[カイエスブレームの翼]

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[カイエスブレームの翼] Chapter[

■星の歌



バルトロメオ伯爵は離れていたところに落ちていたアトレーユのカイトに向けて指を鳴らした。
何かの強い糸で引っ張られるようにして、カイトは空を横切り、アトレーユの許へと滑って来た。
着陸の際にアトレーユと違い、翼から放り出されるままに転んで遅れていた
ファドジィル空軍のルキノがようやく駆けつけて来ると、すりむいた鼻の頭をしながら
周囲を見回し、ユーディットとアトレーユ、伯爵とエンデ侯を血相を変えて見比べた。
「わたしは大丈夫だ」
ルキノが手を貸そうとした伯爵は、蒼褪めながらも一人で立ち上がった。
歩き出しながらルキノの肩に手を置くと、
「新調の帯が台無しだ」
上着の前を開いて、エンデ侯の剣で裂かれた飾り帯を見せた。
赤く汚れてはいたが、血は止まっていた。
「己の上には自らの手で魔術をかけにくいのが魔術師の難点だが、
 呼び寄せた魔術師の街の影響下にあるお陰で、 『傷など負わなかった』ことに出来た」
「伯爵、ユーディットが」
アトレーユはユーディットを腕に抱えて、伯爵を呼んだ。
「ユーディットがあんたを守ろうとして、エンデ侯に斬られた」
「深手ではない」
ユーディットに向けて手をかざした伯爵は、しかし、眉根を寄せて、
カイエスブレームの街灯かりの下、エンデ侯の方へと急いで踵を返した。
「エンデ侯、ユーディットを刺した短剣を渡してもらおう」
「魔女は死んだか」
「黒魔術に手をそめられたか、エンデ侯」
「このような無様な羽目になった者にそれを訊くとは、痛み入る」
「魔術師も人も、決められた命数しか生きぬのだ、エンデ侯。
 自らの健康を損ないまでして、さほどまでに、
 そなたの怨恨と野心は犠牲を厭わなかったのか」
バルトロメオ伯爵は沈痛な顔をしてエンデ侯を見下ろした。
「三年前のあの大洪水。あれは、侯が未熟なその腕で黒魔術との交合を試み、
 それが失敗の結果の大惨事であろう。
 大地を浸し、樹木を枯らせ、多くの人命と引き換えに、
 侯はファドジィルの再建と繁栄を魔に祈り、
 迷信と蒙昧からこの砂漠の地を解き放とうとされた。
 だが、人は決して迷いや過ちからは逃れられはしないのだ。
 あなたが結局は、妄信に囚われたままであったように」
ユーディットに肩を斬られたエンデ侯は、迎賓館の階段に背中をつけて、
さきほどに比べるとやや耀きの失せ始めた魔術師の街を濁った眼で見上げていた。
その顔には、疲れ果てた末の安堵といったものが浮かび、
その眼には、今だ憎しみにしがみつく怨念の残り火があった。
「呪いを解くことは、己にしか出来ぬのだ、侯。
 愛する者を喪った恨みつらみを振り撒けば、ふりまくほど、
 呪いはおのが身の上に深く根を下ろし、もはや自力ではそれを抜けぬほどに育つのだ」
伯爵は続けた。
「魔術師でもない者が、魔に近付いたとて、あのような洪水の悲劇を招くだけであること、
 何故、賢明なる侯がお気づきにはならなかったのか。
 侯が治めるこの都市の進歩は、魔術によるものではなく、
 侯の英断と裁量の地道かつ強固なる積み重ねであったことに、
 何故、ご自身でお分かりなかったか」
苦しい息の下からエンデ侯はやせ細った片腕を上げて、
振り払うように空に浮かぶ街へ向けて手を緩慢に動かし、もう一度繰り返した。
