エンデ侯が立ちふさがった。
「魔術師たるあなたのことだ。いろいろと手立てもございましょう」
エンデ侯は眼を不吉に輝かせた。
しかし全ては無駄なことです。
「火刑の塔にいかづちを落し獄を破壊してみせようと、
大地を高く持ち上げて彼らが窓から逃れる足場を構築してみせようと、
或いはここを深海や密林に変えて、砂漠の民を溺れさせてみせようと、
あの塔はカイエスブレームの遺物、何人の魔術もかかりはしない」
「果たしてそうかな」
「強がりを」
首を傾けて云い返してみせた伯爵に対し、
エンデ侯は待ち望んだ復讐の刻が近づく悦びにおののき、塔の上の炎を見上げた。
伯爵の周囲を回りながら、平然としている伯爵の顔に動揺のひび割れがないかと探し、
新たな憎しみを刻み込むようにして、侯は伯爵を嘲罵した。
あなたの眼の前で、あなたの愛する娘が天罰の業火に焼かれていくのを見ているがいい。
その悲鳴、その苦悶のさまを、とくとご覧になるがいい伯爵。
そしてクラリサの無念を思い知るのだ。
「魔女を救おうとしても無駄なこと。
あなたの魔術は、塔の結界に吸い込まれて消えていくばかりだ」
「アトレーユ、おいで」
伯爵は衛兵たちの間で暴れているアトレーユの方を見返り、その手を差し伸べた。
衛兵の突きつけている剣から火花が飛び出し、慌てて彼らは手からそれを放した。
アトレーユは衛兵を振りほどき、伯爵に向かって走って行った。
「君は魔術に酔うほうかな、アトレーユ」
アトレーユを抱きとめた伯爵は、嘆かわしそうに、アトレーユの乱れた襟元を整えた。
アトレーユは破れた上着を脱ぎ捨てた。
「伯爵、何をする気だ」
「少々、大ごとになっても、気絶などしまいね」
「今さら」
四方から押し寄せた衛兵が二人を取り囲み、その包囲網を縮めていた。
アトレーユは伯爵に力強く頷いてみせた。
地べたで起こることにいちいち動転するようなヤワな神経で大空が飛べるものか。
窮屈な上着を脱いでせいせいした。
「俺はカイト乗りだ」
やっちまえ、伯爵。
バルトロメオ伯爵は、夜空を広く眺め渡した。
その翡翠色の眼が輝き、真上からは、星の風が吹いてきた。
その先には火刑の塔があり、魔術の炎があり、その上に白く輝く、煌々とした月があった。
「伯爵」
塔の窓からユーディットが身を乗り出した。
伯爵の熾す風が次第に強くなり、それは渦を巻き、柱となって空に伸びていった。
伯爵は両手を宇宙に高々と差し伸べた。
渦巻く風が、銀色の軌跡となって、星を巻き込み空高く昇っていく。
虹色を光らせ、星のかたちを歪ませ、天界のあらゆる現象を巻き込みながら、
夜空を裂いて、その裂け目から遠いとおい、銀河を垣間見せた。
あらゆる渦巻きが星々と一緒になって、伯爵の頭上高くで回転を始め、
風が唸り、雲がぶつかり、星々が地平線の彼方に流れ落ちていった。
それは奇怪な耳鳴りを伴って、ファドジィル中の人々を恐怖で地に倒した。
ごうごうと唸る風の中、アトレーユは軋みをあげて歪んでいく夜空を見上げていた。
カイト乗りたちが行方を絶った、雪山のあの白い水の柱と同じだった。
この水音は、時の河の音なのだろうか。
アトレーユは魔術の突風の中から大声で伯爵に訊ねた。
「火刑の塔の結界を解けるのか、伯爵」
塔についてエンデ侯は云った。
この塔は古代カイエスブレームが地上に遺した遺物であり、地上の魔術師の手には負えぬと。
伯爵はこともなげな様子で応えた。
後ろで結わえていたその髪が解け、雪まじりの風に舞い上がった。
「地では泳げぬ魚は水に入れてやればよい。
火刑の塔の結界を解くとは、すなわち、それと同じこと。
結界ごと魔術の中に浸してやれば、親和してやすやすと解ける」
「待て、伯爵」
これから起こることを察して叫んだのは、アトレーユだったか、エンデ侯だったか。
確かそれをこの世に呼び込むことは、大いなる混乱を招くのではなかったか。
冷たい風に舞い上がった石礫がアトレーユの頬を薄く切りつけて傷つけた。