「魔女は死んだか」
「クラリサが魔女ではなかったことを、誰よりも知っていたのはあなたではなかったのか、エンデ侯」
「領主さま!」
そこへ、女の声がした。
バルトロメオ伯爵がはっとなったのは、それが、クラリサに似ていたからかも知れない。
しかしそれはクラリサではなく、階段から駆け下りて来て領主に取りすがったのは、
領主の可愛がっている侍女にしか過ぎなかった。
すばやく、伯爵はエンデ侯の手から短刀をもぎ取った。
短刀の柄にはユーディットのものと思しき、髪の毛が巻きつけてあった。
「魔女を傷つけるには、魔女の持ち物がよい」
エンデ侯は掠れた笑い声を上げた。
「魔術師の街カイエスブレームの召還はお見事でした、伯爵。
 しかし、あなたの大切な魔女の命はこの手で奪わせてもらった。
 あの傷ならば、あなたにもそうたやすく治せないはず」
「魔術師をなめてもらっては困る」
伯爵は侯にはもうそれ以上構わずに、短剣を手に身をひるがえして立ち去った。
その姿を虚ろな眼で見送ったエンデ侯は咳き込むと、病のためか、
それとも傷のためかは分からぬ血を吐いた。
「領主さま」
侍女の支えを振りほどき、エンデ侯は肩の傷を押さえて立ち上がった。
そして、空中に浮かぶ魔術師の街カイエスブレームのゆらぎを今ひとたび睨み上げると、
その眼を地上のアトレーユと、アトレーユの青いカイトへと転じた。
エンデ侯の眼に、憎悪とは違う、施政者の強い意志と執念、そして自負心が燃え上がった。
「わたしはファドジィルを治める者。
 砂漠の民の繁栄と、その安寧を守る者。
 青い間諜。マリエンシュタット空軍の密偵をこのままにはしておかぬ」
「アトレーユ、逃げろ!」
慌ててルキノが叫んだ。
伯爵はその魔術でユーディットの出血を止めることだけは出来た。
処置が終わると伯爵は、ユーディットの髪が巻かれた短刀をぽきりと二つに折った。
アトレーユは自分の腰から飾り帯を抜き取ると、それでユーディットの傷口を急いで縛った。
「あのカイト部隊は、迎撃用だ!」
火刑の塔の上には、再び、白い月が昇っていた。
その向こうから、編隊を組んでこちらへと向かって来る赤いカイトの影が見えた。
夜に浮かぶ魔術師の街は、あれは本式の降臨ではなく、蜃気楼なのだと云った伯爵の言葉のとおりに、
次第にその生彩が失せ、銀河の果てへと徐々に透き通って消えていこうとしていた。
黒い潮に沈み込むように、魔術師の街の尖塔が先から星空に吸い込まれ、ゆっくりと、暗く淡くなっていく。
魔術師の街の消失に合わせて、エンデ侯の兵士が篝火の向こうから押し寄せて来るのが見えた。
バルトロメオ伯爵はアトレーユとユーディットをカイトに掴まらせると、
はるか遠くの山並みを指し示した。
星明りにその稜線が細く浮かぶ山脈は、アトレーユが落ちてきた山だった。
「ユーディットを連れて、あの雪山へ。君を元の世界に帰す時が来た」
「伯爵!」
「後から必ず行く」
青いカイトは伯爵とルキノを残して、伯爵が指を鳴らすと同時に地を離れ、
薄れゆくカイエスブレームの空中都市まで空高く舞い上がった。
冷たい夜風がさあっと抜けていき、上にはカイエスブレームの街が、下界にはファドジルの街が見えた。
雪の山脈に向けて舵を切ったアトレーユは、後方から襲い掛かって来た赤いカイトに眼を向けた。
正規のファドジィル空軍とは違い、赤いその翼に一筋、金の線が入っている。
迎撃用といっても、仕様上カイトには武器は搭載されない。
だが、もし自領の空に他都市のカイトが不法侵入してきた場合に備え、
空中から該当機を地に落す訓練を受けた特殊部隊が存在した。
失敗すれば空中衝突も避けられず、自軍の貴重なカイト乗りを多く失う危険性が高いために、
後の時代には軍のカイトは偵察に徹して攻撃性は見送られる傾向と変わったが、
この時代にはまだそれが生きていた。
左右に迫ってくる。
「アトレーユ」
ユーディットが怖れた。
アトレーユは怪我を負っているユーディットが力尽きて落ちないように、
手に手を重ねてフレームを掴んでいたが、二人乗りではいかんせん、機動力を大きく欠く。
地上の伯爵はルキノを庇ってエンデ侯の差し向けた兵隊の対応に追われており、
脇腹に傷を負ったユーディットには、風の歌が歌えなかった。
金線入りの赤いカイトは、青凧の周囲ではじける果実の種のように散開した。
前方に回ったカイトは青いカイトの進路を遮断すると、横につらなって視界を塞いだ。
歪んだ風を直撃で受けて、後続のアトレーユのカイトは傾いた。
カイトは左右からも、そして圧し掛かるように真上上空からも現れ、
外敵に群がる赤い蜂のように、包囲した青いカイトを地上へと押し下げていく。
遠くからはそれはまるで赤い籠の中の青い鳥に見えた。
この闇の籠の中で無理に動くと衝突する。
忍耐強くアトレーユは風の切れ目を待ったが、目隠しされたようなものであり、方角が分からない。
彼らが意図するままに下降していく他なかった。
ファドジィルの砂漠が近付いてくる。
意を決したアトレーユは、地上に落とされる前に斜めに機体を傾けて間をすり抜けようとした。
しかしそれは予測の範疇であったとみえて、赤いカイトはさらなる密集隊形を取ると、
逃げ道を閉ざした上で、翼と翼をぶつけ合うようにしてアトレーユのカイトの退路を絶ち切り、
翼の端でアトレーユのカイトを突き飛ばした。
「アトレーユ、わたしを落として、逃げて」
ユーディットが叫んだ。
アトレーユはユーディットの手を握り締めたまま、群がる赤いカイトを睨んだ。
その時、霞んで消えていこうとしている魔術師の街から、荘厳な鐘の音が響いた。
はるか遠くまで、その音は宇宙いっぱいに鳴り響いた。
星を震わせ、夜風を波立たせて、一斉に鐘楼の鐘が鳴っていた。
はるか遠くへと再び去っていく魔術師の街の、その別離の挨拶のように、
中世の鐘の音は銀河の隅々にまで重なりあって強く、美しく鳴り響いた。
カイエスブレームの街の空は晴れていた。
薄れていくその空に、黒髪の少年がカイトで飛んでいた。
少年は翼を風に乗せ、すうっと下がってくると、ちょっとびっくりした顔をして、
幻の霧ごしに、隣に並んだ青いカイトと、アトレーユとユーディットの姿に気がついて見ていた。
魔術師の街を背景に、少年はぼさぼさの黒髪の間から、澄んだ眼をして、こちらを見つめていた。
少年は片手を動かし、一つの星を彼らに示した。
そしてにっこりと笑って、カイエスブレームの空の中へと飛び去っていった。
魔術師の街が完全に空に消えた。
少年が教えた星を目指して、アトレーユのカイトが高く飛んだ。
赤いカイトも追いつかなかった。
星の野を歓びで駆ける青い鳥のように、アトレーユのカイトは赤いカイトを振り切った。
包囲網から飛び出した青凧は、人々の見ている前で、ぐんぐんと空を昇り、
輝く星をひたすら目指して、星の林と雲の海を超え、ファドジィルから離れていった。