火刑の塔の窓からユーディットが息を呑んで刻々と色を変えて輝く夜空を見つめている姿が見えた。
それは北極の空にも似ていた。
伯爵は堂々として、四方に起こる嵐の中に立っていた。
「火刑の塔は魔術の塔。
カイエスブレームの遺物がここにあるとは申し分なく好都合。
雪の山脈に建てた柱と、わたしの屋敷、そしてこの火刑の塔の三点を繋ぐ空間座標が、
それを呼び込むための道標となる」
どおん、どおん、と何かが近付く音が夜空の果てから鳴り響き、大地が揺れた。
裂けた夜空の奥の奥から急速に何かの耀きが接近して来て、それは夜を真昼に変えた。
夜の雲が黄金に輝いた。
星が退き、迫り来る巨大なそのものの影のために、
下になったファドジィルの街は色鮮やかに燃え上がって見えた。
伯爵は両腕を広げ、待ち焦がれた歓喜を迎え入れるように、風の中に微笑んでいた。
眩しい色に照らされたその姿は、まるで世界の終わりを一身に引き受けて歌う者のようだった。
大きな魔術を果たす者の昂ぶりを顔に浮かべて、伯爵は空を覆い尽くした光の島を見ていた。
光の粉が浴びるほどに降って来た。
それは手をすり抜け、城や城の人々を通り抜け、白く輝いて落ちた。
伯爵は限りない歓びをこめて叫んだ。
砂漠の魔術師バルトロメオの名にかけて、ここに召還する。
「伯爵、いけない」
引き潮のような怖ろしい力が起こり、銀河が大きく退いた。
その津波の中から、光の船だけが飛び出した。
「カイエスブレームよ、降り来たらん!」
夜空が飛び散り、いかづちが天を引き裂いた。
あれほど自信たっぷりに大丈夫だと請合ってみせたのに、
もしかしたら束の間、気絶していたのかも知れない。
光と風に吹き飛ばされて倒れていたアトレーユは、眼を開いた時には、伯爵の腕に支えられていた。
手庇しを作って、アトレーユは眩しい空を見た。
喩えようもない光景が広がっていた。
空一面が、光の海になっていた。
それは美しい、光と塔の街だった。
ファドジィルの街の真上に、ちょうど重なる浮島のように、街はその空ごと、夜空に浮いて輝いていた。
カイエスブレームの街。
それは中世の古いかたちをした尖塔が立ち並び、その合間に、
あらゆる色が夜明けの雲のように塔の上に流れる、魔術師の街だった。
思っていたよりも小さい。
だが、これも魔術なのかも知れない。
小さいと思えば、ふいに大きく広がって、ファドジィルの街と同じ大きさに変わった。
火刑の塔の真上に浮かんだその静かな街は、見つめていると、幾つもの時代がその上に過ぎ去るように、
細かくかたちを変えて、その規模も小さくなったり大きくなったりしていた。
眼を凝らしても、はっきりとは見えぬ、星空の幻だった。
アトレーユはユーディットを探した。
ユーディットは塔の窓にいた。
先祖の魔女たちが代々言い伝えて来た伝説の魔術師の街を目の当たりにして、
身を乗り出したユーディットの眼は爛々と耀き、その頬は紅潮していた。
虐げられた人々が地を流離いながらも細々と語り伝えてきた楽園、
それこそは、星の彼方に飛び去った、魔術師たちの懐かしいふるさとであった。
魔術師の街はファドジィルの上空に静止したまま、その先端の一方を、
ファドジィルの街の高台に浮かんでいるお天気伯爵の屋敷に接して繋げた。
魔術師の街と陸続きとなった伯爵の屋敷をはるか遠くに眺め透かすと、
ユーディットは塔の窓から前のめりに身を投げかけ、何かを求めて両手を激しく空に伸ばした。
雪が止んだ。
歌が聞こえた。
ユーディットは頬を紅潮させ、眼を耀かせ、歌を紡いだ。
その青みを帯びた金髪は今は空の街の灯かりで銀色に見るまでに明るく輝き、
その歌声は星空を貫いて、伯爵の屋敷の屋上へとまっしぐらに夜空を駆けて流れていった。
そして別人のような威厳をもって、ユーディットは高らかに告げた。
魔女ユーディットの名にかけて。
「カイエスブレームの翼よ飛べ。お前の風使いはここにいる」
係留していた綱を振り切るその音を、アトレーユは聞いたような気がした。
月にまで高く届いたその青い影は、投げ上げられた青い硝子のように鋭く速い弧を描き、
魔術師の塔を掠め、光を切り裂き、遠い距離を飛び越えて夜空からアトレーユの許に落ちてきた。
咄嗟に片腕を上げてアトレーユはそれを掴んだ。
青い翼。
アトレーユのカイトだった。
間髪をいれず、アトレーユはカイトに飛び乗り、ユーディットの歌う塔の窓辺まで風に乗り、飛んでいた。
「アトレーユ!」
彼らは塔の窓辺越しに手を伸ばし、待ち焦がれた青いカイトの羽根の端を掴んで引き寄せた。
言葉もなく、彼らはしばし風の中に見詰め合っていた。
地上にいる伯爵が肩をすくめて、促した。
「実は本式の召還ではないのだ。
それゆえ、あの街は実体ではなく、蜃気楼のようなもの。
長くは持たない魔術なので、早く二人をそこから出してやりなさい」
伯爵がすでに解いたものか、火刑の塔の結界はもはや彼らの邪魔をしなかった。
屋上の鬼火も消えていた。
「ユーディットから降ろしてやれ、アトレーユ」
ルキノがユーディットを抱え上げて窓辺に立たせた。
アトレーユは片腕でユーディットを受け取り、カイトのフレームにその手を掴まらせた。
夜空に浮かぶカイエスブレームの街の輝きを眺め上げていたユーディットは、
アトレーユを見ると、幼子のように微笑んで、
ばら色の光の中からアトレーユの翼の下に入って来た。
ユーディットを地上に降ろしたアトレーユはすぐさま、今度は自力で風を捕えて、
再び火刑の塔へと揚がり、今度はルキノをカイトに移した。
「ありがたい。早く出たかったんだ、こんな不気味な塔」
ルキノは心からそう云った。
塔の周囲には絶え間なく風が吹いていたが、それはゆるやかなものであり、
風は青い凧を塔から引き離すと、二人を乗せたカイトをすべらかに地上へと運んだ。
アトレーユとルキノの笑顔が凍りついたのは、地上へと降り立つ直前だった。
地上の人々は、忽然と現れた魔術師の街に恐れおののき、
夜空に光の蓋をしたようなそれを直視することで眼が潰れることを怖れてことごとく地に打ち伏し、
城中の物陰に隠れていた。
エンデ侯も例外ではなかった。
その顔を袖で覆い、視力を失くした盲のように、
よろめいて片手を前に伸ばし、手探りで、何かに掴まろうとしていた。
魔白い光の下、その袖の下から、血走っているエンデ侯の眼が見えた。
その袖口から現れたものを、剣の光だと、誰が見抜いただろうか。
剣の切っ先は、視界を失くしてよろめいている候を受け止めようとして
腕を伸ばしたバルトロメオ伯爵の身体にまっすぐに吸い込まれた。
アトレーユが絶叫を上げたのは、その後だった。
伯爵が剣で刺されるのを見たユーディットの翡翠色の眼が、かあっと怖ろしい色に燃え上がった。
それはアトレーユの知らない、魔女の顔だった。
カイエスブレームの街の灯が、地に片膝をついた伯爵の足許にしたたる血を照らしつけた。
雪原のように辺りはぼんやりと白かった。
止めようとした伯爵の手を振りほどき、その上をユーディットの赤い靴は歩いた。
ユーディットの手には、いつの間にか、血のついたままの剣が拾い上げられて握られていた。
アトレーユは空から叫び、ルキノと共に転がるように地上に降り立った。
「やめろ、ユーディット!」
彼らは走った。
青いカイトが頭上を過ぎて、受け取る者もいないままに地に墜ちた。
その彼らの眼の前で、剣を掲げた魔女はそれを振り下ろし、エンデ侯に斬りつけた。
そしてエンデ侯はユーディットを突き飛ばし、ユーディットの真上に
隠し持っていた短刀をひるがえしていた。
血を散らしてユーディットが倒れた。アトレーユの腕の中に踊るように倒れてきた。
「ユーディットを連れて逃げろ、アトレーユ!」
伯爵の叫びを、悪夢のようにアトレーユは聞いた。
[最終回に続く]
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