月光が雪の峰を細く照らしていた。
確かこのあたりだったという地点でアトレーユはカイトの高度を下げた。
白い嵐に巻き込まれ、ユーディットと出逢った雪渓である。
先に飛び降り、ゆるやかに旋回して戻って来たカイトから、ユーディットを抱きとめた。
二人で転んで倒れたが、雪が受け止めてくれた。
月の光の流れる雪原は、蒼く輝く、静かな大河のようだった。
カイトの風を受けて樹木から雪が舞い上がり、二人の上に粉雪となって降り注いだ。
雪に頬をつけたまま、横たわったユーディットが月を仰いだ。
ここまでよく辛抱していたが、やはり怪我が傷むようだった。
ユーディットは、そこにカイエスブレームの街がないのが残念だというように、
その瞳を星空に向けていた。
「ユーディット。ほら、君の指環だ」
アトレーユは首から提げていた指環を、ユーディットの指にはめてやった。
メルセデスの指環は、エンデ侯に焼かれた指環の代わりに、ユーディットの手に赤く輝いた。
ユーディットは眼を閉じた。
「眠っちゃ駄目だ、ユーディット」
「眠らないわ。でも、何か話して」
寒いのでカイトの陰に身を寄せ合った。
エンデ侯に斬られたユーディットの傷口に、アトレーユは手を置いた。
応急処置程度ことは軍で覚える。
お天気伯爵の魔術では治せなかったようだが、傷は臓器も骨にも届いておらず、
自然治癒する傷だと分かると、安心した。
氷片を取ってきて、小さなそれを飴の代わりにユーディットの口に入れてやった。
傷口をもう一度、飾り帯できつく縛った。
ユーディットは白い服に飾りをつけた雪のお人形のように見えた。
顔を近づけて、アトレーユはその耳に囁いた。
さっき、カイエスブレームの風使いを見た。
黒髪をした少年で、雪山への道を教えてくれた。
あれがヴィルトなのかどうかは俺には分からない。
魔術師の街の上を飛んでいた。
でも、心外だな。
あんなひょろりとした奴に、似ていると云われるなんて。
「同じ偏屈者のカイト乗りでも、あれなら、俺のほうがまだマシなんじゃないか」
ユーディットは少し微笑んだ。
舞踏会用のユーディットの靴が雪に濡れて赤く光っていた。
「それに、あんな貧相くさい奴よりは、俺のほうがきっと上手に君と踊れる。
 伯爵には敵わないかも知れないけれど」
それはおそらく、彼なりの告白であったのかも知れない。
ユーディットは微笑んだ。
ヴィルトと伯爵とアトレーユ、誰がいちばん踊りが上手なのかは知らないわ。
「でも、一緒に空を飛んでいる間、風の音楽の中を、あなたと踊っているような気がしていたわ」
アトレーユはユーディットにやさしく囁いた。
「どうして俺に彼が見えたのかな。二度目なんだ」
風使いの決闘の時にも、空を飛んでいる彼の幻を見た。
答えの代わりに、ユーディットは指先で、アトレーユの唇に触れた。
(おまじないよ)
空を飛ぶ者の心を運べ。
時を超え、嵐を超え、永遠に受け継いでいけ。
青空を駆けていく少年よ、風使いの名を、君に与えよう。
君は知る。
かつてこの世にあった遠い街にも、風を渡る者がいた。
青い翼で空を愛した。
「わたしは何もしていないわ。あなたが、風使いだから、ヴィルトに逢えたのよ」
ユーディットの冷たい指先を、アトレーユは手で包んだ。
「伯爵と、ルキノが来たわ」
振り返ったアトレーユは目を疑った。
どうにかして手に入れたらしき赤いカイトはいい。
だが、お天気伯爵はカイトを普通には使わず、その翼の上に前線指揮官のように直立しており、
その足許ではルキノが翼の屋根にしゃがみ込んで、翼越しに下界を怖ろしそうに眺めていたのである。
夜鳥がその後に続き、鳥を率いて月を横切るその姿は、まさしく魔術師であった。
二人はこちらに気がつくと、着陸態勢に入って高度を落とした。
カイトの上に立ってカイトを操る魔術師のそのお手並みを、
うさん臭そうな眼でアトレーユは呆れて眺めていたが、
ユーディットの言葉で我に返った。
お別れするのは辛いけれど、あなたは、元の世界に戻らなければ。
アトレーユに凭れたまま、ユーディットは翡翠色の眼を伏せた。

「元の世界に戻って、戦争を止めなければ」

あなたが百年後の世界から来た人だと知った時、わたしは泣いたわ。
いつかお別れするのだと思って、とても哀しかった。
わたしを慰めてくれた伯爵は、それなら、もう少しだけあなたにここに居てもらおうと決めたの。
何もかもをご存知の上で、伯爵は友だちのいないわたしの為にそうしたの。
百年後、また戦争が起こるのね。
それを止められるのは、アトレーユだけなのね。
そして、あなたが行ってしまったら、わたしはあなたのことを、忘れるわ。
時の河の流れに入った異物は、それが取り除かれた後、その痕跡をただちに埋めて
再び何事もなく流れ始めるの。
わたしはあなたのことを完全に忘れてしまうわ、アトレーユ。
もう一度逢っても、誰だか分からないまでにね。
あなたの故郷を見たかったわ。
いつか、見ることがあるかしら。
そこにも青い空があり、海の島、丘にはカイトの練習をしている男の子がきっといるわね。
わたしはその男の子がもう誰だか分からないわ。
でも名前は知っているわ。
彼は、ヴィルト。
風使いは、そう呼ばれる。

雪原に降り立った伯爵は、両手を上げて、時空の柱を出現させた。
きらきらと雪の粉を巻き上げながら、それは月にまで届いた。
アトレーユはルキノと、そして伯爵と別れの握手をした。
ルキノとアトレーユは、手を額の前に斜めにあててカイト乗りの挨拶を交わした。
そしてすぐにその手を降ろした。別れは済んだ。
伯爵は請合った。
君の帰還後、この時空の柱はわたしの手で破壊しておく。
もう二度と、後の世に不可解なことは起こりはしない。
中世の闇も優美も、こうやって一つ一つ、消えていくのだろう。
それもまた、我々には止める術もないことだ。
伯爵はユーディットを支えて立たせ、アトレーユの傍まで連れて来た。
「そこの伯爵が死んだら、島に来いよ、ユーディット」
失礼なことを平気で云ったが、伯爵は大目にみたものか、何も云わなかった。
辛い時、哀しい時ほど、口悪く、ぶっきらぼうになるのがカイト乗りだった。
あまりユーディットを見ないようにして、アトレーユはわざと素っ気無く云った。
島に来いよ。魔女の偏見は島にもあるけど、こっそりと隠れ住むくらいは出来るし、
内陸の都市と違って魔女狩りの歴史もないから、きっと住みやすい。
ユーディットは頷いた。
「そうするかも知れないわ。まだまだ何十年も先のことでしょうけれど」
見回しても、夜の雪原には花は咲いてはいなかった。
ここはまだ、アトレーユが生まれてもいない時代だった。
アトレーユはむすっとしたまま余所見をして云った。
本当に田舎なんだ。
何しろ子供の頃の俺は、どうしてあの人は歌を歌っているのか、
まるで見当もつかなかった。礼も云えないままだった。
それくらい、魔女のことはほとんど誰も知らない、そんな処だ。
「属領の島で、とても貧しい。だけど島には花がたくさん咲く」
「わたしはきっともうお婆さんになっていることよ。そして、あなたにもわたしが誰だか分からない」
「俺を空に揚げてくれた人だ」
歌をうたって。
それは祈りの歌なのだ。
雪嵐が輝きながら、アトレーユとそのカイトをそっと包んだ。
時の流れの音がした。
それは逆しまの白い水の流れとなって、渦を巻きながら、空高くへと昇った。
星空が遠のき、魔術の柱の彼方に青く澄んで晴れ渡る空が見えてきた。
アトレーユのカイトが浮いた。
「ユーディット、俺」
少し離れた処から、伯爵とルキノがそれを見送っていた。
赤い指環をはめた手で、ユーディットはアトレーユのカイトに触れた。
あなたの翼の名を、まだ聞いていなかったわ。
青みを帯びたその金髪を風になびかせ、ユーディットはアトレーユを見つめた。
忘れないわ。覚えているわ。
島に行く時には、きっとその名を名乗るわ。
アトレーユとユーディットの手が離れた。
アトレーユのカイトが舞い上がった。
「ユーディット」
名を呼んだ。
星が雪のように降り、雪が星のように輝いた。
空は、風使いの空だった。
ユーディットは雪の中に踏み出して、いつまでもアトレーユを見ていた。
翡翠色のその眼を光らせて、いつまでも見ていた。
他の全てを忘れてしまっても、風使いヴィルトの名と同じように、その名だけは忘れないわ。
星の歌を忘れないわ。
煌めく時の柱の底に遠くなる歌。
わたしの風使いアトレーユ。
この歌をあなたの翼に届けて。
風よ、あの翼をはこびなさい。そして懐かしい風使いを、わたしの許に連れてきて。
わたしはまたいつか、一緒に踊ってくれた風使いに逢えるわ。
彗星一号が迎えに来てくれるのを待って、いつまでも星空を見上げていた女の子。
他のすべてを忘れても。


青空の下に、赤と青の、越冬テントが見えた。
カイトの骨組みを解体し、岩陰に寄り添うようにして作られたそのテントの中から、
薄汚れた格好のカイト乗りたちが飛び出してきた。
彼らは忽然と現れた青いカイトが急降下し、態勢を見事に立て直して着地するのを見て、歓声を上げた。
砂色と水灰色の飛行服、ファドジィルとマリエンシュタットの飛行士だった。
彼らは一斉に走り出すと、カイトから降り立ったアトレーユを取り囲んだ。
彼らは口々に、偵察中、白い水の柱に巻き込まれてカイトを破損し、山から下りれなくなったため、
ここでこうして山の獣で食いつなぎながら、身を寄せ合い、救助されるのを待っていたのだ、
と興奮しながら語った。
「アトレーユ」
アトレーユに抱きついてきた者がいる。
「何て仮装だ、アトレーユ。何処から飛んで来た」
「マティアス」
彼らは固く抱き合った。
それはアトレーユが山岳に発見したカイトの乗り手マティアスだった。
愛機『グロッケンシュピエール』を失ったマティアスは腕の骨を折っていたが、
安静にしていたため、大事ないとのことだった。
百年前から生還した青年は、まず、カイト乗りたちの書き綴った証言や手紙を手に、
そこから近いファドジィルへと飛ぶだろう。
両軍のカイト乗りたちの生存を伝え、カイト乗りたちが消息を絶ったのは、
それが軍事行動による故意の撃墜ではなく、
自然現象の雪嵐による誤解だと、砂の街に説明してみせるだろう。
雪解けの水のせせらぎが、救援部隊の姿を映し出すのは遠くない。
今後この空路にあやしげな現象はもう起こらない。
魔術師の街カイエスブレームは遠く時の彼方に去ったのだ。
しかし人々は忘れない。
濃紺のカイトに乗る青年は、それを見届け、砂の街の使者として、今度は湖の街へ飛ぶ。
森の向こうにマリエンシュタットの湖が見えてくる。
市壁の上に立つ警備兵が手を振っている。
基地の仲間が、そして街の人々が走り出して、彼を迎えることだろう。
大きく旋回したカイトから、黒髪の風使いは飛び降りる。
一周して戻ってきたカイトを片手でつかまえる。
風使いが帰ってきた。
その姿に人々は言い伝えられているあの幻の声を聞くのだ。
大昔、そうやって街に現れた風使いの、あの言葉を。

『カイエスブレームの風使い、ヴィルトです。遠くファドジィルより伝言をことづかってまいりました』。




[カイエスブレームの翼/了]




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